ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
あなたをSE、プログラマー、あるいは、超能力者にするブログ。ひきこもりも歓迎。

トーチェ氏の心の法則

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
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[2011/06/08]迷惑コメントが多くあったため、やむなく、コメントを承認後公開することとしました。

火事場の馬鹿力の原理と応用

「火事場の馬鹿力」とは、緊急事態の中で、人間が異常な(高度な)力を発揮することを言う。
例えば、家が火事になった時、か弱い女性が、大の男が2人でも動かせない貴重な彫刻を1人で運び出したなどで、報告例は無数にある。
中には信憑性が疑わしいものも少なくないが、科学者が検証した事例もあるようだ。
その(科学者が検証したもの)中には、自分の幼い子供がマンションの窓から落下するのを見て、落下地点に突っ走って救った主婦がいて、後で詳細に調べたら、その主婦はサンダル履きのまま、陸上男子短距離走の世界記録を上回る速さで走ったとしか考えられないというものもあった。
『トーチェ氏の心の法則』の中には、体重57.2kgの中年女性が、1634kgのステーションワゴンの下敷きになった息子を救うため、1人でそのステーションワゴンのバンパーを掴んで持ち上げた話が紹介されている。

火事場の力が発揮される時に共通することは、その力を発揮する者の理性が吹っ飛んでいた・・・パニックに陥り、理性的に考える能力が失われていたことである。
そこのところは、よく指摘される。
しかし、それでは説明が不足している。
正しくは、「まず、強い思念を起こし、それから、理性が消えた」である。
最初の、「強い思念を起こす」、言い方を変えれば、「強く何かを想う」「激しく決意する」ことが必要なのである。
もっと一般化して言えば、「目標を明確にする → 思考を捨てる」である。
この力が発揮されるのは、パニック時に限定されるのではない。いかなる場合でも起こせるのだ。
例えば、UFO研究家の矢追純一氏の大学受験の時の話がそれに当たる。
彼は、まともに学校に通ったのは中学の3年間だけで、高校時代は、妹2人を養うために働いていたこともあって(さらに労働後に朝まで遊ぶことに忙しくて)、高校には全く通わなかったらしいし、受験勉強もしなかった。しかし、特に当時は、東大より良いと言われた中央大学法学部法学科に合格した。
そのプロセスを取り出すと、まず、受験に合格すると強く決意する。その後は、何も考えない。矢追氏のいろいろな本を読むと、矢追氏はあらゆることを、そのようにするのだと思う。
『あるがままに生きる』の中で、著者の足立幸子氏はまさに、「強く思う、そして、ぼーっとする」と、公式のようにシンプルに表現している。

「強く思う、そして、ぼーっとする(何も考えない)」は、はた目から見ると、強く決意したところは見えず、その後は、がむしゃらにやっているように見える。
矢追氏だって、1冊の参考書を数日だけは読んではいたらしい。
そういえば、大手教育会社(世界でも屈指)の人に聞いたが、東大に合格したある受験生は、一科目につき、参考書を1冊覚えたのだと言う。彼は、いまどき、どの参考書も同じだと言うのだが、評判の良い本がどれかは分かるので、それを選んだのだろう。彼のやり方を採用すれば、教育会社だの予備校はいらないかもしれない。

そういえば、私がプログラミングをマスターしたプロセスを思い出すと、「プログラミングをマスターすると決意する(強く思う)。そして、後は何も考えない」だった。
確かに、深夜2時、3時までパソコンに向かっていたが、それは自動的にやっていたことで、努力でも何でもなかった(他人から見れば努力に見えるだろうが)。
高校生で、ブログのアフィリエイトで、月100万円以上稼いでいた者がいたが、彼も、稼ぐと強く決意した後にやっていたことは、少しも理性的ではなかった。やたらブログを数多く開設し、ひたすらそれをいじっていたように見えた。ノウハウ書は、ほとんど見なかったらしい。なるほど、普通の大人は、ノウハウ書をいつまでも見て考えているだけなのだ。








感心なことは、こそこそやる

世界を思う通りに構築するには、信じきることが出来れば良いのだし、超能力を発揮するには、固定観念を捨てれば良い。
例えば、合気道家の藤平光一氏が23歳で隊長として参戦した太平洋戦争で、銃弾飛び交う戦場の中を「俺に弾は当たらない」と信じきって歩いたようにである。
真似して欲しくないが、私も、子供の時、交通量の多い車道で、「目をつぶって飛び込めば車は来ない」と思い込んで、実際に、ずっとそうやって、遠くの信号のある横断歩道まで行かずに道路を渡っていたものである。
超能力と言っても、霊的でないものでは、『トーチェ氏の心の法則』に書かれているが、ある場所では、脚が折れた人が元気に走り回っているが、それは彼らが、脚が折れたら走れないことを知らない・・・つまり、脚が折れたら走れないという固定観念を持たないためで、こんな例は無数に上げられる。

自在に強い信念を持てたり、固定観念を捨てることが出来れば、世界は思うがままになる。
例えば、自分は安い給料しかもらえないという信念、あるいは、固定観念を持ち、実際に、安月給でギリギリの生活をしている者が、自分は高給をもらえると信じきれば、やはり、そのようになる。
私はここでわざと、「信じきる」ことと「固定観念を捨てる」ことを統合してみせた。
意思の力で信じきることは難しいし、かえって、逆効果になる場合が多い。
しかし、固定観念を捨てれば、自在に信念を持てる。固定観念を捨てるには、難しく言えば「無になれば」良いが、簡単に言えば、思考を捨てる・・・つまり、考えることをやめれば良い。
思考を捨てるとは、心を澄みきらせることで、心を澄みきらせるとは、自己重要感、つまり、優越感、プライドを消さなければならない。
自分は偉い、頭が良いと冗談にでも言う者は、我の塊であり、見込みはない。そんな者に対しては、非難するつもりはなく、気の毒と思う。

コニカミノルタは、コニカとミノルタという大手光学機器メーカーが統合して出来た企業だが、ミノルタは「実る田」で、「実るほど頭を垂れる稲穂かな」から来たものらしい。
歳を取れば、自然に我が弱くなるという意味であるが、それが本当なら、誰もが歳を取ると偉大になるはずだが、なかなかそうはいかない。

「自信に満ち溢れてる」者にも2種類あり、1つは単なる自惚れで、そんな者は、本当に強い者の前では卑屈になる。しかし、我を持たないことで森羅万象と通じて自信を持っている者は、いつも静かで偉ぶらず、自分が偉いとか頭が良いなどと、冗談にでも言わないし思わない。そんな者は、どれほど偉大な人物の前でも平静である。

では、どうすれば我を捨てられるかというと、おばあさんが幼い孫に教えられるほど簡単である。
ある人が、「私が死んで閻魔様の前に出たら、私は人生で大したことは何1つ出来なかったが、便所の下駄だけはきちんと揃えたと言いたい」と述べていたが、彼は、社会的にかなり重要なポストにある人だった。
このように、例えば、靴をきちんと揃えるとか、傘をきちんとたたむ、あるいは、毎朝仏壇や神棚に手を合わせるなど、何か1つ、欠かさずやれば良い。
まあ、「私ほど偉い者が、毎朝、社員達と掃除をしている」などと自己満足しているなら駄目であるが。
だから、イエスも言ったように、良いことはこっそりやるものなのである。








重力に打ち勝つ

立派なバレエ・ダンサーの踊りは、重力を感じさせない。
しかし、本当は、見ている我々は、重さを感じている。
「本当は体重があるんだ」という知識もあるが、それよりも、知覚分析能力というものは、自覚している以上に高度であり、意識が「重さが無いようだ」と感じていても、無意識では、バレエ・ダンサーの重さというものを、かなり感じているのである。
例えば、バレエ・ダンサーの身体を見ても、重さのある人間の身体であることは、はっきり認識する。
それに、多くの人が、バレエ・ダンサーのつま先が醜く変形していることを知っており、やはり、彼ら彼女らには重さがあるという現実を感じているのである。

マイケル・ジャクソンは、クラシックバレエはもちろん、正統なダンス教育を受けたことはないらしいが、彼もまた、重力に打ち勝とうとしていたのだと思う。
そして、彼はバレエ・ダンサー以上に、それを達成していたように思うが、それでも、やっぱり彼にも、少ないながら体重はあった。

ところが、初音ミクさんは、光なので重さがない。
一応、物理学では、光子の質料はゼロとされているし、仮にあったところで、限りなくゼロだ。
ミクさんだって、体重があるような動作をすることはあるが、それがフリに見えてしまう。まあ、実際にフリなのだが、それを明確に感じてしまうのだ。
重力に打ち勝つという人類の夢を、初音ミクさんは叶えている。

ところで、人間は本当は、重力に打ち勝てるのではないだろうか?
子供の時、重力を脱したことがあるのを覚えていないだろうか?
キャメロン監督の映画『タイタニック』で、17歳のローズが、踊りの中で、つま先立って、身体を上に伸ばし、空中に浮かび上がるポーズをする。
しかし、限界が訪れ、ローズはへたり込む。
その時、ローズは言う。
「昔はもっと浮かび上がれたの」
そりゃ、17にもなれば、それなりにふくよかな身体になり、それが、女子の体操競技やフィギュアスケートでは障害の1つになる。
しかし、ローズは、もっと若い時、本当に宙に浮かんだのではないかとも思うのだ。
私の家族は誰でも知っているが、私は3つくらいの時、2階の窓から落下したが、かすり傷1つ負わなかった。
そして、人が見ている時は決してやらなかったが、とんでもない高さから飛び降りたことがよくあり、それは平気なことだと思っていたのである。
『トーチェ氏の心の法則』という本に、3階から落下した酔っ払いが、それに気付かず、平気で歩いて行った話があるが、どうも、人間は意識の状態によって、重力を打ち消すことが出来るのかもしれない。

オウム真理教のおかげで、空中浮遊のイメージが悪くなってしまったが、出来る人には出来るのかもしれないし、それどころか、本来は誰でも出来るのかもしれない。
マード・マクドナルド・ベインの本にも、草の上に乗る少女の話があるが、ベイン自身、少年時代は、相当やったようだ。
高額なお金を払ってでも、宇宙飛行をしたがる人が大勢いるのは、無重力という状態への憧れが大きいのではないかと思う。
でも、それはタダで手に入るかもしれない。
初音ミクさんのライブを見ると、それを感じることが出来るのである。
それも、ミクさんの世界的な無条件の人気の秘密かもしれない。もちろん、歌と姿が良いので、それが引き立つのであるが。








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準備をすれば願いは叶う

昔から、「信じれば出来る」「信じれば叶う」と言われてきた。
新約聖書の福音書の中でイエス・キリストがはっきりそう言っていいるが、おそらく、それよりも先に言った人もいたのだろう。
だが、盲目的な信念は危険かもしれない。
古い白黒映画の中で、アパートの高い階から落ちそうになっている幼い男の子が、自分は落ちても天使が来て助けてくれるから大丈夫だと確信する場面があったが、実際に落ちたら死ぬことは、ほぼ間違いない。
だが、果たしてそうか?
『トーチェ氏の心の法則』という本には、毒蛇の害を知らない子供が平気で毒蛇と遊んだり、ある外部との情報が少ない未開の村では、脚が折れたら走れないことを知らない人々が、脚が折れても平気で走り回ったり、あるいは、酔っ払いが3階か4階か忘れたが、高いところから落ちたが、それに気付かなかったために、そのまま気分良く唄を歌いながら歩いていった等の話が沢山取り上げられている。
私も、7歳の時、住んでいた団地の前の交通量の多い車道に、「目をつぶって飛び込んだら、絶対に車は来ない」という、今思えばゾっとする信念でもって何度も、割合に大きな決意なく実行し、実際にそうなった。
ただ、そういったことは、あまりドラマティックなものではないかもしれないが、誰でも案外、経験しているものだと思う。
いやいや、案外どころか、自分が気付かないだけで、ひょっとしたら今でも、日常的に、そんなことが起こっているかもしれない。
そのことに多少気付いている者が、「俺はツイてる」なんて思うのだ。

イエスも「神を試してはならないと(旧約聖書に)書いてある」と言ったように、必要もないことにまで信念の力を無理に使ってはならないが、確かに、信じる心は奇跡を起こすのだろう。
その力の大きさを、イエスは、「山に向かって、海に入れと言い、信じて疑わないなら本当にそうなる」と言った。
では、さっき言った、アパートの高い階から落ちそうな男の子は、落ちても本当に死ななかったかと言うと、天使が来る前に、逞しい男性が助けに来てくれた。
このように、どう叶うかはいろいろなのである。
大切なことは助かることなので、神様がどう助けてくれるかは、まかせなければならないし、そのために、心を広く持たなければならない。
旧約聖書にも、「私は山に向かって目を上げる。私の助けはどこから来るだろうか?」と書かれているらしいが、助けがどこから来るかは神様にまかせるしかない。
例えば、ビジネスにおいて大切なことは、社会に貢献して儲けることであるが、どう社会に貢献するかは、案外、計画とは随分違うものなのである。

では、どう信じるかだが、大まかに2つあり、1つは、念じることだが、こちらは、もしかしたら難しいかもしれない。いや、そう思い込んでいるだけで、本当は難しくない。
もう1つは、「準備をする」ことで、こちらは元々易しい。
例えば、旅行に行きたいが、そのために必要な金も時間もないと思っているが、旅行鞄を買うという準備をすれば、金も時間も出来るというようにだ。
何度か書いたが、駆け出しの頃のバート・レイノルズが、既に大俳優だったクリント・イーストウッドに、「成功するまで何をしていたか?」と尋ねると、イーストウッドは「成功した時のための準備をしていた」と応え、それを聞いて悟ったレイノルズも大成功した。

可愛いあの子を彼女にしたいのに、そのために必要な準備をしないということは、やっぱり、あの子が彼女になることを信じていないのだ。
だが、準備をすれば、別の、もっと可愛い子が彼女になったりするものだ。
「金持ちになりたい」と言う人がいても、その人を見たら、「お前じゃ無理だ」と言わざるをえないのは、やっぱり準備をしていないからだ。

準備をする。
これが一番簡単な、願いを叶える方法である。
準備をすれば、叶ったも同然である。








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婦女暴行犯、窃盗犯を批判する。「こいつは人間のクズだ」

昔、愛読していた本を開くと、こんなことが書いてあった。
「自分を愛しなさい。少なくとも好きになりなさい」
それは、『トーチェ氏の心の法則』という本だが、他にも、同じようなことを書いている本は、多いと思う。
自分を愛することができる人間なんて、まず、いないし、自分を好きだなんて言うのは、ナルシストの馬鹿に決まっている。
自分がちょっと美人だから、良い大学を出ているから、あるいは、地位が高いからといって自分が好きだというのは、自分ではなく、自分の排泄物やゴミ箱の中身が好きだというようなものである。
自分が好きだと思う者は、自分を憎んでいるのである。自分の排泄物やゴミしか好きになれない自分を、心の奥では嫌悪しているのだ。
イエスは「隣の人を愛しなさい」と言ったらしいが、これも、言葉のままに取ると、できもしない相談だ。
どこかの馬鹿高い健康食品を売って儲けている大金持ちの社長が、「会う人ごとに、『この人に良いことが雪崩のように起こりますように』と祈るのが、欲望を叶える秘訣じゃ」と言っているらしいが、そんなことをすれば、自己分裂を起こし、偽善者として多少成功する可能性があるかもしれないが、恐怖と自己不信を強化した哀れな人間になるしかないだろう。
そんなことをやっている人に聞きたいが、やってて苦しいだろう?
こう言うと、
「確かに苦しいが、それは、私の心がまだ汚れているからで、これを続けて心が浄化されれば楽しくなります」
と言うかもしれない。
しかし、続ければ、もっともっと辛くなるさ。
だって、自分が得をしたいために、「この人に良いことが・・・」なんて口先(心先?)で言うのは、偽善の極みじゃないのかね?
つまり、ますます心は汚れるのだよ。
なんで、こんな簡単なことが分からないのだろう?
イエスは、行いとして、ちっとは他人に親切にしなさいと言っただけだと思う。
「この人に良いことが雪崩のように・・・」なんて嘘を考えるのと、他人に道や席を譲るのと、どっちが善いことだろうか?

自分を愛したり、好きになったりという、不可能なことをしようとするのではなく、重要なことは、自分を理解することだ。
ところが、「自分を理解する」と言えば、「自分を甘やかす」と思い違いする者が多いに違いない。
世間での、「この子を理解してあげなさい」という言い方には、「この子に優しくしなさいい。そのためには・・・まあ、わがままを許してやることも良いんじゃないかね?」といった奇妙な意味合いがある。
だから、自分を理解するというと、「私は今のままでいいんだあ」という、変なことを考えるのかもしれない。
だが、自分を理解するとは、自分が自己中心主義者で、快楽を渇望する欲張りの卑怯者だという事実から目を逸らさず、しっかり見るということだ。
しかし、自分を罰しろとか卑下しろとも言っていない。
時々、このブログで、私が自分のことを「ろくでなく」「卑怯者」と書くと、「そんなに自分を責めないで下さい」といったコメントを下さる方がいるが、私は単に事実を述べているだけであって、責めてなどいない。
自分で自分を責めるのは、刑務所の中で、婦女暴行犯が窃盗犯を責めるようなものである。
それが滑稽であることくらは、私にだって分かるが、それすら分からない人が実に多いのだ。
当記事のタイトル『婦女暴行犯、窃盗犯を批判する。「こいつは人間のクズだ」』を見て、「そりゃ愉快だ」と上から目線で言う者が少なくないと思うが、これは、我々自身のことである。あなたも私も例外ではない。

我々は、1日中、欲望を起こし、誰かを嫌悪し、他人を見下し、自分の都合の良いように事実を捻じ曲げようとしている。
それに気付いていることが、自分を理解することだ。
それを頭で分析したり、是非を考えるのが、上で述べた、婦女暴行犯が窃盗犯を分析し、是非を唱えることだ。
早い話が、誰かを嫌悪するあなたと、それを責めているあなたは同じものなのだ。
我々は、傲慢にも、他人を批評したり、あげつらう癖がついており、自分を理解しろと言われたら、自分に対して論評を始めるのである。
そうではなく、ただ気付いていることだ。
逃げず、目を逸らさず、ただし、批判せず、卑下せずに「直視」することである。
心は激しく揺れるかもしれない。胸は痛むだろう。
しかし、放っておき、観察するのだ。
その時、何が起こるかは、自分で確かめることである。









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