ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

バートラント・ラッセル

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

秘密の大呪文

ジッドゥ・クリシュナムルティは、「私は何も信じない」という貴重な言葉を教えてくれた。
だが、これを聞くと、こういう者がいるかもしれない。
「彼は、自分が何も信じないことを信じている。つまり、何も信じていないのではない」
同じく、人間が全知全能の神のようなものになる単純な唯一の方法である「思考を消す」ことについても、
「思考を消そうという思考もまた思考ではないのか?」
と言う者が、実際にいるようだ。
しかし、これらの反論は、論理学において否定されるらしい。

有名なパラドックス(逆説)である、「クレタ人のパラドックス」というものがある。
あるクレタ人が、「クレタ人は噓つきだ」と言ったとする。
しかし、嘘つきのクレタ人が言った「クレタ人は嘘つき」も嘘であることになり、結果、クレタ人は嘘つきでないことになる。
この問題は、人類が数百年考えた結果、「クレタ人は嘘つきだ」と言ったクレタ人の言葉は嘘でないと考えて良いことが数学的に証明されている。
証明したのは、アリストテレス以来の大論理学者と言われた数学者・哲学者で、ノーベル文学賞を受賞しているバートラント・ラッセルのようだ。
まあ、論理学など持ち出さなくても、思考を消せば当たり前であることが分かる。

もっと身近な例で言えば分かりやすいと思う。
「例外のないルールはない」というのは、思考を消せば正しいことが分かる。
しかし、思考すれば、こんな混乱が起こる。
「例外のないルールはない」というのもルール(慣例、約束、しきたり)である。
よって、「例外のないルールはない」というルールに例外があり、例外のないルールがあることになってしまう。
だが、「例外のないルールはない」は正しいのである。
つまり、「例外のないルールはない」に、それ自身を適用出来ないことを証明したのが、上のバートラント・ラッセルの論理学的証明だ。
その証明は、ここで書くには難し過ぎるし、そもそも、思考を消せば分かることである。
尚、ここで書いた言い方も、論理学としては正確ではないのだろうが、あくまで言い方の問題であり、概要はだいたいこんなものだ。

百合とベラドンナの違い
AIアート116
「百合とベラドンナの違い」
Kay


そこで何が言いたいのかと言うと、いつも言う「思考を消せば全知全能である」ということの「思考を消す」について、「思考を消すというのも思考ではないか」というと、これは何と思考ではない。
「この壁に張り紙をするべからず」という張り紙は、張り紙であって張り紙でない。
「例外のないルールはない」というルールは、ルールであってルールではない。
「思考を消す」という思考は思考であって思考ではない。
この重大さは分からないと思う。

クリシュナムルティの「私は何も信じない」というのは、実は、恐るべき呪文なのだ。
そして、「私は何も考えない」というのは、それに優る呪文である。
この世界は、断言してしまうが、コンピューターが作った仮想世界であるのだが、「私は何も考えない」と言えば(言葉でも心でも)、この呪文(=コマンド)が、この世界を作るコンピューターのマスターシステムに伝えられる。パスワードのようなセキュリティは不要である。
この言葉自体が、セキュリティを含んだ最高コマンドだからだ。
だが、まずは、「私は何も信じない」という高級コマンドから試すのが良いかもしれない。
何が起こるかについては、私は関知しない。








世界は意外に柔らかい

今朝の夢は、「捏造記憶」の凄さを、私に徹底的に教えてくれた。
私は、自分の持ち物を取り戻すために、一駅離れた場所に、「走って」いった。
走ると言っても、長距離ジャンプ(1回で水平方向に100mほどか)の繰り返しで、障害物があったら吹っ飛ばしていった。
行った先では、記憶を頼りに場所を探すしかないが、すぐに、見覚えのある光景になったので、楽々行き着くことが出来た。
しかし、本当は、そんな場所の様子を知っているはずがない。
まあ、前世の記憶や、一度見た風景を潜在意識が覚えていたのかもしれないけれど。
しかし、夢は次の展開を見せる。
2人の女子高生の会話を聴いていたら、そのことを知っているのに気付いた。
ここに、2つの捏造記憶がある。
私は、初めて会ったはずのその2人を女子高生と確定したが、見かけでは中学生にも見えた。
しかし、高校生だと「知っていた」。
また、彼女達の会話の話が十分に分かったが、夢から覚めて考えれば、知るはずのないことだった。
そして、彼女達の会話について、私は彼女達に確認を取り、私は彼女達と付き合うことになる。
ああ・・・付き合うと言っても、男女交際でなく(笑)、事務的な付き合いだ。
目が覚め、捏造記憶の真実味に感じ入っていると、いろいろな想いが浮かんで来た。
その想いの1つ1つが、記憶の中にある馴染み深いものであったが、ふと、そんなことは知らないことに気付く。
なんと、目覚めても、捏造記憶は続いてた。
そして、思う。
この家も、自分の名も、勤務先も、全部、今出来たものだ。
歴史的な数学者・論理学者で、ノーベル文学賞を受賞した天才中の天才、バートラント・ラッセルが提唱した、「世界は5分前に出来た」とする、「世界5分前仮説」というものがある。いや、「ある」と言っても、これも今出来たのかもしれない。
そして、これは、新しい「シミュレーション仮説」、つまり、この世界は、超高性能コンピューターが作り出した仮想世界であるというものと合わせれば、全く矛盾がなくなる。

そうだ。
この世界は、極めて精妙ではあるが、作り物だ。
これを、昔の人は、「自分の中に魔術師が住んでいて、目を向けた先の世界を物凄い早業で作る」と言ったのである。


どんな完璧なスケジュールを組んでも
君のちょっとで5分後は変わる

それだけ
誰かの未来は
弱いからきっと ねぇ
明日ができるの
~『DECORATOR』(作詞・作曲・編曲:kz、唄:初音ミク)より~

完全に覚醒してからの世界は容易には変わらないかもしれない。
では、穏かに変えていけば良い。
もちろん、呪文を唱えてね。
「世界は意のままだ」
「出来る」
「世界は私の王国だ」
「思い通りになるのが人生だ」









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世界五分前仮説とシミュレーション仮説

「世界は実は5分前に始まったのかもしれない」という、「世界五分前仮説(せかいごふんまえかせつ)」と呼ばれる仮設がある。
提唱者は、人類最高の頭脳の1人である、数学者、哲学者、論理学者で、もし、ノーベル賞に数学賞があれば取っていただろうが、なかったので、代わりに文学賞が授与された、「アリストテレス以来の大論理学者」と言われるバートラント・ラッセルだ。
もっとも、スティーヴン・ホーキングの本では、ラッセルは20世紀初めの片田舎で、庶民に地動説や地球球体論を講義していたら、世界は亀の背中の上と主張するお婆さんにやり込められた残念な科学者として描かれている。

私も以前は、世界五分前仮説の支持者だった。
『涼宮ハルヒ』シリーズには、この五分前仮説の考え方があると思う。
「しかし、5分どころか、私には、1時間前、1ヶ月前、10年前の記憶だってあるけど」と言いたい人は多い・・・いや、普通だが、それは単に偽の記憶だ。
1分前に始まった夢の中で、王宮に住む王様だとしても、何の不思議も感じないことを思い出せば納得出来ることだろう。

だが、私は今は、世界は高度な知的存在の超高性能なコンピューターで作っている仮想世界(このような世界を「シミュレーテッド・リアリティ」と呼ぶ)であるとする、「シミュレーション仮説」が本当だと確信している。
これだと、五分前仮説も、そっくり説明出来てしまう。
ラッセルの時代にはコンピューターがなかったので、ラッセルが思い付かなかっただけだが、ラッセルは実際には近いことを考えていたのだと思う。
16世紀のデカルトすら、機械的なコンピューターのような装置で世界は作られていると考えていたのだ。

旧約聖書の創世記の、神が宇宙を作った話は、現代の物理学では否定されている。
しかし、あれが、超高度な知的存在が仮想世界を作った様子の象徴的表現だとすれば、別におかしなことではない。
ギリシャ神話の世界創造も、古事記のそれも、阿弥陀仏による西方極楽浄土の建設も同様である。
イギリスの哲学者ニック・ボストロムによれば、仮想世界は複数、あるいは、多数ある。
阿弥陀如来の西方極楽浄土はその1つで、かなり出来の良いものであり、我々も、その仮想世界に移住した方が良いのかもしれない。
そして、その一応の方法が、西方極楽浄土を作った阿弥陀如来の名を呼ぶこと、即ち、「南無阿弥陀仏」の念仏を唱えることである。
西方極楽浄土は、いかなることも・・・山を1つ作るなんてことも自在に出来る世界である。

我々が、仮想世界の作り主や仮想世界のアーキテクチャ(仕組みと構造)について推測しても意味はない。
言うまでもなく、知性が足りなさ過ぎるからだ。
しかし、用意されたいくつかのコマンド(命令)を発見すれば、ある程度、世界は意のままに動かせることを、ビートルズのジョン・レノンかポール・マッカートニーかは知らないが発見し、『Nowhereman(邦題:ひとりぼっちのあいつ)』という歌を作ったのだろう。
歌の中にこうある。
「The world is at your command(世界は君の意のままなのさ)」
じゃあ、「世界は意のままだ」って呪文でも唱えてはどうかな。

もし、あなたが小さな箱庭宇宙を作り、その中に小動物か、嫌いでなければ虫でも住まわせるとしよう。
それらの生き物の幸せを願うあなたは、彼らが食べ物を簡単に見つけ、快適に眠れる寝床を得られるようにするだろう。
そして、あなたは、彼らが本能的に動きさえすれば、それらが得られるようにするはずだ。
彼らが、身勝手な振る舞いをすれば、あなたが用意した良いものを発見出来ず、彼らは苦労する。
そこから推測するに、我々は、あまり考えず、身勝手なことをせず、本能的、直感的に動けば幸せになれるようになっているはずだ。
「絶対、大丈夫だ」であり、「全て順調だ」なのだ。
そして、事実は、「世界は意のままだ」である。
そんな訳で、万能呪文を忘れずに。









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学校の優等生に馬鹿が多い理由

貼り紙をするのに丁度良い壁があり、よく貼り紙がされていた。
だが、その場所の管理人が、
「この壁に貼り紙をするべからず」
という貼り紙をし、張り紙の禁止を伝えた。
すると、その後、小賢しい誰かが、
「この壁に貼り紙をするべからずという貼り紙をするべからず」
という貼り紙をした。
言うまでもないが、
「『貼り紙をするべからず』というお前の貼り紙だって、同じ貼り紙なのだからルール違反じゃないか?」
と、管理人の間違いを指摘し、やり込めたつもりなのだ。

これで考え込むようではいけない。
どちらが正しいかというと、いちいち言うのも馬鹿らしいが、管理人が正しい。
管理人にはルールを決める権限がある。
それだけのことだ。

ところで、この貼り紙のルールで、管理人が正しいことは、論理的に説明出来るらしい。
バートラント・ラッセルという、アリストテレス以来の大論理学者と言われる数学者で、ノーベル文学賞を受賞したという凄い人が(ノーベル数学賞はない)証明したらしい。
証明には、人類が数百年かかり、ついにラッセルがやり遂げたということだ。
だが、その理論(階型理論)なんて誰にも分からない。
しかし、証明なんて不要じゃないのかね?
馬鹿でない限り、証明しなくても分かるだろう?
だが、理屈で分からない限り、正しくないという風潮があるために、上のように、「貼り紙をするなという貼り紙をするな」なんていう馬鹿をやって得意になっている大馬鹿が出てくるのだ。
実際、そんなことをやるのは、掛け値なしの阿呆で、全くの役立たずだ。

会社の入社試験で、この「貼り紙するべからずという貼り紙をすべからず」に対し、どう思うか聞き、これを肯定する者は即、落とし、考え込む者も、基本、落とせば間違いない。
こんなものを肯定する者は、知的に救いようのない欠陥があり、必ずや会社に迷惑をかけるからだ。

「貼り紙をするべからずという張り紙をするべからず」のどこに、それほどの欠陥があるのかって?
それを言うなら、やはり救いようがないのである。
気持ちで分かるだろうってことなのだ。
判断には、理屈と気持ち、言い換えれば、論理と感情がある。
その両方が大事なのに、理屈に偏重してしまい、気持ちを育てていない者が多いのだ。
一頃、「なぜ殺してはいけないのか?」という問題が話題になったことがあった。
これもアホな話である。
そんなことを理屈で説明しようと思ったら、やはり高度な論理学が必要になり、そんなもの、誰にも分からない。
気持ちで分かることなのだ。

数学だって、理屈だけでは成り立たず、気持ち(感情)で納得しないと成立しないということは、ちゃんと論理的にも証明されているらしい。
論理力同様、気持ち力と言うのもちょっと変だが、それ(気持ち力)も、育てなければ得られないのである。
だが、今の時代、気持ちを殺す教育が積極的に行われているので、「なぜ殺してはいけないのか?」なんて馬鹿を言っても、馬鹿と言われないのだ。
ドワンゴの川上会長が『ニコニコ哲学』で述べられていたが、大学卒業後に入った会社で、無能な課長を「あんなやつクビだ」と批判をし、誰にも文句を言われなかったらしいが、社長に尋常ならざるほど怒られたという。しかし、川上氏は、怒られる理由がさっぱりわからない。そして、10年くらいして、理屈では相変わらず分からないが、気持ちで分かったという。
他の人達も、本当は、気持ちでは少しは分かっていたのだと思うが、さすがに社長は、はっきりと分かっていたのだろう。
川上氏も、経営をやったりで頭が良くなって、それで分かったのだと思う。

余計なことだが、壁紙理論だって、喩えを使えば理屈でも分かる。
「例外のない規則はない」
にも例外がないなら、例外のないルールが存在してしまう。
まあ、これには、「そうだ!例外のない規則はやっぱりあるんだ」と結論する馬鹿が多いに違いない。
しかし、隊長が「回れ右」と号令した時、隊員が、「隊長、アンタも回れ右しなさいよ」と言ったら、その隊員が隊長に殴られても誰も文句は言わないだろう。
まあ、今は、暴力的だという文句なら出るだろうが、そんな馬鹿は、殴って教えてやるのが一番なのである。だが、そうもいかないのが難しい。
私は直接は見ていないのだが、『機動戦士ガンダム』で、ブライトがアムロを殴り、アムロが「殴ったね」と文句を言うと、ブライトは、「殴られずに一人前になったやつはいない」と言ったのが有名らしい。
ただ、ブライトの言い分にも注意が必要で、「点取り虫に育てられたやつは、殴って教えないと手遅れになる」という意味で正しいのである。

気持ちを育てるのは、理屈を育てるよりはるかに難しい。
デリケートさが必要だし、時間もかかる。
何より、机上だけでなく体験が必要だし、試験が出来ない。
学校教育は、そんな面倒なものは排除してしまい、理屈至上主義、試験の点数至上主義の道を取った。
だから、学校の優等生は馬鹿が多いのである。









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大人になって抜け落ちてしまったもの

イギリスの天才理論物理学者スティーヴン・ホーキングが著書に書いていたことだ。
今から半世紀以上昔と思うが、アリストテレス以来の大論理学者と評され、その当時、共に平和運動を行ったアインシュタインと並ぶ天才とまで言われた、数学者・哲学者バートラント・ラッセルが一般の人々を相手に科学の啓蒙のための講演を行っていた時のことだった。
ラッセルが、地球が丸くて太陽の周りを回っていることを説明すると、20世紀も過ぎたその時代に、いまだ天動説を信じているらしいおばあさんが、ラッセルに反論した。「世界は亀の背中の上に乗っているのよ」と。
ところで、今の時代でも、世界には、地動説を信じていたり、世界は平たいと思っている人は、さほど珍しい訳ではないと思う。
ラッセルは、その「無知な」おばあさんに、「では、その亀は何に乗っているのですか?」と返した。おばあさんの主張の矛盾を突いたつもりだろう。
しかし、おばあさんはまるで平気で、「まあ、お若いのにオツムのよろしいこと!でもよくって。亀の下はずっと亀なのよ」と応えた。

ホーキングは、未来の人から見れば、このおばあさんと我々は、何の違いもないと思うだろうと述べていた。
それを、当時の私は、未来の人は現代の人類より、はるかに進歩しているので、この馬鹿なおばあさんより進んでいるといったところで、それほどのものではないと見なされるということだと解釈していた。
しかし、そうではないかもしれない。
現代においてすら、我々と、このおばあさんは、全く同じなのだ。
我々の方が優秀である訳では決してない。
我々が正しいなら、このおばあさんも同程度に正しいのだ。
そして、このおばあさんが間違っているなら、我々も同じくらい間違っているのだ。
ラッセルが地球は丸いと言ったことが正しいように、おばあさんが言うように、世界は亀の背中の上で、その亀の下はずっと亀なのだ。
なぜそう言えるかというと、全く論理的ではないが、以下のような経験から来るものだ。

子供の頃、私は図書館で、老子やアリストテレスをよく読んでいた。
別に私が賢い子供だった訳では全くなく、むしろ、私の知能指数は平均以下だ。
幸い、本にはフリガナがふってあったので、読むことが出来たのだ。
ところが、私は、本当に、それらの本を、「なるほど!」と思いながら、興奮しながら読んでいたことを思い出すのだ。
本当によく分かったし、強く納得することが多かった。
後に大人になってからではそうはいかなかった。アリストテレスの科学理論に誤りを見つけたり、老子の論の中に納得できないものを見つけて批判的に読むようになった。そして、偉大な知恵を見逃していたのだ。
だが、子供の頃は、本を読んでいる時、アリストテレスや老子が隣で語りかけているようなもので、それは友達のように親密だったのだ。
それは、本来なら誰でも同じと思う。
そんな感覚があったのは、私が、中学の1年生くらいまでだったと思う。
その頃、面白いことがあった。当時、私は、走り高跳びをしたら誰にも負けなかった。しかし、中学2年生くらいになった時、それまで自分がどんな飛び方をしていたのか、全く思い出せなくなったのだ。
吉行淳之介の短編小説『童謡』で、走り高跳びが得意だった少年が、長い病気の後、以前のように飛べなくなってしまう。
彼の友人達は、「また飛べるようになるさ」と言ったが、少年は、「いや、もう飛べないだろう」と言う。
彼は大人になったのだ。そして、自分の中から消えてしまったものを感じていたのだ。
私もきっと、そうだったのだろう。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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