ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

デカルト

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

存在証明と物質支配の法則

主義、信念がはっきりしていて変わらない人は「アイデンティティーを持った人」と呼ばれる。
だが、その主義、信念が偏ったものであると、その人は「厄介な人」だ。
そして、何が正しく何が間違っているのかは難しい問題だ。

2400年ほど前の実在の人物と言われる荘子(荘周とも言う)は、おそらくだが、「アイデンティティーなんて持つな」と言ったのだと思う。
つまり、主義、信念を持つなということだ。
もっと簡単に言えば、「私は何者でもない」という態度を持てということであるが、我々は、幼い時から、自分が何者であるかを、ほとんどの場合、押し付けられる。私は〇〇家の次男であるとか、私は△△小学校の生徒であるなどとね。

ある人間が、総理大臣であったり、俳優であったり、ホームレスであったり、プログラマーであるのは、「万物が移り変わる中で現れた1つの様相」に過ぎない。
「全ては変化する」というのが、唯一の変化しない真理であるわけだ。

デカルトの「われ思う、ゆえにわれあり」というのは、面白い言葉だ。
われが存在することに関し、アイデンティティー、つまり、主義や信念は何の影響も及ぼさない。
アイデンティティーが「存在証明」と訳されることもあるが、自分の存在証明は、ただ「思う」ことだけであるというわけだ。
ところが、目の前に、ペンやハサミがあったとして、おそらく、それらは思ってはいないだろうが、存在しないとは言えない。
だが、デカルトは、あくまで人間本位で考える。
目の前にペンやハサミがあると言っても、ただそう見えるだけであり、本当にそうなのか(ペンやハサミがあるのか)は分からない。
確かなことは、「目の前にペンがある」と思っているわれが存在することだけだ。

だが、デカルトの論では、無意識状態の人間は存在していないことになる。
ここがちょっと面白いところなのだ。
筒井康隆さんの短編小説『悪夢の真相』(『時をかける少女』と一緒に収録されていることが多い)で、般若の面が怖くて仕方がない中学生の少女が登場する。
彼女は覚えていないが、彼女は過去、無意識状態になった時に、般若の面を見たのである。それで般若の面が怖くなったのだ。
つまり、彼女は「思っていない」時、つまり、彼女が「存在していなかった」時に見たものが、思っている、つまり、普段の彼女に影響を与えている。
これはつまり、「思っていない」時の彼女も存在していると考えないとおかしくなる。
意識には、意識と無意識があり、「意識がある」と言われる意識は、意識全体のほんの一部で、意識全体のほとんどは無意識だ。
よって、無意識が存在しないことはないが、無意識は「思わない」。
ここで、「われが思おうが思うまいが、われは存在する」ことが分かってしまった。
そして、ただ、「われは意識である」ということが分かる。この「意識」は、意識と無意識を区別しない。

そして、ここから一気に分からないかもしれないが、生死に関わりなく意識は存在し、よって、われは死なないのである。
人間は、自分が意識であることに気付きさえすれば、完全に癒され、完全に安心出来る。
そのために、ラマナ・マハルシは「私は誰か?」と問えと言ったが、これは、実際には難しい。
それよりも、「私は在る」と思う方が面白い。
なぜ面白いかというと、いつも「私は在る」と思っていると、思っていない(つまり思考していない)時にも、無意識の中に「私は在る」があり、それは否定し難い真実なので、ちょっと面白いことが起こるのだ。
その時、正確に何が起こるのかは分からないが、無意識の中の「私は在る」以外は力を失い、「私は在る」として、意識と無意識が統合され、意識に無意識が見えるようになる。
そうなれば、キリストやブッダに近付いたと言えるのであり、物質界を支配出来る。








われ思わず、ゆえにわれあり

お釈迦様の前世とされる、こんな話がある。
前世の釈迦は、羅刹(らせつ。人食い鬼)が歌っている歌を聴き、「おお、これこそこの世の真理」と思い、羅刹の前に出て頼んだ。
「この身体と引き換えに、歌の続きを聴かせてくれ」
羅刹は承知し、続きを歌うと、前世の釈迦は、少し待つよう頼み、その歌を、他の人が見ることが出来るよう、岩に刻んだ。
私は、それがどんな歌だったか覚えていないが、『平家物語』の冒頭の、「祇園精舎の鐘の声」から始まるものと同じ趣旨の内容で、この世の全ては無常であるというものだったと思う。

釈迦は、生まれ変わり死に変わりしながら、人々を幸福にしようとし、そのためには、この世の究極の真理を発見し、それを人々に知らせれば良いと考えたのだろう。
そして、釈迦が発見した真理とは、やはり、一切は無常であるということと思う。

ルネ・デカルトも究極の真理を探したが、彼は、人間とは軽率であることを心得ていた。
そして、謙虚な彼は、自分も特別ではなく、やはり、軽率だと認めていた。
それで、本当の真理でもないのに、「これが真理だ」と思い込むことを恐れた。
そこで、「疑いようもなく明白だと確信出来ない限り、つまり、単に真理のようだと思える程度のことは、全て、即座に間違いと断ずる」という非情のルールを作った。
しかし、疑いようもなく明白なものなど、どこにも存在しない。
つまり、真理なんてまるで見つからない。
どれほど正しいと思えても、疑おうと思えば疑える。なら、それは真理ではない。
ところが、ある時、気付いた。
「何でも疑っている私が存在している」
これだけは疑いようがなかった。
見事、真理発見である。
デカルトは、この真理を、
「疑っている私は確実に存在する」
とした。
それは、誰かによって、有名な「われ思う、ゆえに、われあり」という言葉になった。

だが、これには、子供でも分かるミスがある。
「疑おうが疑うまいが、思おうが思うまいが、私は存在する」
からである。
つまり、究極の真理とは、「私は存在する」だ。
実は、キリスト教でも、ヒンズー教でも、真の教えは「私は存在する」であるのだと思う。
現在は、そのように考えられていないと思うが、私はそう確信している。
しかし、それでも、いまひとつ引っ掛かりがあった。
いや、正しいのだが、表現が悪いのである。
すると、ルドルフ・シュタイナーが納得出来るよう語ってくれていた。
それは、
「われ思う、ゆえにわれなし。われ思わず、ゆえにわれあり」
である。
だが、いくら何でも、これでは不親切で、何のことか分からない。
そこで、丁寧に言えば、
「自我である私が考えている時、真の私である神は隠れている。しかし、自我である私が考えていない時、真の私である神が現れている」
である。
とりあえず、今回は、究極の真理を提示する。








どうにも行き詰まった時

ものごとがなかなかうまくいかず、迷いがあり不安な時はどうすれば良いだろう?
そんな時は、2つのやり方がある。
1つは、万策を尽くすという手だ。やれることは全部やってみるわけだ。
これは、大抵うまくいかず、文字通り、万策尽きることになる。
なぜなら、今はツキがない時であり、ツキがない時にやることは大体うまくいかないからだ。
もう1つは、何もしないことだ。
聖書に書かれている通り、「私は山に向かって目を上げる。わが助けはどこから来るだろう?」と思い、悠然とすることだ。
だが、後で、「あれをしておけばうまくいったのに」と思える状況になるかもしれない。

「夜明け前が一番暗い」というが、いつまでも暗闇ではやっていられない。
「晴天とはほど遠い 終わらない暗闇でも 星を思い浮かべれば すぐ銀河の中さ」(『Ray』BUMP OF CHICKEN)という気にもなれないこともある。

つまり、こういうことだ。
膠着状態やじり貧状態が長く続くということは、根本的なこと・・・生き方が間違っているのだ。
そんな時は、「神様の奇跡が起こる」と唱えても、「とほかみえみため」と唱えてもうまくいかないかもしれない。
うまくいっていない時は、疑念が大きくなっているものだからだ。
そんな時は、馬鹿な戦略しか出て来ないので、ボランティアをしたり、霊山にでも行くと良い・・・かというと、まあ、お好きならどうぞだ。確かに多少、気が晴れるかもしれない。だが、やはり、根本的解決にはならない。

映画『サウンド・オブ・ミュージック』の中の歌は、ほとんど全部、うまくいかない時のアドバイスみたいなものだが、本当にうまくいかない人には、全部が虚しいものだ。
これも、根本的な解決にはならない。
だが、うまくいくような気がするので、映画がヒットしたのである。
幻想の希望は、エンターテインメントの基本だ。
実際、あの映画の実在した登場人物達だって、そんなにうまくいっていない。むしろ、諦めて満足したって感じだ。
「あの歌で救われました」ってのが嘘臭いことはよく分ると思う。
本当に救われた人なんていない。

最後は、「ただ1つの真理」に戻るしかない。
「とほかみえため」と唱えれば良いというのも、誰かが言ったことであり、本当かどうかは分からない。
クリシュナムルティが言ったように、「私は何も信じない」ということが大切だ。
だが、疑いようのない真実だってあるに違いない。そこだけは疑えない。
それは何か?
ルネ・デカルトという人は、それを見つけるために、全てを疑ったのだ。
それで見出した真理が、「疑っている私は確かに存在している」だった。
それが、「われ思う、ゆえにわれあり」となった。
ところが、これに、イギリスの作家コリン・ウィルソンがケチをつける。
「思おうが思うまいが、私は存在する」
その通りで、インドの聖者ニサルガダッタ・マハラジは、
「あなたが確信出来るただ1つのことは、自分が存在することだ」
と言った。
ところが、オーストリア出身の哲学者ルドルフ・シュタイナーは、
「われ思う、ゆえにわれなし。われ思わず、ゆえにわれあり」
と言ったが、これが一番正しい。
よって、何も考えてはならない。
無念無想、無我、忘我、没我ってやつだ。
考えている限り、迷い、悩み、不安があるし、悪い方向に行く。

「神様の奇跡が起こる」と唱えても、「とほかみえため」と唱えても、「これで何とかしてやる」というスケベ心があるうちは駄目で、1日中唱えて、もう何も考えなくなった時にうまくいく。
つまり、円滑現象が起こる。
神聖な書を読んで運命が変わった人だって、その本そのものが良いというより、熱心に読むことで没我になったのだ。もちろん、無になるまで読ませる素晴らしい内容でもあったのだろうが、読むだけでは駄目なのだ。

ところで、面白いもので、無理にシャキッとしたら、案外に何も考えないものだ。
なぜなら、死を覚悟した時というのが一番シャキッとし、無になるからだ。
ここらは、五島勉の『ノストラダムスの超法則死活の書』の、美しい姫のための決闘で、死ぬはずだったのに勝った騎士の話が一番良い。
ノストラダムスに「お前は負けて死ぬ」と言われ、それを受け入れ、白い馬に死に装束の白い鎧で、死ぬつもりで戦いに挑んだ若い騎士は勝ったのだ。
長くなった。
重要なことだが難しいかもしれないので、また手を変え品を変えて考えよう。








偉大な国、偉大な人間が持っているもの

アメリカ合衆国は、唯一の超大国として、今日まで生き残っている。
かつての超大国ソビエト連邦は崩壊し、現在のロシア連邦として再構成されたが、ロシアのGDP(国民総生産)は世界11位でカナダ、韓国並。1人当たりGDPでは、日本も悲惨なもの(25位)だが、ロシアは65位で、これは中国やメキシコ並で、途上国と競うレベルだ。
中国は全体としては超大国と言えるかもしれないが、上の1人当たりGDPを見ても分かる通り、貧富の差が激しく、早い話が国民の大半は幸福とは言えない。

なぜ、アメリカがこれほど偉大な国であるのかというと、アメリカ合衆国憲法の力と言えるのだと思う。
アメリカ合衆国憲法は、1787年9月17日に作成され、1788年に発効している。
アメリカ建国者達が、将来ずっと、アメリカが発展し、子孫が幸福であることだけを願って、知恵を絞り、最大のエネルギーを費やして作ったのが、このアメリカ合衆国憲法だ。
その前文は感動的であるので、Wikipediaから和訳を引用する。

われら合衆国の人民は、より完全な連邦を形成し、正義を樹立し、国内の平穏を保障し、共同の防衛に備え、一般の福祉を増進し、われらとわれらの子孫のうえに自由のもたらす恵沢を確保する目的をもって、アメリカ合衆国のために、この憲法を制定する。

スーパーマンは自由と正義のために戦うが、まさにそれが、アメリカ合衆国憲法の精神なのである。
これと共に、アメリカの公式モットー、「IN GOG WE TRUST(我々は神を信じる)」が、アメリカに超自然的な加護をもたらしたように思う。
だが、今や、アメリカの権力者達は、アメリカ合衆国憲法を踏みにじり、神への崇拝を巣て拝金主義に成り下がり、アメリカは危機的状況にある。
トランプ大統領は、「私の最大の責務は合衆国憲法を護ること」と言ったが、他の多くの政治家はそうではないのである。
だが、軍のトップは、誰に従うかと聞かれ、「憲法に従う」と述べたのであり、アメリカ軍はまだ生きている。
アメリカ合衆国憲法が存続出来るか、それとも、捨てられるか、そして、アメリカが神を崇拝する国か、神を捨てた国になるかが、次の6日の上院下院合同会議で決まるかもしれないのである。

ところで、人間が個人で、優れた憲法のような格率(かくりつ。行動規則)を持てば、その者は、他に抜きん出た偉大な人間になれるかもしれない。
フランスの哲学者ルネ・デカルトにとっては、自ら作った『方法序説』がそれ(自己の格率)で、これは6章から構成され、序文のデカルト自身の弁によれば、「12歳の子供でも理解出来る」ものである。
プラトンの『ソクラテスの弁明』を読めば、ソクラテスも、シンプルで特別な格率を持っていたと思われるのである。
空手家の大山倍達氏は、中学生の時に、パスカルの『パンセ』を熟読し、それによって、自分なりの格率を持っていたから、世界的な空手組織を作るまでになれたのだと思う。
偉大な人間は、やはり、何か具体的な格率があると言って間違いない。
その上で、やはり皆、様々な形ではあるが、強い信仰を持っているのである。
格率は、一般的には、「自己の哲学」とも言えるが、自分に合った、そして、現実的には、あまり難しくないものが良いに違いない。
そして、それを持つ者のみが偉大になれるのではないか、あるいは、成功するのではないかと思うのである。








洗脳から何とか逃れよ

どんな人であっても、自分は強烈に洗脳されていると思った方が良いと思う。
「少しは洗脳されている」なんてものではない。
どこぞの悪名高い専制国家の国民と同等・・・ひょっとしたら、もっとひどいかもしれない。

それならもう、インドのジッドゥ・クリシュナムルティのように、「私は何も信じない」と決心した方が良いとも思うが、そのクリシュナムルティだって、かなりの部分で洗脳を免れていないかもしれない。
クリシュナムルティは、ガンジーやマザー・テレサのように、皆が泣いて褒め称える人達だって、悪の根源と言うような人である。
まあ、本当は、善いとも悪いとも言いたくないのかもしれないが、そのくらいの言い方をしないと、普通の人には話の要点が伝わらないのだと思う。

ルネ・デカルトも、絶対に何も信じないと決めた人だった。
しかし、それでは社会で生きていけないので、法律と伝統的な道徳にだけは従うことにした。
それで、大体うまくいってたのだと思う。

洗脳されると頭が悪くなり、今や、普通の日本人で、本当の頭脳の力の3割も使えないようになっていると思う。いや、実は、数パーセントしか使えていないという話もある。
そして、頭脳そのものより、精神の力を奪われていて、不満が多く、不安に苦しみ、直観で分かって当たり前のことが分からず、精神を媒介する引き寄せも全く出来ない。
洗脳が強いほど社会の下層にいるのかというと、必ずしもそうではなく、一見、上層にいながら下層の人々より苦しい者も多いのだ。

イエス・キリストは、洗脳を免れることが出来るよう人々を導いたが、それは、神と天国という害の少ないストーリーで、悪意のない洗脳を行うことによってだった。
イエスが、「神と悪魔の両方に仕えることは出来ない」と言ったように、人間は、2つの異なる洗脳を受け入れるようには出来ていない。
それなら、害がない洗脳を先に入れておけば良く、既に、害のある洗脳を受けている者は、良い洗脳と入れ替えれば良い。
そのためには、何を信じれば良いのだろう?
それは福音書に書かれている。
誰かがイエスに「第一の掟は何か?」と尋ねると、イエスは、「神を愛せよ」と即答した。
これが、トランプ大統領やウッド弁護士の言う、「政府や大統領を崇拝する国ではなく、神を崇拝する国にする」ということだ。
だが、ある巨大な勢力である敵は、アメリカ人に別のものを崇拝させようとしている。
それが何か分かっているが、私も恐くて言えない(笑)。

我々は、経典と言うよりは、法然の『選択本願念仏集』や、親鸞の教えを書いた『歎異抄』を理解することで、阿弥陀仏を崇拝して念仏を唱えた方が良いかもしれない。
数学者の岡潔や、おそらく、物理学者の湯川秀樹もそうしたのだと思う。
もちろん、他に好ましく思うものがあり、それが害のないものなら、それを信じれば良い。
そうすれば、頭も良くなり、引き寄せもうまくなると思う。








プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
Kay Twitter Home

執筆のご依頼




最新コメント


月別アーカイブ
記事検索
ブログバナー&Mail


メールはこちらへ

PV since 2010/09/08
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

人気ランキング参加中
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ
にほんブログ村 メンタルヘルスブログ ひきこもりへ


タグクラウド
QRコード
QRコード