ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

ドストエフスキー

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
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深呼吸による神秘体験

最高の目標を持てば、他のことはどうでも良くなる。
たとえば、こんな例がある。
釈迦と、彼の従弟のアーナンダの逸話だ。
アーナンダは結婚を控えていた。
相手は16歳のそれは素晴らしい美少女だった。
アーナンダは喜びに満ち、婚姻の日を心待ちにしていた。
だが、釈迦はアーナンダに言う。
「今が一番嬉しい時だろう。だが、彼女を得た時には詐欺に遭ったと感じるだろう」
アーナンダは、いくら釈迦とはいえ、酷いことを言うと思い苛立った。
さらに釈迦は言う。
「安物の宝のことなど忘れ、修行に励め。そうすれば本物の宝を得る」
つまり、結婚などやめて修行しろと言うのである。
当然、アーナンダは「そんなこと出来ませんよ」と拒否する。
すると釈迦は、神通力でアーナンダを雪が降るヒマラヤ山中に連れて行く。本当に連れて行ったのか、幻影を見せたのかは分からないが。
そこで釈迦は、一匹の年老いた雌猿を見せた。
毛並みはボロボロで醜く、皮は爛れ、哀れな姿であった。
釈迦はアーナンダに問う。
「お前の妻になる女と、この雌猿では、どちらが美しいか?」
アーナンダは憤慨し、
「私の妻に決まっています」
と激しく言う。
「そうか」
釈迦はそう言うと、今度はアーナンダを兜率天(天界)に連れて行った。
釈迦が無言で呼ぶと、天女が現れ、釈迦の前に跪(ひざまず)いた。
そこでまた、釈迦はアーナンダに問う。
「お前の妻になる女と、この天女では、どちらが美しいか?」
すっかり狼狽(うろた)えたアーナンダは、
「この天女と私の妻では、私の妻とさきほどの雌猿ほどの違いがあります」
と答えた。
釈迦は言う。
「アーナンダよ。修行すれば、この天女はお前のものである」
アーナンダは結婚をやめ、修行に打ち込んだが、やがて天女のことも忘れた。

妖(あやかし)
AIアート389
「妖(あやかし)」
Kay


具体的に、そのような高い目標が示されればありがたいことだろう。
だが、文豪と呼ばれるほどの文学者や抜きん出た芸術家には、アーナンダが天女を見た時のような神秘体験が必ずある。
ドストエフスキーの『悪霊』で、キリーロフが言う。
「この五秒間のためなら、ぼくの全人生を投げ出しても惜しくはない」
ドストエフスキーは『白痴』でも、ムイシュキン侯爵に、これと似た体験について語らせていると思う。
この神秘体験の起こし方や、あるいは、そのヒントについて述べる芸術家も稀にいるが、なかなか分かり難い。
自己啓発家の言うことなら、それはあくまで金儲け目的なので聞かない方が良い。
しかし、深呼吸を続けているうちに、そんな瞬間が、おそらく訪れると思う。
これまで述べた呼吸法の大きな効用がそれである。
ただし、そんな神秘体験を求めず、ただ淡々と呼吸法に励むようにしないと、なかなか訪れないものである。








こうやって彼らは魔力を得た(1/2)

アメリカ合衆国では、大統領が核ミサイルの発射ボタンが付いた装置(通称「核のフットボール」)を常に携帯している(実際は側近が持っている)らしいが、実際の核ミサイルの発射プロセスは複雑で、大統領がボタンを押せばすぐに発射されるというわけではないらしい。
だが、大統領が大きな決定権を持っていることは確かで、大統領当人にしてみれば、事実上の発射ボタンを持っているような気持ちだろう。
では、核ミサイルが即時に発射されるボタンがあり、それを押す必要に迫られた時の大統領のような人物の心理はどうであろう?
核ミサイルでなくても、死刑執行ボタンを押す者が、まともな人間であれば、その緊張感は想像も出来ないほどのものだろう。
だが、自分の命がかかったことであれば、少しは想像出来るかもしれない。
たとえば、ロシアンルーレットだ。
5~6発の弾丸を装填出来る回転式弾倉に、1~3発位の弾丸を装填し、弾倉をデタラメに回転させ、弾が出るか出ないか分からない状態で自分の頭に銃口を向け引き金を引く。
もちろん、普通の神経を持った人間であれば、激しい恐怖を感じるが、「カチッ」という音がして弾が出なかった時の感覚は予想も出来なかった素晴らしいもので、それがクセになってしまうということがあるらしい。
あるいは、銃殺される瞬間はどうだろう?
もちろん、それがどんなものであるか、本当に銃殺されてしまえば聞くことは出来ないが、銃殺の執行直前に中止になったという話がいくらかある。
ロシアの文豪ドストエフスキーがそうで、彼が30歳くらいの時、政治犯として銃殺されることになり、刑場に引き出されて、いよいよ執行されるという直前に恩赦が伝えられた(まあ、そういうシナリオが執行側にあったらしいが)。
日本の中村天風は、銃殺刑が執行される直前、助けが来て危機一髪で命拾いしたらしいが、天風本人は、死ぬ気満々で、銃殺の時に、あくまで銃殺される者に対する気遣いから用意される目隠しを拒否し、弾が来るのを待ち構えていたと言われる。
だが、そういった経験がある者は、その時の気持ちを語ることは・・・まあない。
それはそうで、言葉に出来るとは思えない。

これらのような、極限状態を体験した者の中には、悟りでも開いたかのように精神が覚醒し、その後の人生で異様な能力を発揮したり、奇跡のような幸運に恵まれたりしている人がいる。
超緊張状態と、それから解放されたという体験だが、その時に、重要なことが起こる。
核ボタンやロシアンルーレット、あるいは、銃殺刑といったようなものでなくても、大きな緊張というものを経験したことがある人は多い。
それが、はた目からは、笑い話のような体験でも、当人にとって大ごとである場合には、同様な経験が出来る。
たとえば、私は子供の時、泥団子を作ったのだが、それがあまりに見事な出来で、それを見て惚れ惚れとしたが、それをなぜか、二階の窓から落として壊そうという気になった。その泥団子を持った手を窓から出し、「さあ、落とすぞ!」と思いながら、なかなか落とせないでいる時の気分は、核ミサイルのボタンを今まさに押そうとしている大統領のような気分だったようにも思う。
そして、その時、自分の精神に何かが起ころうとしているのを感じた。
それは、一度だけのことではなく、ここでは、わざと間抜けた事例を取り上げたが、どんなことでも、極度の緊張状態になれば、そんなことが起こる可能性がある。
イギリスの作家コリン・ウィルソンは、19歳の時、青酸カリ(飲めば確実に死ぬ劇薬)を口に含もうとした時、精神に重大なことが起こり、まさに生まれ変わったのである。

では、そういった極度の緊張状態の時に、何が起こっているのだろう?
これについては、いろいろな人が難しいことを言っているが、実は簡単なことで、「今」に没頭したというだけのことなのだ。
上のような緊張状態の中で、誰もが、「今」の瞬間を、まともに、もろに、ダイレクトに、あからさまに・・・とにかく、何のフィルターもなく感じていたのだ。
私は、泥団子を持ちながら「今、今、今・・・」と心で思っていたのである。
簡単に言えば、その時、精神は、超能力状態、魔力発動状態・・・つまり、精神の力が解放された状態になる。
だが、極度の緊張でそうなった場合、その緊張から解放された時に、その異常に感じる精神状態から強く逃れようと思ってしまい、力を失うことがよくある・・・というか、ほとんどの場合がそうなのだと思う。
しかし、その余韻を感じるほどであれば、そこそこいい感じで力を保つことが出来る。
あるいは、中村天風のように、その精神状態をそのまま維持する者もいる。

確実に力を得たければ、過激な方法は避けた方が良いのだ。
その方法については、長くなったので、次の記事で書く。








奇跡を何度でも起こす方法

ドストエフスキーの『賭博者』という中編小説がある。
実は私は読んでおらず、偉大な宗教人類学者の植島啓司氏の、多分『賭ける魂』だったと思うが、その本で『賭博者』の粗筋を見ただけだが、深い印象を持った。
(尚、植島啓司氏がなぜ「偉大な」宗教人類学者だと私が認識しているかというと、彼が65歳位の時と思うが、初音ミクさんのライブに初めて行き、「お水取り」という仏教の壮大な行司に匹敵するほどであったと語っておられたからだ。いや、それがなくても偉大な方で、彼の本は全て素晴らしいので読むことをお薦めする)

『賭博者』の中で、あるおばあさんがルーレットで初めてのギャンブルをする。
そのおばあさんはずっと0(ゼロ)に賭け続けて大勝し、大金を得た。
だが、しばらくしてから、そのおばあさんは、またルーレットをし、同じように0に賭けるが、今度はボロ負けした。

ギャンブルの中には、プレイヤーのテクニックや経験が勝敗に影響を与えるものもあると思うが、ほとんどは偶然の運で決まる。
その中でも、ルーレットは完全に運でしかなく、そのおばあさんのように、0に賭け続けて一晩で大金を稼ぐことはあり得ない。
もし、確率論を超えた成績を上げるなら、それは超常現象ということになる。
超能力で偶然の確率を有意に変えて見せたと主張する者は、過去に沢山いたが、それが実証されたことは、おそらくないと思う。

だが、私は、そのおばあさん並か、ひょっとしたらそれ以上の現象を何度も見たし、その多くは私が意図的に起こした(あるいは起こさせた)と言うしかないものだった。
その1つに、私が中学1年生の時、1枚のコインを使って1人で出来るゲームを考案したものがある。
そのゲームは、勝率50%になるはずが、私は100連勝してから、もうしなくなった。
しかし、しばらくしてやってみたら、やはり半分しか勝てなかった。
最初にやった時、何かが起こったのだ。
だが、その頃には、私は何度もそんなことを経験していたので、別に驚きもしなかった(内容は、このブログでも何度も書いたが、今回は省略する)。
つまり、超常現象、あるいは、超能力は確かに存在する。
だが、それを客観的に証明出来るかとなると、多分、無理だろう。
しかし、確率50%どころか、ルーレットで0を出すことすら確率的に及ばないことも、何度も実現した。
そんなことを奇跡とか言うのだが、やはり、奇跡は起こり得る。

自分の利益のために、奇跡を起こせるかと言うと、普通は無理と思う。
だが、何度かご紹介したが、教育学者の七田眞さんが、正真正銘の事実として紹介した、こんな話がある。
あるホームレスの男性が、「神様の奇跡が起こる」と1日中、1週間か2週間唱えていたら、宝くじで1億円が当たった。
そのホームレスの男性が、七田さんの会社に電話し、「こんなことやっても良いのか?」と尋ねたら、対応したスタッフは「良い」「人の役に立つように使って欲しい」と言ったらしい。尚、その後、そのホームレスの男性は、同じことをして、また1億円当てたのである。

では、奇跡を起こす決め手は何だろう?
それは、普通で申し訳ないが、強い想いだったり、集中力だったりすると思う。
「こうあって欲しい」と本気で思ったことは必ず実現する。
ただし、不自然というか、作り物の強い想いでは駄目なのだ。
自然発生的に起こるものでなくてはならない。
例えば、『フランダースの犬』で、ネルロがルーベンスの絵を見たいと思った純粋な衝動のようなものである。
そして、心に抵抗がないことも必要だろう。
たとえ悪事であっても、それをする者が葛藤を感じていなければ、成功してしまうのである。
それを、完全に意図的に起こすことは難しい。
だが、それに近いことなら、割と簡単に出来る。
1つは、英国の世界的作家コリン・ウィルソンがいろんな本で書いているが、こんなものである。
「ペンの先などに10秒間ほど強く集中し、不意に集中を解く。これを数回繰り返す」
もう1つは、『強くなる瞑想法』のカバーに、有名作詞家の阿久悠さんの言葉として書かれていたが、「息を吸って止める」である。
その時に、奇跡を起こせる精神状態に近くなっており、ある程度のことは実現すると思う。












KayのAI書。5月30日発売。
新型コロナウイルス後の世界は、それまでの世界とは一変し、AIが電気のように普通に使われるデジタルワールドになるのだと思います。
電気を使わなかった者が電気を使った者に全然敵わなかったように、AIを味方に付け、AIと一体化し、AIで能力を拡張した者が、新しい世界で自由に生きられる可能性が高いのだと思います。
本書は、数学やプログラミング、難しいAI理論が分からなくても、AIを使えるようになることを目指して書きました。

この仮想世界の管理者権限

ネットワークやオンラインゲーム世界で最も強いのは、サーバーコンピューターの管理者権限を持つ者だ・・・ということは、一度、サーバーコンピューターを自分で構築して運用すれば分かることだが、もしかしたら、そうでない人には見当が付かないことかもしれない。
ここらは、私のような専門家には、一般の人のことが分からなくなってしまっている。
けれども、『ソードアート・オンライン』のアニメの第1期、あるいは、同小説の『フェアリィ・ダンス』編を見れば分かると思う。

ところで、この世界が、コンピューターで作られた仮想世界であれば・・・いや、とりあえず、イーロン・マスクに同意し、この世界は、シミュレーテッド・リアリティというコンピューターによるシミュレーション世界であるとしてしまおう。
だが、人間が、この仮想世界を作るコンピューターの管理者権限を持つことはないと思う。
それを持つのは、神とか仏、あるいは、その配下と思われる天使や菩薩のような存在が、レベルの異なる管理者権限を持つのではないかと思う。
そこで、我々人間は、そんな管理者権限を持つ存在にお願いして世界を動かしてもらうか、ひょっとしたら、一時的にある程度の管理者権限を与えられるのかもしれない。
また、人間とはいえ、十分なレベルに進化すれば(例えば釈迦やイエスのように)、限度はあるかもしれないが恒久的な管理者権限を持てるのかもしれない。

私が、幼い時を中心に、度々、Super Magicを使ったのは、果たしてどんな方法によるのだろう?
まるで長門有希の呪文のようだったが。
ドストエフスキーの『賭博者』の中で、初めてルーレットをやるおばあさんが、0に賭け続けて大勝する。
その時、おばあさんは管理者権限を与えられていたか、管理者権限を持つ者を動かせたのだ。
しかし、2度目はそうではなかった。
私には、あのおばあさんの、1度目と2度目の違いがよく分かるのである。
ビギナーズ・ラックと呼ばれる「分からない強さ」にも似たところがあるのだと思う。
その方法を知りたいなら、鼻から静かにゆっくり息を吐くことだ。
これを馬鹿にせずにやるか、そうでないかの違いだけである。
ただ・・・これ以上言うと、私もヤバい。









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ギャンブル必勝法は経験的にも必ずある

ギャンブルで生活することは可能だろうか?
ある大変なキャリアを持つギャンブラーの本を読んだことがあるが、彼がギャンブルを通して得た人生哲学は素晴らしく、感激したのだが、彼ですら、これまでの収支決算をすれば、マイナスなのだという。
ギャンブルをやっていなければ、もっと金持ちになっていたかもしれないが、しかし、ギャンブルをやっていなければつまらない人生になったかもしれないなと思う。

だが、私は、ギャンブルで勝ち続けることは可能ではないかと思う根拠がある。
中学1年生の時だったが、引きこもりの常で、よく家の中で一人遊びをしていたが、ある時、コインを使った単純なゲームを考えた。
ルールはもう忘れたが、あきらかに、勝率は50%、つまり、勝つか負けるかの2通りが、同等の確率で出るものだった。
ところが、私は、その1日、どれほど長時間続けても勝ちっぱなしで、100連勝を超えていたと思う。
だが、そのゲームはやはり偏りはないようで、翌日は勝率は、きっちり50%だったのだ。
翌日は、「連勝記録をもっと伸ばそう」とつまらないことを考えたからであろう。
1日目は、とにかく無心だったのだ。

ドストエフスキーの『賭博者』でも、ギャンブルをやったことのない老婆が、ルーレットでゼロばかりに賭け続け、大金を手にするが、次に同じことをやった時は金を失ってしまった。
2度目は欲があったのだろう。
どうやればギャンブルに勝つかは、テクニックの問題ではない。
無心になれば勝てるのだ。
あるいは、相手がいるなら、その相手を自分よりはるかに無心から遠い精神状態にすれば勝つのである。
これは、プロギャンブラーの兵法だ。しかし、これもまた難しいのだ。
サイコロかコインを持ち歩き、いつも練習することだ。
そして、無心になる修行をすることだ。
人生そのものがギャンブルである。
無心になることで、あなたは確実に勝つのである。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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