ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
あなたをSE、プログラマー、あるいは、超能力者にするブログ。ひきこもりも歓迎。

バガヴァッド・ギーター

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。
[2016/11/21]滅多にはありませんが、あまりにレベルが低いコメントは公開しません。
[2011/06/08]迷惑コメントが多くあったため、やむなく、コメントを承認後公開することとしました。

時代劇に見る真の愛

このブログも、いよいよ愛というテーマにたどりついた。
笹沢佐保さんの時代劇小説『木枯し紋次郎』に、素晴らしい愛の例がある。
紋次郎は、刀を折り、至急、新しい刀を必要とし、腕の良い刀鍛冶師がいるという山に行く。
確かに、天才的な鍛冶師がいて、丁度、新しい刀が完成間近で、それは素晴らしい名刀であり、しかも、紋次郎の鞘にぴったりだった。
だが、鍛冶師は、丹精込めて鍛え、仕上げつつあるその名刀を、紋次郎には売らないと言う。
当たり前である。紋次郎は乞食同然の流れ者。それに、売ってくれるとして、紋次郎に払える額とも思えない。
だが、紋次郎は、すぐにでも刀を手に入れないと命がない。大勢の敵に追われていたのだ。
そこで、紋次郎はどうしたか?
鍛冶師が、その名刀を仕上げるべく、朝から仕事を始めると、紋次郎は、やや離れた場所から、鍛冶師の仕事を見ていた。
時間が経過し、鍛冶師は熟練の技と研ぎ澄まされた心で仕事を続ける。それを、紋次郎は静かに見ている。片時も目を離さず。
そして、夕刻に、ついに刀が完成する。
すると、鍛冶師は静かに紋次郎に近付く。鍛冶師は黙って手を出し、紋次郎は黙って自分の折れた刀を渡し、鍛冶師は黙って受け取ると、それを持っていき、柄から折れた刀を外すと、完成したばかりの刀をはめ込む。
鍛冶師は黙って紋次郎に刀を渡し、紋次郎は黙って受け取る。
「御代は要りません」
紋次郎こそ、この名刀の持ち主だった。
小説には、これ以上は書かれていない。

では、なぜ、紋次郎は、この刀を手に入れることが出来たか?
また、なぜ、鍛冶師は、こんな大切な刀を紋次郎に譲ったか?
それは、紋次郎が、鍛冶師を、鍛冶師の仕事を、じっと見ていたからだ。
じっと見るというのは関心を示すが、紋次郎は実際に、鍛冶師とその仕事と彼が作る刀に対し、言葉で言うことも出来ないような深い関心を注ぎ続けた。
関心とは愛なのである。
マザー・テレサが、愛の反対は無関心と言ったように。
そして、人間の愛は、人も全ても動かすのである。

コリン・ウィルソンの『右脳の冒険』に、こんな実話がある。
心神喪失の妻を、何日も観察し続けた男の話だ。
妻が心を取り戻すのを願い、そして、心を取り戻した時を逃さないために、男は片時も離れず、妻を見続けた。
妻は奇跡の回復をしただけでなく、男は賢者になった。
これが愛の力である。
そして、無論、関心の力である。

46歳で亡くなったミュージシャン、村下孝蔵氏の、沢山の人がカバーした名曲『初恋』の、こんな一節を覚えている。
「遠くで僕はいつでも君を探してた」
「探してた」は「見ていた」でも良かったが、意識を向け続けること、関心を持ち続けることが愛である。
この歌は、「愛という字書いてみてはふるえてたあの頃」で終わる。

関心を自己から切り離し、対象に向けた時、それが真の愛なのである。
『バガヴァッド・ギーター』では、「五感を外界から切り離して自己の内部に向けよ」とある。
それは、内なる神にのみ関心を注げという意味で、神を愛せよということである。
ただし、全ては神の現れでもある。神として見る限り、何を見ても、内なる神を見るのと同じだ。
だから、本当に好きなものを、神聖な目で見れば、それは神を愛することである。

尚、最初の話は、『木枯し紋次郎』の何巻の何だったか分からない。









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ぼーっとしなさい

どんな目付きの人が好きか?
あるいは、どんな目付きの人が「出来る」だろうか?
それは、「ぼーっとした」あるいは「ぼんやりとした」あるいは「魂の抜けたような」目線ではあるまいか?
それは、学校で先生に一番嫌われる目線だ。
しかし、そんな目線が最強で、無敵で、運が良いのである。

『荘子』に、「視線を自然に保つ」という教えがあるが、「直視する」「見つめる」視線というのは実は不自然で、ぼーっとした・・・少なくとも、静かで柔らかい視線が自然であると思う。
『バガヴァッド・ギーター』では、「五感を内に向けよ」「額に意識を集めよ」「鼻先を見よ」などという記述があるが、いずれも、外物を直視することを避けている。
宮本武蔵が、戦いにおいて、敵を直視せず、どこを見ているか分からない視線をしていたことは、よく知られていると思う。彼の有名な肖像画からも見て取れる。
物理学者で武術家の保江邦夫さんが著書に書かれているが、道場破りに来たフルコンタクト空手(本当に殴る蹴るで敵を倒す空手)家と決闘した時、右目と左目をそれぞれ違う方を見るという、ふざけた目付きで相対したら楽々相手を投げ飛ばしたが、その後、ちゃんと見て戦ったらボコボコにされたらしい。
その保江さん、小学生の時から教室では、どこにも焦点の合わない「魚が死んだような」目をしていて、先生に度々怒られていたと言う。しかし、指名されたら、必ず正解を答えた。とはいえ、勉強していた訳でもないようだ。
速読なんてのも、出来る人は、文字をしっかり見ず、ぼーっとした目でページを見るのだ。
コンピュータープログラムだって、プログラムをぼーっと見ていたら、おかしいところが分かってしまう。
良い先生は、子供達の顔をぼーっと見たら、「あ、この子、何かおかしい」と、話なんかしなくてもすぐに分かるのである。

コツはこうだ。
「宇宙全体を見る」目をするのだ。長門有希のようにね。
あるいは、『どろろ』に登場する、目が見えない百鬼丸や琵琶法師のように、心の目で見るのである。
『まちカドまぞく』という、最近よくある「女の子しか出ない」漫画・アニメがあるが、あれに登場する、主人公、しゃみ子こと吉田優子の敵の魔法少女、千代田桃の、普段ぼーっとした視線に憧れる。なるほど、彼女は非常に強い。

本格的なぼーっとした目つきについては、上にも上げた保江邦夫さんの著書『神と人をつなぐ宇宙の大法則』に、しっかりと書かれている。
保江さんは、子供の時から、おそろしく運が良く、勉強しないのに一流の学校に次々合格し、博士号まで取ってしまった。ジュネーブ大学で働くのに博士号が必要だったので、指導教官がちゃちゃっと取らせてくれたとか・・・。
日本に帰ってきて職がなかった時も、とんでもない成り行きで女子大の教授になったが、偉人であるその女子大の学長が「アンタ何者?」と言うほどだったという。
その保江さんが、ぼーっとした(目をした)ら運が良くなると請け負ってくれている。









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キラキラした目でやれば失敗する

私は小学生の時、学校で、「将来の夢」「なりたいもの」「欲しいもの」なんてものを聞かれると、「ややこしいことに」なった。
私の答は、「魔法使い」「魔法の杖」「宇宙をまるごと」などだからだ。
学校もそうだが、自己啓発書や自己開発プログラム、あるいは、自己開発セミナーでも、私のような「ややこしいことを言う人」は暗黙に拒絶される。
連中の望む答は、昔、何かのテレビCMで子供達が目をキラキラさせて言っていたように「サッカー選手」「みんなを感動させる歌手」でなくてはならないし、大人向けセミナーなどでは「10億円」「社長」「政治家」「ベストセラー作家」などでなくてはならないのだ。
なら、学校にも、セミナーにも用はない。バイバイ。

ジョセフ・マーフィーが著書の中で、女優になる目標を持っているという若い女性に、「子供の夢は卒業しなさい」とたしなめる話がある。
その女性は、ひょっとしたら、「女優として人々に夢や希望を与えたい」とか言ったかもしれない。
しかし、マーフィーが見抜いていたことは、おそらくこうだ。
その女性は、「女優になれたら心から満足し、しかも、それは続く」と思っているのだろうが、それが妄想に過ぎないということだ。
そんなもの、本物の女優ですら持っていないのだ。
しかも、女優になる資質に欠けるその女性が女優を目指す限り、不満を背負い続け、どんどん不幸になっていくのである。

家がお金持ちで、頭も良い子供が医者になる決意をすれば、それを達成する可能性は高い。
その子も、また、その子の親も、その目標が達成されれば、その子は幸福になる・・・つまり、満足が続くと思っているかもしれない。
だが、それは全くないのだ。
まして、経済的にも能力的にも医者になれる可能性の低い者は、医者を目指すなど、やめた方が良い。
医者になるべき者は、「勝手に医者になる」のである。

世俗の目標を達成しても、いつまでも続く満足を得ることは決してない。
だが、大して期待せず、あるいは、全く期待せずに何かを目指すと、案外面白いことになる。
私はよく、ExcelでVBAプログラミングをやることをお勧めしているが、それが出来たら、夢のようなことが待っているかというと、まあ、それはない(笑)。
そんなことを期待せずにVBAに取り組む者だけが、VBAをマスターして、面白いことになるのだ。

尚、いつまでも続く満足というものなら、今すぐにでも得られるというのが、この世界の「変なところ」である。
ただ、いつまでも続く満足をもたらしてくれる何かを求めている限り、それは得られない。
だから、どんな世界でも、目をキラキラさせている者ではなく、どことなくやる気がなさそうで、しかし、「わりと」真面目にやっている、けれども、サボりたがりが、案外に「本当に」成功するのである。
これを、『バガヴァッド・ギーター』では、「報酬を求めず、義務としてやれ」と言ったのだと思う。
あなたも、期待せずに淡々とやることだ。
実に、それが成功の秘訣なのである。









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努力嫌いは帝王学を学ぶべき理由

努力が嫌いでも、望みを叶え、幸福な者がいる。
おそらく、根本的には、努力は不要なのだろう。
しかし一方、努力嫌いな者の中には、怠惰で傲慢で放埓(勝手気まま)で、ものを考えず、見ていて「胸糞が悪い」としか言いようのない者もいて、このような者達は、ごく一時期(概ねごく若い間だ)を除き、幸福であることはない。

幸福については、本当は努力好きな者についても考えねばならないが、とりあえず私が努力嫌いなので、そのような者(努力嫌いの者)について考える。
上に述べた通り、努力嫌いにも、良い努力嫌いと悪い努力嫌いがいる。
あえて言うが、それは、道徳的な良い悪いではなく、幸福かどうかである。
つまり、幸福な努力嫌いと、不幸な努力嫌いだ。
そして、その違いを単純に理解し、我々は幸福な努力嫌いであれば良いのである。
話は簡単だ。

努力嫌いな者が幸福であるためには、何らかの上からの力が必要である。
王子様王女様であれば、王国の権力や王の権威である。
我々は、潜在意識の無限の力が与えられているので、ある意味、王子様王女様である。
だから、良い王子様王女様と、悪い王子様王女様について考えれば分かり易いのである。
お世辞でなく、「さすが王子様」「さすが王女様」と言える王子様王女様もいれば、口には出せなくても「こりゃ駄目だ」としか言いようのない王子様王女様もいる。
その違いはただ1つ、「帝王学」を学んでるかどうかだ。
よって、我々も、自分の宇宙に相応しい帝王学を学べば良いのである。

『バガヴァッド・ギーター』は、神クリシュナが王子アルジュナに説いているように、世俗の帝王学を超えた帝王学なのである。
また、『老子』は、君子のための教えであり、やはり帝王学なのであり、これも、高次元の帝王学である。
そして、マキアヴェリ(マキャヴェッリ)の『君主論』は、上2つにはかなり劣るが、それだけに、我々には現実的な教えである。

ところで、『法華経』は高度な帝王学なのである。
これを、宗教や道徳と捉えると、おかしなことになる・・・というか、そう捉えているので、おかしくなっているのである。
そもそも、これは、無限の資産を持つブッダが、その後継者であるあなたに向けての教えであるのだから、どう考えても帝王学なのである。
そのように思って、4つのうちのいずれかを学ぶと、やはり、あなたはこの世という王国の、努力無用の後継者である。









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あがくな

人間の想念の力は半端ではない。
アメリカの作家マイク・ハーナッキーが書いていたが、100万ドルのことを考えると、すぐに100万ドルがやってくるのである。
ただ、ほとんどの場合、注ぎ込む想念の量が足りないので、100万ドルはちょっとしか寄って来ずに離れてしまうのである。
想念の量とは、想念の強さ×想う時間といったものだ。
しかし、強く長く想えば、必ず叶うのである。

一方で、願いは紙に書いて忘れてしまうと叶う。
これは、全然、想い続けていないのである。
これを矛盾と思えなくなったら、成功は保証される。

紙に書いた瞬間、願いは叶っている。
叶った願いのことを「あれを得るぞ」だの「どうやってあれを得ようか」などと考えるのはおかしい。
また、わざとらしく「私はポルシェに乗っています」などという宣言をする必要もないし、してはいけない。
ポルシェが好きだという想いは、起こるにまかせておけば良いが、後は、やるべきことを淡々とやるだけである。
『バガヴァッド・ギーター』で、至高者クリシュナが「義務として働け」と言ったように。
サラリーマンであれば、義務として会社に来て作業をすれば良いし、ニートなら、義務として本を読んだり、求職サイトを見れば良い。
好きな人がいるなら、義務として会うべき時に会い、言うべきことを言い、何かしてやることがあったら義務としてしっかりやれば良い。
眺めるしか出来ないなら、義務として眺めれば良い。

最初に戻ると、こうである。
一億円欲しいなら、紙に「一億円」と書き、その紙は分かる場所にしまっておき、そんなことは忘れてしまう。
ただし、「書いた紙はどこにやった?」などという、いい加減な願いが叶うはずがない。
書いて忘れたら、一億円が欲しいという想いは勝手に出てくる。
つまり、願う想いというのは、無理に起こすものではなく、自然に起こるものである。
自然に起こらないなら、初めから自分向きの願いではない。

義務を果すとは、出来ることをやるということだ。
無理なく、ほんの少しの忍耐を持って。
腕振り運動1日千回とか、瞑想1日20分を1年365日、出来るだけ決まった時間に毎日やる者の願いが叶うのは、これらによって、義務として淡々と根気強く行う訓練が出来るからである。
スーフィー(イスラム教神秘主義)に、「神を信用しろ。だが、ラクダはつないでおけ」という格言があるらしいが、これが究極であると思う。
ラクダをつなぐことを、義務として、淡々と、確実に根気強くやれば、後は神様が叶えて下さる。
とにかく、まず、願いを紙に書くことだ。
そして、根気強く無心に腕振り運動をすることである。









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