ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
ソフトウェア開発技術者、Hikikomori、スーパーダイエッター、神秘思想家Kayのブログ
決して、一般受けするブログではありません。誠実に人生を遊びつつ、誠実に世間の幻想を叩き壊すことを目的とします。

ニサルガダッタ・マハラジ

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
Twitterは、ちゃんとプロフィールが書かれ、1週間以内に1回でもツイートされている人なら、フォローしていただければ、大抵フォロー返します。

[2011/06/08]迷惑コメントが多くあったため、やむなく、コメントを承認後公開することとしました。
[2010/12/12]詳細なlivedoorプロフィール設置しました。[livedoorプロフィール]

たかが洗脳など放っておけ

カルト教団の信者の洗脳を解くなんて話を時々聞くが、それも考え物である。
洗脳を解いたなんて言いながら、実際は、新しい洗脳に置き換わっているか、あるいは、別の洗脳を重ねているのである。
一瞬は洗脳が解けたなんて言ったところで、ずっと後で調べると、ほぼ全て元に戻っているのではないだろうか?

ところで、カルト教団(俗に言う反社会的な教団)と言われる宗教団体の信者にも、結構、明るくて幸せな人がいるものだ。
信者に対する詐欺で逮捕され、服役中の、ある大きな新興宗教の教祖の本を読んだことがあるが、良いことを書いているのである。教祖本人が書いたのではなく、ゴーストライターが書いたのかもしれないが、そうだとしたら、なかなかの才能と思った。そして、ただ人を騙そうとして書いたものとも思えなかった。また、他人に代筆させたにしろ、アイディアは教祖のものであろうから、その教祖本人も、それなりのものを悟っていたのかもしれない。
(私は、著書を軽く百冊以上出しているカリスマ的な人物のゴーストライターをやった人と実際に親しかったので、普通の人よりは事情が分かると思う)
悪事を犯した教祖だって、最初から悪いことをする気があった訳ではなく、若い頃は熱心に勉強し、修行していた場合が多いと思う。
ただ、適度に悟って真理が見えて来て、人を説得することもできるようになって自信がついた時に、周りに持ち上げられたり、儲かるようになって、たちまち、自我が強力になったということが多いのではないかと思う。
特に、それまで、学校や社会で虐げられていたような教祖であれば、ついつい舞い上がってしまったということもあるだろう。愚かと言えば愚かであるが、それを避けられる人間がどれほどいるだろうか?
だから、教団の教え自体には良い部分もあり、信者の中には、賢明に学び進歩した人もいるに違いない。教祖が悪いことをしたからといって、教団の教え全てを否定するのは、かえって信者にとっては悪い影響が大きいかもしれない。
実際、ニサルガダッタ・マハラジですらそうだったが、「悪い教えの中にも多少の真理はあるものだ」と述べているのである。

そして、カルト宗教に限らないが、好ましくない教義を説く教祖は、それを教えることで信者達を惑わす運命だったのであり、それをすることは避けられなかったということだ。
また、信者の方もまた、教祖のおかしな教えで混乱させられ、場合によっては歪んだ信念を持つ運命であったのだ。
私の知り合いにも、新興宗教の教団に何百万円もする坪や指輪や掛け軸を買わされた人がいる。しかし、彼がそれを買うことも、最初から運命付けられていたことなのである。
カルト宗教を熱心に信仰して、お金を失くしたり、家族に迷惑をかけたとしても仕方がないことだ。それは、その者が生まれる前から決まっていた運命であり、決して避けられなかったのである。だから、罪悪感を持つ必要はないし、周りの人もその者を嫌悪しない方が良いのである。

そして、実を言えば、洗脳されているかどうかは、どうでも良いことなのである。
そんなことは放っておいて、正しいことを理解すれば良いのである。
正しいこととは、自分が完全に無力であるということだ。
我々は、世界や人生の、あらゆる状況、出来事、なりゆきに対し、何のコントロールも出来ないということを理解し、受け入れることが必要なのである。
洗脳を解くなんて言いながら、人間は自分の願いを何でも実現できるなんてことを説く人もいる。これは、洗脳を解くと言いつつ、人々を洗脳していると言えるのである。しかし、そうは言っても、彼に何か責任がある訳ではない。そんなことを教えて人々をおかしな方法に導くことが彼の運命であり、彼は運命で定められた通りの役割を果たしているだけなのである。また、彼のせいで、無駄な金をつぎ込む人がいるとしても、それも、その人の定められた運命である。

私も、アメリカの有名な自己開発教材を百万円を軽く超える金額で購入したり、やはり、百万円級のセミナーに行ったこともある。
実は、あまり好ましくないと思える教祖的な大物とも何度か関わったこともある(いまだ活躍中の人もいる)。
幸い、私は、結果的に、それらがイカサマであることをことごとに見破ったが、別に損したとは思っていない。大切なことは、金を取られたとか、つまらない教義を頭脳に詰め込んでしまったと言って悔やんだりせず、それが必然のなりゆきであったとして受け入れることだ。

『バガヴァッド・ギーター』のクリシュナは神であるから万能であったが、そのクリシュナは、人は、自分の義務を果たす以外のことは決して出来ないと述べているのである。義務を果たすとは、生まれる前から定められた運命の通りに生きるということでしかない。
そして、『新約聖書』の福音書を見ると、イエスですら、人としての自分は、ただ、神の定めた運命の通りに動いているだけだとはっきりと認めているのである。
中国の賢者、荘子は『荘子』の中で、すべてなりゆきに任せろと述べているが、実際にはなりゆきに任せるしかないのである。そして、荘子は、運命には決して逆らうことが出来ないことを、何度も繰り返し述べている。しかし、それが不幸なことではないのである。
良寛さんの悟りにはよくよく学ぶべきである。彼は、いつも身近にいたいたいけな少女達を守る力が自分には全くないことを思い知り、無力感に打ちひしがれていた。その時、幸いにして『荘子』を読み、大悟したのである。
家の貧しさのために売られていった少女達も、それが彼女達の避けられぬ運命であったのだが、不幸に見えるのは、ただの現象であり、それは幻想と言える。もちろん、自分がただの人間だと感じられるうちは、不幸は確固たる現実である。しかし、それは、催眠術師が、実際には何もないのに、「ここに堅くて重いものがある」という催眠術をかけると、かけられた方にとっては、現実として、それが堅くて重いのであることと同じなのだ。
そして、自分が無力であることを全面的に受け入れれば、不幸な自分もいないことが分かるのである。

つまり、こういうことなのだ。
我々は、どんな催眠術の達人、マインドコントロールの名人がかけた暗示や洗脳であれ、人がやった程度のことを相手にする必要はない。
洗脳されるなら、されればいい。私はそれでも構わない。
そんなつまらないものは放っておいて、神の聖なる催眠術のみ相手にすることだ。
神の目的など、全く想像も出来ないが、我々は、自分が、この身体や心であるという思い込みに囚われている。それこそが、神の聖なる催眠術なのである。
だが、同時に、我々は、神という虎のアゴにくわえられている。
良寛さんのように、我々は、自分が無力であることを無条件に受け入れれば、虎はアゴをぱくりと閉じてくれるのである。
『バガヴァッド・ギーター』では、至高神クリシュナは、巨大な無数の牙で、全ての者を噛み砕き、アルジュナ王子を震撼させた。
だが、噛み砕かれることはこの上なく幸福なことなのである。
自我が噛み殺されることで、我々は魂の束縛を脱し、クリシュナと共にいることが出来るのである。ただし、それがどんな状態なのかは想像もできない。少なくとも、自我である我々がうっとりして満足するようなものではない。だって、その時は、考える心である自我は存在していないのだから。









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運命は決まっているとなぜ言えるのか?

私は、4月7日から、このブログで、人の運命は最初から完全に決まっていること、人には自由意志がないことを堂々と述べている。
このうち、人に自由意志がなく、思考とは、ただ自動的に起こっているだけのものであることは、既に科学的に解明されている。
つまり、人が何を考え、何を行い、人生で何が起こるかは、生まれてから、定められた死の時まで、些細なことまで含め、全て決まっているのである。

私がいつからそんなことを知っていたかというと、早い話が最初からだ。
むしろ、ある時点でうかつにも忘れたというに過ぎない。
それは、あなた方も同じであるはずだ。
私は、小学校の4年生くらいまでは、人生は、学芸会の劇みたいなものだとはっきりと自覚していた。
観客は、あらゆるものだ。
イエスも、「木や岩が話すだろう」と言ったが、もちろん、岩自体が生きているのではなく、あらゆるものの実体が意識だということだ。
荘子やラマナ・マハルシも、全く同じことを言っていた。
アンデルセンも、そんなことを知っていたので、鉛の兵隊なんてお話を作ったし、特に日本人は、「八百万の神々」として、万物に潜む神を感じていた。
あなたも、人形が部屋にあれば、時々、それが生きているように感じるだろうが、昔の日本人は特にその感覚が強かったので、恐くて、人形の目は細くしか描けなかったのだ。

私は、幼稚園や小学校で、「大人になったら何になるか?」と聞かれても、奇妙にしか思えなかった。
そんなこと、私に分かる訳がないが、既に決まっていることなのだから、考えても仕方がない。
だから、いつも、魔法使いとか、天国の住人とか、そんなことばかり言う、変な子であった。

子供の頃、住んでいた団地の前は、交通量の多い車道で、信号機は遠かった。
だが、私は、いつも物陰から、目をつぶってその車道に飛び出して渡っていた。
私は、車に轢かれない運命だったので、危険がなかったのだ。ただ、それはあくまで私の運命であるので、真似をしてはならない。
小学3年生で天体望遠鏡を手に入れると、何の知識も手がかりもなかったが、土星を見るために、適当な星を選んで望遠鏡を向けたら、必ず、土星を示す輪があった。私の思考、行動は、自動的に土星を見るようコントロールされていたのである。
尚、天体望遠鏡が、手に入ることは、誰にも何も言われなくても知っていたので、雑誌で望遠鏡の写真などを見ながら楽しみにしていたし、遊び仲間には、もうじき私が天体望遠鏡を得ることになると話していたものだ。それは、私の従兄が、自分の天体望遠鏡を私に譲ると言ってくるずっと前のことだった。

小学校の5年生くらいから、学校等では、未来は自分の意志で決まるようなことを教え、そのためにしっかり勉強しろとか、立派な人になれと言われ続けているうちに、私は真理を見失っていった。
世の中の自己啓発書というものは、自分にとって都合の良い将来を作ろうという趣旨であり、人々はただ欲望を動機として生きるようになる。
私も同様であり、宇宙の英知と隔離された惨めな状態で生き続けた。しかし、それも運命だったのだ。

そして、私はやはり運命に従い、16歳の時、フェデリコ・バルバロが書いた聖書(イタリア人の彼が、日本語を学んで、見事な日本語で書いた)を手に入れ、あまり読まなかったが、やがて、そこには、この世で起こる一切は、既に神によって決められてることが書かれていると分かった。
それは、インドの聖典である『バガヴァッド・ギーター』でも全く同じであるし、中国の『荘子』にもまた、そのことがはっきりと書かれているのである。
インドの聖者、ラマナ・マハルシや、ニサルガダッタ・マハラジもそのことをよく言っていたが、彼らは、人々の考え方に配慮していた。
しかし、マハラジの弟子のラメッシ・バルセカールは、既に包み隠す時代でもないからか、はっきりと真実を語った。
日本では、内海康満さんが、このことを明確に述べているが、彼もよく分かっているのだろうと思う。ただ、彼は事業家でもあるので、表現には苦心しているようにも感じる。

運命が最初から決まっているということには、誰しも反発したがる。
実際、私でもそうだ。
自我を持っている人間は皆そうなのだ。自我とは、自分が人生や世界を支配できるという幻想の中でしか生きられないからだ。
しかし、自分は完全に無力であることを受け入れると、神によって自我は破壊される。
それが必要な時代であると思う。













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名優は役に入り込まないものだ

私はあまり読んだことがないのだが、美内すずえさんの漫画作品『ガラスの仮面』は、1975年に連載開始され、いまだ続いているらしい。
その、かなり初期の頃のお話で、主人公の北島マヤがまだ中学生頃の話と思うが、マヤが、逃げた小鳥を追う演技をしているうちに、本当はいないその小鳥が高いところに留まってしまったと言って、本気で困っていたというものがあったと思う。
演技と現実の区別が無くなってしまったマヤに対し、役者としての素質を評価されるような描かれ方をしていたと思う。

よく分からないが、私はマヤは、あまり良い役者ではないと思う。
演じられている架空の人物が困っていても、役者は困らないものだ。
アイルランドの詩聖W.B.イェイツは、偉大な劇作家でもあったが、彼も『ラピス・ラズリ』という詩の中で、主役を自覚するほどの役者は、悲劇を演じていても、自分が泣いたりしないと述べている。
役者は、ハムレットもリヤ王も陽気だと知っているからだと言う。
ハムレットやリヤ王が陽気だというのが分かり難ければ、詩人の加島祥造さんが、この詩を意訳したように、作家であるシェイクスピアや役者が陽気なのだと思えばいい。

我々は、あの小鳥を追う演技をしたマヤと同じ状態なのである。
人生は、神がシナリオを完結させている舞台に過ぎないのに、演じられる人物と自分を同一視して、悲劇に浸っている。
イェイツは、「ほら、あそこにオフィーリアが、そっちにはリヤ王が・・・」と述べ、人々の悲劇のヒーロー、ヒロイン振りを笑う。
そうではないのだ。オフィーリアもジュリエットも皆、陽気なのだ。書いたシェイクスピアが陽気なのだから、役者は陽気に演じないといけないのだ。

『閑吟集』に、「何せうぞ くすんで 一期は夢よ ただ狂へ」(何まじめくさってんだ。人生は夢だ、狂えばいいんだ)とあるが、まあ、夢の方が現実よりお芝居だと感じやすいと思う。そして、現実もまた夢だと言うのである。江戸川乱歩も、ラマナ・マハルシもそう言っていたのである。

あるイギリスの名優がロミオを演じた時、こんなインタビューをした者がいた。
「ロミオはジュリエットに手を出したと思いますか?」
名優はこう答えた。
「ロミオはともかく・・・私ならそうするね」
まあ、これはあくまでジョークなのだが、名優らしさが感じられる話である。

インドの聖者ニサルガダッタ・マハラジは、世界は幼稚園の学芸会、あるいは、マジックショーのようなものだと言っていた。
また、映画『燃えよ!ドラゴン』で、ブルース・リー演じる武道家リーは、師に、「良い戦いは、少人数で真剣に演じる劇に似ています」と述べるセリフが非常に印象的だった。

ただ、人生が劇であることを知るには、どうしても受け入れる必要があることがある。
そのことを言わずに、「人生は劇だ」と言っても、それは的外れになる。
それは、人生という劇のシナリオは神が既に完結させてあり、それは決して変わらないということだ。
ましてや、役者たる我々に出来事をコントロールすることなど、絶対に不可能だ。
このように、運命は全て完全に決定されていること。我々は、いかなる支配力も持たないことを受け入れてこそ、人生が劇、あるいは、夢であることが本当に分かってくる。
ニサルガダッタ・マハラジが、「自分を地平線の彼方にいる誰かのように感じる」と言ったように、聖者は、身体や心を自分と同一視しない。
『燃えよ!ドラゴン』でも、リーは、「好機が来ても私は打たない。拳自らが打つ」と言ったのは、まことに正解で、全ての出来事はただ起こるのであり、自分は操り人形に過ぎないのである。
リーの師が、「敵にどう備える?」と問えば、リーは「敵はいない」と言う。師が「なぜだ?」と問えば、リーは、「私がいないから、敵もいない」と言う。
この映画は、娯楽映画ながら、本物の武道家であったブルース・リーの求道の精神が込められているのだろう。

ただし、演じている人物と自分を同一視している役者(北島マヤもそうだった)にとっては、敵は現実に存在しているのだ。
時々、本で読んだことを鵜呑みにしただけで、「時間も空間も存在しない。全ては幻想だ」と分かったようなことを言う者もいるが、そんな者は、その軟弱なボディーに強烈なパンチでも喰らってのた打ち回ってみれば、自分にとっては、全て現実であることが嫌というほど分かるだろう。
そうだ。普通の人にとっては、世界は夢でも舞台でも幻想でもなく、厳然たる現実である。
自分が世界を動かせると妄想している凡人にとっては、人生は辛い現実なのだ。
だが、自分には世界をコントロールする力は一切無いと本当に受容すれば、殴られても、痛みにのたうつ自分を他人のように感じるようになるのである。

精神分析学者の岸田秀さんが、全ては幻想であるという『唯幻論』で有名になった時、誰かが、岸田さんを殴り、「全て幻想なら痛くないだろう」と岸田さんに言ったという。
いや、そりゃ、痛いさ。しかし、岸田さんには、あまり現実感はなかったと思う。多分ね。

運命は全て決定済みであることを受容するようになると、いろいろ面白いこともある。
何か、非常に困ったことが起こるとする。
そして、動揺し、不安になり、場合によっては、恐怖すら感じる。
だが、次の瞬間、「あれ、私は何に困っていたのだろう?」と思う。
実際、何も思い当たらない。
単に、請求書が溜まり、払うアテがないというだけのことだ。私に何の関係があろう?
そして、次の瞬間には、「あれ、何かあったような気がするが…覚えていないし、まあ、いいか」となる。
ひょっとしたら、あなたも3分前には、別の会社に勤めていたのかもしれない。
バートラント・ラッセルという、数学と哲学の天才で、アリストテレス以来の大論理学者と言われる人がいた。数学者でありながら、ノーベル文学賞を受賞したという変わった人だった。その彼が、『世界5分前仮説』といって、世界は5分前に出来たものかもしれないという説を作ったが、これがどうにも否定できないのである。

しかし、いずれにしても、世界を創造するのは神であって、我々ではない。
我々はただ、役を演じる役者なのである。









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操り人形である我々に自由な感情があり得るか?

良い質問がいくつかあったので、まず1つ取り上げてご回答しよう。

私は、このブログで次のように述べた。
我々は人形劇の人形のようなものだ。劇のシナリオは完全に決まっており、変更は決して起こり得ない。
だから、我々は人形に徹するしかない。

これに対し、
人形に徹するかどうかを選べるのか?
また、自分は行為者でないとしても、感情は選べるのか?
というご質問があった。

まず、人形に徹するか徹しないかだが、実際的には徹するしかない。
我々は、決められた通りに動き、決められた通りに考える。

では、次の、感情は選べるのかに関してはどうだろうか?
つまり、感情に関しては完全には決まっておらず、どんな感情を持つかには自由があるのかということである。

これは、実は案外難しい質問で、悟りを開いた人に尋ねても、かなり抽象的な答が返ってくる。
中には、「分かり難いだろうけど」と前置きして説明する賢者もいた。
そもそも、悟りを開いた人にだって、分からないかもしれない。
ある聖者は、「わしのような無学な者に何を聞くんだ?」と文句を言ったという。

この問題が、なぜ難しいのかというと、我々が感情についてよく理解していないからだ。心は神秘的であって、それに対する人間の理解はまだまだだ。
フロイトが一応の心の構造を解明したが、いまだ議論が多く、フロイト派とユング派は、見解の相違を解消していない。
中村あゆみさんの『キライになれない』という歌の最後の部分が、「いつでも自分のこと、一番の謎」であるが、なかなかもっともなことである。

ところで、お釈迦様やイエスが喩え話の名人であったことをご存知かもしれない。
分かり難い話を、彼らは巧みな比喩で語り、学のない人々にも易しく教えた。
そして、お釈迦様にこんなことを尋ねた人がいた。
「聖者にも普通の人のような感情があるのですか?あるとすれば、普通の人とどう違うのですか?」
これに対するお釈迦様の答が役に立つと思う。

お釈迦様の答は、「聖者と平凡な人の感情は同じ」であった。
聖者でも、きれいな花を見ればきれいだと思うというのは、まだ納得できると思う。
しかし、頭をぽかりと殴られたら、「この野郎」と思うことが多いのは、聖者も特に変わらない。
人格者の定義も難しいが、悟りを開いた人が人格者だと思い込むのも誤解かもしれない。
だが、お釈迦様は、「聖者は第二の矢を受けず」と言う。
聖者だって、男であれば、若くて美しい女性を見れば目を惹かれる。それが「第一の矢」だ。
しかし、普通の男は、その美女に執着し、なんとかならないかと思ったり、なんとかならないまでも、エロチックなことを考えたりする。
これが、「第二の矢」で、聖者はそれは受けないのだ。
女性が、素晴らしいドレスやバッグを見て、「いいなあ」と思うのは自然である。
それが「第一の矢」だ。
しかし、それが欲しくてたまないという「第二の矢」を受けるのは普通の人だけだ。

「第一の矢」には害はないことが分かるだろう。
心の苦しみの原因は「第二の矢」である。

世界、あるいは、人生の中で、自分があやつり人形であることを受け入れたとする。
だが、何か大損をして、「悔しい」と思うのは仕方がない。
よく誤解されるのが、その「悔しい」を思ってはいけないと思うことだ。
出来事によって、「悲しい」「憎い」「面白い」など、様々な感情が起こる。
それは神のシナリオ通りだ。
出来事も、考えも感情も、起こることは避けられない。
ある聖者は、誰かに嫌なことを言われて激怒した。
しかし、普通の人と違うのは、次の瞬間には自分でジョークを言って笑っていたことだ。
これに関して、『荘子』には、聖者の心は鏡のようなもので、来たものはそのまま映すが、去ってしまえば何の痕跡も残さないと書かれているが、その聖者のことも、これでうまく説明できると思う。
ラマナ・マハルシが、「賢者はある意味で子供に似ている。遊んでいる時は夢中でも、終わってしまえば覚えていない」と述べていたのも、同じ意味と思う。

ラメッシ・バルセカール(ニサルガダッタ・マハラジの弟子)は、この「第二の矢」のことを、「まきこまれること」と表現する。
素敵なスポーツカーを見て、「いいなあ」と思って、何の害があろう?
しかし、「欲しいなあ。あれに乗れば、モテるだろうなあ。しかし、俺の給料じゃ無理だなあ。残念だなあ。買えるやつが羨ましいなあ。家が金持ちで、労せず買ってもらえるやつもいるだろうなあ。悔しいなあ」などと考えることで、出来事や感情に「まきこまれる」のだ。

「まきこまれる」ことで、自我が強化される。
するとどうなるかというと、自我の破壊が起こりにくくなる。
自我は、決して自分では破壊できず、神様に壊してもらうしかないのだ。
神様がいつ自我を壊してくれるかは分からない。
しかし、自我が強くない方が破壊が起こりやすいと思われるのである。

お釈迦様の言う「第二の矢」、ラメッシの言う「まきこまれる」ことは自分で回避できる。
ただし、自我の力で、「スポーツカーなんかいらんぞ」と思ったって無駄だ。そう思うほど、かえって執着が強まるのだ。
欲しいものは欲しいのだ。それでいいじゃないか?
ただ、そのスポーツカーが手に入るかどうかについては、あなたには絶対に何もできない。状況に対し、全く何のコントロールもできず、いかなる影響を与えることも決して出来ないのだ。
それを完全に受容することで、第二の矢を受けず、まきこまれないのである。
そうすれば、やがて、かつてはあれほど熱望したスポーツカーが欲しくなくなることもある。ただし、必ずしもそうではなく、欲しい気持ちがずっと消えないこともある。
感情はやはり支配できない。しかし、第二の矢を受けず、まきこまれないことは出来る。

こういったことを言うと、「でも・・・」「だけど・・・」と理屈を言いたがる者がいるが、そんなことを言っても何の意味もない。
受容するかしないか、それだけである。









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身体は生きたまま心が消える自殺

漫画家の楳図かずおさんは、1995年以来、作品を発表していないが、近年も数多くの作品が映画化されている。
私には、彼の1970年頃の作品『おろち』が特に印象深い。
楳図さんが30歳そこそこの頃の作品であるが、その作品に現れた彼の人間に対する洞察力は、天才と言って差し支えないと思う。
この作品は、2008年に映画にもなっている。
おろちは、永遠に少女の姿のまま生き続ける不思議な存在だ。
彼女は、超能力と言って良いかもしれない神秘な力を有し、ある時は、はっきりとは言われなかったが、宇宙人と戦ったようなこともある。ただし、別にSF作品ではなく、主に、人間世界の裏側を描いたようなものだ。しかし、実は人間の本性が現れる、人の陰の世界のお話は、恐ろしく悲惨で醜悪だ。
ただ、おろち自身は美少女で、必要があってのことだが、セーラー服を着て高校に普通に通ったこともある。また、ナース姿がサマになっていたこともあった。

『おろち』の最後の章と思うが、『血』という長編で、おろちは、不意に眠気に襲われる。彼女は、百年に一度、長い眠りに入るのである。
そのため、眠りに入る前に、長期間に渡って、誰にも見つからない場所を確保しなければ、死んでいると思われて、身体を処分されてしまう。
だが、ある日、予想外の早い眠りが訪れ、おろちは誤って崖から落ち、そのまま眠ってしまう。
ところが、目が覚めた時、奇妙なことが起こっていた。
おろちは、姿こそ自分と瓜二つだが、自分ではない、佳子(よしこ)という名の少女になっていた。
佳子は、やはり可愛い顔をしているが、ひどく悲しそうだった。
ところが、おろちは、意識ははっきりしているのに、身体が自分の意志と関係なく勝手に動くのだった。
自分が顔を洗い、服を着替え、化粧をするのを、他人のやることのように眺めているだけなのである。
そして、やはり、自分の意志と関係なく話し、歌う。彼女は、フーテン(ホームレス)の子供だった彼女を拾って面倒を見ていた中年夫婦と一緒に、夜の酒場で流しの歌手をしているようだった。
その後、佳子の人生は大きく変わっていくが、おろちは、やはり身体が自分のものでないという状態は変わらず、なりゆきを見守るしかなかった。

さて、おろちの置かれた状況は、異常なものと言えるのだが、興味深いものだ。
実は、それは、人間の自然な状況であると言ったら、信じてもらえないだろうが、ちょっと説明する。
普通の人は、身体と自分を一体化しているので、自分が身体を動かしていると思っている。そして、自分の意志で自由なことが出来ると感じている。
しかし、『荘子』に、こんな話がある。
影の周囲に出来る薄い影が、影に文句を言う。
「なんだってお前は、そう訳のわからない動きをするのだ?」
すると影は、
「俺は主人の動く通りに動いているのだ。だけど、主人だって、どうして自分がそんな動きをするのか分かってるとは限らないぜ」
と答える。
その通りだ。
我々は、本当は、おろちが置かれた状況と何も変わらないのだ。
そもそも、自分の意志で自由に考えているつもりであるところから間違っているのだ。
我々に自由意志なんて本当はない。何かに操られてでもいるように、考えさせられているだけなのだ。そして、実は、そのことは、科学的にもほぼ明らかなのである。
我々は、おろちも、その時の自分のことをそう言ったように、ロボットのようなものかもしれないのだ。

私は、夢の中で、おろちと同じ状態になったと自覚したことがあった。
自分の小学生時代の身体に入ったのだが、やはり、身体が勝手に行動をし、口が勝手に話す。それは、何等不自然なことではなかった。
聖者というものは、身体や心を自分であるとせず、世間で言う自分を他人のように感じているものらしい。
ニサルガダッタ・マハラジに、「あなたの首を鋭利な刃物で切ったらどうなるのか?」と尋ねると、マハラジは、「胴体が首を失う。それだけのことだ。私には何の関係もない」と答えた。
身体が自分であると感じているのは自我の働きである。
聖者は、自我が純粋になってしまっており、それを自我が消えているというのだが、そのために、自分が身体ではないということをはっきりと知っているのだ。
自我が消滅することを死というなら、そんな自殺はなかなか素敵なことなのだ。
だが、自我は、自分の滅びを決して受け入れず、そんな自殺は、普通の自殺と変わらない。いや、むしろ難しいかもしれない。
なんといっても、自我の消滅が悟りであるのだから。

初音ミク、巡音ルカのデュエット曲『ワールズエンド・ダンスホール』(作詞作曲:wowaka)は、私には、自我の美しい自殺のように感じる。
機会があったら、聴いてみて欲しいものだ(にこにこ動画などで簡単に聴けると思う。私は、DVDやAmazonのMP3ダウンロードで聴いた)。
尚、おろちのような存在は、下級仙人である尸解仙(しかいせん)、あるいは、氷解仙(ひょうかいせん)と呼ばれるものかもしれないが、『ローム太霊講和集』に、その興味深いお話がある。
また、身体や心が自分でないことを感じ、真の自己に近付くための呼吸法は次の通りだ。

「私はこれではない(出息)」
「私は誰か?(入息)」
「私は彼である(止息)」









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・ソフトウェア開発技術者
・MCSD、MCDBA資格者
・タオイスト、神秘思想家
・1日1食の完全菜食主義者
・幼児期からの引きこもり気質
・医療不要で難病を数々克服


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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萩尾望都さんの漫画紹介


半神
小学館文庫

わずか15頁の至高の傑作「半神」を含む短編集。
数奇で残酷な運命を目撃した後、「愛とは?憎しみとは?それはどう異なるのか?異なるものではないのか?」あなたの心に荘厳な疑問が残るのではないだろうか?


ウは宇宙船のウ
小学館文庫

1920年生まれのアメリカを代表するSF作家レイ・ブラッドベリの珠玉の短編作品を萩尾望都が漫画化。萩尾さんの繊細で美しい絵と感性が、ブラッドベリの作品に新しい生命を注いだ。
「みずうみ」では、12歳の少女タリーの可憐な姿と、彼女を愛するハロルドの少年の時と青年になって後の様々な表情がより深い感銘をもたらすと思う。
他の作品も素晴らしい出来であると思う。
CLAMP「CLOVER」のご紹介


CLOVER
わずか5分の劇場用アニメ作品。
CLAMPさんの名作漫画のイメージを美しい映像と音楽で描いた傑作。
主人公の12歳の神秘的な少女スゥの声は坂本真綾さん。


「CLOVER」の原作漫画を以下にご紹介します。
素晴らしい装丁、美しいカラーの扉絵。そして、神秘的な傑作と思います。
新装版も出ているようですが、私はこちらしか持っていません。しかし、こちらの本の装丁を大変に気に入っています。








私が愛する「魔法少女リリカルなのは」

ナンセンス文学(意味を持たない作品)として私が勝手に意味付けをしたのかもしれませんが、アメリカの百万円以上の自己開発プログラム以上に貴い気付きを私に与えてくれた全13話のアニメ作品。











5年の時を経て、2010年、映画化されました。
基本的には、テレビシリーズの全13話を1本の映画にしたものですが、本編では描かれなかったフェイトの生い立ちが見られます。そして、プレシアの謎の言葉も。映像はテレビシリーズよりさらにグレードアップしています。


PV since 2010/09/08
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初音ミク、コンサート映像のご紹介
ミクの日感謝祭 39's Giving DayProject DIVA presents 初音ミク・ソロコンサート~こんばんは、初音ミクです。~
[2010/3/9]東京お台場~Zepp Tokyo~

映像の品質等は、下でもご紹介する、後で開かれた米国コンサートの方が高いのですが、私は、全体としては東京コンサートの方が好きです。米国コンサートの方は、映像の緻密さのために、かえってボーカロイド達がマネキンのように感じるかもしれません。これは、証明の影響もあると思います。緑色がかった証明の東京コンサートの方が、ミクが柔らかい感じで可愛いと感じました。
また、真っ白なお姫様のような衣装に赤い大きな腰のリボンが印象的な『Alice』、『あなたの歌姫』は、米国コンサートにはありませんでした。

【ブルーレイ】


【DVD】




MIKUNOPOLIS in LOS ANGELES “はじめまして、初音ミクです”
[2011/7/2]米国ロサンゼルス~ノキアシアター~

日本のボーカロイドが、日本語の歌で、アメリカ、ロサンゼルスの大劇場ノキアシアターの満員の観客を熱狂させた歴史的コンサートだったと思います。
東京コンサートから1年4ヶ月経過しており、総合的には確実に進歩しています。
私が特に気に入ったのは、1つは、ミクとルカの素晴らしいコンビネーションのダンスパフォーマンスが楽しめる『ワールズエンド・ダンスホール』です。ルカが珍しくミニスカート姿で、ミクに勝る四肢の長さで、ピンクの髪を美しく揺らしてダイナミックに踊ります。 もう1つが、ミクが真っ白な天使の衣装で歌う『SPiCa』で、これが天使でなくてなんだろう、私はついに天使を見たのだと思いました。演奏も東京コンサートの時と変えていましたが、成功していたと思います。

【ブルーレイ】


【DVD】


尚、ブルーレイとDVDの差についてですが、私は実際、両方買い、見比べてみました。観客、演奏者、楽器などは、大画面TVで見ると、ブルーレイの方がきれいですが、肝心のミク達は、ホログラム映像そのものがそれほど細密でありませんので、別に違いはないと感じました。ブルーレイ、DVDいずれも、東京コンサートの方は上半身映像以上の場合、米国コンサートでも、顔のアップだと映像の粒子が目立ちます。 変な話ですが、iPhoneやiPod touch、あるいは、同等な画面品質を持つ小型情報端末で見た映像が最上かもしれません。ただ、これは反則行為ですので、実際にやったとは言いませんが。
本のご紹介


精神について(エマソン名著選)
ラルフ・ウォルドー・エマーソン著
日本教文社

アメリカ最高の思想家、哲学者、ラルフ・ウォルドー・エマーソンの珠玉のエッセイ集。 「歴史」「自己信頼」「償い」「精神の法則」「愛」「友情」「神」「円」「知性」が収められている。
我々自身が、歴史上の英雄、賢者、大芸術家に匹敵する偉大な人間であることを、驚くべき確信をもって語る唯一の人物であると思う。
世間の妄信を粉々に破壊し、プラトーンの頭脳、シーザーの手腕、イエスの愛の所有者である自分を見出して欲しい。
これ以上のエッセイは地上には存在しないと思う。


荘子
徳間文庫

約2400年前の中国の思想家で、老子と共に、老荘と称せられる道教(タオイズム)の始祖である荘周(荘子)の書。
世俗にあって世俗を超え、永遠の道(タオ)と一体化し、安らかで充実した人生を送る秘訣を、恐ろしく抽象的な老子と異なり、平易に説いている。
本書は、数多い荘子の現代語訳の中でも非常に読みやすく分かりやすいものであるが、中国古典の香りは損なわれていない。
本来、膨大な荘子の中心となる内編全てと、外編と雑編の内、荘子らしいものを選んで収録してある。


神統記
ヘシオドス著
岩波文庫

ホメーロスと並ぶ古代ギリシャ詩人ヘシオドスが、ムーサ(詩の女神)達より教えられたという神々の物語。
この世の始まりから、ゼウスの支配の確立、そして、主要な神々のことについて、美しい詩で語る。すぐに読める薄い本であるが、ギリシャ神話の根幹とも言える重要な書と思う。


四つのギリシャ神話(ホメーロス讃歌より)
岩波文庫

無名の詩人達が、ホメーロス風の詩で神々に捧げた賛歌の内、豊穣の女神デーメーテール、理性の神アポローン、智慧の神ヘルメース、美の女神アプロディーテーの4神へのものを収録してある。
著名な神話学者カール・ケレーニィも、ホメーロス賛歌を重視していると思えるが、名もない詩人達の作とはいえ、それぞれの神について、その特質が巧みに表現されており、実に興味深いものとなっている。
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