ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

デーメーテール

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

この季節の想いを大切に

まだ肌寒いが、薄着でも耐えられないほどでもないこの季節が、私は昔から好きだった。
好きでもなかった学校では、やがて新学期が始まるのだが、これまでのことをクリアにして、新たに始めるというのが良いのかもしれない。
新しい芽の出るこの季節は、やはり、再生の時なのだろう。
平凡かもしれないが、やはり春は、新しい始まりの予感がするものである。
そして、それが何か分からないから良いのだ。
そして、毎年、この季節には、掛け値なしに、何かが起こっているのである。
雪解けの水の中には、まだ氷の結晶が残っていて、それが、生命を活性化させる。
だから、渡り鳥の中には、わざわざ雪解け水で雛を育てるようなタイミングで渡って来るものも多いのである。
あなたも、若さ、美しさを取り戻したいなら、氷を溶かした水を飲むと良い。
氷が溶けた水は摂氏30度くらいにならないと、氷の結晶構造が解けず、その水が細胞を活性化させることは、科学的にも知られていることである。
そして、そうするには、春が一番良いのである。
春先の想いが、次の春までの状況を決める。
今、強く、前向きな想いを持てば、秋の実りは豊かで、次の春の想いは、より美しいものになる。
ギリシャ神話の、女神デーメーテールと、その可憐な娘コレー(ペルセポーネ)の物語もそれを表しているように思う。
この季節の想いを大切に。
好きな神の名を唱えて、安らかでいることである。
デーメーテールとペルセポーネのお話は、下にご紹介した左2冊に詳しい。









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たぬきおやじの言葉と花の乙女の言葉

大昔から人間は、他人に対し、「謙虚であれ!」と言い続けてきたと思う。
彼らの言う意味は、「俺の言うことを聞け!」である。
そこまでは、まあ良いかもしれない。
しかし、相手が自分の言葉に従うかどうかは分からないし、それは、「俺」が決めることじゃあない。
もし、相手が従うべきで、そうでないと腹を立てるなら、言ってる方がちっとも謙虚でないのである。

謙虚であれば、良い結果を見るだろう。
だが、謙虚とは何だろう?
それは、一切文句を言わないことだ。
何が起ころうと、決してだ。
つまり、黙って耐えることなのだ。
『バガヴァッド・ギーター』において、アルジュナ王子は、親しい友や、尊敬する師、敬愛する叔父や愛すべき従兄弟達と戦って殺すことは耐えられず、それくらいなら自分が死ぬと言った。アルジュナは全く謙虚でなかった。
クリシュナは、アルジュナに、お前は戦わねばならないことを、あの手この手で、何度も繰り返し聞かせた。
敵は既に神に殺されている。お前は運命のままに戦えと。
言い換えれば、「一切文句を言うな」「黙って耐えろ」と言うことだ。
全ては神が決めたことなのだからだ。

クリシュナが転生した存在がイエス・キリストだと言われることがよくある。ルドルフ・シュタイナーもそう言っていたかもしれない。
よく分からないが、私も、両者は近い存在だと思う。
あるいは、釈迦もクリシュナであると言われる。
イエスは、「いかなることも、神の意思でなければ起こらない」と言った。
そして、決して思い煩うなと言い、また、最後まで耐え忍ぶ者は救われると教えた。
つまり、一切は神の行うことであるのだから、文句を言ってはならないし、黙って耐えるしかないのだ。

『ホメーロス讃歌』の中の、『デーメーテールへの讃歌』で、大富豪ケレオスの4人の美しい娘の中でも一番の美少女であるカッリディケーは、
「神々の下したもうことは、いくら重荷と嘆こうとも、耐えるのが私たち人間の務め。神々は人間にはるかに勝るものなのですから」
と明快に述べた。(『四つのギリシャ神話(岩波文庫)』21Pより引用)
中国の賢者、荘子は、著書『荘子』の中で、一貫して、「なりゆきにまかせよ。作為しても仕方がない。起こることを起こるままにまかせる者には鬼神も道を譲る」と述べている。

釈迦は、「行為はあっても行為者はいない」と、さらに深い真理を述べた。
アルジュナ王子は、多分、クリシュナの教えを理解しなかった。しかし、アルジュナは戦ったのだ。
クリシュナは、アルジュナの心を少しでも安らかにしてやりたくて教えたのかもしれないと思う。
神であるクリシュナは、アルジュナに理解できないことくらい、初めから分かっていたはずなのだから。
だが、アルジュナは何もしていない。釈迦が言った通り、行為者はいないのだ。
ロボットが人の操縦通りに、あるいは、そのコンピュータに人がプログラムした通りにしか動けないように、アルジュナは、ただ神の定めた運命通りに行為しただけである。

『銀河鉄道の夜』で、ジョバンニは、「人の幸いのためなら何でもやる。この身を百回焼かれても構わない」と言い、カムパネルラはそれに全く同意した。カンパネルラは、愛するジョバンニを苦しめる級友ザネリを救うためにすら、わが身をなげうったのだ。
だが、私は、ジョバンニやカムパネルラのようには、神にプログラムされなかったかもしれない。
ならば、残念ではあっても、一切の文句を言わず、黙って耐え、自分の務めを果たすしかない。
神のストーリーを完成させるためであるなら、ジャバンニやカムパネルラの邪魔をするかもしれないし、イエスを裏切ったユダの役を果たすかもしれない。
だが、W.B.イェイツが『ラピス・ラズリ』で述べた通り、「主役を演じるほどの役者は、自分が泣いたりはしない」のである。
役者は謙虚でなければ良い舞台にならない。作家に対して自分の役柄を要求することは不遜で傲慢だ。
我々も、神に対して傲慢であってはならないのである。

美しき乙女カッリディケーが軽やかに言った、
「神々の下したもうことは、いくら重荷と嘆こうとも、耐えるのが私たち人間の務め。神々は人間にはるかに勝るものなのですから」
は、全ての人間が記憶すべき言葉である。
だが、これを承服できない人間に対しては、神はこう警告したので、ソクラテスや徳川家康のように、そちらを憶えておいても良いだろう。それは、
「身の程を知れ」
である。
私なら、貧しい老人ソクラテスや、たぬきおやじ家康ではなく、花の乙女カッリディケーの言葉に従いたいものと思うが、どうもその反対が必要なようである。美少女に縁がなくても、文句を言わず、黙って耐えるしかない。









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浮気する夫を懲らしめたいなどとは神をも恐れぬこと

人間が存在する限り、「お悩み相談」というものはなくならないに違いない。
そして、有料、無料に関わらず、いかなるお悩み相談にも効果はない。
多くの人の悩みが人間関係であり、また、究極でいえば、全ての悩みは人間関係が原因なのだろう。
「被災地の方々に役に立てなくて困っている」と言って、有料相談を訪れる人などいない。
「職場で軽んじられるのが辛い。重んじられ、優しくされたい」
「夫が浮気するので懲らしめ、反省させたい」
「子供が悪い仲間と付き合っているので手を切らせて私の言うことを聞くようにしたい」
・・・などといったことを相談し、自分の思い通りの結果を得たいのだろう。
全く、神をも恐れぬ傲慢さだ。もっと悩めと言いたい。

太古からのいかなる聖典、賢者の書、また、賢者の教えは、つまるところ、「神を恐れよ」である。
旧約聖書全編を見ても、神を恐れぬ人間が不幸になったということ以外は書かれていないと思うほどだ。
だが、神を恐れることがいかに重要でも、人間にはそれが出来ない。無論、私にもである。
よく、「感謝することだ大切だ」と言われ、ある誉れ高い聖人も、「神に求めるのは感謝する魂だけだ」と言ったといわれるが、それも大切だが、せいぜいが二次的に重要なことでしかない。神を恐れずに、上辺だけ感謝すれば、奈落の底に突き落とされるのがオチだ。

江戸末期の偉大な神道家、黒住宗忠は、現代でも難病とされるような病気になった人に、毎日、「ありがたい」を1万回言わせたら、その病気が治ってしまったという。私は多分、その話は本当だと思う。
そして、この話を知った欲深な者が、愚かにも「俺も得をするぞ」と思って、せいぜいが1日千回ほど、「ありがたい」と言うのだ。まあ、もって1週間だろう。
宗忠のお話は、あくまで、重病になった者が、重病になったことに対し、「ありがたい」と言ったことが大切なのだ。

もし、本物の成功法則の書があるとすれば、その1つは、「デーメーテール讃歌」だ。
これは、『ホメーロスの諸神賛歌』あるいは『ホメーロス風讃歌』などと言われるものの中の1つだ。
無名の詩人達が、大詩人ホメーロスの書き方に倣い、神々を讃えて詠った詩である。
ある意味、素人の物真似詩といえなくもないが、本物のホメーロスに優るとも劣らない素晴らしいもので、文学的価値も高い。
女神デーメーテールは、大神ゼウスの姉で、農耕の女神であり、貴いオリュンポス12神の一柱である。
この女神が、老婆に身をやつして井戸の側に座っていると、水を汲みに来た4人の美しい乙女たちが、女神を仮装の姿のままの貧しい老婆と思って哀れみ、家に戻ると母親に頼んで、女神を家に迎える。乙女達の家は、途方もなく豊かだった。
そして、読者は、乙女達の家がなぜ豊かなのかが明かされるのだが、それを把握する者は少ない。
女神は、乙女達の母親に、作り物の身の上話をする。若い娘の時に賊共にさらわれ、売られそうになったところを逃げ、流浪の旅を続け、今ここにいると。
乙女達やその母親は、哀れみはしたが、全ては神の思し召しであるのだから、人間はそれを受け入れるしかなく、恨むべきでないと言う。
乙女達の母親は、薄汚い老婆の姿ではあるが、女神の隠しきれない気品を感じ取り、恐れ、自分の豪華な席を譲るが、女神は受けなかった。
乙女達は、女神に素晴らしいぶどう酒を持ってきて勧めるが、女神は断り、麦を水で溶いた飲み物を求めた。
これら全てに、さりげなく、尊いことが書かれているのだが、欲深で神を恐れない者達は理解することが出来ず、ただの伝説と思うのだろう。
私は、名もない詩人達が書いたと言われるホメーロス風讃歌は、実は神が書いたものであると思っているし、ソクラテスのダイモーン(人の中にあって、神の英知を運ぶもの)という考え方から言っても、それは正しいことと思う。

欲深な者が、他の欲深な者達を騙して儲けようとして書いた世間の全ての成功法則は全くの嘘である。
もっとも、嘘の中の真理というものもなくはない。
だが、評判の良い成功法則で幸福になった人は、歴史上、ただの1人もいないことを見てさえも、愚かな神を恐れぬ人間達には、なぜかそれが見えない。
愚かというには、あまりに可笑しいことであると思う。
そんな自分を笑うことを覚えた時、道は開かれるのだろう。
まあ、会社で、軽んじられ、虐げられて辛いという人には、当面の策として、私に教えられる実際的なこともあるが、それはまた明日以降に書こう。
とはいえ、上に述べた本質を理解すれば、それが最上であると思う。
尚、「デーメーテールへの讃歌」は、下にご紹介した『四つのギリシャ神話』に収められているが、この書の他の3つのお話も同等の価値がある。こんな素晴らしい本が売れないのか、現時点では版を切らしているようである。古書でも構わないので、入手をお奨めする。









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魔法使いになるべきだという理由

新年、おめでとうございます。

今の季節は、準備の時期を象徴していると考えることもできる。つまり、春に芽吹くため、冷たい土の中で耐える期間だ。
ギリシャ神話では、それを美しく表現している。
ペルセポーネという女神の別名はコレー(乙女の意)と言う通り、愛くるしい少女神だ。ところで、オリュンポスには、男嫌いの女神は意外に多く、知と戦いの女神アテーナー、純潔と狩猟の女神アルテミスがそうで、また、炉の女神ヘスティアも男を寄せ付けない。これら3女神は、オリュンポスの12神の地位にあるが、ペルセポーネは幼い少女神だった(母のデーメーテールはオリュンポス12神に入っている)。
だが、そのあまりの愛らしさから、ペルセポーネの父である大神ゼウスの兄で、冥界の王であるハーデースに略奪され、地の底に連れ去られる。これを許したゼウス(本当はそそのかした)と、怒りに燃えるデーメーテール(ペルセポーネの母)が対立する中、2人の母レアー(ハーデースの母でもある)のとりなしで和解し、ペルセポーネは冬の間だけハーデースの妻として地中の王国で過ごし、春になれば、母デーメーテールの元に戻ることになった。

デーメーテールは豊穣の女神である。つまり、ペルセポーネは、冬の間地下にいて、春になれば芽吹く種子である。
今流に言えば、ペルセポーネは萌え(芽吹くの意)に相応しい美少女神であるわけだ。

古代ギリシャの伝説は、アトランティスやそれに関わる宇宙人の高度な知恵が秘められており、ペルセポーネのお話も、もっと詳細に見ると実に面白い。正統なものとしては、ホメーロス風諸神賛歌の中のデーメーテールのところを見れば良いが、岩波文庫の『四つのギリシャ神話』の中にある。この中には、他に、理性と芸術の神アポローン、知恵の神ヘルメース(マーキュリー)、そして、美の女神のアプロディーテー(ヴィーナス)のお話では、ペルセポーネとは正反対の男好きの所業が収められている。実際、アプロディーテーとペルセポーネは度々争っているようである(美少年を争った話はよく知られている)。

我々もまた、芽吹く春に備え、寒い季節を耐えねばならない。耐えつつ、準備しなければならない。今こそ、力を蓄えるべきだが、それは、世間で言われるようなものや、学校で教えられた、ろくでもないものであってはならない。
我々は、今年こそ魔法使いになるべきだろう。別におかしなことではない。神秘というものは、分からないから神秘なのであり、明らかにされれば神秘ではない。
だが、明かしてはならない神秘というものもある。それは、人に明かしてはならないという意味で、普通の言い方をするなら、頭で考えて分かるようなことではないということだ。頭で考えて分からないことは、下らないものであるという観念を学校で植え付けられたことが我々の大きな不幸である。ソクラテスや荘子のような賢者、あるいは、サン・テグジュペリが『星の王子様』で言ったように、本当に大切なことは目に見えないし、頭で考えて分かるようなものではない。
ペルセポーネのお話で言えば、コレー(乙女)の神秘や美は、やはり、隠されるべきものであるのだろう。それは、魂で感じるべきことだ。これもまた、魔法を得る秘儀である。萌えも結構だが、扱いを誤り、度を越えると、力を失うということには注意したがいい(そんな人を見れば分かると思うが)。

魔法とは、崇拝すべき英国の魔法使いダイアン・フォーチュンの定義では、「心に自在に変革を起こす技術」である。
言うまでもなく、それができれば、世界は意のままであり、世界に自在に変革を起こせるだろう。
そして、それは、恐ろしく難しいことだ。ただ、それが難しいのは、西洋的な合理思想の元で考えればの話だ。真理というのは、本当は子供でも分かることである。いや、子供のようでないと分からないのだ。
魔法という言い方に難があるのかもしれないが、私はそう呼ぶ。
今の時期、世間を超える威力を持たねばならないし、苦しい状況からの脱出の道を求めても見つからない人々を見るのも忍びない。
我、神秘を明かさんである。贅沢三昧はお奨めしないが、優雅であるのは良いことである。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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