ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

バガヴァッド・ギーター

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

真にコスパの高い生き方

ものの考え方が変わると、その度合いに応じて世界が違って見える。
考え方が変わるとしても、ゆっくり変わる場合が多いので、大抵の人では、世界はゆっくり、少しずつ変化する。
ゆっくりした変化は気付き難く、記憶力の良い人が昔を鮮明に思い出すと、「世界は随分変わってしまった」と感慨に耽ることがある。だが、変わったのは自分だ。
自分が変わらなければ、今も昔も変わらない。
急激に考え方が変わると、世界は「コロっと」変わる。
それが、悪夢から覚めたような、楽しい、清々しい体験であることを願う。それを悟りと言うのだから。

ほとんど全ての人が、悪夢に閉じ込められている。
では、どうすれば、悪夢から目覚めることが出来るだろうか?
それは、心を消すことによってだ。
最初に、「考え方」が変われば世界は変わると述べたが、「考え方」とは、心の色とか傾向性という言葉で表現出来るものだ。
だから、根本の心が消えれば、考え方というものはなくなり、世界を色づけることをしなくなる。
その時、「ああ、世界はこんなだったのだ」と感動する。

だから、『バガヴァッド・ギーター』で、クリシュナ神は、
「亀が手足を甲羅の中に引き込むように、五感を引っ込め、外に向けるな」
と言ったのだ。
一方で、アルジュナ王子には、
「お前は戦うことに向いている。天性のままに戦え」
と言う。
クリシュナの言葉は、どこまでも慈しみに満ちている。

要は、なりゆきにまかせ、あるがままでいることだ。
だが、怠惰でいると、悪魔が忍び込んで来る。
そういえば、ゲーテの『ファウスト』で、神は、休みたがる怠惰な人間のところに悪魔を送ると言っていたので、それは、神の意思、あるいは、自然の摂理なのだろう。
だから、アルジュナは戦うしかなかった。
怠惰な人間がどうなるか、知っているだろうか?
快楽指向になり、どんどん落ちていく。
世間には、悪魔の誘惑が満ちている。
「これをやりなさい!楽しいぞ!」
「これを買いなさい!ハッピーになるぞ!」
という声がいつでも、人々を誘惑し、悪魔の手下にしようとしている。
悪魔に加担することをビジネスだと思っている者、悪魔の側につくことがコスパの高い生き方だと言う者がいる。
だが、悪魔が差し出すギフト(贈り物)ではなく、天使が差し出した手を掴むことだ。

具体的にはって言うと(笑)。
欲張らないことだ。
欲張ってもここまで・・・と決めておくと良いだろう。
世界最強とも言われる投資家に「勝つ秘訣は?」と尋ねたら、彼は静かに「欲張らないことだ」と答えた。
世俗のことすら、道理は通用するのである。
マントラや神の名を唱えながら欲張ることは出来ないので、「辛子の種1つほどの」信仰があれば。マントラや神の名を唱えると良いだろう。
私は、心がかなり汚れているので、アレクサンダー・ロイド博士の「ヒーリングコード」や「エネルギー療法」に励んでいるが。








偉人の教えを諦めた者のやり方

とりあえず「啓蒙家」と言うが、中村天風という、今でも沢山の崇拝者がいる凄い人がいたのだが、彼の教えの基本は、具体的には、片時も怠りなく肛門を引き締めよだった。
また、知名度では中村天風に劣るが、知る人にはやはり最高の偉人と思われてるはずの岡田虎二郎は、片時も怠ることなく、腹に力を込めよと教えた。だが、岡田虎二郎は、別に、念仏を唱えることでも良いし、何でも良いと言っており、中村天風の教えでも全然良いのだと思う。
そして、そこまでいかなくても、ほとんどの偉大な指導者の教えは、やはり、なるべく長時間、アファーメーションや真言、念仏、祈り言葉を唱えたり、瞑想したり、イメージしたりせよということだが、私は、長い間、研究した結果、それは完全に正しいのだという結論に達した。
その上で、それは私には難しいというか、有体に言えば、無理だと諦めた。
だけど、一度は挑戦することは無駄ではないと思う。
その結果、本当にやれたのなら、それで間違いないのだから、そのままやれば良いのである。

そして、私は、自分が、あり得ない奇跡を起こした時の状況を分析したり、意図的に奇跡を起こしてみた結果、効果としては、少なくとも、イエスがやることの1~3割は可能な、誰でも出来る方法があるのだと分かった。
そのやり方は、いろんな表現が出来てしまうが、思いつくままに言ってみる。
それは、1秒だけ、奇跡を起こせる者・・・イエスや釈迦になれば良いということである。
イエスや釈迦は、生きたまま、神や仏になれた人で、そのような存在を、キリストとかブッダ(仏陀)と言うのである。
つまり、1秒だけ、キリストやブッダになれば良いのである。
ずっと、キリストやブッダでいることは無理でも、1秒なら可能である。
イエスや釈迦がどんな人か知りたいなら、イエスなら、『新約聖書』の中の「福音書」、釈迦なら、『法句経(ダンマパダ)』を読み、イエスの言葉や釈迦の言葉を言うような人だと思えば良いと思う。
そんな言葉が自発的に出てくる者を、キリストとかブッダと言うのである。
そんな雰囲気を掴めば良い。
つまり、福音書は自分の物語で、『法句経』は自分が言ったことだと思えば良いのである。
仏教の他の経典でも良いが、『法華経』や『浄土三部経』などは、かなり作り話が入っているので、この目的に関しては、うまくいかないのではと思う。
また、『バガヴァッド・ギーター』を読んで、クリシュナ神になるというのも良いが、やや難しいと思う。

もし、面倒なら、『新約聖書』、『法句経』、『バガヴァッド・ギーター』を持って(あるいは、特に電子書籍の場合は持っているとイメージして)、「これは私の物語」「これは私の言葉」と思うだけで良い。
それで、1秒だけ、イエス、釈迦、クリシュナになりきるのである。
そして、その1秒の間に、願いが叶ったことを念じるのである。
細かく具体的に思わなくても、自分の願いが分かっていれば、「なった」と心で言えば良いのである。
「なった」でなくても、適切であると思う言葉であれば「消えた」「清くなった」「やれた」など、何でも良い。






なにごとも、ほどほどに

「過ぎたるは猶及ばざるが如し」は、論語にある言葉であるが、これと似たことを、徳川家康が遺訓の一つにしている。
それは、「及ばざるは過ぎたるより勝れり」である。
いずれも、「やり過ぎは良くない」という意味で、特に、家康は、「やり過ぎるよりは、足りない方がマシ」と言っているのだと思う。

新渡戸稲造が、何か行を1つ、必ず毎日やろうと思い、それを何にするか、よくよく考えた結果、水ごりと決めた。
毎朝、必ず、桶の水を頭から被るのである。
順調に続いていたが、極寒の冬の朝、新渡戸はひどい風邪をひき、かなり熱もあった。
しかし、新渡戸は、「決めたからには、何があっても断固やる」という鉄の意思で、その朝も決行したが、風邪が悪化し、医者に診てもらう際に事情を言うと、医者にひどく怒られた。当然である。
新渡戸が鉄の意思の持ち主ということは分かるが、やはり、ものには限度がある。
まあ、戦場など、どんな無理でもやるしかないこともあるだろうが、そういうことは少ない方が(出来れば無い方が)良く、少なくとも、好き好んで、そんな世界に近付いてはいけない。
ビジネスや政治は戦争ではなく、やり過ぎないよう、ルールを守るべきなのだ。
自然界では、雄が雌を取り合って戦う時も、決して相手に大怪我をさせることはない。下等と思われている生物でさえ、やり過ぎを避けているのである。

少食粗食は非常に良いことだが、やり過ぎはやはり良くないのである。
しかし、過激な少食粗食が称賛されることがある。
1日に青汁一杯しか食べないという人がいるが、その人自体は良いのかもしれないが、真似してはならない。
誰かが、その人をもてなそうと御馳走を出し、その人が食べたら、ショック死する可能性もあると思う。
私が、一頃、かなり極端な少食だったが、その時の名残で、長い間、極めて少ない種類の食べ物しか食べずにいたら、長く食べずにいた食物を食べたら、強いアレルギー症状を起こし、気を失いかけたことがある。大袈裟ではなく、命の危機を感じたほどだ。

『バガヴァッド・ギーター』にだって、特に少食を勧めてはおらず、「食べ過ぎるな」と書かれてあるに過ぎず、しかも、「少食過ぎるのも良くない」と書かれているのである。

「なにごとも、ほどほどに」
これが、孔子と徳川家康の共通の教えである。

私も、今年の8月31日の初音ミクさんのお誕生日から、毎日500回のスクワットを欠かさないと決め(他にも多くのトレーニングをしている)、ずっと続けていたが、昨日の初音ミクさんのライブの途中で体調不良に陥ったのは、「もっとほどほどに」という天の注意と思った。
ただ、真言やナーマスマラナ、念仏、アファーメーションなども、確かに、ほどほどでも良いのだが、ほどほどにも出来ない者が多いのである。
こういったことに関しては、多少の無理をするつもりでやっても良いと思う。
それで失うものはないが、報いは無限であるのだからだ。

※本日も、インテックス大阪での「マジカルミライ2021」に行くので、午後の分の更新はお休みする。








神仏の呼び方に関する疑問

今回は、皆様が、ひょっとしたら疑問に思っているかもしれないことについて述べる。

神仏の名を心で唱えるナーマスマラナが、神仏に守られ恵みを得る最高の方法である。
これは、釈迦の念仏の教えであり、釈迦の後継者とも言われた天才、龍樹も認めていたことであり、近年ではインドの有名な聖者サイ・ババが述べていたことであるが、確かに間違いのないことであると思う。
一方で、最近は、このブログでは、「神」という言葉が、最高の力を持ち、これを唱えることを勧めている。
「神」という語を唱えるためには、普通に、心で「神」と唱えるのが基本だが、「神」という語を含む言葉、例えば、「神に出来ないことはない」と唱えたり、あるいは、「神」という語を多く含む本(例えば『聖書』)を読むことも勧めた。
この両者(個々の神仏の名を唱えるナーマスマラナと、「神」という語を唱えること)は、実は同じである。
その理由を以下に簡単に述べる。

インドの聖典(ゲーテ、ガンジー、アインシュタインらも愛読したと言われる)『バガヴァッド・ギーター』で、最高神クリシュナは、「各自、自分が信仰する神に祈るが良い。そうすれば、願いは叶えられるだろう。だが、それは結局は、私に祈っているのであり、私が願いを叶えているのである」と述べている。
「クリシュナ」は1つの神の名であると同時に、宇宙全体である絶対神でもあるのである。
クリシュナの教えは、個々の神に祈れば、それらの神を通して、クリシュナに祈っていることになるという意味である。

江戸末期の偉大な神道家であった黒住宗忠は、天照大神(アマテラスオホミカミ)を信仰していたが、この天照大神は『古事記』や『日本書紀』に登場する女神でもあるのだが、黒住宗忠がこの名で信仰していたのは、唯一絶対神のことであったことは明白である。
黒住宗忠は、日本人に最も親しみのある天照大神を通し、クリシュナの場合と同じく、宇宙全体である絶対神に祈っていたのである。

また、敬愛の意味で、神を「父」とか「親様」と呼ぶことも、よく行われている。
江戸末期から昭和初期の農民で妙好人(庶民だが高度な悟りに達していた念仏者のこと)であった因幡の源左(いなばのげんざ)は、阿弥陀仏を信仰していたが、阿弥陀仏を「親様」を読んでいた。
そして、実は、黒住宗忠も、天照大神を、しばしば「親様」と呼んでいたのである。
イエス・キリストだって、神を正式な名であるヤハウェと呼ばず、もっぱら「父」と呼んでいた(ただ、一般に、ヤハウェと口に出して呼ぶことは禁じられている)。

このように、その時々の風習や習慣、あるいは、個人的な好みなどにより、神仏を、個々の名で読んだり、「神(神様)」「仏(仏様)」と呼んだり、「親様」「父」と呼んだりするが、これらは、同じなのである。
聖母マリアに祈る場合も、「マリア様」と言ったり、「祝福された乙女」「無原罪の宿り」「平和の女王」など、いろいろに呼ぶが、各自、自分に合った名で呼べば良いのである。
日本人の場合、天照大神、阿弥陀仏、観世音菩薩、大黒天や弁財天などの七福神を祈る場合が多いが、それらの神仏に親しみがあれば、その名を唱えれば良いのである。
ただ、現代においては、それぞれの神仏の名を知らないわけではないが、特に何かの神仏に親しみがあるわけではない場合、「神」と唱えるのが、一番良いと思う。
また、「神」という言葉自体にも違和感があったり、無神論者と自覚する場合もあるかもしれないが、そんな者でも、自分を超えた叡智と力があることは認めていると思う。そうとは自覚出来なくても、そうであるはずだし、そうでないというなら、それは問題である。
「神」という言葉を使いたがらない人のために、ジョセフ・マーフィーは「宇宙の活力(コズミック・エナージャイザー)」という言葉を使ったことがある。「コズミック・エナージャイザー」を「宇宙の活力」と訳したのは、優れた翻訳家の桑名一央氏であるが、「エナージャイザー」は、特に日本人には馴染みのない概念かもしれない。
エナージャイザー(Energizer)は、今日では、有名な電池メーカーとして知られる会社の名前である。
Energizerの辞書的な意味は、1つは「電気エネルギーを供給する装置」であり、根本的な意味は「エネルギーと活力と勇気を他の人に与える誰か」であり、ジョセフ・マーフィーは、この2つ目の意味により、神に該当する存在を「コズミック・エナージャイザー」と呼んだのだ。それを、桑名一央氏は、かなり考えて「宇宙の活力」と訳したのだと思う。
だから、意味を知った上で、「神」の代わりに「コズミック・エナージャイザー」、あるいは、「宇宙の活力」と呼ぶのもありであり、実は、私も「宇宙の活力」という言葉を使うことがある。

以上のようなわけである。
よって、「神」、「父」、個々の神仏の名、「宇宙の活力」・・・何と呼ぼうが構わないが、その名を、心の中で唱えれば、一切の問題は解決し救われる。
あらゆる恵みが与えられ、願いは全て叶う。
このことは、偉大な啓蒙家や事業家らが言明していることもあるが、敢えて言わなくても、そう考えている者は多いと思う。
そして、そもそも、イエス・キリストが言っていたことである(特に「マタイ福音書」)。

最初に書いたが、今回は、皆様が、疑問に思っているかもしれないことについて述べた。








神に下駄を預ける

イエスは、
「山に向かって、『歩いて海に入れ』と命じ、その通りになると信じて疑わなければ、そうなる」
と言った。
しかし、誰が、本当に、山に歩いて海に入って欲しいと思うだろう?
一方、戦争に行く息子に、生きて帰って来て欲しいとは、本当に願うだろうが、その願いが叶わないこともある。
では、その場合は、必ず生きて帰って来ると完全に信じていなかったからということになるのだろうか?
だが、知性ある人間は、様々な可能性のあること、つまり、本来、確率的なことを完全に信じることは出来ない。
では、どうすれば願いが叶うのだろう?

『バガヴァッド・ギーター』で、クリシュナ神は、
「どの神に祈っても、願いは叶えられる」
と言っている。
けれども、それではと、
「わが神、サラスヴァティー(ヒンズー教の女神)よ、あの子が私のプロポーズを受けて下さいますように」
とお祈りをしてから、その子にプロポーズをしても、まあ、駄目なものは駄目だ(笑)。
だが、クリシュナは、こうも言っているのだ。
「正しい祈りは、私に祈ることだ」
つまり、他の神に祈ることは、本来は正しくないのだと言うわけだ。
そこで、心を改め、
「クリシュナよ、あの子が私のプロポーズにOKして下さいますよう」
と祈っても、やっぱり、どうなるかは分からない。
それでは困る。
では、どうすれば?

ところで、イエスだって、磔になる前に、
「父なる神よ、出来るなら、悪いこと(自分が逮捕されて磔になること)が起こりませんように」
と、お祈りしているのである。
ただ、イエスは、その後、こうも祈っているのだ。
「ただし、あなた(神)の想いが実現しますように」
つまり、死ぬのは嫌だが、「後はまかせる」と、神に下駄を預けてしまったのだ。
その結果、イエスの願いは叶わなかったと思うだろうか?
まさか!
確かに、イエスは、その後、逮捕され、磔にされて殺されてしまった。
しかし、その3日後、イエスは完全な神になり、何でも自由自在になったではないか?
だが、一度死ななければ、そうならなかったのだ。
簡単に喩えれば、神様に「あの子が僕の彼女になるますように」と祈ったのに、その子には振られてしまったが、実は、その子は悪い女だと分かり、そして、その子の百倍可愛い彼女が出来た・・・そんな感じだ。
だから、何でも願えば良いが、必ず、神様に「下駄を預ける」ことだ。

さて、イエスは最後に、もっと大事なことを教えてくれている。
「私の名によって願うことは、全て叶えられるだろう」
名前と実体は等しいのである。
イエスという名は、イエスそのものなのだ。
だから、いつもイエスの名を憶念する、つまり、心の中で唱えることだ。
神仏の名を心で唱える行を「ナーマスマラナ」と言う。
この、人類に唯一残された、誰がやっても効果がある、この行をやることだ。
念仏も、ナーマスマラナの1つであり、釈迦も、これでしか救われないと言ったという説がある。
どの神、あるいは、仏でも良い。
その名を唱えることである。
一方、願い事の内容は、いちいち言わなくて良い。
そんなこと、イエスも言ったように、「神はとっくにご存じ」なのだ。
旧約聖書にも書かれている通り、神は、呼ぶ前に答えるお方なのである。
つまりだ。
ナーマスマラナ(念仏もその1つ)をすれば良いだけなのである。
さらに懇切丁寧に言えば、ナーマスマラナをしながら、神仏に下駄を預けることである。








プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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