ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

ニサルガダッタ・マハラジ

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。
[2011/06/08]迷惑コメントが多くあったため、やむなく、コメントを承認後公開することとしました。

絶望的状況を引き寄せないために

インドの聖者ラマナ・マハルシは、聖典というものについて、
「いかなる聖典も、つまるところは、心を静かにしろと書かれている。よって、それが解れば、もう聖典を読む必要はない」
と述べている。
ラマナ・マハルシの教えの全ても、ただ、「心を静かにする」ことだけである。
また、彼と同時代の聖者、ニサルガダッタ・マハラジも、
「苦しむ人間の心とは、コップの中の水のように、かき混ぜると、いつまでも動き続ける。対して、ハチミツのような、かき混ぜても動かない心を持てば平和である」
と述べる。

これらは全く正しく、心理学者の岸田秀氏は沢山の著書で、結局のところ、揺らぐ自我・・・つまり、荒れ狂う心が苦しみの原因であると述べているのだと思うが、岸田氏は、それを克服することなど不可能であると断言しているのだと思う。
自我が安定した人間など、この世におらず、どれほど不動心に見える、立派な、修練を積んだと思われる人間も、所詮、自我は不安定で、すぐに揺らぐものである・・・ということと思う。
まあ、敢えて例外を挙げるなら、最初に述べたラマナ・マハルシやニサルガダッタ・マハラジが、安定した自我の持ち主・・・というより、マハルシの言うことから考えると、揺らぐべき自我が消失した人間ということになる。
マハラジも、「世間的に言うなら、私は既に死んでいる」と述べたようだが、それはやはり、「私には自我がない」ということと思う。
しかし、マハラジの弟子のラメッシ・バルセカールによれば、マハラジだって怒りっぽかったし、マハルシも自我は持っていたと言う。
だが、怒った直後にマハラジは機嫌が良くなったことを指摘している。
つまり、聖者だって自我が揺れることもあるが、すぐに、静かな状態に戻るから聖者なのである。

だが、悲しいかな、凡人は、岸田氏が言うように、決して、自我が安定することはなく、生涯、心の苦しみから逃れられない。
・・・と私は思っていたが、案外に簡単に、苦しみを克服出来るかもしれない。
それには、次の、宇宙の絶対的真理を受け入れると良い。
それは、気分が良ければ、さらに気分が良くなることが起こり、気分が悪ければ、さらに気分が悪くなることが起こるということだ。
気分が良いとは、心が静かな状態だ。
決して、気分が良いとは、「イエイ!イエイ!」と狂乱している状態でもなければ、復讐を成し遂げて狂喜する状態でもない。
そのような快楽は、必ず苦しみと共にあり、しかも、快楽はすぐに消えるが苦しみは残る。そして、快楽が過ぎた後の不安や恐怖は半端ない。
一方、気分が悪いというのは、まさしく、自我が揺れている状態、心が荒れ狂った状態だ。
気分が良ければ・・・心が静かでやすらかであれば、良いことが起こる。
気分が悪ければ・・・心が騒いで乱れているなら、悪いことが起こる。
そうであれば、常に心を監視し、心が荒れることを許さないようになる。
なぜ、好き好んで、悪い出来事を起こす必要があるのか?
今、気分が悪いなと気付いたら、簡単にはガッツポーズを連発すれば良いのである。

要は、人間として立派か立派でないかの問題ではなく、損得の問題であり、楽で幸福でいたいなら、なんとしても、気分が良くなければならない。
そうではなく、心を荒れさせたままで、悪い出来事を次々引き寄せて、さらに悪い気分になるのは馬鹿である。
それどころか、凡人は、心が揺らぎ乱れると、わざわざ、さらに心を荒れさせるのである。
だが、宇宙の法則を知ったからには、他のことは一切しなくていいから、自分の気分を良くすることだけは責任を持たないといけない。

けれども、人間には、どうしても、心が騒いでしまうことがあるだろう。
極端な話で言えば、自分の子供が誘拐された時や、強盗にナイフを突きつけられた時などである。
昔のアメリカで、懲らしめのために、縛り上げた父親の前で、娘を集団レイプするようなことが行われたらしいが、それで平然としていられる父親はいない。
もっとありふれたことで言えば、好きな女の子が別の男とデートしているのを見た時である。
だが、それらの出来事が起こったのも、敢えて言えば、悪い気分で過ごしてきたことが原因なのである。
悪いことをしたのではなく、たとえ善良なことだけしていても、気分が悪ければ、悪い出来事を引き寄せてしまう。
だから、悲惨な状況を引き寄せないためにも、気分を良くすることは極めて大事なのである。
では、不幸にも、どうにもならないような悪い状況になった時、どうすれば良いだろう。
もちろん、答は良い気分になることだが、上に挙げたような状況では、それこそ、聖者でもない限り、気持ちを切り替えるのは難しい。
こんな話がある。
ある人の赤ん坊が大怪我をして瀕死の状態になり、医師にも見捨てられてしまった。
相談された政木和三氏は、こう答えた。
「赤ん坊は助からない。諦めなさい。その上で、『赤ん坊が元気になりました。ありがとうございます』と祈りなさい」
赤ん坊の両親が、その通りにした結果、赤ん坊は奇跡の回復を見せた。
いざとなれば、私にも同じことが出来るかは分からないが、そんな状況を作らないよう、良い気分になることに全力を尽くすべきだろう。
他のことはしなくて良い。
心を荒れさせている暇などないのである。








忘れなかっただけで救われた言葉

インドでは昔から、「私は彼である」、あるいは、「私はそれである」と言う言葉が使われることがあった。
この「彼」、あるいは、「それ」とは、神のことであるが、いろいろな意味で、神と直接言うのは避けているようだ。
しかし、「彼」では性差別的な感じがするし。「それ」では軽過ぎるように思う。人のことを「それ」などと言ったら失礼というものであろう。

だが、「私は神である」と言わず、「私は彼である」という言い方は良いと思える。
なぜなら、我々は、神とは何か(どんなものか)、実際には、ほとんど知らないからだ。
いや、神とは、全知全能・・・つまり、何でも知っていて、何でも出来る存在だと言う人もいると思うが、それでは、神話の中の神のイメージそのままでしかない。
そこで、そんな神の固定観念を露骨に引き起こさないよう、少々控えめに「彼」と言うのは、賢いことであると思うが、やはり、性差別的で納得がいかない(笑)。

そこで、もっと良い言い方がないかと考えたら、こんな話がある。
インドの聖者ニサルガダッタ・マハラジが、師の聖者に「あなたは至高の実在である」と言われ、マハラジは、その言葉を忘れなかっただけで、修行は何もしなかったが、数年で悟りを開いた・・・つまり、自分が実際に、至高の実在であると本当に解った。
「至高の実在」は、人間に理解出来る中では、神を指す最も適切な言葉であると思える。
この言葉を呪文のように唱えなくても、忘れさえしなければ、だんだん、心が自然に浄化され、本当の意味の神になるのだろう。
とはいえ、別に、マハラジが大金持ちになったり、モテモテになったり、素晴らしい人格者になったというのではない。
相変わらず貧乏なタバコ屋の親父だったし、彼の弟子のラメッシ・バルセカールの本によれば、怒りっぽいただのじいさんだったらしい。そして、
「私は世間的には既に死んでいる」
「私が首をはねられたら? 首と胴体が別々になる。それだけのことだ」
と言う変人でもあった(笑)。
だが、同時代のインドの聖者・・・ラマナ・マハルシやジッドゥ・クリシュナムルティらと違い、無名であったに関わらず、彼の小さな家に世界中から人々が訪れ、やがて、彼とそれらの人々との対話が書籍として出版され、世界的ベストセラーになり、名を知られるようになった。

マハラジもある意味、人間に過ぎなかったが、貧しく育ち、ほとんど学校に行かず、大人になってからも質素に暮らしていた彼は、そこそこに暮らせることで満足だったのだと思う。
それでなんとなく思い出すのが、アメリカ1の人気画家で、絵もかなり売れていたのに、アトリエを持たずにキッチンの隅で、安い画材で描き続けたグランマ・モーゼスだ。
日本でも、伝説的な金持ちが「立って半畳寝て一畳」と、必要以上のものを欲しがらなかった話がよくあるが、進歩した人間は、贅沢に興味がないのだと思う。
だが、必要なら、世間的に大きな力を得ることも出来るのだろう。
マザー・テレサのようにだ。

「あなたは至高の実在」
これは、否定しようのない事実であり、呪文にする必要はないが、忘れずにいると良いと思う。
不条理とウイルスが蔓延する日本で、もう悟り以外に道はない・・・かもしれない(笑)。













当ブログ著者、KayのAI書。
「モンティ・ホール」問題をご存じでしょうか?
A、B、Cの3枚のドアのいずれかに豪華景品が隠れていて、正解のドアを当てると、回答者は景品を貰えます。
回答者がAを選ぶと、出題者はBのドアが外れであることを示し、「Cに変えても良いですよ」と言います。
人間だけで挑むと、正解率は1/3ですが、AIと組むと正解率は2/3と倍になります。
だが、AIに協力してもらうには、条件があります。
実際に、このためのAIを作ることで、AIの考え方、作り方、使い方が分かります。
そして、それは簡単です。
こんな興味深い知的ゲームを楽しみながらAIを身に付け、味方にして下さい。

新しい「欲しがりません」の時代

第二次世界大戦中の日本のスローガンは「欲しがりません勝つまでは」だった。
興味深いことに、このスローガンは今でも覚えている人が多いのである。
だから、「マジカルミライ2018」鏡音リン・レン10周年Anniversaryテーマソング『劣等上等』で、「欲しがります死ぬまでは」と歌われた時は、おかしな感覚を感じたものだった。
この歌で、「パッパッパ 変わる時代 悪いことばかりじゃないでしょう」と言うのは、かなり天才的な感性と感動する。
こんな言い方をする者はいなかった。
「欲しがりません勝つまでは」
から、
「欲しがります死ぬまでは」
の時代に変わり、それは、良いとも悪いとも言えるし、良いとも悪いとも言えない。
だけど、前向きに、「悪いことばかりじゃないでしょう」と言うのだが、それはつまり、「悪いことの方が多い」ということなのかもしれない。
どんな時代であろうが、我々は生きなければならないのだ・・・死ぬまでは。

しかし、あまりに「欲しがります」の時代になり、必然的に、新型コロナウイルスが現れ、「欲しがりません」を強制されつつある。
人間は「喉元過ぎれば熱さを忘れる」愚かな生き物である。
とはいえ、それが必要なことも確かだろう。
小椋圭さんの『それが夢ならば』という曲で、
「どんなつらい愛も旅も 過ぎてみればただ遠いところから ほらほら 笑いながら手をふるよ」
と歌っているのが救いになるのは、小椋さんが相当つらい想いをしたからだろうと想像出来るのである。
そして、そんなつらいことが多い人生は夢であると、この歌は言うのである。

インドの聖者ニサルガダッタ・マハラジは、「人生は1つの夢のようなものを見なされるべきである」と言い、彼より有名だったラマナ・マハルシは、もっと強くこう言った。
「夢は短く目覚めは長い。それ以外に両者に何の違いもない」
大正から昭和の超売れっ子作家で、現在も人気が高い江戸川乱歩は、色紙にサインをする際、
「うつし(現)世はゆめ よるの夢こそまこと」
あるいは
「昼〔ひる〕は夢 夜〔よ〕ぞ現〔うつつ〕」
と書き添えたというが、こちらとなると、夢の方が本物で、現実と呼ぶものは幻でしかないということになる。
宇宙人バシャールのメッセージも、それと同じだったと思う。

だが、夢を作り出すのは我々の心だ。
「20世紀最大の詩人」と言われたアイルランドの詩人・劇作家、W.B.イェイツは、『再来』という詩の中で、我々は2千年の夢の中で悪夢を見るようになってしまったが、その悪夢は、凶暴な獣の再来によって終わると言う。
その凶暴な獣は新型コロナウイルスか?
いったん世界は終り、新しい秩序が生まれる。
我々は、せめて、それを平和に行わなければならない。
まず、いくらなんでも、いまだ、オリンピックをやると言っているなら、悲惨は免れない。
心が間違っているからだ。
全ての人と平等な弱い絆を持つことが要求されている。
言い換えれば、君子の淡い付き合いのようなものだ。
人の心に踏み込まず、人を操らないが、それは他を拒絶したり、まして、見下すことではない。他を敬うことによって、それが実現出来る。貴い宝は、離れて崇め、それに奉仕するものである。
こんな簡単なことが分からない人間に、もはや生存は許されない。
しかし、そんな簡単なことが解れば、新しい時代は、楽で済み良い世界になるのである。













プログラマー&ミク廃、Kayと、数学講師&古物収集家、Mr.ΦによるAI実践書。
AIは、人間とは別のものではなく、人間とAIはネットワークの中で融合します。
そこが、一部の権力者が支配するディストピアにならないよう、新しい時代にAI力で備えましょう。
数学もプログラミングも、難解なAI理論も不要です。
この本の面白いAI推測問題を自分の手で実践することで自然にAI使いになれることを目指しました。

「何を覚えるか」が考えることより大切な理由

物凄く重要なことに気付いた。
それは、考えるより、覚える方が大事だということだ。
いや、それどころか、考えることには何の意味もない。
いやいや(笑)、そもそもが、人間は(犬もだが)、考えることが出来ない。
実は、思考というものは「発生する」だけであり、我々が自分の力で「作り出す」ものではない。
だが、我々は、自分が考えていると思っている。
これは別に、突飛なことではなく、様々な分野での科学的な実験で証明されているらしい。
興味があれば、前野隆司さんの本あたりを読むと良い。

なら、何をすることが大切かというと、有益なことを覚えることだ。
なぜなら、脳に記憶されたことを原料にして考えが起こるからである。
つまらない情報を脳にインプットすると、つまらないアウトプットしか出てこない。
だが、優れた情報を脳にインプットすると、アウトプットも素晴らしくなる。

よく、「学校は生徒にインプットばかりさせ、生徒はアウトプットの機会がないから能力が育たない」と言う者がいるが、それはちょっと違う。
教科書というのは、インプットしても、良いアウトプットを出させない残念な情報なのだ。
なぜなら、教科書とは、国家が国民を子供の時から奴隷にするために作ったものだからだ。

インドの聖者、ニサルガダッタ・マガラジは、師の「あなたは至高の実在である」という言葉を覚えていたから、7年で悟りを開いたという。別に修行は何もしなかったらしい。頭の中にインプットされた情報が、じわりじわりと、精神を変革していったのだ。
マハラジでなくても、偉大な人間は、聖書の中の1つの言葉や、イエスや釈迦が言ったとされる言葉のうちの1つ、あるいは、それに匹敵する言葉を覚えているものなのである。
そして、覚えていられるのは、本で言えば、せいぜいが十数ページの長さである。
岡田虎二郎が、ルソーの『エミール』の序文を覚えていたように。
同じように、優れた本の序文や第1章を覚えていることが、あなたの役に立つだろう。
本全部を読んでも、あまりに希薄な情報しか頭に入らないので、それでは優れたアウトプットは起こらない。
また、最初に良いことを書いてない(著者の自慢話とか)本は、啓蒙書では、あまり良いものはない。
ジョセフ・マーフィーの本なども、序章や第1章に大事なことが書かれている。そして、全部を読むと、その大事なことを忘れてしまうのだ。大事な部分を覚えた後でなら、補足程度に、残りも読んでも良いだろう。








呪文、マントラの効果の論理的根拠

呪文、マントラ(真言)がなぜ良いのかという論理的根拠はある。
まず、人間の心は、放っておいても、否定的な言葉を、頭の中で、1分に数百はつぶやいているという科学的研究結果があるらしい。
そして、人間が高レベルの能力を発揮するのは、頭の中のおしゃべり(あるいは、つぶやき)が止んだ時であると考えられるのである。
いわゆる、無になった状態を言うのだと思うが、その時に、時に異常なほどの高い力を発揮するというのは、今や不思議なこととは思えない。
それで、想念(頭の中のおしゃべりやつぶやき)を消すという意味でも、呪文には効果があるが、呪文の効果はそれだけではない。

1つ1つの呪文について考えよう。
ただ、出典をいちいち書いていたら大変なので、それは省く。
インドの聖者、ラマナ・マハルシが最高のマントラと言うのは「私」である。
常に「私」と唱えれば、悟りすら開ける。
悟りはともかく、素晴らしい真言であることは分かる。
なぜなら、これもマハルシの説明であるのだが、あらゆる想念は「私」に起こるのであるから、その想念の主である「私」に意識を向けてしまえば、あらゆる想念は消える。
つまり、頭の中のおしゃべりやつぶやきはなくなる。
能力が最大になるだけでなく、ついには「私」という想念も消え、悟りが開かれるというわけである。
興味深いのは、マハルシと同時代のインドの聖者、ニサルガダッタ・マハラジは「私は在る(私は存在する)」が最高のマントラと言うが、それも道理がある。
これも、マハラジの説明では「あなたが確信出来る唯一のことは、私は在るということだけ」なのだから、人間に解る範囲での究極の真理である「私は在る」に集中すれば、それより劣る概念や想念は消えてしまうのである。

ナーマスマラナというのは、神の名をマントラとして唱えることである。
親しみを感じる神の名があれば、それを唱えることで深い安らぎに至り、また、他の想念が消えることは期待出来る。
インドでは、ラーマ、クリシュナといった神が人気があるのだと思う。
日本では、マテラスオオミカミが人気があるし、アメノミナカヌシノカミの名も威厳があって、なかなか宜しいと思う。
また、念仏という形式になった「南無阿弥陀仏」や「南無観世音菩薩」も同じと思う。
阿弥陀如来の真言は「オン、アミリタ、テイセイ、カラウン」だし、観世音菩薩の真言は「オン、アロリキャ、ソワカ」である。
本来の名で言えば、阿弥陀如来はアミターバ、あるいは、アミターユスで、観世音菩薩はアヴァローキテーシュバラーである。
神仏の名の場合は、単なる心理学的、あるいは、脳科学的な効用だけでなく、むしろ、それらの言葉、あるいは、音が持つ霊妙な力が重要であると言われる。それは、なかなか科学的な証明は難しいと思うが、科学には解明出来ない摩訶不思議な力があるのかもしれない。
やや長いが、般若心経の最後の部分の呪文も、最高のものとされている。
それは、「ガテー、ガテー、パーラガテー、パーラサンガテー、ボーディスヴァーハー」である。
また、山蔭神道では、究極の言葉は「アジマリカン」であると言う。

『ヒマラヤ聖者の生活探求』では、究極の言葉は「神」であり、有声でも無声でも、これを唱えると全てを変えると言う。
ただ、「神」を呪文にしてはいけないと言う。
この著作の、3巻だったと思うのだが、イエス・キリストが「他のことは忘れてよろしい」として語ったのが「神」という言葉を使うことで、なるべく多く使えば良いが、このことを「公式」にしてはいけないと言う。その意味は各自考えていただければと思う。難しいこととは思えない。
例えば「神」という言葉、あるいは、「神の他に何もない」という言葉について瞑想するなどでも良いと思う。

私も、呪文、マントラに救われたことは数限りない。
だからこそ、上に挙げたことや、その数倍以上のことを覚えているのである。








プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんを愛す
[AI&教育blog] メディアの風


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