ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
コンピューターシステム開発技術者、サイコパスのKayのブログ

ニサルガダッタ・マハラジ

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。
[2016/11/21]滅多にはありませんが、あまりにレベルが低いコメントは公開しません。
[2011/06/08]迷惑コメントが多くあったため、やむなく、コメントを承認後公開することとしました。

これなら出来る、心を消す方法

悟りを開く・・・とうのではないが、精神の力を高め、スティーブ・ジョブズが持ってたと言われる、現実を高速に変換するような能力を持ちたいとは誰もが思うだろう。
ジョブズは東洋思想に傾倒しており、彼が若い頃、『禅マインド ビギナーズ・マインド』を熱心に読んだという話は知られているが、彼はおそらく他にも沢山の本を読んだのであり、そのエッセンスはむしろ、彼の有名な、スタンフォード大の卒業式でのスピーチに現れているように思う。
一方、マイクロソフト社長時代のビル・ゲイツが雑誌のインタビューで、社員達に“Let's think harder”(もっとよく考えよう)とよく言ったというのは、著名な啓蒙家であったリチャード・ハアネルの『ザ・マスター・キー』の影響ではないかと思う。

ところで、マインド・パワーの超人達が、共通して推奨するテクニックがある。
それは、スピリチュアルに興味のある方なら、一度は見聞きしたことがあると思うが、「自分の心を観察する」である。
ニサルガダッタ・マハラジのようなインドの聖者達は、例外なく、これを行うことを薦めていたと思う。
めるくまーる社の『ラマナ・マハリシの教え』では、マハリシの非常に具体的なメソードが書かれている。
それは、
「想いが起こったら、それが、どんな想いであろうと、『この想いは誰に起こったのか?』と尋ねよ。答は『私に』に決まっている。それが解れば、鋭く『私は誰か?』と問え。すると、想いは消滅するだろう。これを常に行えば、ついに心は消える」
であるが、私は、これは全くうまく出来なかった。
アメリカの光明思想家ヴァーノン・ハワードは、「科学者が冷静に観察するように、心を観察しろ」「心がぐらついたら、ぐらつくままにさせよ。すると、心は抜け落ちる」と述べているようだが、美しい言葉だとは思いつつ、私には続けられなかった。
いずれも、私は熱心にやる気持ちはありながら、さっぱりだったのである。
おそらく、多くの人がそうであろう。

ところが、フランク・キンズローの『瞬間ヒーリングの秘密』に、ちょっと良いやり方を見つけた。
それは、「次の思考はどこから起こるのか?」と問うものだ。
私は、「次はどんな想いが起こるのか?」と変えて心を観察すると、これなら出来た。
単に、「心を観察しろ」と言われても、それは、自分が自分を観察する自己観察であり、自己分裂を招き、不快さや苦痛を感じるのである。
しかし、そうではなく、今ある想いは、そのまま放置し、「次はどんな想念が起こるか?」と見張っていると、想念はしばらく起こらない。
観察していれば、心のエネルギーは、「観察する」の方に行っているのだから、観察している限り、想いは起こり難いのだ。
ラマナ・マハルシやヴァーノン・ハワードのやり方がうまくいかないのは、所詮、人間は、一度には1つの想念しか持てないのであり、想念を観察する限り、「観察する」意外の想念は持てないし、「観察する」以外の想念が起こるなら、観察はもうしていないのだ。
実際は、我々に出来るのは、「観察する」と「観察する以外の想念」を切り替えることだけだ。
想念が、別の想念を観察することは、本当は出来ないのである。

だが、次に起こる想念を待つことは出来るのである。
そして、次の想念が起こった時、観察は終っているが、それで良いのだ。
大切なことは、次の想念を待っていると、次の想念を待っているという想念自体が消えることだ。
その時、我々は、ほんの僅かかもしれないが、無を経験するのである。
しかし、僅かであっても、無を経験することが、非常に・・・いや、恐ろしく重要なのである。
私はもっと単純に、「想念の発生」を見守るようになった。
これなら、「次はどんな想念が起こるだろうか?」などといった言葉はいらない。
ただ、想念が起こるのを待っていれば良いのである。
城から王様が、湖から水の精ウンディーネが、空中に天使が、ステージに初音ミクさんが現れるのを待つようにね。
これは、どんな時でも出来る。
苦しい時にやれば、苦しみは消える・・・少なくとも苦しみは減少し、続ければ、いずれ苦しみは消える。
苦しみを感じる心が消えるのだから。
そして、量子物理学の教えでは、心が見ないものは実体としては存在しないというのが事実である。
それは、ミクロの世界だけでなく、マクロの現実でも変わらない。
よって、苦しみは存在しないのである。
再度言うが、最初は瞬間である。しかし、根気強く続ければ、いずれ苦しみは全て消えるし、精神のエネルギーが高まるので、行動にも鋭さ増すだろう。
行動出来ないなら、まだちゃんとやれていないのである。









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学校や職場を楽しい修行の場にする

冗談で『サザエさん』を見ようと思うと重い気分になる。
これは、今だ、子供の時の「サザエさん症候群」、つまり、休日もあと僅かで、翌日から1週間、学校に行かないといけないという嘆きを思い出すからである。
今も、やっぱり月曜は好きではないが、今日から「さあ、会社で心を消す修行をするぞ」と思えば楽しくなってきた(笑)。
そうだ。
学校や職場は、心を消す修行にピッタリの場所で、そのためにあるのだと思えば、学校や職場が有り難いものに思えてくるから不思議である。

心を消せば、つまり、無になれば、不可能はなく、全てが可能になり、仙人、導師、マスター、大師の仲間入りをするということである。
もちろん、そのようなものになることへの執着は持たない方が良いのだけれども。
心を消すには、様々なやり方がある。
一番基本的なものが、心を1つの対象に縛りつけ、さ迷わせないことだ。
呪文、万能呪文を唱えたり、出来るだけゆっくり呼吸することで、それが出来る。
念仏や、般若心経の呪文でも良いと思う。自分が好きでさえあれば。
けれども、1つの方法だけ選んでやり、呪文を唱える場合でも、呪文を1つにした方が良い。

ニサルガダッタ・マハラジは「常に存在の感覚にしがみつけ」と教えた。
「私は存在する」「私は在る」という感覚であるが、いきなりそう言われても難しいかもしれない。
心の中で「私は存在する」と言った時の「感じ」を覚えておき、それを再現させても良いと思う。
あるいは、特に最初のうちは、「私は存在する」を呪文のように心の中で、繰り返せば良い。
全ての呪文のコツは、感情を込めず、されど丁寧に、心の中で、数多く・・・である。
また、マハラジは、「存在の感覚」とは、朝、目覚めて、思考がやってくるまでに感じる感覚であるとも言う。
なるほど、その感覚を思い出せば良いのである。

学校での活動や、職場での仕事はどうするかというと、『バガヴァッド・ギーター』で繰り返し説かれているように、ただ義務として行うことだ。
あるいは、自分がそれをやっている行為者ではないと見なすことだ。
そうすれば、神が代わりにやってくれる。
ラマナ・マハルシは、「財務長官は重い責任を持って仕事を遂行しているように見えるが、彼は何もしていない。自分がそれをしていると思っていないので醒めている」と言う。
あるいは、「事業家が偉大な事業を成し遂げつつあるが、彼は何もしていない」とも言う。
つまり、神の道具になり切って、心ごと、身体ごと、明け渡すことだ。

心ごと体ごと 全部脱ぎ捨てたこの魂
無くしてた熱情が 指先から流れ出した
~『FREELY TOMORROW』(作詞:Mitchie M・ЯIRE、作曲・編曲:Mitchie M。歌:初音ミク)より~
ファイル:Freely Tomorrow.ogg/初音ミク『FREELY TOMORROW』
※この曲はクリエイティブ・コモンズライセンスにより自由に使える(クレジット表示さえすれば良い)。まして、ダウンロードして聴くくらいは自由である。

さあ、早く心を消し、自由になろう。
学校、職場、あるいは、嫌な家庭など、悪い状況は、心を消す喜びを味わうためにあるようなものである。
身体が不調であることも同様に考えられるが、健康である方が修行には有利であるので、毎日、腕振り運動を欠かさず、身体を鍛え調整すると良いと思う。
蹲踞(そんきょ)の姿勢を度々することもお勧め出来る。









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惑わす心をどうさばく

近代のインドの聖者ラマナ・マハルシは、一切の欲望を捨てるよう教えたが、そうでなければ、解脱は出来ない。
解脱とは、悟りを開くとか、真我を実現するといった、難しい言葉で表現されるが、要は、最終的な幸福のことと言って良い。
だが、人間が、マハルシのように、ふんどし1本以外、何も所有せず、世俗の喜びを全て捨てることなどは出来ない。
一方、アメリカの精神科医デヴィッド・R・ホーキンズは、マハルシを崇敬すると共に、解脱を果たすと、現世の利益も全て得ると言い、実際、彼は、精神科医としては沢山の病院を所有し、解脱により、それまであった健康上の問題も即座に解決されたと言う。
考えてみれば、清貧を重んじたマハルシですら、求めはしなかったが、大勢の信者が熱心・丁寧に全ての世話をしてくれるので、実際上は、王様のような生活だったのである。
マハルシも、若い間は、自主的に、信者達と一緒に、かなり熱心に働いたようだが、歳を取ってからは、ベッド(それも豪華な)にいる写真が多いように思える。
それは、ひょっとしたら、大金持ちや権力者より、よほど理想的な生活かもしれない。

ところで、イエスや釈迦となると、彼らの本当の教えは、ほぼ伝わっていないと思うが、マハルシの教えも、大半は、正しく伝わっていないはずだ。
マハルシは、ほとんど喋らなかったそうだし、話したことも実際は個人的なことで、言葉の意味をそれほどはっきりさせていないはずなのだ。
そんな言葉を、タミル語から英語にする間に、少なく見積もっても6割は違う意味が入り込んだはずで、さらにそれを日本語にする際、どうしても、拡張高い雰囲気にするために、やたら難しい、日常では使わない言葉を使って翻訳する中で、ますます、実際にマハルシが言ったのとは違う意味になってしまっているはずだ。
だが、『不滅の意識 ― ラマナ・マハルシとの会話』という本は、マハルシを発見し、西洋に紹介したポール・ブラントンが熱心にマハルシを取材した内容を、彼の後継者が、他に伝わったマハルシの発言と照合して確認したりといった手間のかかる作業を繰り返し、なんとか、マハルシの教えを、いくらかでも正しく使えようという努力が感じられる。

マハルシのある本には、マハルシは、常に「私は誰か?」と問えと言ったと書かれているが、別の本では、マハルシは「私は誰か?」を呪文のように繰り返してはならないと言ったとある。
なぜそんなことになったかを推測することは出来ると思うが、やはりあくまで推測でしかない。
どこかの宗教家なら、マハルシの霊でも呼び出して「確認した」と言うかもしれないが、そんな阿呆な主張を信じるうちは阿呆なままだ。

マハルシの教えは、『バガヴァッド・ギーター』と一致していることは間違いない。
マハルシも、それを肯定しているはずだし、一部でも否定したという話は伝わっていないと思う。
そして、あらゆる賢者の教えは、ぎぎぎり間違いのない言い方をするなら、「自分の心に惑わされないようにしろ」だと思う。
新約聖書の福音書では、イエスはそれを婉曲的に語っているように見えるが、イエスも、実際は、もっと直接的に言ったと思う。まあ、しかし、いずれにしても分かることではない。
心が惑わすものであることは、誰でも知っている。
それが諸悪の根源である。
それを封じるために、法然は、念仏という手段を選んだが、それ以外のことを、庶民・・・というか、大半の人間は出来ないことを理解していたからだ。
しかし、今の時代の人間に、阿弥陀如来の存在を信ぜよというのも無理がある。
だが、精神科学の研究によれば「大丈夫」といった言葉が、心の悪影響を防ぐ効力があるということが分かっているし、実際に、成功や勝利を得る者は「大丈夫」といった肯定的な言葉を常に頭の中でつぶやいている。
マハルシも、真言(マントラ)を常に唱えることは薦めていたらしいし、最上のマントラは「私」であると述べたという話もある。
一方、マハルシと同時代の聖者で、上記のデヴィッド・R・ホーキンズも、マハルシ同様評価しているニサルガダッタ・マハラジは、究極の真言があるとすれば「私は存在する」だと言ったと書かれた本もある。

そして、つまるところ、マハルシもそう言ったのだと思うが、最も重要なことは、心を1つの想念に集中させることなのだ。
念仏でも、真言でも。
上記の『不滅の意識 ― ラマナ・マハルシとの会話』では、マハルシは、熱心に瞑想しているように見える修行者より、「仕事を下さい」と一心に祈るプー太郎の若者を評価していたとある。彼は、心が「仕事が欲しい」という1つの想念に強く集中しているからだ。
しかし、集中しようとする想念には良くないものもあるだろう。
道徳的かどうかという問題ではなく、その想念に集中しようとしたら、かえって、想念が揺らいだり広がったりして、惑わされる場合だ。
美女に関する想いなんて、ほぼ間違いなくそうなるだろう。
富について言えば、単に贅沢をしたい場合なら、やはりそうなる。
ただ、本当に熱心に富を求める理由があれば、それはそれで良いかもしれない。
要は、集中にどれだけエネルギーを注ぎ込めるかなのである。
アインシュタインは、一般相対性理論を完成させる時には、相当なエネルギーを集中させたが、ああいった名誉に関わることは、妄念も起こさせる。
アインシュタインは、運も手伝ってうまくいったが、心に歪みも残したように思えるのだ。
だから、悟りのための集中は、あまり実利と関わらないことの方が良いだろう。
初音ミクさんは・・・彼女は、エイリアンエイリアンではないが、私の心を惑わせる・・・まあ、それも良いところの1つであるが、悟りのための集中の対象にはしないでおく。
何でも良いのである。
訓練次第ということもある。
とりあえず、万能呪文で鍛えると良いと思う。すると、道は開ける。









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恋愛の行く末を神様にまかせると

古代中国の賢者の荘子と、近代インドの聖者ラマナ・マハルシやニサルガダッタ・マハラジの教えは似ていて、その根本を一言で言えば「人生の明け渡し」になると思う。
マハラジの弟子、ラメッシ・バルセカールも、「人生の明け渡し」を第一としていた。
「人生の明け渡し」とは、人生がどうなるかの一切を神(あるいは高次の力とか至高者)にまかせてしまうことである。

ただ、マハリシもマハラジも荘子も、まかせた結果、どうなるかは全く述べていないし、そうすることで、悲惨な状況で一生を送る可能性があることを、それとなく示すこともあったと思う。
一方、まかせた結果は良いことばかりと断言したのが、江戸末期の偉大な神道家で、イエス並の力を現実に持っていた黒住宗忠だ。
宗忠自身、重病で何年も寝たきりだったのが、神(天照大神)への全託(全てまかせること)に目覚めた途端、わずか数日で全快してしまった。
また、イエスも、「お前達ですら、自分の子供の面倒を熱心に見るではないか。ましてや、天の父である神が、我々に良くしてくれるのは当たり前じゃないか。心配するな」と言っている。

中国出身のアメリカの作家で、事業家、自己啓発指導者でもあるチン・ニンチュウは、ある夜、自分が羊になり、羊飼いに会う夢を見て、自分は羊飼い(神)にしっかり面倒を見てもらいさえすれば良く、自分が努力する必要はないのだと悟り、安心と安堵で涙が流れて止まらなかったと言う。
アメリカの著名なイラストレーターで、啓蒙家としても名高いフローレンス・スコーヴェル・シンも、自分が努力しようなどと決して思ってはならず、神様にまかせること・・・「神が自分の代わりに戦う」のであることを強調した。

ところが、手強い論敵がいた。
日本の誇る二宮尊徳である。
彼は努力を力説した。
「老子が言うように、無為自然で何もしなければ、畑は荒れ、家はあばら家になるではないか」
だから、しっかり努力せよと言う訳だ。
なるほど、現代だって、好きなものを好きなだけ食べ、運動もしなければ、肥満してモテなくなるばかりか、病気になりかねない。
だが、スーフィー(イスラム教神秘主義)には、こんな教えがある。
「神を信頼しろ。だが、ラクダはつないでおけ」
いくら何でも、ラクダをつないでおくくらいのことはすべきだ。
それに、そうでないと、退屈でやってられないはずだ。
上に挙げた、フローレンス・スコーヴェル・シンも、こんな話をしている。
ある女性が、無職でお金がなくて困っていたが、彼女は自分は努力しない人なので、周囲の人が、仕事が出来るよう段取りしてくれた。
すると、その女性は、「そうじゃなくて、私は家で雑誌を読んで過ごせるようになりたいの」と言う。彼女は、本当にファッション誌が好きだった。
シンは、この女性は、雑誌記者を目指すべきだと言う。
そうすれば、楽しく生き甲斐がある人生になり、ついでにお金も入るという訳だ。その道は神様が開いてくれるので、それに関しては努力しなくて良いが、やはり、ラクダをつなぐ程度のことはしなくてはならない。
アメリカの作家、マイク・ハーナッキーも、自分が作家になれた経緯を元に、簡単に出来る成功法則の本を書いたが、「言う通りにやっても何も起こらない」と文句を言ってくる読者がいた。
だが、聞いてみると、その読者は、成功のために電話1本しなかったと言う。
神に一切をまかせることとは怠惰になることではない。
あなただって、いくら子供が可愛くても、子供が寝転がって口を開け、「ここにチョコケーキを入れて」と言ったら、「自分で食べろ」と叱責し、また、マナー良く食べられるよう指導するはずだ。
我々が似たようなことをしたら、神様もちょっとした罰を与えるのかもしれない。
(いつまでも改まらないと厳罰になるかもしれない)
好きな女の子には、告らないまでも、親切にはすべきである。
後は神様にまかせておけば・・・もっと可愛い子と出会うかもしれない(よくあることだ)。









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台所のゴミと空の星の扱い方

聖者ニサルガダッタ・マハラジは、「一切を愛する」か、「一切に無関心でいる」かのいずれかでなければならないと言ったそうだ。
美しい言葉だと感じるから、それが正しいのだと思う。
しかし、花は美しいし、犬や猫や鳩は可愛い。
そして、初音ミクさんはとても愛しい。
対して、多くの人間は、どうしても好きになれない。
私には、ミクさんや猫さんに無関心でいることも、醜い人間を愛することも出来そうにない。

だがまあ、聖者の真似をして葛藤するより、身の丈に合ったやり方をするものだ。
それには、賢くあらねばならない。
「嫌いな人に会ったことがない」という奇特な方がおられるそうだが、多分、嘘つきだろう(笑)。
しかし、嘘じゃないことも分かる。
私も、本当の私は誰も嫌いでないことは感じるのだ。

嫌いな相手にエネルギーを与えなければ、相手はあなたを害することは出来ない。
エネルギーを与えるとは、関心を向けることだ。
つまり、無視すれば良い。
すると、相手は消えてしまう。
しかし、無視すると言いながら、ついつい、意識を向けてしまうものなのだ。
それに、ヒトラーみたいなのが現れた時、無視してないでちゃんと対処しなければならない。
だけど、ヒトラーってのは、大衆の関心を自分に向けさせることでエネルギーを得たのだ。
大衆が彼を無視したら、彼には何の力もなかった。
ヒトラーの行為には対処しなければならないが、ヒトラー自体には無関心でいることだ。
台所のゴミは無視せず捨てなければならない。
しかし、ゴミの成分を分析する必要はない。
ヒトラーは台所のゴミなのだ。
同じく、あなたの嫌いな人も台所のゴミだ。
ゴミだからといって、忌み嫌う必要はないが、ゴミに憎しみを持つなんておかしなことだ。
今度から嫌いな人にあったら、彼や彼女は台所のゴミだと思うことだ。

では、鳩や猫や初音ミクさんのような愛すべきものはどうするのか?
西郷輝彦さんの『星のフラメンコ』という歌は、神が浜口庫之助さんにインスピレーションを与えて作らせた傑作だ。
あの歌の通りにやればいい。
「好きなんだけど 離れてるのさ 遠くで星をみるように」

嫌いな人は台所のゴミ。
ただ捨てれば良い。
初音ミクさんは星。
ただ眺めれば良い。
すると、素敵なことに、向こうもただ見ていてくれる。
犬や鳩に静かに見つめられるのって良いものだ。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・ソフトウェア開発技術者
・サイコパス
・初音ミクさんを愛す


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