ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

ニサルガダッタ・マハラジ

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
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呼吸法で引き寄せを行う(朝の記事の補足)

悟りを開くと、物事の区別くらいはするかもしれないが、優劣はつけない。
その区別もしているかどうか分からないほどで、例えば、自分の親や子と他人とを、それほど区別せず、同じように見ている。
必要な買い物くらいはするが、見せびらかすためや満悦するために買うことはないので、一切の広告宣伝に全く影響されない。
だから、実際は、どんな引き寄せでも出来るが、大金を持ったり、豪邸や高級車を得ようとはしない。
不幸な人に寄りそうことはしても、必ずしも救わない。
イエスは、人々を目覚めさせ、人類を救うために、あえて神のような力を見せたが、その目的を果たすために死ぬことになっていた。

ラマナ・マハルシは、悟りを開くには、心を滅ぼす必要があると言った。
呼吸の制御で、一時的に悟りに近付いても(心が希薄になっても)、呼吸が元に戻れば、心は戻って来る。
だが、悟りを開き、心を完全に消したら、上に述べたような状態になるのであるが、それは、俗人的には楽しいことではない。
だから、ラマナ・マハルシは、呼吸の制御の価値をやや低く述べたが、引き寄せ自在になって、俗人的な意味で人生を楽しむためには、呼吸の制御は有益なのである。
今朝も言った通り、呼吸数を減らすことで、心をクリアにし、引き寄せ自在になる。
それには、ある程度の訓練をして、必要な時間、呼吸数をかなり少なくすることが必要だ。
だが、呼吸が元に戻れば、やはり凡人である。

あの政木和三さんだって、確かに、小学生の時、1分で1回の呼吸が出来るようになり、ほとんど超人化したが、性格は悪かったと自分で言われていた。
政木さんは、一時的に心が消えた状態の時は、大発明をしたり、予言をしたり、その他にも、様々な超能力を発揮したが、普段は我の強い、レベルの低い人間だったという。
また、こんな話もある。
ラマナ・マハルシと同時代の聖者として知られるニサルガダッタ・マハラジの弟子、ラメッシ・バルセカールは、師のマハラジは明らかに心(自我)があったし、それは、ラマナ・マハルシも同じであると言ったらしい。
そして、私も、政木和三さんとは、何度もゆっくり話したが、微かながら、やはり、政木さんにも心はあったと思う。
だから、普通の人と比べれば、全く控え目なのだが、自慢もすれば、エッチな話もするのである。

だから、我々は、マハルシのように、呼吸の制御を軽く見ず、これに励んで、引き寄せの力を高め、人生を楽しむと良いと思う。
そうすれば、後で、悟りにも近付き易くなると思う。
呼吸制御の方法に関しては、朝の記事の該当部分を引用すると、

----- 引用開始 -----
呼吸数を減らすコツは、やや多めに息を吸い、細く長く吐くことである。
訓練という意味では、心の中で「ナ」と言って息を吸い、「ダーーーーーム」で細く長く息を吐くと良い。
また、様々な加速学習の研究では、息を吸っていったん止めると、記憶力などの能力が向上することが分かっているという。
それも取り入れると良いかもしれない。
----- 引用終了 -----

となる。
他に、W.E.バトラーの『魔法入門』や『魔法修行』には、「4の呼吸」といって、4つ数えながら息を吸い、2つ数える間止め、4つで吐き、また、2つの間止めるというものがある。
加速学習関連では、4つ数えながら吸い、4つ止め、4つで吐くとか(吐いた後では息を止めない)、同じことを6つでやるというものもあったが、手元に本がない。
しかし、これらは、ゆっくり静かに呼吸し、呼吸数を減らすことをし易くするための工夫であるというだけのことだ。
私の場合は、最初は、上に書いた「ナ・ダーム」の呼吸をしていたが、今は、少し多く吸って、細く長く吐くということを、いつでもどこでもやっている。








引き寄せを止める考え方

引き寄せの純粋にして明晰な原理は「想念を消す」ことである。
しかし、これは人々を混乱させる。
想念を起こすのはエゴ(自我)である。
そして、インドの聖者達はエゴを持たないと言われている。
しかし、インドの聖者ニサルガダッタ・マハラジの弟子のラメッシ・バルセカールによれば、師のマハラジは怒りっぽかったと言う。
それは、エゴがあるということであり、想念があるということだ。
もっと有名なインドの聖者ラマナ・マハルシは、まさに「無の人」と思える。
マハルシ自身、エゴを消滅させるべきと教えた。
だが、マハルシの幼馴染の者がマハルシを訪ね、昔の話をすると、マハルシは、覚えていると言うし、他にも、マハルシは愉快な思い出を楽しそうに話すことがあった。
それは、想念がなければ出来ることではない。

つまり、人間である限り、聖者であろうがエゴはある。
この問題に関し、賢者達はいろいろ説明している。
釈迦は、「聖者は想念の連鎖を起こさないだけだ」と言った。
つまり、簡単な例で言えば、聖者だって殴られたら怒るかもしれないが、普通の人のように、いつまでも恨んだりしないのである。
上で、インドの聖者ニサルガダッタ・マハラジが怒りっぽかったという話を取り上げたが、マハラジは怒っても、すぐに上機嫌になったという。
つまり、釈迦の言う通りで、聖者は粘着質でないというわけだ。

また、ジョージ・アダムスキーは面白いことを述べている。
「神を心より上位に置かないといけない」
つまり、エゴ(心)より潜在意識(神)の方が重要だということだが、実際は、「比較にならないほど重要」とくらい言わないといけない。
ところが、引き寄せや潜在意識の本には、「潜在意識には善悪が分からない」などと書かれていて、潜在意識を軽く思わせてしまうのだ。
これも、正しくは、「潜在意識はあまりに強大過ぎて、エゴが考える善悪など、あまりに些細なので関わらないように見える」ということなのだ。

こういう矛盾を解決しようとして、非常に難しい引き寄せのやり方を教える者もいるが、そんな難しい方法など、誰も使えない。
私には、矢追純一さんのやり方が最も賢いと思える。
それは、「私は頭が悪いから考えることを諦める」と決めることだ。
つまり、たとえIQ200の人間でも、潜在意識のIQは1憶の1憶倍以上で比較にもならないのだから、潜在意識と比べると、圧倒的に頭が悪いのである。
フォレスト・ガンプのようにIQ75だろうが、ジョン・フォン・ノイマンのようにIQ300だろうが、潜在意識から見れば全く同じなのである。
そして、フォレスト・ガンプは「僕は考えることが苦手だ」と言って、考えることを放棄したので億万長者にもなれた。
自分の頭が良いと思っている馬鹿には引き寄せは出来ない。
矢追さんは、人間の頭は大して性能の良くないパソコンみたいなものと言い、関英男博士も、人間はコンピューターの端末のようなもので、神(潜在意識)はスーパーコンピューターだと言っている。
このように、賢い人達の意見は本質的に一致しているのである。

どんな願いを持つかも、潜在意識にまかせた方が良い。
そりゃ、潜在意識は万能なのだから、エゴの望み・・・例えば、あの女性を恋人にしたいとか、1憶円欲しいといった願いを叶えることは簡単だ。
しかし、願いによっては、代償として大切なものを失ってしまうかもしれない。
ある有名な引き寄せの本を書いた人は、40代で亡くなっているが、その本を見ると、確かに、エゴの願いを叶えることについて書かれていたのだ。
一方、潜在意識から起こった願いであれば、悪い反作用みたいなものはない。願いはごく自然に素早く叶う。
イエスが言ったように、「お前達に必要なものなど、神(潜在意識)は願わなくても知っている」といった通りで、願わずとも、十分なお金や愛は得られる。
自分の力がちっぽけであると本当に悟り、潜在意識にまかせるほど、潜在意識は大きな額をくれるようにも思われる。
だが、口先で「神様(潜在意識)、私はつまらない人間です」と言ったところで、エゴは、「俺はあの馬鹿よりは賢い」と思っているものだ。
だから、出来るだけ想念を起こさず、エゴが潜在意識の邪魔をしないようにしなければならない。








2人の大聖者の教えを一言ずつで言えば

ラマナ・マハルシとニサルガダッタ・マハラジが、それぞれ、「これだけをやれ」と言ったことがある。

マハルシのものは、「『私』以外の想念を持つな」だった。
こう言われたら、どうやったらいいか分からないが、ある時、マハルシは「私」をマントラとして唱えよと言っている。
つまり、やることはただ1つ。
「私」と唱えることだ。心の中で唱えるのである。声に出す必要はない。

マハラジのものは、「存在の感覚にしがみつけ」だった。
これもまた難しいように思う。
ただ、「存在の感覚」とは「私という存在の感覚だ」ということをはっきりさせておく。
そして、マハラジもまた、「私は在る」を真言として唱えよと言ったのだ。
この「私」は、「私の意識」である。
よって、「私の意識がある」というつもりで「私は在る」と唱えれば良いのである。
もちろん、心の中でだ。こちらも、声に出すものではない。

これらをやった結果、何が起こるのか?
それは、両方とも同じで、一般的な言葉で言えば、「悟りを開く」であり、それが唯一の成果ということになっている。
しかし、現代人が、それでやる気になるはずがない。
ただ、彼らの時代は、まだカースト制度(インドの世襲の身分制度)が根強く社会に残り(実際は今もだが)、庶民に下手な願いを持たせるわけにはいかなかったという事情もある。
だが、現代であれば、「心に浮かんだ願いは何でも叶う」と言って間違いないのである。
だが、ここで、誤解してはならないのは、叶う願いは、「考えた願い」ではなく「心に浮かんだ願い」だ。
実際は、両者は、同じである場合も多い。
しかし、特に現代人は、自分の本当の願いでもないことを、自分の願いであると勘違いしている場合が、あまりに多い。
本当の願いとは、自分で勝手に決めたり、誰かに押し付けられるものではない。
それは、自然に浮かぶもので、潜在意識から与えられるものなのだ。
裕福になりたいとか、健康になりたいとか、あるいは、素晴らしい恋人や伴侶が欲しいと願うのは、自然な願いであり、潜在意識から与えられたものと言えると思う。
しかし、金メダルを取りたいとか、議員になりたいなどというのは、不純な願望である場合が多い。
いずれにしても、本当の願いであれば、悟りに近付けば、どんどん叶っていくのである。

マハルシと、マハラジのやり方は、「私」と唱えるか、「私(の意識)は在る」と唱えるかの違いであるが、実は、原理的には同じである。
「私」か「私の意識」という想い以外の全ての想いを消し、最後は、それらの想いも消してしまい、一切の想念を消すのである。
想念が消えれば、潜在意識の万能の力が、いかなる願いも叶えるのである。








究極の力ある言葉

私は、合氣道家の藤平光一氏の著書『氣の威力』で知ったが、「真理の言葉」を唱えると、何らかの原理で心身の力が拡張され、ちょっとした奇跡のようなことも起こる。
藤平氏の著書には、極めて単純な真理の言葉「重みは下にある」によって、藤平氏流には「氣が出て」、精神や肉体の力が高まるが、それだけでなく、不思議なことも起こる。
そのような状態では、引き寄せの力も強まるはずであり、藤平氏も、引き寄せとは言わないながら、それを示唆するようなことも書かれていたと思う。
それで私は、昔から、では、最上の真理の言葉は何であろうかと考えてきた。
その言葉が真理であればあるほど、また、高度な真理であるほど、発揮する力は大きいと思われる。

しかし、「愛は世界を救う」なんて、CMでよく見るような言葉はどうかというと、愛の定義にもよるのだろうが、こんな言葉が使われる場面での雰囲気を見ていると、あまり真理の言葉とは思えないのである。特に、庶民が「愛」という場合、あるものを愛すると同時に別のものを憎むということを平気でやる。確か、愛とは、分け隔てをしないものであったはずだが・・・
「愛の反対は憎しみではなく無関心」とか言う人もいるが、これだって、何かを愛するがゆえに、愛することが出来ないもの、価値がないと思うものを無視するだけのことである。
いずれにせよ、普通の人が言う「愛」自体が真理でないのだから、「愛は永遠」だの「愛こそは全て」だのは、いかがわしかったり、ハリボテだったりする。

デカルトは「われ思う、ゆえにわれあり」を究極の真理としたが、これの本来の言葉である「疑っているわれは確かに存在する」なら、かなり良いが、思おうが思うまいが「われ」は存在するという簡単な指摘に対しても、なかなか反論出来ない。
面白いのは、ルドルフ・シュタイナーが「われ思う、ゆえにわれなし。われ思わず、ゆえにわれあり」と言ったことで、私は「ああ、これは真理だ」と思ったが、一般的には禅問答のような言葉だろう。

そして、ニサルガダッタ・マハラジは「私は在る」こそ、最高の真理であり、即、これが最高のマントラだと言った。
本当にそうなら、この言葉を唱えれば、超人、マスター、大師になり、引き寄せも自在になるはずだ。
しかし、そうはならない。
この言葉の問題は、「私は在る」の「私」が、自我か真我(魂)かはっきりしないことだ。
どちらかというと、自我を指していると思われるが、自我はあったりなかったりするし、仏教の立場では、自我は本来、存在していないし、自我が消えることが目標である。

『ヒマラヤ聖者の生活探求』5巻で語られているが、イギリスの偉大な技術者で思想家と言えるF.L.ローソンは、
「神の他に何もない(There is nothing, but GOD)」
という言葉を真理とし、この言葉によって奇跡を起こした。
「神の他に何もない」は、「全ては神である」を言い換えた言葉と言えるが、確かに真理である。
しかし、自我にとって、これほどピンと来ない言葉もないし、自我が最も反発する言葉でもある。
その自我が黙るまで、粘り強く唱えれば、引き寄せ自在の超人になるのかもしれないが、いったい、どれだけの時間がかかるか分からない。

そこで、私なら、次の言葉を推したい。
「私は世界で唯一の考える主体である」
これは、ジョセフ・マーフィーの何かの本に載っていたのだと思う。
これに似た言葉と思ったのは、ラルフ・ウォルドー・エマーソンの『History(歴史)』というエッセイの中の、
「私はスフィア(天球)の所有者( I am owner of the sphere)」
だ。入江勇起男氏は、これを「私は世界の所有者」と訳しておられ、意味としてはその通りであると思う。
この「私」は、自我と言えば自我だが、エマーソンは自我と魂の融合をよく説いていたので、この「私」は、自我であり魂であると言え、自我も良い意味で満足するのであり、とても調和のとれた言葉だ。
それも含めた深い意味で、この言葉は「私は世界で唯一の考える主体である」と似ていると思う。
ただ、「私は世界の所有者」と言うのは、エマーソンのように精神が発達した者でないと、やはり抵抗がある。

そこで、私は、最高の真理の言葉は、やはり、
「私は世界で唯一の考える主体である」
と思う。
この言葉に馴染めば、あらゆる引き寄せを行う力になる。
他の引き寄せ法や鍛錬と共に、1日数度でも唱えれば、大きな力になると思う。
もちろん、この言葉だけ唱えるのも、非常に良いことと思う。








究極の言葉

藤平光一さんの『氣の威力』に書かれている重要なこととして、「当たり前の真理を言えば氣が出る」というものがあった。
氣が出れば、心や身体の力が拡張される。
そして、藤平さんが取り上げた、1つの「当たり前の真理の言葉」は、「重みは下にある」で、これは、地球上にいる限り真理である。
氣が出るかどうかは分からないが、この言葉を言えば、身体の力が強化されることは実験で確認出来るし、そのやり方も書かれている。
では、最高の真理の言葉とは何であるかに興味が出るかもしれない。
高いレベルの真理であるほど、発揮される力が大きいからだ。

デカルトが辿り着いた究極の真理の言葉は、有名な「われ思う、ゆえにわれあり」だった。
ところが、この言葉に対して、イギリスの作家コリン・ウィルソンが「思おうが思うまいが、われはある」と指摘したが、これには反論不可能だ。
ところが、インドの聖者ニサルガダッタ・マハラジは、絶対的な真理は「私は在る」で、「私は在る」が最高のマントラ(真言)だと言った。
つまり、「われ思う、ゆえにわれあり」の「われ思う」「ゆえに」は不要というわけだ。
一切の理由なく「私は在る(われはある)」のである。
だが、これらの議論が、どこかふにゃふにゃしているように感じるのは、「私(われ)」の定義が曖昧だからだ。
よって、唱えても、それほど力は出ない。
デカルトやウィルソンの場合は、明らかに、「私」とは「自我」だ。
しかし、マハラジの言う「私」は、彼の他の発言と合わせて考えても、自我のことなのか真我(魂のようなもの)なのか曖昧なのだ。
そして、おそらく、マハラジの言う「私」は、真我のことだが、それなら、「私は在る」と言葉で言うのは不適切だ。
なぜなら、言葉で「私」と言えば、自我しか指せないからだ。
もし、「真我は存在する」と言っても、それは、人間には確信出来ない。「真我」は概念ではないので、言葉で表現することは出来ないからだ。
概念でしかないことを言葉にする虚しさは、「愛」という言葉で、我々は痛感しているはずなのだ。
ところが、マハラジは「あなたが確信出来る唯一のことは、私が在るということだけだ」と言っており、これなら「私」は「自我」を指しているように思われる。しかし、やっぱり曖昧なのだ。

ところで、ラマナ・マハルシがこう述べている。
「夢のない深い眠りの中でも、『私』は存在する」
「夢のない深い眠りの中で、世界は存在しない」
つまり、こうだ。
夢のない深い眠りの中で存在するのは「真我」だ。
夢のない深い眠りの中で存在しないのは「自我」と「世界」だ。
ただ、普通の人は、夢のない深い眠りにあっても、世界は存在すると思っている。マハルシは、それは事実と反する幻想だと言う。
どういうことかというと、世界は心が創り出す幻想だということだ。
マハルシの言うことは真理だ。
ただし、証明は出来ないのだ。
なぜなら、証明とは自我(心)が行うことであり、自我を超えて存在する真我を証明の中に含めることは出来ないからである。

さて、証明は出来ないが、究極の真理は何であるか、一応、言っておくと、
「神の他に何もない(There is nothing, but GOD)」
だ。
言い換えれば「一切は神」で、こちらでも良い。
だから、この言葉を「神の他に何もない。ただ神だけがある」とする人もいる。
だが、この言葉は、証明出来ないのだから、「信じろ」とは言えない。
よって、現代人の多く、あるいは、現代人のほとんど、あるいは、現代人のほぼ全員が信じない。
残念なことである。この言葉を唱えれば、不可能はないからだ。
なぜなら、藤平光一流に言えば、最高の真理の言葉は最大の氣を出させるからだ。
普段、「神実現の呼吸法」を行っている者が、この言葉を唱えると、すっと自我が消えて神化する。
神化のような事例が『ヒマラヤ聖者の生活探求』の5巻にある。
ロンドンで、石を積んだ馬車が転倒し、多量の大きな石が人の上に落下した。
だが、L.H.ローソンが「神の他に何もない」と唱えると、その人は平気で立ち上がった。
L.H.ローソンは翻訳書は出ていないと思うが、自分で本も書いていて、ジョセフ・マーフィーも彼の本を引用している。








プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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