ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

ナーマスマラナ

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

サイババの教えで唯一気に入っていること

サティヤ・サイ・ババ(1926~2011)を知らない人も多くなってきたと思う。
サイババは、インドの聖者と言われた世界的に有名な宗教家で、教育、医療、生活、文化など広い面で大きな社会貢献を行い、彼の葬儀は国葬で行われ、それにはインド首相も参列した。
サイババは頻繁に奇跡を起こしたことで知られ、最も有名な奇跡はビブーティ(聖灰)と呼ばれる白い粉を手から出すことで、それをいつでも出来たとされる。
他にも、ネックレス、時計、その他の物を手のひらなどから出現させることが出来たと言われ、「上に向けられたサイババの手のひらから、ニョキニョキ生えるように現れた」と証言する著名人もいるようだ。
一方で、サイババに対する批判もあり、奇跡は全てトリックであるとか、少年に性的虐待を行ったという話もある。

私は、サイババの奇跡も、サイババへの批判のどちらも信じていない。
個人的な印象では、サイババへの過度な称賛も過激な批判も、どちらも胡散臭い。

私は、サイババと直接会ったという事業家の方と会って、じっくり話を聞いたことがあり、その際、サイババが出したビブーティ(聖灰)も分けてもらった。また、その人から、立派な額に入った2Lサイズ(127×178mm)のサイババの写真もいただき、今も書斎に置いてある。
その人は、非常に立派で穏やかな良識ある人物で、サイババの教えや奇跡を完全に信じているようであった。
ただし、その人から、何かの組織に誘われたり、寄付を要求されたことはない。
社会的に立派と言えば、サイババを日本に紹介し、著書『理性のゆらぎ』を出版した青山圭秀さんという方は理学博士と医学博士の両方を持っているらしく、一頃有名であったが、最近はさっぱり聞かなくなった。まだ大した歳ではないはずだが。
この青山圭秀さんのように社会的に評価がある人が、サイババに会って心酔したという話は多いようである。海外ではVIPの信者も多いようだ。
政木和三さんは、サイババの奇跡について、「別に大したものではない」として、あるならあるで良いといった立場だった。政木さんが経験したという奇跡の方が壮大であるからだろう。
ただ、私も、政木さんの奇跡現象に関しては、物質的なものは見ていない。しかし、不思議なことなら沢山あったと思う。

私は、サイババの本は、読みかけたものはあるが、一冊を除き読み通したものはない。
内容がややこしいし、正直、胡散臭くて疲れるからだ。
ただ1冊、『ナーマスマラナ』だけは気に入っている。
ナーマスマラナとは、神の名を唱える行のことで、念仏に近い。
サイババは、今の時代は、ナーマスマラナでしか救われないと述べたと本に書かれているが、この本以外では、サイババがそう教えているようには思われない。
そういえば、浄土系仏教では、釈迦は、末法の世(釈迦の教えが理解されなくなった時代)では、念仏以外では救われないと教えたことになっているが、その根拠となると、どこにあるのかはっきりしない。
そもそもが、浄土三部経にしたって、決して、念仏を唱えよと教えているわけではないと私は思う。
上祐史浩氏がYouTubeで、浄土仏教について話しているのを見たが、阿弥陀経と観無量寿経を間違えているし、無量寿経の解釈もおかしいように思ったが、そういうことは上祐氏に限らず多いし、本物の仏教の専門家でも、必ずしも教典の解釈は一定していない。

だから、誰が言ったというのではなく、私は、神の名やマントラ(真言)、呪文、短い祝詞を唱える以外に救われる道はないというのは、ほぼ正しいと思う。
ただそれは、これらの言葉に霊的な力があるからといったものではなく(ないとも言わないが)、最も肯定的な言葉を長く繰り返し唱えることで、脳あるいは心の自然な働きとして思考が消えるからである。
肯定的な意味の言葉ではなく、「ナ・ダーム」のような何の意味もない言葉を採用するメソッド(手法)もあり、TM(超越瞑想)がそうだし、また、日本人にとって、サンスクリット語やそれを音写した中国で使われているマントラ等も同じである。
しかし、マントラ等にこだわる必要はなく、自分で唱え易い言葉であればそれで良いのである。
自分で試すしかないが、引き寄せ程度のことは、これで十分に行えるし、最も確実であると思う。
その効果を高めるには、深呼吸と薄目が役に立つと思う。

白百合
AIアート699
「白百合」
Kay


◆当記事と関連すると思われる書籍のご案内◆
(1)ナーマスマラナ(サティヤ・サイ・ババ)
(2)歎異抄(梅原猛。講談社学術文庫)
(3)選択本願念仏集(法然)
(4)理性のゆらぎ(青山圭秀)
(5)密教の聖なる呪文: 諸尊・真言・印・種字

全ての行は深呼吸のため(神回!)

マントラや念仏を繰り返し唱えること。
唱えるのが神仏の名であるナーマスマラナ。
「アジマリカン」や「トホカミエミタメ」といった、神呪とか言霊と言われる言葉の復唱。
それに、お経、祝詞、祈り言葉などの詠唱(節をつけて唱えること)。
あるいは、アファーメーションを声に出して繰り返すこと。

これらは、真摯に長い時間行うと奇跡が起こると言われる。
私は、十分な数さえ行えば、必ず報いを得られると思う。
そして、なぜ効果があるのかというと、これらは全て深呼吸になるからであると個人的には確信している。
よって、自分が唱え易いものを、自分の家や学校の信教や、さらには自分の信仰に関係なく選べば良いと確信する。
これは、信仰の篤い人からすれば罰当たりな意見に聞こえるかもしれないが、ひょっとしたら、これこそ信仰を与える者の本当の願いではないかとも思う。
それが分かれば、宗教間の争いもなくなる。

藤平光一さんは『氣の威力』の中で、青年時代に肋膜炎を病み、いつまで生きられるか分からない中で荒行を行ったことを書かれている。
大声で何度も「トホカミエミタメ」と延々と唱えるという、その病気から考えたらとんでもない修行であるが、やっているうちに完全に治ってしまったという。
私はこれは単に、深呼吸の効果であると思う。
「トホカミエミタメ」を唱えている間、背中を平手で強く叩かれたと言うが、それも何らかの意味で良い効果があったかもしれない。しかし、肝心なことは、やはり、この行で、深呼吸を長期間に渡り、たっぷりと行ったことである。

他も同じであると思う。
「神様の奇跡が起こる」と1日中唱え、2週間ほどで1億円の宝くじが当たり、その後、さらに唱えてまた1億円当てたホームレスの男性の実話があるが、これも、1日中、深呼吸を行った成果であると思う。

声を出して唱える場所がない場合はどうするか?
問題ない。
神道家の山蔭基央さんは「アジマリカン」を数多く唱えよと本に書かれているが、「隣の人に聞こえない小さな声で」としている。
私もやってみたら、そんな小さな声でも、ちゃんと、そして、むしろ理想的に細く長く息を吐ける。

よって、「アジマリカン」なら、一度たっぷり息を吸った後、なるべく多く「アジマリカン」を一息で唱えるのである。
効果は、どの言葉でも、違いは全くないので、好きなものを選べば良いと思う。
「トホカミエミタメ」が一番だの「アジマリカン」がもっと上だのという者を相手にしてはならない。

瞳の中の空
AIアート479
「瞳の中の空」
Kay


さらに言えば「トホカミエミタメ」を「トオカミエミタメ」と間違えようが効果は変わらないと思う。
「なむあみだぶつ」も「なもあみだぶつ」も「なんまいだぶ」も変わらないのと同じだ。
「アビラウンケン」を「油売らんか」と唱えたおばあさんも効果があったのである。
とはいえ、伝統を重んじる精神も大切なので、なるべく正しい言葉を使うのが良い。

心の中で唱えることも、思考が起こるのを防ぐ効果があり、十分に意味がある。
だが、地獄が迫る緊急のこの世界では深呼吸が必要と思う。








人間社会で最強の能力

人間が生きていく上で、一番重要な能力は何か?
いろいろな考え方はあろうが、おそらく、間違いのない答は、「誰とでも仲良くなれる能力」だ。
ある村が、ゲリラ(不正な民兵)部隊に占領されたことがあった。
そんな場合、その村の人々には、悲惨としか言いようのない運命しか待っていない。
ところが、その村の中に、人付き合いの達人がいて、ゲリラ達と言葉が通じたことも幸いだったが、その人付き合いの達人は、かなりの苦労や危険はありながら、ついに、ゲリラのボスと仲良くなり、村は最小限の被害で済んだのだった。
また、こんな話もある。これは日本の話だ。
ある若者が、若気のいたりで調子に乗ってしまい、ヤクザの組長を怒らせることをやってしまった。このままでは、どんな「落とし前」を付けさせられるか分からない。最悪、命を取られることもあり得る。
その若者は、気も狂いそうな状況で、普段、あまり付き合いはないが、兄貴と慕う男に相談した。
黙って話を聞いていた兄貴分の男は、「分かった。心配するな」とだけ言い、出かけていった。
しばらくすると、兄貴分の男から電話があった。
電話の内容は、今から、その組長たちと飲みにいくが、もう何の心配もいらないということだった。
つまり、この兄貴分の男は、ヤクザの組長と、僅かな時間で仲良くなってしまったのだ。

ここまでいかなくても、誰とでも仲良く出来る能力があれば、どんな時代になっても生きていける。
学校だろうが、会社だろうが、その他、いかなる職場、さらには政治の世界・・・いかなる場所でも、誰とでも仲良くなれる者は、苦労せずに済み、適切な能力があれば、大きな目標を達成する可能性も高いのである。
平凡で大した能力がなくても、誰とでも仲良く出来さえすれば、楽々と必要な獲物を得られる。
逆に言えば、人と仲良くすることが苦手であれば、優れた能力を持っていても、苦労し、神経をすり減らし、ストレスを溜めながら大変な奮闘をした挙句、最低限のものすら得られないということも十分あり得る。
人付き合いが苦手だと公言する人は多いし、アニメのヒーローやヒロインにも、そんなタイプが多い。
しかし、そんな者は、惨めな目に遭った挙句、敗者になる可能性が大きいのである。

人と仲良くなる能力は、どうすれば得られるのだろう?
まず、訓練法などない。
人と仲良くやっていかざるを得ない環境に放り込まれて、自然に能力を得るしかない。
だから、子供は、小さい時から、心配もあろうが、知らない人達の中に放り込んで放置しなければならない。
それは、早ければ早いほど良い。
4つ5つになるまで、母親がべったり構っていたら、もう遅い。
しかし、特に日本では、子供が、中学生や高校生、あるいは、それ以上になるのに、親が必要以上に世話を焼いていることが多いが、それは、子供にあまりに大きな不幸を与えているのである。
特に、母親が息子に過剰に構い、もう、どうしようもない駄目な男にしてしまっていることが、なんと多いことか。

つい先日、私は、初音ミクさんの大きなライブコンサート(マジカルミライ2021)に行ったが、そこに、中学生くらいの男の子が、母親と一緒に来ていて、コンサート中、母親が世話を焼く形で、ずっと2人で仲良くしていた。
言っては悪いが、この息子はロクなものにならないし、下手をすれば、悲惨な未来しかないだろう。

しかし、人と仲良くする能力は、子供の時に身に付けないと、それを得るのは、もうかなり難しいのである。
だが、その能力を身に付けることに失敗した者が、なんと沢山いることだろう。
そんな者は、いまさら、誰とでも仲良くなれるようになるのは不可能だ。
だから、自分が、そんな人間だと分かったら、出来るだけ大物の特定の人物に気に入られることに全力を尽くすことだ。
その大物を崇め奉り、決して、一瞬でも、尊敬の態度をなくしてはならない。
せっかく、大物に気に入られ、可愛がってもらっていながら、ほんの少し、大物の意に沿わないことを言うような馬鹿をやったら、それで一貫の終わりだ。
日本には、昔から、「お客様は神様です」という言葉があり、それはそれで貴いが、それよりもっと「ボスは神様です」ということを忘れてはならない。

だが、もしも、それがうまくいかない場合、神様、仏様に頼ることだ。
「南無阿弥陀仏」というのは、阿弥陀如来に絶対的に頼り、すがることを宣言する言葉なのである。
念仏でなくても、好きな神仏の名や、あるいは、神仏の真言を、無限に唱えることだ。
あるいは、神仏の力を肯定する言葉を唱えることである。
「神様の奇跡が起こる」
「神に出来ないことはない」
「私を強くして下さる方(神のこと)によって、私はどんなことでも出来る」
「もし神が私の味方であるなら、誰が私に敵対出来ようか」
「私は神を信頼する」
などである。








念仏で奇跡を起こす

私は、念仏だ、マントラだ、経典だ、奇跡だ・・・などと言ってる割には理屈っぽいのである。
ここらは、私が、システムエンジニア・プログラマーということもあり、仕方がないところだ。
ところが、量子力学をそれなりに高度に修めた人が、引き寄せなどの神秘現象を量子力学的に語るのを見ると、ある部分は論理的かもしれないが、それ以外は、論理の飛躍も甚だしいことが多いのである。
例えば、電子には意思があり、人間の意思と呼応するということを、理論的、実験的に導くことは出来るかもしれない。
しかし、だからと言って、人間の願いが物質世界で実現するというのは、論理の過度な飛躍だ。
これはあくまで極端な例だが、もっと緻密に語っているように見えるものでも、誤魔化し(と言って悪ければ個人的思い込み)が非常に多いように思うのである。

神秘世界を、現代科学で完全に語ることは不可能である。
むしろ、役に立つのは、経験と直観になる。
ただ、経験というものは、自分の経験に関しても、誤解が多いのである。まして、他人に正確に伝えるのは難しい。
だが、純粋にして明晰な直観というものは確かと思う。そして、これは他人に伝えない。あくまで個人的なものである。
その個人的な、純粋で明晰な直観は正しいのである。
とはいえ、それほど純粋で明晰な直観は、容易く得られない。

関英男博士などは、神秘現象を理論家する際、大胆な仮説を立てたが、その仮説の多くは直観によるものだったと思う。
だが、関博士は、なまじ、科学的知識があるだけに、直観に曇りがあったと思う。
釈迦が、現代の科学者にすらインスピレーションを与える(つまり正しい)直観的理論を示せたのは、現代の科学を知らなかったから、直観が曇らなかったのだと思う。
また、偏見の問題もある。
相対性理論に関しては完璧な理論を示したアインシュタインは、なぜか量子力学では迷走した。
これについては、アインシュタイン自身が、「自分が持っている偏見のせいで、量子力学が正しいことを認めたがらない」と分かっていたのだから、大したものである。
そして、釈迦は、おそらく、偏見がなかったのだ。

だが、残念ながら、釈迦の教えを記したと言われる経典が、偏見だらけの人によって、翻訳され、解釈され、釈迦の教えのかなりの部分が、正しく伝わっていないのだと思う。
それで、これは正確なことではないかもしれないが、釈迦が「念仏だけが有効なものとして残る」と言ったことが、かなり確かなのだと思う。
しかし、その念仏が、いろんな人によって、歪められて伝わっている。
だから、最も良いのは、念仏の意味など誰にも聞かず、ただ、「ナムアミダブツ」と唱えれば良いということだ。
ただ、これは、「南無妙法蓮華経」でも、「南無観世音菩薩」でも同じだし、「イエス様」「マリア様」でも同じである。
本当に長い時間、念仏や、好きな神仏の名を唱えて奇跡が起きなかったことはないし、それは自分で実証出来ると思う。
どうしても理屈が気になるなら、念仏であれば、法然や親鸞の教えが書かれた本、あるいは、『十住毘婆沙論(じゅうじゅうびばしゃろん』の中の『易行品』を読み、とにかく念仏を唱えれば良いと分かれば、そこで、読んだことを全部忘れて念仏を唱えると良い。
あるいは、サイババの『ナーマスマラナ』を読み、神の名を唱えれば良いと分かったら、そこで読んだことを全部忘れて、ただ実践すると良いと思う。








悪童達もこうして成功した

人間の徳には2つある。
1つは、善いことをすることで、もう1つは、悪いことをしないことだ。
だが、全ての善を行うことは極めて難しいか、あるいは、不可能だ。
また、全ての悪を行わないことも、極めて、難しいか、あるいは、不可能だ。
そこで、必ず行うべき善と、絶対に行ってはいけない悪を定め、それだけは守ることにする。
それを、戒律とか掟と言い、「モーセの十戒」もその1つだ。

ところが、実は、必ず行うべき善は1つ、絶対に行ってはならない悪は1つとして良いばかりか、「1つの必ず行う善」か「1つの絶対に行わない悪」を持ち、それを守れば、高次の力に保護される。
法然や親鸞の場合は、言うまでもなく「1つの必ず行うべき善」は念仏で、その他に善いことをする必要はなく、むしろ、その他の善いことをしてはならないし、いかなる悪を行っても構わない。
ただし、念仏を行っていれば、縁のある善いことは勝手にしてしまうし、縁のない悪いことは出来ないというのが親鸞の教えであったようだ。

14世紀のインドにサックバーイーという女性がいたらしいが、私は、彼女のことは、ラマナ・マハルシやサイババの本で断片的に語られているのを見ただけで、正確なことは知らない。
彼女は、クリシュナ神の1つの名である「パーンドゥランガ」の名を唱えることを最も重要なこととしていた。
パーンドゥランガは、彼女が生まれ育った場所で信仰されていたのだが、どんな経緯で、彼女がそこまでの信仰を持つようになったかは分からない。
彼女は子供の時に嫁がされ、嫁ぎ先でも辛い目に遭ったが、パーンドゥランガの名を常に唱えることで、あらゆる困難を克服し、遂には、クリシュナ神が直接、彼女を助けたことで、名を残すことになった。
念仏も、サックバーイーが行ったことも同じことだ。
そして、明治や大正の時代には、日本にも、念仏によってサックバーイーのようになった妙好人と呼ばれる人が沢山いた。妙好人は、見かけはごく普通というか、学問のない貧しい人であった場合が多いと思うが、奇跡のような人々であったと言われる。

念仏やナーマスマラナ(神仏の名を心で唱えること)でなくても、1つの善行をずっと続けることで、実際には人間を超えたような人々もいた。
一方、「これ(1つの悪いこと)だけは絶対にしない」という徳の力も、同じ位大きいかもしれない。
それで思い出すのは、大俳優だった丹波哲郎さんだ。
彼は、子供の時から、常に好き勝手に生きていたが、とにかく、困ることは全くなく、常に良い想いをしたらしい。
例えば、彼が若い頃は、日本は戦争中で、彼も二等兵(最下位の兵)として従軍したが、他の全ての二等兵は、上官の服の洗濯をするなどで上官の機嫌を取っていたが、彼は、面倒だからとそんなことは一切しなかった。ところが、それで酷い目に遭わされたかというと、それは全くなく、それどころか、楽で安全な場所に送られ、そこで女の子と遊びながら終戦までのんびり過ごしたという。
私は、丹波さんが理想で(笑)、かなりうまくやれていると思う。
丹波さんは、自分が運に恵まれる要因は、まあ、後には守護霊に守られているからということを強調し、実際にそうであるとは思うが、子供の時から、自分には「こだわりがない」という美点があったと丹波さんはよく本に書かれていた。
「こだわらない」では、曖昧過ぎて漠然としているが、私が思うに、丹波さんは、「弱い者いじめをしなかった」のだと思う。
強い立場にある人間にこだわりがあると、その者は、意識的、無意識的に弱い者いじめをしてしまうが、丹波さんには、それが全くなかったのだ。
それでさらに思い出すのが、空手家の大山倍達さんだ。
昭和の空手ブームの時、彼の伝記は漫画やアニメにもなり、その際、彼はかなり美化され、少年達のヒーローになった。
だが、実際の大山さんは、感心出来ない部分も多いと言うより、ロクでもないことも沢山やった。
しかし、子供の時から、並外れて腕力が強く、喧嘩で無敵であった彼も、弱い者いじめだけは絶対にしなかった。
弱い者いじめをしないことが、最上かどうかは分からないが、神仏に守られ、幸運を呼ぶ秘訣であると思う。








プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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