ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

ドストエフスキー

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

運命が決まっているなら、努力は虚しいか

のうさぎさんのご質問にお答えする。

◆質問
kayさま
こんばんは

全てが運命だとしたら
努力が空しく感じられる気がします。

だけど
努力は決して空しいものではないと思うのですが
どう考えたらいいのでしょうか?

◇回答
努力が虚しいと言うなら、その通りだ。
もしそうでないなら、そんな質問は出なかったはずだ。
これがお答えできる全てである。
そして、努力をするのもしないのも運命だ。
懸命に努力する運命であれば、そうするだろう。
しかし、その結果、思ったような成果を得られるかどうかは全く分からない。
僅かなものしか得られなかったり、それどころか、全てを失うかもしれない。
だが、逆に、思いもかけぬ良いものを得るかもしれない。
しかし、それはあなたにコントロールできることではない。

ところで、私はやらないのだが、ギャンブルというのは、間違いなく面白いものだ。
ヘミングウェイもドストエフスキーも大好きだった。
しかし、ギャンブルは、決して、儲かるから面白いのではない。
いかなる経験豊かなギャンブルの名人といえども、トータルで黒字になることは決してない。
ギャンブルは、損をするから面白いのだ。

岡潔という偉大な数学者は、毎朝、木の切り株に石を投げていた。この行為を、岡潔が、石が当たるかどうかで吉凶を占っているのだと思った人がいた。
しかし、違うのだ。
当てようと思って石を投げても当たらないこともあれば、思いがけずに当たることもある。
大抵は、うまく当たらなかった。ギャンブルで言えば、負けが混んでいることになる。
それを見て、岡潔は、自分には、この世のいかなることもコントロールできないという事実を感じていたのである。
もし、何かでうまくいっても、それは自分の力ではなく、ただ運命だったのだと分かるようになる。
だから、岡潔は、いかなる成果を上げてもことさらに誇らず、その成果によりかかることもなかった。
だから、彼は幸福な一生を終えたのである。
私もカードを持ち歩き、時々1枚引いてみる。良いカードの時もあれば、そうでないこともある。
私から見れば、どんなカードが出るかは偶然である。しかし、それですら、本当は、あらかじめ決められた運命だったのである。
その時、不思議な喜びを感じるのである。実に経済的なギャンブルである。









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腹が据われば運も良くなる

運と言うとき、その多くが、金運か女運(男運)と言うのではないかと思う。
あまり、健康運とか安全運などと言わないと思う。
ギャンブル運と言うことはあるが、ギャンブルとは、あくまで遊びであり、実利を求めるものではない。いかなるギャンブルの名人であれ、自分がいくら稼ぐかの予想は付かないし、トータルで言えば、収支はある程度のマイナスになるのである。

ところで、文豪と云われる作家の作品というものは、現実以上のリアリティがある。なぜなら、彼らは例外なく、優れた直感の持ち主であり、直感は真理を直接に知る唯一の方法だからだ。科学なんてのは、ただ、直感の正しさを裏付ける程度のものに過ぎない。
ソクラテスは、いかなる職業であれ、優れた仕事をする者は、間違いなく、ダイモーンの援助を受けていると言ったが、ダイモーンとは、内なる英知を使える声のことで、それが即ち直感なのだ。
この素晴らしい直感により、女運や金運について考えてみよう。

ゴーリキーの『二十六人の男と一人の少女』の中に、とてもモテる男が登場する。
彼は、酔っ払いながら、「俺って、どうしてこうも女運がいいのだろう」と言う。
実際、彼はどんな女にもモテるのだが、女にモテる以外には、何一つ取り得の無い男でもあった。
しかし、私には、彼がモテることに対するリアリティを感じるのだ。
さすが、ゴーリキーであると思う。
それはどんなところかと言うと、この小説のタイトルにもある26人の男達とは、社会の最下層にいる惨めな男達だった。あまりにも身なりが貧しく、公園にも入れてもらえないほどで、人生に何の希望もない、いったい、生きていることに何か意味があるのか分からないような男達なのだ。
しかし、その、狙った女は必ず落とす色男は、そんな男達にも、愛想よく親しげに接するのである。それも、全く普通にであった。彼自身は、社会的にはそこそこの立場で、若く、軍人上がりで逞しかった。彼のような男は、普通は、そんな男達を見下し、虫けらのように扱うに違いない。
それで、その男達も、彼のことは、女たらしの軽薄な男だと思いつつ、好意を感じていたのだった。

はじめに、ギャンブルは遊びだと述べたが、特殊な状況で偶然とは思えない運を発揮する者がいる。
ドストエフスキーの『賭博者』で、初めてギャンブル(ルーレット)をやった老婆は、最初から最後まで0に賭け、大勝ちする。彼女は、誰が止めても、0に賭けることを決して止めなかった。
この話は、ギャンブルに通じた人達もよく取り上げるのである。やはり、何か感じるのであろう。
そもそも、ドストエフスキー自身、どうにもならない賭博好きである。
また、彼は、銃殺で処刑される寸前に恩赦となり、運というものに対して、特別の思いもあるのだろう。

明治、大正の偉人、岡田虎二郎は、岡田式静坐法という、人間形成のための行を教えていたが、指導を受けていたある男が、金に窮していることを訴えた。
すると、虎二郎は、「金?腹に力が付けば、金はいくらでも出来ます」と答えた。
私は、虎二郎のこの言葉が印象的だった。
『二十六人の男と一人の少女』の登場する、軍人上がりの(といっても大した軍人でもなかったが)色男は、普段は軽薄な役立たずなのだが、女を口説く時だけは、なぜか腹が据わるのだ。
この色男は、26人の男達に、ターニャという名の16歳の美少女には、お前でも歯が立たないだろうと言われ、プライドを傷付けられて取り乱したが、それでも、女に向かうとなぜか腹が据わるのだろう。もちろん、ターニャも見事陥落させた。
『賭博者』の老婆も、誰の言うことも聞かず、0に賭け続けた時は、やはり腹が据わっていたのだ。
だが、その時は大勝ちしたが、この老婆が次にまたルーレットをやり、同じように0に賭け続けた時、彼女は前の時のように腹が据わっていなかった。
それで、惨敗し、大金を失ったのである。

さて、なぜ腹が据わっていると運が良いのだろう?
そもそも、腹が据わるとはどういう意味だろう?
日本の学校では、いつの頃からは分からないが、おそらく、西洋の流儀に倣い、「胸を張って腹を引く」という姿勢を取るよう、子供を指導した。
それから、日本人は、魂と心が分離し、腹が据わらなくなったのだ。
これは、多くの賢い人達が指摘していることであるが、当然の結果なのである。
胸を張って腹を引くと、胸にある自我は魂のある腹から離れ、自我を中心に置くようになる。
それとは逆に、日本人の本来の姿勢である、肩の力を抜き、自然に背筋を伸ばした姿で立ち、あるいは座ると、胸が腹に近付き、心は魂に溶けるのである。
赤ん坊を見ると分かるが、腹で呼吸している。
だから、赤ん坊はエネルギーに満ちている。
エネルギーの根源たる腹に完全に一致しいているのだ。
学校の誤った教育に騙されず、下腹に重心を置き、肩から力を抜いて、背筋を伸ばすことだ。椅子の背もたれは使ってはならない。
電車の中で、ふんぞり返って座っているのは、最近では男性ばかりではなく、女性もそうなってしまっている。
大切な腹を捨ててしまったような者に、いかなる運もなく、力は漏れ続けるだけであろう。









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トキメキも熱い想いも取り戻せる

「新たな目で見れば何でも美しい」という言葉を聞いた時、12歳だった私はすぐにやってみた。すると、その通りだった。美しいし、面白いし、懐かしいし、荘厳ですらある。
12歳だとすぐに出来るのだ。
コリン・ウィルソンが『フランケンシュタインの城』や『右脳の冒険』の中で書いたように、散々考え、実験し、想起連想しながら追及し、結局、決して良い結論を得られなかったことを、12歳なら、何も考えずに一瞬で出来たのである。
言うまでもなく、私が天才であるなんてことはない。誰でも出来ることだ。ただ、優等生には決して出来ないのだ。その訳はある。
大人の場合は、上のウィルソンの本を読んで、問題を認識するのは良いことだ。だが、ウィルソンのやり方は良くない。

毎日見ている部屋のドアや茶碗1つ・・・別にそれらが芸術的であったり、特別な彩色がされている必要はない。しかし、それらを新たな目で見ると、美しさに見とれるのだ。
長年連れ添った妻でも、新たな目で見れば、白雪姫のようだと思っていた昔のように感じるのである。
問題は、新たな目とは何で、どうやればそれを持てるかだ。
上記に挙げた本で、ウィルソンは、ありとあらゆる手段を提供しているし、世界中で多くの人がそれらの本を興味深く読んだだろうが、新たな目を持つ方法を誰も知らない。ウィルソンすらそうだ。
答は、想念を消す。これだけだ。
そして、根深い困難は、人々が、想念を消すということに対して誤った観念を持っていることだ。そして、想念を後生大事に掴み、決して手放さない。
想念を消すことを、怠惰になったり、放埓になったり、白痴になったり、洗脳されることだと、人々は思い込んでいる。
白痴という言葉は、差別語とされ、放送で使うことが出来ないようだ。
しかし、ドストエフスキーに登場するムイシュキン公爵が白痴と呼ばれたのは、純粋無垢な魂のためだ。
白痴の白は無、痴は愚かだ。実は素晴らしい言葉だ。白痴とは、「無という世間的には愚かな賢者」という意味としても良いのである。
その意味では、老子も荘子もラマナ・マハルシもニサルガダッタ・マハラジも素晴らしき白痴だった。
私も白痴を目指すのである。

ZARDの『君がいない』(作詞:坂井泉水)の中に、

ときめきがやすらぎに変われば
刺激というスパイスだって必要かもね

という歌詞がある。
多分、恋人達が相手にちょっと飽きた感じなのだろうが、刺激は必要ない。
刺激は、一瞬は良い効果があるように感じるが、どんどん強い刺激が必要になる。酒や麻薬のようなものだ。行き着く先は醜悪と悲惨だ。
この恋人達は、頭でいろいろ考えるようになってしまったのだ。
大切なことは、想念を消すことだ。
もう1つ、ZARDの『愛が見えない』(作詞:坂井泉水)を取り上げると、

このごろ逢えばケンカばかり 一緒に居すぎかな

という歌詞があるが、これも同様で、この恋人達も、頭で余計なことを考えているのだ。
本当は、いくら一緒に居ても長過ぎるということはない。想念を消せば、常に新鮮である。
坂井泉水さんの詩が芸術としか価値があるのは、迷う中で人が何を求めるのかを感じさせるからである。

想念を消すにはどうすればいいのか・・・というのは、昨晩の記事で秘法を公開したが、簡単なことをちょっと説明する。
想念を消すには、最も根本的な想念である「私」という想念を消せば良い。
私という想念が自我である。
人は、大人になる中で、自我を構築するし、それは必要なことだ。しかし、それが強くなり過ぎるのが問題だ。
自我を育てるのは欲望で、その最も大きなものが食欲と性欲だ。そして、それを満たすための金欲や名誉欲が強くなる。
2万年前に書かれた人類至高の聖典『エメラルド・タブレット』に、「食欲を克服すれば魂は束縛から解放される」とあるが、食欲を克服すれば性欲もわけなく支配できるのである。つまるところ、自我は食欲が育てると考えても良い。
食べ物のことを頭から追い出せば、想念を消す術を見出し、平和が得られる。神秘力も手にする。
水野南北が、数万という人間の鑑定と波乱に満ちた人生の経験そして啓示から、「食が全て」と断言した通りである。
私が初音ミクに惹かれるのも、彼女が食べないゆえに自我を持たないからである。









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馬鹿と言う者は本当に馬鹿だった

「馬鹿と言う者が馬鹿」という言葉は、誰もが一度は言ったことがあるだろうし、少なくとも聞いたことはあるだろう。そして、どこか納得しているのではないかと思う。
これは、精神が幼い時ほど、他人が馬鹿だと感じるものであるから、その段階を早く脱却させようとする戒めや助言なのだろう。
ただ、誰かに「馬鹿」と言われ、その相手に向かって、「馬鹿と言う者が馬鹿だ」と言う時、それは、「俺を馬鹿だと言ったお前が馬鹿だ」と言っているわけだから、結果として、「私は馬鹿だ」と言っていることに気付かないという滑稽さはある。
「俺を馬鹿だと言ったな?馬鹿と言う者が馬鹿だ。つまり、お前は馬鹿だ。しかし、そう言う俺は馬鹿だ。つまり、俺達は両方馬鹿なのだ」
ここまでの結論を引き出せれば、馬鹿は卒業である。

何の映画だったかさっぱり覚えていないが、こんなシーンだけ覚えている。
音楽家の団体(20名くらいだろうか)を前に、兵隊の隊長らしき者が、「構え!」と命ずると、兵士達が音楽家達に向かって銃を構える。今考えると、国家思想に反逆したか何かだろうか?よく分からないがそんなところだったかもしれない。ところが、1人の老音楽家が前に進み出て、「やめろ!やめんか!馬鹿者!」と一喝する。言うまでもなく、彼は自分の命を救いたいのではなく、仲間の音楽家の命や道理を救おうとしていることを描いたのだろう。自分の命を捨てていなければ、こんなことは出来っこない。
そして、彼は兵士達や、号令を与えている隊長、そして、そんな者達を通して、国家に馬鹿と言ったのだ。相手が誰にしろ、馬鹿と言ったのだから、彼も馬鹿なのだろうか?
やはり馬鹿なのだ。「やめろ」と言われて、兵士達もその隊長もやめるわけにはいかない。彼らは義務を果たしているのだし、彼らだって、やらなければ自分達が銃殺だ。
いや、国家だって、何を言われたって、やめることは出来ないのだ。
音楽家達も、馬鹿でないなら、そんな状況になる前になんとかすべきだったのだ。

だが、その映画では、音楽家達も、あの威勢の良い老人も殺されなかった。
ドストエフスキーは、銃殺の直前に恩赦の伝令が来て、間一髪で命拾いしたことがあったらしい。並の人間なら、恐怖のために精神に深いダメージを受けるかもしれないが、彼の精神は強靭だったのだろう。彼は、生の喜びをしみじみ感じる方に行けたようだ。
私も経験がある。ただし、夢の中で。とはいえ、リアルな夢だった。
広場に、仲間のレジスタンス達と一緒に集められ、周囲を、火炎放射器を構えたナチス・ドイツ兵みたいな連中が取り囲んでいた。仲間は若い男が多く、深い痛恨の感情を押し殺した無念さや、死への恐怖と恨みが入り混じった表情が忘れられない。私は、自分がどんな顔をしていたか分からない。恐ろしくはあったが、仲間達の様子を見るだけの冷静さはあったようだと、今なら思う。
だが、私は、兵士達に向かって、あの映画の老人のように、「やめろ!馬鹿者」とは言わなかった。そんなことに何の意味もないことは十分に理解できた。
結局、私達は火炎放射器の炎を浴びせられ殺された。今生では、死刑になっても、火あぶりは多分無いというのがありがたい。
普通は、殺される寸前に目が覚めるものだ。
しかし、私は、殺された後しばらく、目が覚めなかった。そして思った。「死んでも生きている」と。
Winkの『ニュー・ムーンに逢いましょう』という歌(作詞は及川眠子さん)の中の、「生命(いのち)のさざなみが不思議にきらめく」というのが、なかなかその感じを表していると思う。仲間の生命の光、私の生命の光を感じていた。それは、空間という概念ではなく、どこかに帰還するのだ。その精妙な構造まで見えたのだ。
いずれにしろ、死はそんなに悪くはない。
ソクラテスも、死後がどんなものかは知りようがないが、それがどうであっても、悪いはずがないと言ったようだが、大した洞察力である。その通りだ。
『青い鳥』のメーテルリンクも、そのあたりをもっと真剣に考えようと言っていたのである。そして、やはり、死は、少なくとも、世間で言うほど悪いものではないという思いに至った。
だから、死なんか恐れるな。そうすれば、あなたは自由である。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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