ヨハネ福音書の冒頭の言葉「初めに言葉があった。言葉は神であった」に、どれほどの深い意味があるのかは、はっきり言って分からないが、人間にとって言葉が大切なものであることは確かだ。
それを示す、こんな話がある。
『ヒマラヤ聖者の生活探求』の中に、ある不思議な廟(びょう。神殿や寺院のようなものと思う)について書かれている。
この廟は五千年も前に建てられたものでありながら、建てられたばかりのようである。
驚くべきことに、この廟は、損傷したとしても、独りでに治ってしまうという。
この廟の中では、「生命、愛、平和、調和」という言葉しか使われず、これらの言葉が強力な力となって、そんな不思議な現象を起こしているのだと思われるが、その理屈は完全には分からない。
だが、この力の原理の詳細は分からないとしても、このことからも、良い言葉を使い、悪い言葉を決して使ってはならないことが強く感じられるのである。
たとえ、悪や愚か者に挑む時でも、悪い言葉を使うべきではない。
我々に悪い言葉を使わせ、力を削ぎ、穢れさせることもまた、悪の狙いなのであり、それに乗せられてはならない。

良い言葉を唱えることで、力や恵が与えられることが、『マスターの教え』に書かれている。
また、良い言葉を書いた紙にも力がある。
聖書の言葉を書いたカードには必ず大きな力があるので、そのようなカードを持ち歩いている成功したビジネスマンも少なくない。彼らは、このカードが自分の成功の秘訣であると言う。

また、意外と知られていないことは、偉人の名にも、その偉人の力の波動があるということだ。
例えばだが、大事業であれば、アンドリュー・カーネギーやヘンリー・フォード、科学技術であれば、二コラ・テスラといった、その道の偉大な人物の名に力があり、アメリカの自動車会社テスラのように、その名を社名にすることも少なくない。
だが、名をもらったからには、それに恥じない事業をしなければならず、その名を穢すようなことをすれば、すぐに事業は破綻すると思う。

そして、聖ナーム・デーヴ(ナーマ・デーヴァ)が教えたように、最も優れた名前は神の名である。神仏の名と言っても良いだろう。
それは、様々な聖典に書かれており、間違いのないことだと思う。
特にこのことについて書かれた聖典が、仏教の『浄土三部経』の特に『観無量寿経』であり、『法華経』の『観音経』だ。
「南無阿弥陀仏」や「南無観世音菩薩」と唱えるのも、それらから来たのであるが、「阿弥陀仏」「阿弥陀様」「阿弥陀」「観世音菩薩」「観音様」と唱えても構わない。
また、神仏の名を書いた紙にも力があるので、自分で作っても良いと思う。
神仏の名を頻繁に、そして、丁寧に心で唱える者が駄目であることは考えられない。
たった、これだけのことをすれば良いのに、それをせずに不幸に苦しむ必要はないと思う。