「デジタルの神」などと言ったら、神を冒涜していると思う人がいると思う。
しかし、それは低レベルのデジタルの観念を持っているからだ。
たとえば、昔の10万画素のデジタルカメラはアナログの、つまり、フィルムカメラに劣ったが、これが40万、80万画素と進化し、100万画素を超えるあたりで、フィルムカメラと遜色なくなり、現在はスマートフォン附属のカメラでも1000万画素を超えるが、それでもやっぱり写真はフィルムだと言う人は、単に偏見を持っているだけだろう。
さらに数億画素、数兆画素なんてものが登場すれば(今でも実際に存在するが)、もはやデジタルを蔑むことが技術や文明に対する冒涜になる。

『星の王子様』でテグ=ジュペリは、「大人には、家の説明をする時、赤いレンガで庭にきれいな花が咲いている家と言っても駄目だ。大人には1万フランの家って言わないと通じないんだ」と、アナログ的なものの優位さを語っていたが、むしろ、「赤いレンガの」「きれいな花」といった曖昧な言い方では、実際にその家を見た時に期待を裏切られることになる。
そして、「1万フランの家」なんて表現こそ、特殊な場合を除き、最も曖昧でいい加減なアナログ表現なのだ。

イエスや釈迦はたとえ話をよくしたというが、それだって、アナログ的な曖昧なことを、出来る範囲でデジタル的に、具体的に語ることで、話をより明確にしょうとしたのである。

私は、会社などで他人と付き合うのが嫌いだ。
なぜかというと、彼らの志の低さに愕然とし、絶望するからだ。
そして、会社ってのは、多くの場合、志の高い者は浮いてしまい、無視されたり、虐げられる場合も少なくないと思う。
では、志が高いとはどういうことだろう?
単に、偉人のようにありたいなどと漠然と思っているのは、程度の低いアナログ的な観念であり、少しも志が高くない。
具体的に、デジタル的な目標を設定し、どのくらいの速さで、今現在、どこまで到達しているかが分かってこそ志なのである。

「初音ミクは俺の嫁」ってのも、アナログ的に茫然とそう思うのは、単に現実の女の子にモテない者の言い訳に過ぎない。
ごく一部で言うなら、よく節制し、訓練された若い女性の象徴を初音ミクさんに投影し、そんな最高の女しかいらないという理由で「俺の嫁は初音ミク」と言うなら、志が高いと言えるだろう。

人間の値打ちを決めるのは、「デジタルな志」である。
曖昧模糊とした夢なんて妄想に過ぎず、そんな夢を語る者の志が高いはずがない。
子供の夢はアナログであり、それはそれで良いのだけれど、早くデジタルな夢を持たなければならない。
まして、大人の夢はデジタルであるべきだ。

掟を守り、修行をしていると言う人がいるが、正直、その掟や修行のレベルの低さに愕然とさせられることが多い。
私は、「あまりに高過ぎる掟や修行はいけない」とよく言うが、「もうちょっと無理しろよ」と言いたい場合が多過ぎる。
そんな者は、掟や修行をアナログで曖昧に考えているのだと思う。
デジタルでしっかり定義すれば、その程度の掟や修行でリターンを求めるのはおこがましいということが分かる。
神は一兆の千乗画素のデジタル画像で捉えられるものかもしれない。









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