ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

パスカル

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。
[2011/06/08]迷惑コメントが多くあったため、やむなく、コメントを承認後公開することとしました。

悪霊と仲良くするのは辛いことだ

善、正義は失ってはいけないものだが、悪に染まった者が、悪しきに意図のために、善や正義を声高に、しかも、巧妙に語ることがよくある。
そもそも、善や正義は、黙って行うものであるというのが、本来、正しいのだろうが、あまりに善や正義が廃れてしまった。

やや昔のことだが、英会話学校のテレビCMで、こんなものがあった。
怪我をして倒れている西洋人の男性が、通りかかった若い女性に英語で助けを求めるが、その女性は彼を無表情に見た後、「英会話学校に行こう」と言って立ち去る。
私は衝撃を受けた。
もちろん、冗談のつもりだろうが、これがやって良い冗談だろうか?
そして、このようなテレビCMは他にも沢山ある。
私はコンピューターゲームをやらないが、聞くところによれば、死んだキャラクターが持っている装備を持って行くことが出来る場合が多いらしく、ある漫画家が「罪の意識は感じるが、必ず持って行く」と自虐的に(つまり、道徳的には問題があると自覚しつつ)、漫画で表現していたが、これも、慣れるのは恐いことと思う。
また、ゲームの中で、信じ難いような道徳に反する行為を選択出来る場合があると思うが、それが、年齢制限のない普通のゲームでもありふれているのではないかと思う。
アダルトゲームやアダルト漫画が、必ずしも悪いとは言えないかもしれないが、ナチス強制収容所の残虐な行為と本質で変わらないようなことを当たり前に行えるようなものもあると思う。
そして、規制にさえかからなければ、子供でも見ることが出来る映像や画像の中に、常軌を逸したものや、非道なことすら、ただ面白おかしく表現されていることがいくらでもあり、親がそれを非難しないので、子供が平気で受け取ることが多くなってきた。
それで今や、善悪の区別がつけられない人間が多く、ひょっとしたら、それが大勢かもしれない。
学校では、試験で良い点を取ることが善、点数が悪いことが悪と評価され、道徳的な善悪を軽視するし、そもそも、教師が道徳的な悪を平然と為すのを、私が学校時代にもよく見た。

だが、日本が世界の中では異例なほど安全で、極端な非道がまだ公然と行われないのは、今のところ、善や正義が、それなりに存在するからである。
だが、そのバランスが、今や危なくなっている。
政府、行政機関、教育機関、大企業、マスコミといった豊かなところが急速にそうなってきていて、日本は庶民の中に善が息づく国であったのに、それも失われつつあるように思える。

だが、悪は正義に勝てないし、いかに悪が栄えているように見えても、悪霊に利用され弄ばれているに過ぎないので、悪の誘惑に負けてしまった人間の悲惨さは言葉に出来ないほどだ。
巨悪になれば、頭で考えれば分かる方法で良い思いが出来るが、人間の本性は善なのであるから、心が安らぐことはない。
私は、引き寄せの法則の話も好んでするし、奇跡を起こすことだって出来るが、それは、あくまで正義の支配下にある場合で、言うなれば、引き寄せの法則は善意がなければ機能しない。
悪意があっても、引き寄せに成功するように見えることもあるし、私にもあったが、それはやはり、悪霊の助けを借りていたのかもしれず、大切なものを失ったかもしれない。
自分が善を選べば、そうでない者は去って行く。
また、善でない場所にはいられなくなる。
だが、パスカルが言ったように、「カなき正義は無能であり、正義なき力は圧制である」のだろう。
プリキュアシリーズの初代作品『ふたりはプリキュア』で、悪の女ポイズニーが、プリキュアの二人に言ったことが忘れられない。
「力のない正義は悪にも劣るのよ」
こんなことを言うポイズニーに、不思議と、ポイズニーの苦しさと隠された善意も感じたのである。








「人間は考える葦である」の本当の意味

偉大な行いは、熟考と、大きな決断によるものだと我々は思う。
一方、極悪非道の行いは、衝動的なものと思われているだろう。
だが、本当は、両者に違いはないのかもしれない。
英雄的なことをしようと思えば、かえって害悪になる。
「世のため、人のため」と考えている者が、一番、世の中を乱すのである。
親鸞は、「あなたが人を殺せないのは、心が善いからではなく、縁がないからだ。心が悪くなくても、縁があれば千人だって殺す」と言ったらしいが、そうかもしれない。

パスカルは、「人間は考える葦である」と言ったらしい。
この意味は、故事ことわざ辞典によれば、「人間は自然の中でもっとも弱い一本の葦みたいなものだが、それは考えるという能力をもった存在だということ。」という意味らしい。
これは一般に、「考えることは偉大であるから、人間は生物としては弱いが偉大である」と、考えられている。
しかし、別にシニカル(冷笑的)になる気はないが、「人間は、僅かの知性はあるが、葦に過ぎない」と思った方が良い。
ソクラテスが「汝自身を知れ」という言葉を重要視したのは、そんなことを強く感じていたからだと思う。
人間である我々は、最低レベルのことを考えることが出来るに過ぎない無能な生物なのだ。身の程を知らねばならない。

『銀河鉄道の夜』で、蠍は、生きるために沢山の命を奪ったが、いざ、自分がイタチに食われそうになったら必死に逃げて、挙句、自分もイタチも井戸に落ちて、両方が死ぬことになった時に、激しく後悔した。
なんで、黙ってイタチに、この身体をくれてやらなかったのだろう。そうしていれば、イタチは1日生きられたのに・・・と(私は、単に痛いのが嫌だからだと思うが)。
そして、神に、「今度生まれてきたら、この身を、他の者達を幸せにするために使って欲しい」と願った。
美しい話ではあるが、次の生があったとしても、そこでは、沢山の者を不幸にしたり、殺したりするかもしれない。
宮沢賢治だって、『春と修羅』で、

わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です

と書き、それ以下も、私(人間)は現象に過ぎないということを延々と書き、結局は、人間は無力な存在と分かっていたのだと思う。

それならば、アインシュタインが言った、「神は老獪である。だが、悪意はない」ということを信じる以外にはない。
信じて、まかせるしかないし、それは、あらゆることを、なりゆきにまかせるしかないということだ。
荘子の考えも、その通りであると思う。
「南無阿弥陀仏」という念仏は、それを、分かり易い1つの形にしただけのものである。
よって、これほど論理的なものはなく、僅かの知性しかない人間が持つ知恵としては、これ以上はないかもしれない。
宮沢賢治は、念仏を説く浄土仏教は嫌いだったらしいが、それもなりゆきである。よって、良いことである。
私も、宗教としての浄土仏教は好きではない。

私は葦である。
多少のことは考えられるので、そのために、悩んだり、苦しんだりするが、葦に過ぎないと自覚すれば、自分を笑うことが出来るだろう。
ナポレオンは、ちょっと川上に生えていたというだけで、自分が御大層なものであると思い込んでしまったのだ。
私は、辺鄙な、淀んだ場所にぽつんと生えてしまったのかもしれない。
それで、自分を憐れんでいるのだから滑稽であるが、滑稽さを持つこともまた、なりゆきであり、自分の力で持ったものではない。









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