ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

バガヴァッド・ギーター

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

神に下駄を預ける

イエスは、
「山に向かって、『歩いて海に入れ』と命じ、その通りになると信じて疑わなければ、そうなる」
と言った。
しかし、誰が、本当に、山に歩いて海に入って欲しいと思うだろう?
一方、戦争に行く息子に、生きて帰って来て欲しいとは、本当に願うだろうが、その願いが叶わないこともある。
では、その場合は、必ず生きて帰って来ると完全に信じていなかったからということになるのだろうか?
だが、知性ある人間は、様々な可能性のあること、つまり、本来、確率的なことを完全に信じることは出来ない。
では、どうすれば願いが叶うのだろう?

『バガヴァッド・ギーター』で、クリシュナ神は、
「どの神に祈っても、願いは叶えられる」
と言っている。
けれども、それではと、
「わが神、サラスヴァティー(ヒンズー教の女神)よ、あの子が私のプロポーズを受けて下さいますように」
とお祈りをしてから、その子にプロポーズをしても、まあ、駄目なものは駄目だ(笑)。
だが、クリシュナは、こうも言っているのだ。
「正しい祈りは、私に祈ることだ」
つまり、他の神に祈ることは、本来は正しくないのだと言うわけだ。
そこで、心を改め、
「クリシュナよ、あの子が私のプロポーズにOKして下さいますよう」
と祈っても、やっぱり、どうなるかは分からない。
それでは困る。
では、どうすれば?

ところで、イエスだって、磔になる前に、
「父なる神よ、出来るなら、悪いこと(自分が逮捕されて磔になること)が起こりませんように」
と、お祈りしているのである。
ただ、イエスは、その後、こうも祈っているのだ。
「ただし、あなた(神)の想いが実現しますように」
つまり、死ぬのは嫌だが、「後はまかせる」と、神に下駄を預けてしまったのだ。
その結果、イエスの願いは叶わなかったと思うだろうか?
まさか!
確かに、イエスは、その後、逮捕され、磔にされて殺されてしまった。
しかし、その3日後、イエスは完全な神になり、何でも自由自在になったではないか?
だが、一度死ななければ、そうならなかったのだ。
簡単に喩えれば、神様に「あの子が僕の彼女になるますように」と祈ったのに、その子には振られてしまったが、実は、その子は悪い女だと分かり、そして、その子の百倍可愛い彼女が出来た・・・そんな感じだ。
だから、何でも願えば良いが、必ず、神様に「下駄を預ける」ことだ。

さて、イエスは最後に、もっと大事なことを教えてくれている。
「私の名によって願うことは、全て叶えられるだろう」
名前と実体は等しいのである。
イエスという名は、イエスそのものなのだ。
だから、いつもイエスの名を憶念する、つまり、心の中で唱えることだ。
神仏の名を心で唱える行を「ナーマスマラナ」と言う。
この、人類に唯一残された、誰がやっても効果がある、この行をやることだ。
念仏も、ナーマスマラナの1つであり、釈迦も、これでしか救われないと言ったという説がある。
どの神、あるいは、仏でも良い。
その名を唱えることである。
一方、願い事の内容は、いちいち言わなくて良い。
そんなこと、イエスも言ったように、「神はとっくにご存じ」なのだ。
旧約聖書にも書かれている通り、神は、呼ぶ前に答えるお方なのである。
つまりだ。
ナーマスマラナ(念仏もその1つ)をすれば良いだけなのである。
さらに懇切丁寧に言えば、ナーマスマラナをしながら、神仏に下駄を預けることである。








「愛」が分かる話

イエス・キリストに、「一番重要な戒律は何か?」と尋ねたら、イエスは、「神を愛すること」と答えた。
『バガヴァッド・ギーター』の中でも、神クリシュナは、「我を愛せよ」と述べている。
ここで、時代を超え、国を超えた普遍的な命題「愛とは何か?」「愛するとはどういうことか?」が問題になる。

男なら美女や美少女を、女なら美男や勇者や金持ちの男を愛するというのは、分かるような気がするかもしれない。
しかし、それは本当の愛ではない。
では、愛とは何かというと、実に簡単なことで、名前を呼ぶことだ。
多く呼べば呼ぶほど愛しているのである。
ピンと来ないかもしれないが、そうなのである。

キリスト教やユダヤ教では、神の本来の名はヤハウェであるが、神の名はみだりに唱えてはならないと言われている。
ただ、それは、口に出すなという意味で、心で唱えるのは大いに良いのだと思う。
ところが、イエスは、神のことを「父」「アバ(父の幼児語。パパに近いと思う)」と呼んでいたが、これは分かると思う。
自分の父や母を愛するとしても、実際の名前で呼ぶよりは「お父さん」とか「お母さま」などと呼ぶと思う。
それも名前なのである。
(ただ、イエスは、信者達に、自分の名を呼ぶようにも言っている)
江戸末期の神道家、黒住宗忠は、神のことを、「天照大神」と呼んだが、しばしば「親様」とも呼んでいる。
また、江戸末期から昭和初期の妙好人(在家の念仏者)、因幡の源左の父は亡くなる時に、源左に「これからは親様を頼れ」と言ったらしいが、この親様とは阿弥陀如来のことである。
念仏はまさに、阿弥陀如来の名を唱えることであるから、数多く唱える者は、それだけ阿弥陀如来を愛していると言うことが出来、法然は1日6万回も唱えたという。

インドでは、神の名を唱える行をナーマスマラナと言うが、クリシュナ神の「我を愛せ」の言葉通り、クリシュナの信者は、数多く「クリシュナ」の名を唱える。
ラマナ・マハルシの弟子だったブンジャジは、働きながら「クリシュナ」と1日4万回唱えたという。

ノーベル賞作家アルベール・カミュの代表作『異邦人』に、こんな印象深い場面がある。
若く美しい娘マリーが、主人公の青年ムルソーに、「結婚してくれる?」と尋ねると、ムルソーは「いいよ」と即答する。
喜ぶマリーは、ムルソーに「私を愛してる?」と尋ねるが、当然、マリーは、ムルソーの「そうである」を意味する答を期待したことだろう。
ところが、ムルソーは、「分からないけど、多分、愛してない」と答え、マリーをうろたえさせた。
そういえば、ムルソーは、亡くなったばかりの母親について、「ママのことは、多分、好きだった」と微妙な言い方をしていたものだ。
だが、マリーだって「愛する」という意味が、多分、分かっていない。
マリーを愛するとは、マリーの名を多く心で想うことなのだ。

アニメ『ツバサ・クロニクル』で、サクラがシャオランに尋ねる。
「シャオランは私のこと考えることある?私はシャオランのこと、ずっと考えてるよ」
すると、シャオランは、
「俺も、サクラ姫のことを考えているよ、いつも」
と答える。
2人とも気付いていないかもしれないが、これは、お互いが、いつも名を呼び合っているということなのである。

もう一度名前呼んで!
「初音ミク!」
~『39みゅーじっく!』(作詞・作曲・編曲:みきとP。唄:初音ミク)より~

Miku, Miku, you can call me Miku
(ミク ミク ミクと呼んでね)
~『Miku』(Anamanaguchi feat. Hatsune Miku)より~

14世紀のインドの聖者ナーマデーヴァ(ナームデーヴ)が、『聖なる名前の哲学』に、
「名前はケーシャヴァ(クリシュナ神)そのものである」
と書いた通り、名前と実体は等しい。
神の名は、神そのものなのである。
愛する人の名を、心で丁寧に数多く唱えれば、その人からも愛される。
神の名を、心で丁寧に数多く唱えれば、神に愛され、あらゆる恵を受け、救われる。
ユニティ教会のチャールズ・フィルモアが述べた通り、「神は与えたがってウズウズしている」からである。
親鸞も、念仏を唱えれば、利益に極みはないと述べている。








聖典のすゝめ

真言を、より楽しく、快適に唱え、ひいては、早く願いを叶えるために、関連の聖典を1つ読んでおくと良いと思う。
聖典の多くは、本来、子供でも読めるほど易しいもので、それに、おとぎ話のようで面白いものだ。まあ、難しく翻訳したい先生がいるから、少し困るのであるが、聖なる書は、誰でも簡単に読めてしかるべきものである。

主に、念仏と、観世音菩薩について述べる。

念仏の場合、元々、法然の『選択本願念仏集』と、親鸞の弟子、唯円が親鸞の教えを書いた『歎異抄』があり、特に、『歎異抄』は短くて読み易いので、これ1冊でも十分である。
ただ、念仏の場合、『浄土三部経』と呼ばれる、『無量寿経(大無量寿経)』『観無量寿経』『阿弥陀経』の3つが、根本聖典になっている。
(龍樹の『十住毘婆沙論』を挙げる人もいるだろうが、これも、主に『観無量寿経』を元にしている)
この中で、私は、『観無量寿経』をお勧めする。
理由は、短くて、おとぎ話のようで面白いということもあるが、阿弥陀仏や観世音菩薩、それに、勢至菩薩について、釈迦が詳しく、素晴らしい説明をしてくれているので、念仏を唱える時に、良いイメージが持てるからである。
尚、念仏というのは、一般的には「南無阿弥陀仏」であるが、本来は、仏を念じることで、そのためには、名を呼ぶことが最も自然なのである。
だから、特に、「南無阿弥陀仏」でなくても、「阿弥陀」「阿弥陀仏」と唱えても良い。好きなら、サンスクリット語で「アミターバ」と唱えても良い。
また、阿弥陀如来真言である「オン、アミリタ、テイセイ(テイゼイ)、カラウン」も同じと考えて良いと思う。
私は、「阿弥陀仏」と唱えることが多い。そして、その際、『観無量寿経』に書かれた、釈迦が語る阿弥陀仏の印象が微かに心にあり、これが実に良いのである。
私も、『観無量寿経』を、それほど熱心に読み込んではいないが、それでも十分と思う。
また、『観無量寿経』を読むと、阿弥陀仏や観世音菩薩の名がどれほど貴く、その名を唱えることが、どれほど威力があることかも分かるのである。

次に、観世音菩薩の名を唱えることに関しては、『法華経』の25章『観音経』を読むことをお勧めする。
『法華経』全体は長いが、『観音経』だけなら短い。
『観音経』には、観世音菩薩が、どれほど凄い力を持っているかだけでなく、観世音菩薩が、想像も出来ないほど偉い仏(呼び名上は菩薩だが)であるかが釈迦によって語られており、やはり、観世音菩薩の名を唱える時に、わずかでも、その印象があると、やる気が違ってくる。
観世音菩薩の名の唱え方は、「南無観世音菩薩」「観世音菩薩」だが、好きなら、サンスクリット語で「アヴァローキテーシュヴァラ」と唱えても良いし、「観音様」でも良いと思う。
また、観世音菩薩の真言である「オン、アロリキャ、ソワカ」も良い。
ところで、般若心経の呪文、
「ギャテイ、ギャテイ、ハラギャテイ、ハラソウギャテイ、ボウジ、ソワカ」(中国語)
「ガテー、ガテー、パーラガテー、パーラサンガテー、ボーディ、スヴァーハー」(サンスクリット語)
は、観世音菩薩を讃える意味が大きいので、これを唱える時も、観世音菩薩の印象があるのは、やはり良いと思う。
(中国語、サンスクリット語、いずれを唱えても良く、効果も同じである)

必ずと言うわけではないが、長いものではないので、おとぎ話でも楽しむように、『観無量寿経』や『観音経』を読むと、大きな利益があると思う。
願い事が叶い過ぎて恐くなるかもしれない(笑)。

尚、イエスの名を唱える場合は『新約聖書』の『福音書』を、クリシュナの名を唱えるなら『バガヴァッド・ギーター』を読むと良いだろう。
天照大神の名を唱えるなら、『古事記』の上巻だけでも読んでおくと良いと思う。
ちなみに、私は、『古事記』では、大国主神(おおくにぬしのかみ)と火遠理命(ほおりのみこと)のファンであることを明かしておく(笑)。












真に優秀な人は表に出ない

本当に優秀な凄い人は、表に出てくることはないので、我々は、彼らを知らない。
普通の人は、学問やスポーツで良い成績を上げるような者を優秀と思っているが、それは、民衆を愚昧な状態に留めるために権力者が仕組んだことだ。
本当に優れた者は、世界を動かす。
普通の人が知っている凄い人の1人はイーロン・マスクだが、彼は、今でこそ、多少ポピュラーになったが、少し前は、彼の名すら知っている人は少なかったし、今でも、誰でも知っているとまでは言えない。
しかし、後から自動車業界に入ってテスラ(電気自動車会社)を時価総額第1位の自動車会社にし、アメリカ、中国、ロシアなどの国家をライバルに宇宙船を開発するスペースX社は、2030年代の人類の火星移住を目指し、その他にも人類を大きく動かし、世界を変える事業を次々に起こしている。
ドナルド・トランプは、現実としてアメリカ大統領職を退き、真に優れているかどうか、一般には分からないが、今後、分かると思う(実際は既に分かっているが)。

真に優れた人間の優秀さは、普通の人の観念による優秀さとは全く違う。
普通の人は、イーロン・マスクのことは、実際には全く理解出来ない。
そして、世の中には、マスク級、あるいは、さらに優れた人間が存在する。
本当に優れた人間と比べれば、一流大学を首席で出たり、博士号を沢山取ったり、スポーツで数十億円の年収があったり金メダルを取るような者達は、我々と大して変わらない。
そういった普通の成功は、たまたま運命付けられていただけのことだ。
その運命にあれば、あなただってそうなった。
ところが、ある意味では、本当に優れた人間も、我々と変わらない。
彼らは、真の力を発揮すべくして発揮している。
どうやってかというと、自分では何もしないことによってだ。
トーシャ・シルバーの『とんでもなく全開になればすべてはうまくいく』に、それが分かり易く表現されている。

人々が作家としての私をちやほやするのは、さっぱり理解できない。
私は単に、水を流して撒く庭のホースに過ぎないのに。
~ジョイス・キャロル・オーツ~

自分自身をゼロにすれば、あなたのパワーは無敵になる。
~マハトマ・ガンジー~

ガンジーのやり方は、『バガヴァッド・ギーター』に懇切丁寧に書いてある。
ただし、それを語るクリシュナ神が、何度も「人類で最も優れた男よ」と呼びかけつつ直接教えたアルジュナ王子は最後まで理解出来なかったと、ラメッシ・バルセカールは述べているようだ。
ただし、アルジュナは格段に進歩はしたのだと思う。

真に優れた人間は、自己を忘れ、無になっているのである。
あるいは、自在に無になれるのだ。
そのための誰でも出来る手段が、神の名やマントラを唱える修行であるジャパである。
神の名とは、クリシュナやラーマでも良いし、それは、インドでは一般的にジャパで使われる。
だが、凄い人がそれほど多くないのは、唱える数が少ないのである。
神の名やマントラに優劣はない。
例えば、「アジマリカン」が最高だと言う人がいて、別にそれが間違いとは言わないが、「アジマリカン」を十万回唱えた者より、別の言葉を3千万回唱えた人が劣るはずがないことは、常識で分かるだろう。
ここらは、この幻想のような世界だって公平に出来ている。
別のやり方がなくもないが、それをやるかどうかは運命による。
例えば、多分だが、イーロン・マスクは、人類を救う義務が自分にあると信じている。
だが、誰もがそういった信念を持てるわけではない。
彼は、少年の時、『銀河ヒッチハイク・ガイド』を読んだことがきっかけだったと言われているが、他の条件もあったし、やはり、宿命だったのだろう。

PS
コメントに返事がないという文句(?)を少しいただくことがある。
コメントは必ず読んではいるが、基本、返事はしない。
ただ、質問には大抵答えているし、答える。大抵だが・・・
尚、滅多にはないが、あまりにレベルが低いコメントは公開しない。
尚、いい加減で良ければ(笑)、ツイッターの方が返信率が少し高い。
◆Kayのツイッターホーム








ジョセフ・マーフィーの成功法則を真に生かすには

昔、私は、ジョセフ・マーフィーの本を読んでニートを止めることが出来た。
マーフィーの潜在意識の活用法に効果があるかどうかというよりも、極めて重要なのに、親族も学校もテレビも教えてくれなかった知識・・・人間の中に広大無辺な力があるということを教えてもらえたことが良かったのだと思う。
逆に言えば、こういうことを知らずにいたら、これほど悲惨なことはない。
ただ、私は、中学1年生の時、『エリート』(原作:平井和正、漫画:桑田二郎)という漫画で、普通の人間は潜在的に持っている能力のほんの僅かしか使っていないことを気付かされたので、マーフィー法則にも親しみを感じたのだ思う。これも幸運なことだった。
そして、マーフィーの成功法則は、おそらく確かに効果がある。
私は、最初の仕事はフルコミッション(完全歩合制)セールスという、文明国の中では最もブラックな仕事の1つに就いたが、10人入社したら1カ月後には9人が止めるという中で残ったし、駆け出しの頃に、強豪セールスマン達を押しのけてセールスコンテストで優勝した時は、マーフィー法則で設定した目標額とほとんどぴったりの金額を売り上げたものだった。
そして、有名セールスマンの本も読んだが、彼らのほとんど全部が潜在意識の力について語るのだから、この方面の理解はますます大きくなった。

そんなわけで、今はニートだが立派に働きたい者や、人生で二進(にっち)も三進(さっち)もいかない状況にある人は、ジョセフ・マーフィーの本を読むことをお勧めする。
ただし、マーフィーの法則で、いつまでもやっていられるわけではないと思う。
マーフィーの法則で成功した人の話は沢山あるが、そんな人達の後日談は、ほとんど出て来ないのには、何かわけがありそうだ。
少し前に、ようやく、『和の成功法則』という本で、マーフィーの成功法則のようなもので大成功したが、その後はあまり良いことにならなかった話が著者自身の話としてあったが、別に、大成功しなくても、そうなる場合が多いと思う。
結局のところ、人間が本当に求めているのは心の安らぎのようなもので、物質的に満たされても、それが得られる訳ではない。
心の安らぎのために、ある程度のお金は必要かもしれないが、非常に貧しくても心から満足している人もおり、究極的にはそれが理想なのである。
アメリカのあるセミナーで、願いは100万ドルという女性に対し、深い知恵にも通じていたセミナー講師がとっておきのテクニックで、この女性に心の安らぎを感じさせたら、彼女は100万ドルはどうでも良くなった。
そして、そんな状態になってこそ、必要であれば無理なく100万ドルがやって来るのである。
逆に、必要もないのに、無理に100万ドルを得たりしたらロクなことにはならない。
まあ、普通は100万ドルの器がなければ、そんなものはやっては来ないが、間違って自分の器を大きく超える額が来たら悲惨である。
器の大きさは運命のようなもので、誰もが大金持ちになれるわけではないし、本当のところ、ならない方が幸せであろう。

「足るを知る」といった年寄めいたことを言う必要はなく、欲しいものは大きく求めれば良いが、欲張ってはいけないことも確かである。
ある世界最高の投資家に成功の秘訣を聞いたら、「欲張らないことさ」と言ったというが、それが彼の実感とか本音であると思う。彼だって、欲張って大失敗した経験があるから分かるのだろう。
とはいえ、失敗から学ぶと言っても、取り返しのつかない失敗をしてはどうにもならない。
だから、マーフィーの法則でうまくいってから精神性を求めるのではなく、なるべく早い機会から、心を重んじることを同時にやるのが良いだろう。
そうすれば、マーフィーの法則自体がうまくいかない人も、すいすい引き寄せが出来るようになる。
何せ、欲しいものを得ても害を受けないなら、神様も安心して与えられるというものである。
さしずめ、『バガヴァッド・ギーター』を読み、どれほどやりがいのある仕事、創造的な仕事、重要な仕事であっても、所詮は義務でしかないことが分かると良いと思う。
責任感を持って仕事に励む財務長官も、実は何もしていないのであり、そうではなく、自分がそれをしているのだと、あまりに強く思うから悲惨な失敗をするのである。








プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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