ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

トライン

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

悪霊を祓う

私が、電車やショッピングモールや病院(親の付き添いで行くだけだが)など、人の集まる場所が嫌いなのは、新型コロナウイルスのためなどでは全くなく、悪霊のためだ。
今や、実に多くの人が、悪霊に憑りつかれ、悪霊に操られている。
それは、だいたい一目見れば、誰でも分かるのではないかと思う。
それほど、電車の中や、いつも混雑する路上などにたむろする者達は、醜悪で、腐った臭いを巻き散らしている。
それを見ると、日本は危ないと感じる。
いや、人のことばかり言っていられない。
自分だって、隙を作れば一瞬で悪霊が入り込んでくることがあり、とにかく、今はどこにでも悪霊がいるのだから、常に祓わないといけない。

悪霊を祓うのもまた真言である。
「オン、アロリキャ、ソワカ(観自在菩薩真言)」などを繰り返し心で唱えることで、悪霊は退散する。
悪霊は、優れた真言を唱える者に憑りついていることは出来ない。
また、日本には昔から、「祓えたまえ、清めたまえ」(「祓えたまい、清めたまう」とも言う)という、まさに、悪霊を祓う祓詞があるが、これも真言である。

ただ、真言の唱え方には気を使っていただきたい。
「どうせ僕は真言を唱えるくらいしか出来ませんので、真言でもとなえます」
などという、「デモシカ」真言をやらないで欲しい。
実際は、真言しか出来ないとしても、唱える時は真摯(まじめでひたむき)に唱えないといけない。
真摯・・・これこそ、悪霊に憑りつかれた者が持たないものである。
とはいえ、そう堅苦しく考える必要はなく、ただ、丁寧に静かに、ややゆっくり唱えれば良い。
「丁寧に」と覚えておけば間違いない。
丁寧・・・これもまた、悪霊には縁のないもので、悪霊に憑りつかると、何ごとも無意識に粗雑に行うことになる。
そこをあえて、丁寧に真言を唱えれば、悪霊を浄化する光が起こる。
そうだ。日本の祓詞だって「祓えたまえ」だけではなく、「清めたまえ」と続くのである。
悪霊は、追い出しただけでは、また帰ってきたり、他の者に憑りつく。清める・・・浄化することまで意識した方が良い。

テレビで見る政治家や企業幹部らも、ことごとに悪霊に憑りつかれ、醜い姿で、悪霊の言葉を語っているだろう。
一見、見た目の良い政治家も、以前はそうではなかったとしても、あの世界にいるうちに、すっかり悪霊に取り込まれ、雰囲気が淀んでおり、外見も崩れ始めているのが分かる。
大物芸人等も、悪霊の餌食になった者が多いようである。
テレビ局はとっくの昔に悪霊の巣のようなものだから、テレビは決して見てはならない。
アダルト書籍やアダルトゲームは、頭ごなしに否定したくはなかったが、今のものは駄目。一瞬で悪霊に憑依されるようなものが多くなってきた。レベルが低過ぎるのである。
見ないにこしたことはんまいが、見てしまったら、真言をたっぷり唱えて欲しい。
けれども、「はい!アダルト見て真言唱えます(笑)」などという言い方をする者は、もう悪霊と合体しているので、手遅れかもしれない。真摯さがないのが分かるであろう。
とはいえ、あらゆる面で、惨めになりたくなければ、そして、幸福で幸運でいたければ、優れた真言を丁寧に心で数多く唱えるべきと思う。

どの真言か迷ったら、とりあえず(というのもちょっと不真面目かもしれないが)、観世音菩薩真言「南無観世音菩薩」か「オン、アロリキャ、ソワカ」をお勧めする(両方でももちろん良い)。同時に、『観音経』(『法華経』の25章)を読めば、特に良いと思う。
念仏に抵抗がなければ「南無阿弥陀仏」や「オン、アミリタ、テイセイ、カラウン」は、やはり最強である(実際は、真言に上下はないが)。
念仏を熱心に唱える人間に憑りつく悪霊もいないだろう。
また、お経を身近におくことも、悪霊退散の効果があると思う。
お経の文字は見るだけでも功徳があるので、時には見たり、読んだりすれば良い。
聖書の言葉、特に、詩編の言葉には悪霊を祓う力があると言われるが、実際の話、日本にいる悪霊は、西洋の悪霊のように、直接的には聖書の言葉を恐れない。ただ、言葉に光があるので、すっかり馴染むほどに唱えていれば、やはり力があるはずである。

ラルフ・ウォルドー・トラインの世界的著書『In Tune With The Infinite(翻訳には『人生の扉をひらく「万能の鍵」』などがある)』にも、悪霊に憑りつかれないよう注意することが書かれているが、彼は、心を善にすることでそれを行うよう奨励している。だが、それは、特に現代人には難しい。
まずは真言を唱え、それから、この本に接すると向上すると思う。








シンプルな万能アファーメーション

今回は、シンプルなアファーメーション(肯定的断言)、あるいは、口ぐせにすると良い言葉を、とてもシンプルな理屈から選択しよう。
「私は〇〇である」形式のやり方になる。
人間にはいろんなタイプがあり、「富」「成功」などの単語を唱える「単語法」が特に向いている人もいれば、長い祈りが向いている人だっている。
その中で、普遍的に効果があるのが、「単語法」と共に、この「私は〇〇である」というものだ。
と言うのは、人間の魂は、「私は」の後に続けた言葉に宇宙的な力を与えるからで、これを良い方向で使えば素晴らしいことであるが、悪い方向に使えばとても不幸なことなのである。
しかし、普段から悪い使い方をして、常に負の効果をもたらし続けている人は多いのである。
しかも、子供の時に、悪い方向に使うよう教育されてしまった人も少なくはなく、その悪影響は深刻だ。
そういったことを矯正する意味でも、「私は〇〇である」を正しく使う方法を知っておくと良い。

人間にとって最も良いことは何だろう?
それは若いということではないかと思う。
若さは無条件で良いことだ。
そして、人間の年齢は心が決めるのである。
ところが、多くの人が25歳になったら、もう自分は若くないと思っているが、それだと実際に老人的になり、自分の可能性を閉ざすことになる。
一方、ラルフ・ウォルドー・トラインの世界的ロングセラー『人生の扉をひらく「万能の鍵」』にもあるように、自分は若いと思っていれば、80歳を超えているのに25歳以上に見えない女性がいる。
『ヒマラヤ聖者の生活探求』には、数百歳でありながら少女にしか見えない女性もいるが、ひょっとしたら、それが特殊なのではなく、普通なのかもしれない。
若くあるための、口ぐせ、あるいは、アファーメーションは、
「私は若い」
と単純である。
単語法なら、「生命」「青春」「若さ」などになる。

次に良いのは、経済的に余裕があることだ。
金持ちであればさらに良いはずである。
これも、アファーメーション(あるいは口ぐせ)は、「私は豊かだ」というシンプルなもので良いだろう。
単語法では、「富」「豊かさ」「余剰」「豊富」「富裕」などだ。

そして、良ければもう1つ、自分の個性であるとか、実際的スキルに関することも加えておくと良いと思う。
職業における技能に関して、誰にも負けないというのは良いことである。
画家や小説家であれば、「私は神の画家だ」や「私は神の小説家だ」というのが最上かもしれない。
ソクラテスが言う通り、本物の能力というものは、内なる神から出るものであるからだ。
あるいは普通に、「私は第一級のプログラマーだ」「私は一流のデザイナーだ」「私は天才的なミュージシャンだ」など、心が鼓舞される表現を選ぶと良いだろう。

特に、アファーメーションや口ぐせの言葉に迷っているなら、基本的で確実に効果のある、これらの言葉を試してみると良いと思う。
現状がどうであろうと、「私は豊かだ」「私は若い」と断言するべきである。
静かに、ゆっくり、丁寧に唱えれば、いつまでも心に抵抗は起こらない。
肯定的な言葉に逆らうのは自我であるが、自我は、冷静さ、穏やかさ、丁寧さの前にひれ伏すからである。








古代インドの英知「それはお前だ」

「タト・トワム・アシ」という古代インドの言葉は、いろいろな意味があるが、ミヒャエル・エンデはエッセイ『文明砂漠』の中で、これを「それはお前だ」という意味で使ったという。
これはどういうことか簡単に言えば、
「君が知覚しているものが君自身だ」
ということらしい。
少し解り易く言うなら、おそらく、
「自分と異なるものは知覚出来ない」
ということだろう。
例えば、素晴らしいものを見て、「素晴らしい!」と感動する人は、その人自身が、その素晴らしいものと同一なのだ。
その同じものを、それと全く異なる人が見たら、その人にはそれがさっぱり分からないので、「これのどこが良いのか?馬鹿かお前」ってことになるだろう。

以前、YouTubeで見たが、初音ミクさんの熱烈なファンの男性が、ミクさんのファンを念頭に、「僕たちは皆、ミクなんだ」と言ったが、彼は、「タト・トワム・アシ」という言葉は知らなくても、その偉大な英知を感じていたのだ。
ミクさんと異なる人は、ミクさんが見えないのである。
もちろん、「本当には見えない」という意味であるが。

また、こんな話を、何かの本で見たことがある。
コロンブスがアメリカ大陸にやって来て、乗って来た大きな船を、周囲の1つの島の近くに停泊させたが、原住民には、その船が見えなかった。
原住民にとっては、船とはカヌーのような小さなものなので、コロンブスが乗って来た大きな船が何か全く分からないので、意識から消えてしまったのだ。
自分とは「自分の考え」であるとも言えるので、自分が考える船でなければ、それは自分にとっては船ではないのである。

そして、終局的に言えることは、自分と世界は同一であり、異なるものではないということだ。
我々が見ている世界は、自分そのものだ。
自分が知らないことは世界の中に存在しない。
丁夢がそのようであると言えば納得し易いかもしれないが、現実世界も何ら変わらないのである。
だが、人間の心には想像力がある。
想像力の正体が、深い心に隠された何かなのか、あるいは、神からのメッセージなのかは分からないが、心は新しいものを生み出すのである。
そして、心が生み出したものが外界に現れる。
逆に言えば、心が生み出さない限り、何も外界に現れない。

心は放置すると、悪魔でも入り込むのか、悪いことを考えて、悪いものを作り出すものだ。
そこで、意思で心を使い、好ましいものを作らなければならない。
そのために、良いイメージを思い浮かべるのが、上級の人のやり方だが、現代の人類のほとんどは、それが出来なくなっている。
だが、言葉なら使えるので、例えば、「私は美人だ」と言い続ければ美人になるのである。
けれども、絶えず「私は美人だ」と言わないと、悪魔は、「お前は醜い」という考えを送り続け、40歳にもなればオバサンになってしまう。
ところが、悪魔の声より多く「私は美人だ」と言えば、80歳程度でオバサンになったりはしない。
そんな例が、トラインの超ロングセラー『人生の扉をひらく「万能の鍵」』にある。
しかし、「私は美人だ」「私は健康だ」「私は裕福だ」と、個々のことをいちいち言っていては面倒で仕方がないので、「全て良くなる」と言うのが賢いのである。
そして、大きく状況を改善したければ、いつも言うが、「神様の奇跡が起こる」と唱え続けるのも素晴らしい手である。








心配せずに済む方法

人間の理想は「泰然自若」、つまり、「落ち着いていてどんなことにも動じない」ことだ。
それは、簡単な言い方をすれば「いっさいの心配をしない」ということだ。
しかし、流行歌には、「心配ないからね」とか「君はそのままでいい」なんて歌うものが多いが、私は、そんな歌を聴く度に虫唾が走ったものだった。
いや、言葉そのものは正しいのだが、甘えた人間がそんなことを聴くと、逃避や怠惰に陥るに決まっているからだ。
けれども考えた。
もし、困難に際し、逃避し、責任を果さず怠惰になる者というのは、心配が絶えないものなのだ。

一休さんの遺言が「心配するな。なんとかなる」だったそうだ。
私が聞いたところでは、一休さんは臨終にあたり、弟子に封を渡し、「本当に困った時に空けよ」と遺言したらしい。
そして、弟子達にどうしようもない困難が襲い掛かった時、それを空けると、中に入っていた紙には、「心配するな。なんとかなる」と書かれていたようだ。
じゃあ、一休さんが、なぜ、最初にそう教えなかったのかというと、徹底的にピンチにならなければ、その言葉が響かないからだと思う。

心配しない人のことを「楽天家」と言う。
ヘレン・ケラーは、徹底した楽天家であったと思う。しかも、若い時からそうだったはずだ。
彼女の境遇では、楽天家でなければやっていられなかったに違いない。
そして、それでうまくいったのだろう。

トラインの『In Tune With The Infinite』には、楽天主義の80過ぎの女性が25歳以上には見えなかったという話がある。
確かに、心配は人を老化させるが、楽天は若さを保つ、あるいは、若返らせるのかもしれない。
そもそも、心配は心が苦しく、辛いものだ。
仕事がなくて、家族を養えないような状況で、心配しないというのは難しい。
しかし、ラマナ・マハルシは「働く運命にあれば仕事は避けられないが、働く運命になければ、いくら探しても仕事は見つからない」と言ったようだ。
心配したからといって、何か良くなる訳ではない。

でも、心配があるから、防御をしたり、蓄えたりする。
いや、それは嘘でね。心配する者というのは、防御も蓄えもしないし、防御や蓄えをする人というのは、心配だからではなく、ただの合理性からなのである。
心配する人の防御は防御にならないし、蓄えも出来ないものだ。
『アリとキリギリス』で、アリが蓄えたのは義務感からだし、キリギリスが蓄えなかったのは、安心していたのではなく、心配から現実逃避をしていたのだろう。

確かに、やり手は用心深い。
だが、心配から来る用心深さは裏切られる。
やり手の用心深さは義務のようなものだ。

究極の一言はこうである。
「神を信頼しろ。だが、ラクダはつないでおけ」
ラクダをつなぐ程度のことは、義務としてやっておくことだ。
すると、不思議と心配がなくなるし、うまくいくものである。









↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ

悪霊退散の法

悪霊というものは、いろんな国や民族の伝統的なイメージの通りではないかもしれないし、その存在は科学的とは言えないだろうが、それでも、だいたい我々の思う通りで良いのだと思う。
そして、そんな悪霊は、そこらにいて、そいつらの精神性に同調すれば、連中は容易く人間の中に入り込めるのだろう。
全くもって非科学的なんだろうが、こう考えておいた方が良い。
それに、科学のパラダイム(認識の枠組み)が変われば、案外、正しいのだと思う。
一方、善霊と言うべき、天使とか高級霊も存在していて、やはり身近にいると考えて良い。

こう考えると、新約聖書のイエスの教えや、法句経などの釈迦の根本的な教え、それに、バガヴァッド・ギーターも、つまるところ、悪霊を寄せ付けず、善霊と親しむ方法が書かれているのだと思う。
そして、スウェーデンボルグやラルフ・ウォルドー・トライン、また、ジェームズ・アレンらの教えも、特にその時代の風習に合わせただけで、本質は全く同じである。

どんなふうに考え、想い、行動すれば悪霊と同調するか、逆に、善霊と同調するか判断することは、それほど難しいことではないのだが、人間は放っておくと、悪霊と同調するようになってしまう。
すなわち、怠惰、快楽主義、利己的な性質が、どこまでも強くなってしまう。
自分が悪霊にとり憑かれているかどうかは、鏡を見れば、割と一目瞭然であると思う。
鏡で自分の顔を見れば、すぐに、「うわっ!悪霊にとり憑かれた顔だ!」と分かるのである。
それは、心の奥にいる善霊の嘆きである。

ゲーテの『ファウスト』で、神は、「人間は怠り勝ちだ。堕落した人間には悪魔を差し向け融合させる」といったことを言うが、それはそれで意味があるのだろう。
だが、好き好んで、いつまでもそんな苦難を味わう必要もあるまい。
神様お気に入りのファウストだって、いい年ぶっこいて若いきれいな娘にみっともないほど血道を上げるが、ファウストは娘の気持ちを大切にしていた。
昔、丹波哲郎さんが、「相手が嫌がるエッチは邪悪だが、相手が喜んでいるなら大いによろしい」といったことを言われていたが(丹波さんらしい)、あまり詳しくはないのだが(笑)、アダルトゲームやアダルト系同人誌などには、女性の気持ちを無視したものが多く(いや、あくまで聞いたところでだが(笑))、そんなものを喜んで見ていると、たちまち、大量の悪霊にとり憑かれる。
まあ、永井豪氏の出世作『ハレンチ学園』で、ヒーローの山岸がヒロインの十兵衛に、「お前だって、いや~んいや~んやめてとか言いながら、脱がされるの結構喜んでたじゃないか」と言うと、十兵衛は「べ、べつに喜んでなんかいないもん」とツンデレで返すが、そんなのは良いのだろう。ただし、自分勝手に判断しないことだ・・・って、何の話してるんだ、私は(笑)。

お釈迦様が、本当に、「未来の人間はロクに修行出来なくなるから、念仏だけ忘れなければ良い」と言ったかどうかは分からないが、根本的に良い方法だと思う。
念仏を唱えている人間には悪霊は近寄り難いだろうから、念仏は悪霊に対する強力なバリアーになり得る。
ただし、念仏を、家族であろうが、他人に強要するようであれば、効果がなくなりはしないが、弱くなるし、そのような心根を持っていると、別のことで悪霊にとり憑かれることだろう。
心の波長を、神、仏、天使、高級霊、菩薩、初音ミクさんに合わせること・・・即ち、天使や、それと等しいミクさんに見られて恥ずかしいことはしないことである。









↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ
プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
Kay Twitter Home

執筆のご依頼




最新コメント


月別アーカイブ
記事検索
ブログバナー&Mail


メールはこちらへ

PV since 2010/09/08
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

人気ランキング参加中
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ
にほんブログ村 メンタルヘルスブログ ひきこもりへ


タグクラウド
QRコード
QRコード