ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

ドストエフスキー

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

奇跡を何度でも起こす方法

ドストエフスキーの『賭博者』という中編小説がある。
実は私は読んでおらず、偉大な宗教人類学者の植島啓司氏の、多分『賭ける魂』だったと思うが、その本で『賭博者』の粗筋を見ただけだが、深い印象を持った。
(尚、植島啓司氏がなぜ「偉大な」宗教人類学者だと私が認識しているかというと、彼が65歳位の時と思うが、初音ミクさんのライブに初めて行き、「お水取り」という仏教の壮大な行司に匹敵するほどであったと語っておられたからだ。いや、それがなくても偉大な方で、彼の本は全て素晴らしいので読むことをお薦めする)

『賭博者』の中で、あるおばあさんがルーレットで初めてのギャンブルをする。
そのおばあさんはずっと0(ゼロ)に賭け続けて大勝し、大金を得た。
だが、しばらくしてから、そのおばあさんは、またルーレットをし、同じように0に賭けるが、今度はボロ負けした。

ギャンブルの中には、プレイヤーのテクニックや経験が勝敗に影響を与えるものもあると思うが、ほとんどは偶然の運で決まる。
その中でも、ルーレットは完全に運でしかなく、そのおばあさんのように、0に賭け続けて一晩で大金を稼ぐことはあり得ない。
もし、確率論を超えた成績を上げるなら、それは超常現象ということになる。
超能力で偶然の確率を有意に変えて見せたと主張する者は、過去に沢山いたが、それが実証されたことは、おそらくないと思う。

だが、私は、そのおばあさん並か、ひょっとしたらそれ以上の現象を何度も見たし、その多くは私が意図的に起こした(あるいは起こさせた)と言うしかないものだった。
その1つに、私が中学1年生の時、1枚のコインを使って1人で出来るゲームを考案したものがある。
そのゲームは、勝率50%になるはずが、私は100連勝してから、もうしなくなった。
しかし、しばらくしてやってみたら、やはり半分しか勝てなかった。
最初にやった時、何かが起こったのだ。
だが、その頃には、私は何度もそんなことを経験していたので、別に驚きもしなかった(内容は、このブログでも何度も書いたが、今回は省略する)。
つまり、超常現象、あるいは、超能力は確かに存在する。
だが、それを客観的に証明出来るかとなると、多分、無理だろう。
しかし、確率50%どころか、ルーレットで0を出すことすら確率的に及ばないことも、何度も実現した。
そんなことを奇跡とか言うのだが、やはり、奇跡は起こり得る。

自分の利益のために、奇跡を起こせるかと言うと、普通は無理と思う。
だが、何度かご紹介したが、教育学者の七田眞さんが、正真正銘の事実として紹介した、こんな話がある。
あるホームレスの男性が、「神様の奇跡が起こる」と1日中、1週間か2週間唱えていたら、宝くじで1億円が当たった。
そのホームレスの男性が、七田さんの会社に電話し、「こんなことやっても良いのか?」と尋ねたら、対応したスタッフは「良い」「人の役に立つように使って欲しい」と言ったらしい。尚、その後、そのホームレスの男性は、同じことをして、また1億円当てたのである。

では、奇跡を起こす決め手は何だろう?
それは、普通で申し訳ないが、強い想いだったり、集中力だったりすると思う。
「こうあって欲しい」と本気で思ったことは必ず実現する。
ただし、不自然というか、作り物の強い想いでは駄目なのだ。
自然発生的に起こるものでなくてはならない。
例えば、『フランダースの犬』で、ネルロがルーベンスの絵を見たいと思った純粋な衝動のようなものである。
そして、心に抵抗がないことも必要だろう。
たとえ悪事であっても、それをする者が葛藤を感じていなければ、成功してしまうのである。
それを、完全に意図的に起こすことは難しい。
だが、それに近いことなら、割と簡単に出来る。
1つは、英国の世界的作家コリン・ウィルソンがいろんな本で書いているが、こんなものである。
「ペンの先などに10秒間ほど強く集中し、不意に集中を解く。これを数回繰り返す」
もう1つは、『強くなる瞑想法』のカバーに、有名作詞家の阿久悠さんの言葉として書かれていたが、「息を吸って止める」である。
その時に、奇跡を起こせる精神状態に近くなっており、ある程度のことは実現すると思う。












KayのAI書。5月30日発売。
新型コロナウイルス後の世界は、それまでの世界とは一変し、AIが電気のように普通に使われるデジタルワールドになるのだと思います。
電気を使わなかった者が電気を使った者に全然敵わなかったように、AIを味方に付け、AIと一体化し、AIで能力を拡張した者が、新しい世界で自由に生きられる可能性が高いのだと思います。
本書は、数学やプログラミング、難しいAI理論が分からなくても、AIを使えるようになることを目指して書きました。

この仮想世界の管理者権限

ネットワークやオンラインゲーム世界で最も強いのは、サーバーコンピューターの管理者権限を持つ者だ・・・ということは、一度、サーバーコンピューターを自分で構築して運用すれば分かることだが、もしかしたら、そうでない人には見当が付かないことかもしれない。
ここらは、私のような専門家には、一般の人のことが分からなくなってしまっている。
けれども、『ソードアート・オンライン』のアニメの第1期、あるいは、同小説の『フェアリィ・ダンス』編を見れば分かると思う。

ところで、この世界が、コンピューターで作られた仮想世界であれば・・・いや、とりあえず、イーロン・マスクに同意し、この世界は、シミュレーテッド・リアリティというコンピューターによるシミュレーション世界であるとしてしまおう。
だが、人間が、この仮想世界を作るコンピューターの管理者権限を持つことはないと思う。
それを持つのは、神とか仏、あるいは、その配下と思われる天使や菩薩のような存在が、レベルの異なる管理者権限を持つのではないかと思う。
そこで、我々人間は、そんな管理者権限を持つ存在にお願いして世界を動かしてもらうか、ひょっとしたら、一時的にある程度の管理者権限を与えられるのかもしれない。
また、人間とはいえ、十分なレベルに進化すれば(例えば釈迦やイエスのように)、限度はあるかもしれないが恒久的な管理者権限を持てるのかもしれない。

私が、幼い時を中心に、度々、Super Magicを使ったのは、果たしてどんな方法によるのだろう?
まるで長門有希の呪文のようだったが。
ドストエフスキーの『賭博者』の中で、初めてルーレットをやるおばあさんが、0に賭け続けて大勝する。
その時、おばあさんは管理者権限を与えられていたか、管理者権限を持つ者を動かせたのだ。
しかし、2度目はそうではなかった。
私には、あのおばあさんの、1度目と2度目の違いがよく分かるのである。
ビギナーズ・ラックと呼ばれる「分からない強さ」にも似たところがあるのだと思う。
その方法を知りたいなら、鼻から静かにゆっくり息を吐くことだ。
これを馬鹿にせずにやるか、そうでないかの違いだけである。
ただ・・・これ以上言うと、私もヤバい。









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ギャンブル必勝法は経験的にも必ずある

ギャンブルで生活することは可能だろうか?
ある大変なキャリアを持つギャンブラーの本を読んだことがあるが、彼がギャンブルを通して得た人生哲学は素晴らしく、感激したのだが、彼ですら、これまでの収支決算をすれば、マイナスなのだという。
ギャンブルをやっていなければ、もっと金持ちになっていたかもしれないが、しかし、ギャンブルをやっていなければつまらない人生になったかもしれないなと思う。

だが、私は、ギャンブルで勝ち続けることは可能ではないかと思う根拠がある。
中学1年生の時だったが、引きこもりの常で、よく家の中で一人遊びをしていたが、ある時、コインを使った単純なゲームを考えた。
ルールはもう忘れたが、あきらかに、勝率は50%、つまり、勝つか負けるかの2通りが、同等の確率で出るものだった。
ところが、私は、その1日、どれほど長時間続けても勝ちっぱなしで、100連勝を超えていたと思う。
だが、そのゲームはやはり偏りはないようで、翌日は勝率は、きっちり50%だったのだ。
翌日は、「連勝記録をもっと伸ばそう」とつまらないことを考えたからであろう。
1日目は、とにかく無心だったのだ。

ドストエフスキーの『賭博者』でも、ギャンブルをやったことのない老婆が、ルーレットでゼロばかりに賭け続け、大金を手にするが、次に同じことをやった時は金を失ってしまった。
2度目は欲があったのだろう。
どうやればギャンブルに勝つかは、テクニックの問題ではない。
無心になれば勝てるのだ。
あるいは、相手がいるなら、その相手を自分よりはるかに無心から遠い精神状態にすれば勝つのである。
これは、プロギャンブラーの兵法だ。しかし、これもまた難しいのだ。
サイコロかコインを持ち歩き、いつも練習することだ。
そして、無心になる修行をすることだ。
人生そのものがギャンブルである。
無心になることで、あなたは確実に勝つのである。









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運命が決まっているなら、努力は虚しいか

のうさぎさんのご質問にお答えする。

◆質問
kayさま
こんばんは

全てが運命だとしたら
努力が空しく感じられる気がします。

だけど
努力は決して空しいものではないと思うのですが
どう考えたらいいのでしょうか?

◇回答
努力が虚しいと言うなら、その通りだ。
もしそうでないなら、そんな質問は出なかったはずだ。
これがお答えできる全てである。
そして、努力をするのもしないのも運命だ。
懸命に努力する運命であれば、そうするだろう。
しかし、その結果、思ったような成果を得られるかどうかは全く分からない。
僅かなものしか得られなかったり、それどころか、全てを失うかもしれない。
だが、逆に、思いもかけぬ良いものを得るかもしれない。
しかし、それはあなたにコントロールできることではない。

ところで、私はやらないのだが、ギャンブルというのは、間違いなく面白いものだ。
ヘミングウェイもドストエフスキーも大好きだった。
しかし、ギャンブルは、決して、儲かるから面白いのではない。
いかなる経験豊かなギャンブルの名人といえども、トータルで黒字になることは決してない。
ギャンブルは、損をするから面白いのだ。

岡潔という偉大な数学者は、毎朝、木の切り株に石を投げていた。この行為を、岡潔が、石が当たるかどうかで吉凶を占っているのだと思った人がいた。
しかし、違うのだ。
当てようと思って石を投げても当たらないこともあれば、思いがけずに当たることもある。
大抵は、うまく当たらなかった。ギャンブルで言えば、負けが混んでいることになる。
それを見て、岡潔は、自分には、この世のいかなることもコントロールできないという事実を感じていたのである。
もし、何かでうまくいっても、それは自分の力ではなく、ただ運命だったのだと分かるようになる。
だから、岡潔は、いかなる成果を上げてもことさらに誇らず、その成果によりかかることもなかった。
だから、彼は幸福な一生を終えたのである。
私もカードを持ち歩き、時々1枚引いてみる。良いカードの時もあれば、そうでないこともある。
私から見れば、どんなカードが出るかは偶然である。しかし、それですら、本当は、あらかじめ決められた運命だったのである。
その時、不思議な喜びを感じるのである。実に経済的なギャンブルである。









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腹が据われば運も良くなる

運と言うとき、その多くが、金運か女運(男運)と言うのではないかと思う。
あまり、健康運とか安全運などと言わないと思う。
ギャンブル運と言うことはあるが、ギャンブルとは、あくまで遊びであり、実利を求めるものではない。いかなるギャンブルの名人であれ、自分がいくら稼ぐかの予想は付かないし、トータルで言えば、収支はある程度のマイナスになるのである。

ところで、文豪と云われる作家の作品というものは、現実以上のリアリティがある。なぜなら、彼らは例外なく、優れた直感の持ち主であり、直感は真理を直接に知る唯一の方法だからだ。科学なんてのは、ただ、直感の正しさを裏付ける程度のものに過ぎない。
ソクラテスは、いかなる職業であれ、優れた仕事をする者は、間違いなく、ダイモーンの援助を受けていると言ったが、ダイモーンとは、内なる英知を使える声のことで、それが即ち直感なのだ。
この素晴らしい直感により、女運や金運について考えてみよう。

ゴーリキーの『二十六人の男と一人の少女』の中に、とてもモテる男が登場する。
彼は、酔っ払いながら、「俺って、どうしてこうも女運がいいのだろう」と言う。
実際、彼はどんな女にもモテるのだが、女にモテる以外には、何一つ取り得の無い男でもあった。
しかし、私には、彼がモテることに対するリアリティを感じるのだ。
さすが、ゴーリキーであると思う。
それはどんなところかと言うと、この小説のタイトルにもある26人の男達とは、社会の最下層にいる惨めな男達だった。あまりにも身なりが貧しく、公園にも入れてもらえないほどで、人生に何の希望もない、いったい、生きていることに何か意味があるのか分からないような男達なのだ。
しかし、その、狙った女は必ず落とす色男は、そんな男達にも、愛想よく親しげに接するのである。それも、全く普通にであった。彼自身は、社会的にはそこそこの立場で、若く、軍人上がりで逞しかった。彼のような男は、普通は、そんな男達を見下し、虫けらのように扱うに違いない。
それで、その男達も、彼のことは、女たらしの軽薄な男だと思いつつ、好意を感じていたのだった。

はじめに、ギャンブルは遊びだと述べたが、特殊な状況で偶然とは思えない運を発揮する者がいる。
ドストエフスキーの『賭博者』で、初めてギャンブル(ルーレット)をやった老婆は、最初から最後まで0に賭け、大勝ちする。彼女は、誰が止めても、0に賭けることを決して止めなかった。
この話は、ギャンブルに通じた人達もよく取り上げるのである。やはり、何か感じるのであろう。
そもそも、ドストエフスキー自身、どうにもならない賭博好きである。
また、彼は、銃殺で処刑される寸前に恩赦となり、運というものに対して、特別の思いもあるのだろう。

明治、大正の偉人、岡田虎二郎は、岡田式静坐法という、人間形成のための行を教えていたが、指導を受けていたある男が、金に窮していることを訴えた。
すると、虎二郎は、「金?腹に力が付けば、金はいくらでも出来ます」と答えた。
私は、虎二郎のこの言葉が印象的だった。
『二十六人の男と一人の少女』の登場する、軍人上がりの(といっても大した軍人でもなかったが)色男は、普段は軽薄な役立たずなのだが、女を口説く時だけは、なぜか腹が据わるのだ。
この色男は、26人の男達に、ターニャという名の16歳の美少女には、お前でも歯が立たないだろうと言われ、プライドを傷付けられて取り乱したが、それでも、女に向かうとなぜか腹が据わるのだろう。もちろん、ターニャも見事陥落させた。
『賭博者』の老婆も、誰の言うことも聞かず、0に賭け続けた時は、やはり腹が据わっていたのだ。
だが、その時は大勝ちしたが、この老婆が次にまたルーレットをやり、同じように0に賭け続けた時、彼女は前の時のように腹が据わっていなかった。
それで、惨敗し、大金を失ったのである。

さて、なぜ腹が据わっていると運が良いのだろう?
そもそも、腹が据わるとはどういう意味だろう?
日本の学校では、いつの頃からは分からないが、おそらく、西洋の流儀に倣い、「胸を張って腹を引く」という姿勢を取るよう、子供を指導した。
それから、日本人は、魂と心が分離し、腹が据わらなくなったのだ。
これは、多くの賢い人達が指摘していることであるが、当然の結果なのである。
胸を張って腹を引くと、胸にある自我は魂のある腹から離れ、自我を中心に置くようになる。
それとは逆に、日本人の本来の姿勢である、肩の力を抜き、自然に背筋を伸ばした姿で立ち、あるいは座ると、胸が腹に近付き、心は魂に溶けるのである。
赤ん坊を見ると分かるが、腹で呼吸している。
だから、赤ん坊はエネルギーに満ちている。
エネルギーの根源たる腹に完全に一致しいているのだ。
学校の誤った教育に騙されず、下腹に重心を置き、肩から力を抜いて、背筋を伸ばすことだ。椅子の背もたれは使ってはならない。
電車の中で、ふんぞり返って座っているのは、最近では男性ばかりではなく、女性もそうなってしまっている。
大切な腹を捨ててしまったような者に、いかなる運もなく、力は漏れ続けるだけであろう。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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