ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

バガヴァッド・ギーター

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。
[2011/06/08]迷惑コメントが多くあったため、やむなく、コメントを承認後公開することとしました。

自分が最高の存在であることをこう言う

今朝述べた、エマーソンのように、「私は世界の所有者」と宣言することは、世間の教義や信条といった幻想に過ぎないものを打ち破り、真の自己に目覚めることになる。
私は世界の所有者・・・初めはそう思えなくても、この言葉を何百、何千と繰り返すうちに、その言葉の通りに潜在意識が形作られ、潜在意識を映したものに過ぎない世界に反映する・・・即ち、世界は、あなたに従い、意のままとなる。

では、このエマーソンすら貴んだ、インドの聖典『バガヴァッド・ギーター』で、至高神クリシュナは自分をどう表現したか見てみよう。
その中で、特に神話の知識を要しない、我々でも比較的解り易いものを抜き出す。
まず、『バガヴァッド・ギーター』(日本ヴェーダーンタ協会)、「第一〇章 超越者認識の道」より引用する。
・光るものの中では太陽
・星々の中では月
・貯水池の中では大洋
・動かぬものの中ではヒマラヤ
・樹木の中では菩提樹
・人々の中では王
・武器の中では雷電
・獣類の中では獅子
・魚類の中では鮫
・河川の中ではガンジス河
・詐欺の中の賭博
・秘行における沈黙
・智者における智慧

次に、同じ部分を、文語調で訳された『至高者の歌』(三浦関造訳。竜王文庫)「第一〇場 至上神力の統一」で見る。
・爛たる群星中の燃え輝く日輪
・星宿の間に住む月輪
・湖水を凌ぐ大海
・厳たる諸山中のヒマラヤ
・一切樹木中の菩提樹
・人中の大王
・武器中の雷電
・野獣中の獣王
・鳥類中の鷲
・風の中の烈風
・諸川中の恒河(ガンジス河)
・詐欺中の大博奕 ※博奕(ばくえき)は賭博と同じ
・王者等の中の帝笏(ていしゃく) ※帝笏とは君主が持つ装飾的な杖
・秘密中の沈黙
・智者中の大智

クリシュナは至高神であるのだから当然であるが、自己こそ最高の存在であることを権威を持って断じる姿を想うと感動的である。
そして、エマーソンは、自分だけでなく、全ての者がそうでなければならないと確信し、『自己信頼』を書いたのである。
あなたも、上記の中から気に入った言葉を自分のキャッチフレーズとして常に使えば、そのようになるであろう。








時代劇に見る真の愛

このブログも、いよいよ愛というテーマにたどりついた。
笹沢佐保さんの時代劇小説『木枯し紋次郎』に、素晴らしい愛の例がある。
紋次郎は、刀を折り、至急、新しい刀を必要とし、腕の良い刀鍛冶師がいるという山に行く。
確かに、天才的な鍛冶師がいて、丁度、新しい刀が完成間近で、それは素晴らしい名刀であり、しかも、紋次郎の鞘にぴったりだった。
だが、鍛冶師は、丹精込めて鍛え、仕上げつつあるその名刀を、紋次郎には売らないと言う。
当たり前である。紋次郎は乞食同然の流れ者。それに、売ってくれるとして、紋次郎に払える額とも思えない。
だが、紋次郎は、すぐにでも刀を手に入れないと命がない。大勢の敵に追われていたのだ。
そこで、紋次郎はどうしたか?
鍛冶師が、その名刀を仕上げるべく、朝から仕事を始めると、紋次郎は、やや離れた場所から、鍛冶師の仕事を見ていた。
時間が経過し、鍛冶師は熟練の技と研ぎ澄まされた心で仕事を続ける。それを、紋次郎は静かに見ている。片時も目を離さず。
そして、夕刻に、ついに刀が完成する。
すると、鍛冶師は静かに紋次郎に近付く。鍛冶師は黙って手を出し、紋次郎は黙って自分の折れた刀を渡し、鍛冶師は黙って受け取ると、それを持っていき、柄から折れた刀を外すと、完成したばかりの刀をはめ込む。
鍛冶師は黙って紋次郎に刀を渡し、紋次郎は黙って受け取る。
「御代は要りません」
紋次郎こそ、この名刀の持ち主だった。
小説には、これ以上は書かれていない。

では、なぜ、紋次郎は、この刀を手に入れることが出来たか?
また、なぜ、鍛冶師は、こんな大切な刀を紋次郎に譲ったか?
それは、紋次郎が、鍛冶師を、鍛冶師の仕事を、じっと見ていたからだ。
じっと見るというのは関心を示すが、紋次郎は実際に、鍛冶師とその仕事と彼が作る刀に対し、言葉で言うことも出来ないような深い関心を注ぎ続けた。
関心とは愛なのである。
マザー・テレサが、愛の反対は無関心と言ったように。
そして、人間の愛は、人も全ても動かすのである。

コリン・ウィルソンの『右脳の冒険』に、こんな実話がある。
心神喪失の妻を、何日も観察し続けた男の話だ。
妻が心を取り戻すのを願い、そして、心を取り戻した時を逃さないために、男は片時も離れず、妻を見続けた。
妻は奇跡の回復をしただけでなく、男は賢者になった。
これが愛の力である。
そして、無論、関心の力である。

46歳で亡くなったミュージシャン、村下孝蔵氏の、沢山の人がカバーした名曲『初恋』の、こんな一節を覚えている。
「遠くで僕はいつでも君を探してた」
「探してた」は「見ていた」でも良かったが、意識を向け続けること、関心を持ち続けることが愛である。
この歌は、「愛という字書いてみてはふるえてたあの頃」で終わる。

関心を自己から切り離し、対象に向けた時、それが真の愛なのである。
『バガヴァッド・ギーター』では、「五感を外界から切り離して自己の内部に向けよ」とある。
それは、内なる神にのみ関心を注げという意味で、神を愛せよということである。
ただし、全ては神の現れでもある。神として見る限り、何を見ても、内なる神を見るのと同じだ。
だから、本当に好きなものを、神聖な目で見れば、それは神を愛することである。

尚、最初の話は、『木枯し紋次郎』の何巻の何だったか分からない。









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ぼーっとしなさい

どんな目付きの人が好きか?
あるいは、どんな目付きの人が「出来る」だろうか?
それは、「ぼーっとした」あるいは「ぼんやりとした」あるいは「魂の抜けたような」目線ではあるまいか?
それは、学校で先生に一番嫌われる目線だ。
しかし、そんな目線が最強で、無敵で、運が良いのである。

『荘子』に、「視線を自然に保つ」という教えがあるが、「直視する」「見つめる」視線というのは実は不自然で、ぼーっとした・・・少なくとも、静かで柔らかい視線が自然であると思う。
『バガヴァッド・ギーター』では、「五感を内に向けよ」「額に意識を集めよ」「鼻先を見よ」などという記述があるが、いずれも、外物を直視することを避けている。
宮本武蔵が、戦いにおいて、敵を直視せず、どこを見ているか分からない視線をしていたことは、よく知られていると思う。彼の有名な肖像画からも見て取れる。
物理学者で武術家の保江邦夫さんが著書に書かれているが、道場破りに来たフルコンタクト空手(本当に殴る蹴るで敵を倒す空手)家と決闘した時、右目と左目をそれぞれ違う方を見るという、ふざけた目付きで相対したら楽々相手を投げ飛ばしたが、その後、ちゃんと見て戦ったらボコボコにされたらしい。
その保江さん、小学生の時から教室では、どこにも焦点の合わない「魚が死んだような」目をしていて、先生に度々怒られていたと言う。しかし、指名されたら、必ず正解を答えた。とはいえ、勉強していた訳でもないようだ。
速読なんてのも、出来る人は、文字をしっかり見ず、ぼーっとした目でページを見るのだ。
コンピュータープログラムだって、プログラムをぼーっと見ていたら、おかしいところが分かってしまう。
良い先生は、子供達の顔をぼーっと見たら、「あ、この子、何かおかしい」と、話なんかしなくてもすぐに分かるのである。

コツはこうだ。
「宇宙全体を見る」目をするのだ。長門有希のようにね。
あるいは、『どろろ』に登場する、目が見えない百鬼丸や琵琶法師のように、心の目で見るのである。
『まちカドまぞく』という、最近よくある「女の子しか出ない」漫画・アニメがあるが、あれに登場する、主人公、しゃみ子こと吉田優子の敵の魔法少女、千代田桃の、普段ぼーっとした視線に憧れる。なるほど、彼女は非常に強い。

本格的なぼーっとした目つきについては、上にも上げた保江邦夫さんの著書『神と人をつなぐ宇宙の大法則』に、しっかりと書かれている。
保江さんは、子供の時から、おそろしく運が良く、勉強しないのに一流の学校に次々合格し、博士号まで取ってしまった。ジュネーブ大学で働くのに博士号が必要だったので、指導教官がちゃちゃっと取らせてくれたとか・・・。
日本に帰ってきて職がなかった時も、とんでもない成り行きで女子大の教授になったが、偉人であるその女子大の学長が「アンタ何者?」と言うほどだったという。
その保江さんが、ぼーっとした(目をした)ら運が良くなると請け負ってくれている。









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キラキラした目でやれば失敗する

私は小学生の時、学校で、「将来の夢」「なりたいもの」「欲しいもの」なんてものを聞かれると、「ややこしいことに」なった。
私の答は、「魔法使い」「魔法の杖」「宇宙をまるごと」などだからだ。
学校もそうだが、自己啓発書や自己開発プログラム、あるいは、自己開発セミナーでも、私のような「ややこしいことを言う人」は暗黙に拒絶される。
連中の望む答は、昔、何かのテレビCMで子供達が目をキラキラさせて言っていたように「サッカー選手」「みんなを感動させる歌手」でなくてはならないし、大人向けセミナーなどでは「10億円」「社長」「政治家」「ベストセラー作家」などでなくてはならないのだ。
なら、学校にも、セミナーにも用はない。バイバイ。

ジョセフ・マーフィーが著書の中で、女優になる目標を持っているという若い女性に、「子供の夢は卒業しなさい」とたしなめる話がある。
その女性は、ひょっとしたら、「女優として人々に夢や希望を与えたい」とか言ったかもしれない。
しかし、マーフィーが見抜いていたことは、おそらくこうだ。
その女性は、「女優になれたら心から満足し、しかも、それは続く」と思っているのだろうが、それが妄想に過ぎないということだ。
そんなもの、本物の女優ですら持っていないのだ。
しかも、女優になる資質に欠けるその女性が女優を目指す限り、不満を背負い続け、どんどん不幸になっていくのである。

家がお金持ちで、頭も良い子供が医者になる決意をすれば、それを達成する可能性は高い。
その子も、また、その子の親も、その目標が達成されれば、その子は幸福になる・・・つまり、満足が続くと思っているかもしれない。
だが、それは全くないのだ。
まして、経済的にも能力的にも医者になれる可能性の低い者は、医者を目指すなど、やめた方が良い。
医者になるべき者は、「勝手に医者になる」のである。

世俗の目標を達成しても、いつまでも続く満足を得ることは決してない。
だが、大して期待せず、あるいは、全く期待せずに何かを目指すと、案外面白いことになる。
私はよく、ExcelでVBAプログラミングをやることをお勧めしているが、それが出来たら、夢のようなことが待っているかというと、まあ、それはない(笑)。
そんなことを期待せずにVBAに取り組む者だけが、VBAをマスターして、面白いことになるのだ。

尚、いつまでも続く満足というものなら、今すぐにでも得られるというのが、この世界の「変なところ」である。
ただ、いつまでも続く満足をもたらしてくれる何かを求めている限り、それは得られない。
だから、どんな世界でも、目をキラキラさせている者ではなく、どことなくやる気がなさそうで、しかし、「わりと」真面目にやっている、けれども、サボりたがりが、案外に「本当に」成功するのである。
これを、『バガヴァッド・ギーター』では、「報酬を求めず、義務としてやれ」と言ったのだと思う。
あなたも、期待せずに淡々とやることだ。
実に、それが成功の秘訣なのである。









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努力嫌いは帝王学を学ぶべき理由

努力が嫌いでも、望みを叶え、幸福な者がいる。
おそらく、根本的には、努力は不要なのだろう。
しかし一方、努力嫌いな者の中には、怠惰で傲慢で放埓(勝手気まま)で、ものを考えず、見ていて「胸糞が悪い」としか言いようのない者もいて、このような者達は、ごく一時期(概ねごく若い間だ)を除き、幸福であることはない。

幸福については、本当は努力好きな者についても考えねばならないが、とりあえず私が努力嫌いなので、そのような者(努力嫌いの者)について考える。
上に述べた通り、努力嫌いにも、良い努力嫌いと悪い努力嫌いがいる。
あえて言うが、それは、道徳的な良い悪いではなく、幸福かどうかである。
つまり、幸福な努力嫌いと、不幸な努力嫌いだ。
そして、その違いを単純に理解し、我々は幸福な努力嫌いであれば良いのである。
話は簡単だ。

努力嫌いな者が幸福であるためには、何らかの上からの力が必要である。
王子様王女様であれば、王国の権力や王の権威である。
我々は、潜在意識の無限の力が与えられているので、ある意味、王子様王女様である。
だから、良い王子様王女様と、悪い王子様王女様について考えれば分かり易いのである。
お世辞でなく、「さすが王子様」「さすが王女様」と言える王子様王女様もいれば、口には出せなくても「こりゃ駄目だ」としか言いようのない王子様王女様もいる。
その違いはただ1つ、「帝王学」を学んでるかどうかだ。
よって、我々も、自分の宇宙に相応しい帝王学を学べば良いのである。

『バガヴァッド・ギーター』は、神クリシュナが王子アルジュナに説いているように、世俗の帝王学を超えた帝王学なのである。
また、『老子』は、君子のための教えであり、やはり帝王学なのであり、これも、高次元の帝王学である。
そして、マキアヴェリ(マキャヴェッリ)の『君主論』は、上2つにはかなり劣るが、それだけに、我々には現実的な教えである。

ところで、『法華経』は高度な帝王学なのである。
これを、宗教や道徳と捉えると、おかしなことになる・・・というか、そう捉えているので、おかしくなっているのである。
そもそも、これは、無限の資産を持つブッダが、その後継者であるあなたに向けての教えであるのだから、どう考えても帝王学なのである。
そのように思って、4つのうちのいずれかを学ぶと、やはり、あなたはこの世という王国の、努力無用の後継者である。









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