ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

ニサルガダッタ・マハラジ

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。
[2011/06/08]迷惑コメントが多くあったため、やむなく、コメントを承認後公開することとしました。

新しい「欲しがりません」の時代

第二次世界大戦中の日本のスローガンは「欲しがりません勝つまでは」だった。
興味深いことに、このスローガンは今でも覚えている人が多いのである。
だから、「マジカルミライ2018」鏡音リン・レン10周年Anniversaryテーマソング『劣等上等』で、「欲しがります死ぬまでは」と歌われた時は、おかしな感覚を感じたものだった。
この歌で、「パッパッパ 変わる時代 悪いことばかりじゃないでしょう」と言うのは、かなり天才的な感性と感動する。
こんな言い方をする者はいなかった。
「欲しがりません勝つまでは」
から、
「欲しがります死ぬまでは」
の時代に変わり、それは、良いとも悪いとも言えるし、良いとも悪いとも言えない。
だけど、前向きに、「悪いことばかりじゃないでしょう」と言うのだが、それはつまり、「悪いことの方が多い」ということなのかもしれない。
どんな時代であろうが、我々は生きなければならないのだ・・・死ぬまでは。

しかし、あまりに「欲しがります」の時代になり、必然的に、新型コロナウイルスが現れ、「欲しがりません」を強制されつつある。
人間は「喉元過ぎれば熱さを忘れる」愚かな生き物である。
とはいえ、それが必要なことも確かだろう。
小椋圭さんの『それが夢ならば』という曲で、
「どんなつらい愛も旅も 過ぎてみればただ遠いところから ほらほら 笑いながら手をふるよ」
と歌っているのが救いになるのは、小椋さんが相当つらい想いをしたからだろうと想像出来るのである。
そして、そんなつらいことが多い人生は夢であると、この歌は言うのである。

インドの聖者ニサルガダッタ・マハラジは、「人生は1つの夢のようなものを見なされるべきである」と言い、彼より有名だったラマナ・マハルシは、もっと強くこう言った。
「夢は短く目覚めは長い。それ以外に両者に何の違いもない」
大正から昭和の超売れっ子作家で、現在も人気が高い江戸川乱歩は、色紙にサインをする際、
「うつし(現)世はゆめ よるの夢こそまこと」
あるいは
「昼〔ひる〕は夢 夜〔よ〕ぞ現〔うつつ〕」
と書き添えたというが、こちらとなると、夢の方が本物で、現実と呼ぶものは幻でしかないということになる。
宇宙人バシャールのメッセージも、それと同じだったと思う。

だが、夢を作り出すのは我々の心だ。
「20世紀最大の詩人」と言われたアイルランドの詩人・劇作家、W.B.イェイツは、『再来』という詩の中で、我々は2千年の夢の中で悪夢を見るようになってしまったが、その悪夢は、凶暴な獣の再来によって終わると言う。
その凶暴な獣は新型コロナウイルスか?
いったん世界は終り、新しい秩序が生まれる。
我々は、せめて、それを平和に行わなければならない。
まず、いくらなんでも、いまだ、オリンピックをやると言っているなら、悲惨は免れない。
心が間違っているからだ。
全ての人と平等な弱い絆を持つことが要求されている。
言い換えれば、君子の淡い付き合いのようなものだ。
人の心に踏み込まず、人を操らないが、それは他を拒絶したり、まして、見下すことではない。他を敬うことによって、それが実現出来る。貴い宝は、離れて崇め、それに奉仕するものである。
こんな簡単なことが分からない人間に、もはや生存は許されない。
しかし、そんな簡単なことが解れば、新しい時代は、楽で済み良い世界になるのである。













プログラマー&ミク廃、Kayと、数学講師&古物収集家、Mr.ΦによるAI実践書。
AIは、人間とは別のものではなく、人間とAIはネットワークの中で融合します。
そこが、一部の権力者が支配するディストピアにならないよう、新しい時代にAI力で備えましょう。
数学もプログラミングも、難解なAI理論も不要です。
この本の面白いAI推測問題を自分の手で実践することで自然にAI使いになれることを目指しました。

「何を覚えるか」が考えることより大切な理由

物凄く重要なことに気付いた。
それは、考えるより、覚える方が大事だということだ。
いや、それどころか、考えることには何の意味もない。
いやいや(笑)、そもそもが、人間は(犬もだが)、考えることが出来ない。
実は、思考というものは「発生する」だけであり、我々が自分の力で「作り出す」ものではない。
だが、我々は、自分が考えていると思っている。
これは別に、突飛なことではなく、様々な分野での科学的な実験で証明されているらしい。
興味があれば、前野隆司さんの本あたりを読むと良い。

なら、何をすることが大切かというと、有益なことを覚えることだ。
なぜなら、脳に記憶されたことを原料にして考えが起こるからである。
つまらない情報を脳にインプットすると、つまらないアウトプットしか出てこない。
だが、優れた情報を脳にインプットすると、アウトプットも素晴らしくなる。

よく、「学校は生徒にインプットばかりさせ、生徒はアウトプットの機会がないから能力が育たない」と言う者がいるが、それはちょっと違う。
教科書というのは、インプットしても、良いアウトプットを出させない残念な情報なのだ。
なぜなら、教科書とは、国家が国民を子供の時から奴隷にするために作ったものだからだ。

インドの聖者、ニサルガダッタ・マガラジは、師の「あなたは至高の実在である」という言葉を覚えていたから、7年で悟りを開いたという。別に修行は何もしなかったらしい。頭の中にインプットされた情報が、じわりじわりと、精神を変革していったのだ。
マハラジでなくても、偉大な人間は、聖書の中の1つの言葉や、イエスや釈迦が言ったとされる言葉のうちの1つ、あるいは、それに匹敵する言葉を覚えているものなのである。
そして、覚えていられるのは、本で言えば、せいぜいが十数ページの長さである。
岡田虎二郎が、ルソーの『エミール』の序文を覚えていたように。
同じように、優れた本の序文や第1章を覚えていることが、あなたの役に立つだろう。
本全部を読んでも、あまりに希薄な情報しか頭に入らないので、それでは優れたアウトプットは起こらない。
また、最初に良いことを書いてない(著者の自慢話とか)本は、啓蒙書では、あまり良いものはない。
ジョセフ・マーフィーの本なども、序章や第1章に大事なことが書かれている。そして、全部を読むと、その大事なことを忘れてしまうのだ。大事な部分を覚えた後でなら、補足程度に、残りも読んでも良いだろう。








呪文、マントラの効果の論理的根拠

呪文、マントラ(真言)がなぜ良いのかという論理的根拠はある。
まず、人間の心は、放っておいても、否定的な言葉を、頭の中で、1分に数百はつぶやいているという科学的研究結果があるらしい。
そして、人間が高レベルの能力を発揮するのは、頭の中のおしゃべり(あるいは、つぶやき)が止んだ時であると考えられるのである。
いわゆる、無になった状態を言うのだと思うが、その時に、時に異常なほどの高い力を発揮するというのは、今や不思議なこととは思えない。
それで、想念(頭の中のおしゃべりやつぶやき)を消すという意味でも、呪文には効果があるが、呪文の効果はそれだけではない。

1つ1つの呪文について考えよう。
ただ、出典をいちいち書いていたら大変なので、それは省く。
インドの聖者、ラマナ・マハルシが最高のマントラと言うのは「私」である。
常に「私」と唱えれば、悟りすら開ける。
悟りはともかく、素晴らしい真言であることは分かる。
なぜなら、これもマハルシの説明であるのだが、あらゆる想念は「私」に起こるのであるから、その想念の主である「私」に意識を向けてしまえば、あらゆる想念は消える。
つまり、頭の中のおしゃべりやつぶやきはなくなる。
能力が最大になるだけでなく、ついには「私」という想念も消え、悟りが開かれるというわけである。
興味深いのは、マハルシと同時代のインドの聖者、ニサルガダッタ・マハラジは「私は在る(私は存在する)」が最高のマントラと言うが、それも道理がある。
これも、マハラジの説明では「あなたが確信出来る唯一のことは、私は在るということだけ」なのだから、人間に解る範囲での究極の真理である「私は在る」に集中すれば、それより劣る概念や想念は消えてしまうのである。

ナーマスマラナというのは、神の名をマントラとして唱えることである。
親しみを感じる神の名があれば、それを唱えることで深い安らぎに至り、また、他の想念が消えることは期待出来る。
インドでは、ラーマ、クリシュナといった神が人気があるのだと思う。
日本では、マテラスオオミカミが人気があるし、アメノミナカヌシノカミの名も威厳があって、なかなか宜しいと思う。
また、念仏という形式になった「南無阿弥陀仏」や「南無観世音菩薩」も同じと思う。
阿弥陀如来の真言は「オン、アミリタ、テイセイ、カラウン」だし、観世音菩薩の真言は「オン、アロリキャ、ソワカ」である。
本来の名で言えば、阿弥陀如来はアミターバ、あるいは、アミターユスで、観世音菩薩はアヴァローキテーシュバラーである。
神仏の名の場合は、単なる心理学的、あるいは、脳科学的な効用だけでなく、むしろ、それらの言葉、あるいは、音が持つ霊妙な力が重要であると言われる。それは、なかなか科学的な証明は難しいと思うが、科学には解明出来ない摩訶不思議な力があるのかもしれない。
やや長いが、般若心経の最後の部分の呪文も、最高のものとされている。
それは、「ガテー、ガテー、パーラガテー、パーラサンガテー、ボーディスヴァーハー」である。
また、山蔭神道では、究極の言葉は「アジマリカン」であると言う。

『ヒマラヤ聖者の生活探求』では、究極の言葉は「神」であり、有声でも無声でも、これを唱えると全てを変えると言う。
ただ、「神」を呪文にしてはいけないと言う。
この著作の、3巻だったと思うのだが、イエス・キリストが「他のことは忘れてよろしい」として語ったのが「神」という言葉を使うことで、なるべく多く使えば良いが、このことを「公式」にしてはいけないと言う。その意味は各自考えていただければと思う。難しいこととは思えない。
例えば「神」という言葉、あるいは、「神の他に何もない」という言葉について瞑想するなどでも良いと思う。

私も、呪文、マントラに救われたことは数限りない。
だからこそ、上に挙げたことや、その数倍以上のことを覚えているのである。








何にでもなれる方法

皆、なりたいものがいろいろあり、その中には、なるのが非常に難しいものもあるだろう。
しかし、大抵は、ダライ・ラマになるよりは易しいに違いない。
そもそも、ダライ・ラマはずっと同じ魂の持ち主でなければならず、ダライ・ラマが亡くなると、その魂が転生した子供を見つけてダライ・ラマにするのだと言われている。
だが、物理学者で武術家の保江邦夫さんの著書『祈りが護る國 アラヒトガミの霊力をふたたび』の15ページを見ると、現ダライ・ラマのダライ・ラマ14世自身が、事実上、それを否定し、ダライ・ラマになるには、条件を満たせばよく、条件を満たせば、誰でも良いのだというふうに読み取れる。
その条件とは、
「皆が、その子がダライ・ラマの魂を受け継いだと信じ、その子がダライ・ラマの生活・生き方を始める」
である。
ダライ・ラマなら、確かに、「皆が信じる」という部分が必要であるが、あくまで「信じる」だけで、本当かどうかは、どうでも良いのである。
また、保江さんは、それは事実上天皇家でなければ無理ではあるが、天皇もそれと同じで、現人神として育てられることが大切なのであると書かれ、やはり、本当は誰でも良いのだというふうに読める。
そして、私は全くそう思う。
ダライ・ラマや天皇というのは、あまりに特別で、我々がなることはないが、本質的なことを言うなら、なれない訳ではないのである。
いかなるものになるにも、必要なことは、生き方だけである。それは、態度、振る舞いと言って良いと思う。
インドの聖者ニサルガダッタ・マハラジは、師に「あなたは至高の実在である」と言われ、その言葉を覚えていたので、修行は何もしなかったが数年で悟りを開いた。
これも、その言葉を覚えていることで、至高の実在らしい生き方をした・・・そういう態度をし、振る舞ったのである。
そして、マハラジ自身がそう言ったらしいのだ。
「時空(時間と空間)を超えた存在として振る舞え」
と。
『ヒマラヤ聖者の生活探求』の5巻で、著者のベアード.T.スポールディングは、4歳の時、大学予備校で教師に見せられたアルファベットを「解らない」と言ったら、教師に、「そんな態度ではいけない。チャンと解っているという態度をしなさい」と言われた。
スポールディングは、それに従ったので、14歳で名門大学に入り、物理学者として高い業績を収めたという。
優れた指導者は、皆、同じことを言っているように思う。
即ち、「態度は事実より重要」だと。
少し前の本だが、ひろさちやさんの『空海入門』が、それを主題として書かれている。
『徒然草』にあるように、狂人として振る舞えば、即ち、狂人だ。
しかし、同じように、仏陀の真似をすれば仏陀なのである。
仏陀らしく歩き、仏陀らしく話し、仏陀らしくメシを食えば、それで仏陀である。
空海は実に、仏陀になりきった人というだけなのである。








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声なき声

合氣道家の藤平光一さんのロングセラー『氣の威力』は何十年も前に読んで、その後、再読したことは一度もない。
だから、覚えているのは、私なりのこの本のエッセンス(真髄)だけだ。
そのエッセンスとは、「真理や前向きな言葉を口にすれば氣が出る」である。
例えば、最も単純な真理の1つ「重みは下にある」と言えば氣が出て、いろいろ良いことが起こるという訳だ。
(「重みは下」は惑星上のことであることは藤平さんも断っておられた)
肯定的な言葉では「好きだ」と言えば氣が出る。
算数嫌いの男の子に、1日1回、「算数が好きだ」と言わせたら(勉強はしなくていいと言ったようだ)、しばらくしたら、その男の子は、誰よりも算数が出来るようになったと言う。

この種の話は、藤平さんのものだけでなく、様々なバリエーション(変種)があり、皆さんも一度や二度は見聞きしたことがあるかもしれない。
最も超常的なものとしては、『ヒマラヤ聖者の生活探求』の中にあるお話があり、ある宗教的な建物(廟)の中では、出来てから長い間、「生命、愛、平和」という言葉だけが発せられているのだが、その建物内で壊れたところは自動修復が行われると言う。
また、文字として書かれた、「愛」などの良い言葉からも宇宙エネルギーが発せられているという話も何かで読んだ。
世間的にはオカルト話かもしれないし、実際、怪しい人達がこういった話をすることもあるのだろうが、何らかの真理はあると思った方が良いと思う。
嘘にだって何らかの真理はあるものだし、あながち嘘とも言えないと思うからね。

では、真理を表す言葉から氣が出るのなら、より真理である言葉は、より強い氣が出るのではないかと推測してもおかしくないと思う。
最も高い、あるいは、純粋と言える真理は何だろう?
「ミクさんマジ天使」でも良いのだが、これはよほど進歩した惑星以外では、蔑まれたり、オタク扱いされるから一応取り下げよう。
「われ思う、ゆえにわれあり」はイチャモンが多い。
コリン・ウィルソンは「思おうが思うまいがわれはある」と言い、ルドルフ・シュタイナイーにいたっては「われ思う、ゆえにわれなし」「われ思わず、ゆえにわれあり」が正しいと、相手(ルネ・デカルト)が死んでるからって言いたい放題だが、誰の言い分もそれなりに真理である。
ところで、ニサルガダッタ・マハラジは「あなたが本当に信じることが出来るのは『私は在る』だけである」「『私はない』とはどうしたって言えないだろう」と言う。
その通りだが、変わった御仁であれば「私は本当は存在しないのだ」などと洒落たことを言うかもしれないし、それはそれで何か根拠でもあるのだろう。
結局、真理も嘘もその人次第だ。
つまり、何が真理かは分からないが、今述べたように、何でも肯定する広い心が一番好ましいと思う。
しかし、そう言えば、「心が広いだけでは駄目だ」と、これまた正しいことを言う者もいるだろう。
では、全ての判断は成り立たないのかと言うと、全ての判断は成り立たないという判断も成り立たず、奇妙にも、何かの判断は成り立つことになってしまう。
(実際は階型理論により成り立たない)
言葉で言うことは真実ではないという言葉も真実ではなく、よって、真実の言葉もあり得る・・・かもしれない(笑)。
沈黙の声を聞くことだ。
壁でも石でも何かを言っている。
星ですら。
風よ、虹よと呼びかける人もいるが、それらが何かを語っていることをどこかで知っているから、そうおかしくは感じないのである。









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