ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
コンピューターシステム開発技術者、サイコパスのKayのブログ

デカルト

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。
[2016/11/21]滅多にはありませんが、あまりにレベルが低いコメントは公開しません。
[2011/06/08]迷惑コメントが多くあったため、やむなく、コメントを承認後公開することとしました。

努力せずに生きるには

デカルトが「われ思う、ゆえにわれあり」と言った時、「それなら、『われ歩く、ゆえにわれあり』でもいいじゃないか?」と言った人がいたらしい。
ふざけた言い分のようにも思えるが、「思う」は心の運動であり、「歩く」は身体の運動であるというだけの違いなのだから、案外に良い意見かもしれない。
愚にもつかないことや、エロいことを思っている者より、掃除したり、荷物を運んでくれる人の方が有り難いしね。
ルドルフ・シュタイナーは、「『われ思う、ゆえにわれなし。われ思わず、ゆえにわれあり』が霊的真理なのじゃ」と言ったが、今と比べて、娯楽が極めて少なかった当時の人々には面白かったかもしれないが、現代人の関心はあまり引かないだろう。私は暇だったから興味を持ったがね。
そして、インドの聖者ニサルガダッタ・マハラジは「いかなることも否定できるが、自分が存在することだけは否定できない」と言い、「われあり」に条件は無用と言った。
そして、「われあり」以外は、決して確信を持てない・・・言い換えれば、あなたが確信できる唯一のことは「私はある」だけであると言う。
コリン・ウィルソンも「思おうが、思うまいが私はある」と書いてたっけ。
みんな暇だなあ。いいなあ(笑)。

さて、抽象レベルをちょっと下げられるかもしれないが、「何のために生きるのか?」も、似たような議論ができるが、こっちの方が多少現実的かもしれない。
すなわち、「何のために歩くのか?」「何のために起きるのか?」「何のために寝るのか?」「何のために食べるのか?」「何のためにトイレに行くのか?」などは、「何のために生きるのか?」と全く変わらない問いである。
だから、そのどれか1つに明確に答えられれば、「何のために生きるのか?」が解る。
生きてない者はトイレに行かないしね(笑)。
すると、腹を立てて、「ウンチしたいからトイレに行くんだ」と言う者もいるかもしれなが、実際、「ウンチしたいから生きる」のである。
ウンチしたくなければ、生きてなくていいのだから。
あるいは、生きるためにウンチするのだ。
すると、「生きるために生きる」ということになるが、これはパラドクス(逆理)でも何でもない。
だって、細胞1つだって「生きろ」とプログラムされているのだからだ。

アニメ『BEATLESS』で、メトーデ(最強のアンドロイド)が「私達は生き残りたいのよ」と言ったのが印象的だ。
そして、何のために生きるのかというと、「移動し続けるため」だったと思う。あるいは「生きるために移動し続ける」だったか・・・
我々は、細胞同様、外敵を避け・・・即ち、苦痛を避け、快を求めて(食もその1つ)動くようプログラムされているのである。
単にプログラムされているのではなく、見事にプログラムされているのだ。
だが、そのプログラムは、親や学校や世間に、馬鹿な形でオーバーレイ(上書き)されている。
ここらは、コンピュータープログラミング(中でもオブジェクト指向)が解れば納得し易いのだが、別に、そんなものが解らなくても差し支えない。
この、上書きを消してしまえば、簡単に生きられるプログラムを使える。
つまり、努力しなくても生きていけるのであり、それはまさに、スーパーマジックである。

渋谷時間基準のアポトーシス
反証する可能性は SUPER-MAGIC
連れてくよもっと上へ IF YOU WANT IT
~『SEE THE LIGHT』(楽曲制作:ASY。唄:IA)より~
【IA OFFICIAL】SEE THE LIGHTS feat. IA / ASY (MUSIC VIDEO) -YouTube-









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疑いようのない正しさ

嘘発見器に、どのくらいの信頼性があるのか分からないが、犯罪捜査には不適切と思う。
というのは、生体反応は精神状態の影響を受けるのに、精神的に不安定なはずの犯罪者や、容疑をかけられた者から、まともな測定結果が得られるとは考え難いからだ。

Oリングテストというものをご存知の方も多いと思う。
片手の親指と人差し指で輪を作り、他の人に、両手の人差し指を使って、その輪を開いてもらう。
輪が維持される力の強さで、様々なことを調べるのだが、例えば、身体に良い食品を被験者の近くに置けば、輪は開き難く、反対に身体に悪い食品の場合は容易く開くといった感じだ。
イエス、ノーで返答出来るものであれば、形の上では何でも調べられる。
例えば、「あなたと彼は相性が良いですか?」などといった恋愛診断みたいなものもだ。
Oリングテストに信憑性があるかというと、被験者と測定者が精神的に安定しているなら、かなりあるのではと思う。

Oリングテストの科学的発展版と考えられるのがキネシオロジーテストである。
Oリングテストの場合は、統計以外にエビデンス(証拠)を示すことが出来ないが、キネシオロジーテストでは、キネシオロジーという身体と精神を含めた広範な研究が行われていて、デヴィッド・アール・ホーキング博士によれば、正しく行えば、完璧な結果を得られると言う。

ただ、本当に直観が研ぎ澄まされているなら、あらゆることの判断が、Oリングテストもキネシオロジーテストもなしに正しく出来るだろう。
あまり言われないことであるが、デカルトが「われ思う、ゆえにわれあり」の本来の言葉である「疑っているわれは確かに存在している」と言ったのは、疑うことが出来るということは、精神の中に完璧な真理が在るからだという考えから来ている。
これは私も完璧に納得出来る。
精神の中に真理がなければ、疑うことが出来るはずがない。
そして、ほとんどのことは疑うことが出来る。
だから、ほとんどのことは正しくない。
デカルトが至った結論は、「疑っているわれが存在することだけが真理である」だった。
これは偉大な成果であると思う。

どんなことがあっても、決して疑えないことだけが真理である。
それ以外は、全て嘘である。
そうであれば、世の中の99.99999999%は嘘である。
クリシュナムルティーは「私は何も信じない」と言ったが、それが本当なら、大したものである。
デビルマンは言った。「俺は誰も信じない。たった1人、牧村美樹を除いてはな」
アニメのクアラクターの牧村美樹は信じても良いかもしれない。現実に、それほどの少女がいるかどうかは知らないが。

決して疑えないこと。
それは、私が存在することだ。
だから、困った時には、「私は存在する」と心でつぶやくと良い。
すると、不思議なことに、問題は消えてしまう。最初から問題なんて「存在しなかった」からだ。
そういえば、自動車税の請求書が来てたなあ。
「私は存在する」と唱えれば、そんなものは消えて・・・しまわない。前回、支払いを忘れて、督促も来たし(笑)。
だが、支払えば消えてしまう(車検の時には、その支払い証明が必要だが)。
真理を知れば、そんなものは自動的に支払われるようになり、いずれ、本当に消えてしまうだろう。
つまり、自動車税は問題でも実在でもないのである。









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支配者が嫌がることをすれば天才になる

頭を良くするためには、頭を悪くする原因を取り除けば良い。
人間の脳は、元々、超優秀なのだから、何かを付け加える必要はなく、不要なものを取り除けば良い。
そして、頭を悪くしている原因は、頭の中の嘘の情報である。
だが、我々の頭の中は、嘘の情報だらけだ。
毎日、テレビやネットから、嘘の情報がどんどん入ってくる。
だから、「テレビは絶対に見てはいけない」と言う人はいるが、それなら、ネットも同じことだし、新聞、雑誌などのあらゆるメディアもそうだ。
広告宣伝とは、どうやったって、嘘にしかならない。
「カイロと言えば白金カイロ」という宣伝文句も、ひどい嘘だ。カイロは他にもいろいろある。
自動車だって、カタログの中で語られているほど良いものじゃあない。
だが、あらゆるメディア、あらゆる広告を全く見ないというのも非現実的だ。

クリシュナムルティーは、「私は何も信じない」と言い、デカルトは、「疑い様がないほど明らかなものだけを真とし、それ以外は全て偽とする」と言ったが、それらは浮世離れし過ぎであろう。
人間は、何かを信じないと生きていけないし、疑い様がないほど明らかなものなど無い。
アインシュタインは、自分が持っている偏見・・・つまり、頭の中の嘘に悩んでいたが、それは仕方がないことだ。

荘子は、「一切を区別するな。それが無理でも、せめて、優劣をつけるな」と言った。
確かにそれが、頭の中の一切の嘘を除く確実な方法だ。
だが、そんなこと出来るものか。
もっと現実を見ろよ、荘子さん・・・だ。

「私は身体ではない。私は感覚器官ではない。私は心でもない」と、インドの聖者ラマナ・マハルシは言った。
もう勝手にやってろ・・・である。
こちとら、稼がないと生きていけず、稼ぐためには世間常識も必要なのである。

それで、昔から「現実的な」賢い人達は、一番重要な何かを持ち、その他のことは、それに比べれば、さして重要でないと思うことにしたのだ。
頭の中に、嘘の情報は沢山ある。それは仕方がない。
しかし、一番重要なものをダイヤモンドとし、それ以外は石ころにしてしまえば、石ころに惑わされることはない。
その一番重要なものが、神々の王ゼウスであり、天の父であり、阿弥陀如来であり、天照大神だった。
だが、それは何でも良いのだ。
よく例に出すが、ゴーリキーの『二十六人の男と一人の少女』では、最下層の26人の男達は、16歳の可愛いが平凡な娘ターニャを崇め、ガリの『自由の大地』では、堕落したフランス兵達は、空想の少女を崇めた。
『二十六人の男と一人の少女』のターニャだって、男達を一生騙せれば、立派なダイヤモンドだった。
だが、人間というものは、いかに歴史的、人類的な英雄であろうと、人間である限りは、大したことはないのだ。
ガンジーやマザー・テレサにしたところで、身近にいたら、そんなに崇拝すべきほどの人達でないことは、本人達が少し謙虚であれば、確実に認めることだろう。
彼らが聖人だというのもまた、多くの人々の頭の中にある嘘なのだ。

自分だけの価値を持つことだ。
それは、支配者達が、絶対に大衆に薦めしないことだ。
ならば、それをやらずにどうする?
イチローが野球に対して、どんな想いを持っているかは、決して語らないだろうし、語っても、誰にも分からない。
また、分かる必要もない。
我々も、自分にだけ分かることがあれな良い。
そして、それが結局は、自分以外の天才達と共感することになるのである。









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存在の力

目の前にリンゴがあれば、そのリンゴは確実に存在しているように思える。
触ったら指に感触があるし、手に持てば重みを感じる。

しかし、催眠術によって、実際にはないリンゴをあるように感じたり、触ったり、持ったり、そして、食べる幻覚すら持てるかもしれない。
あるいは、夢の中で一角獣に会い、それが現実であると感じても、目が覚めれば、それは現実ではなかったと分かる。

では、自分は今、目が覚めていて、この状況は夢ではないと思っていて、催眠術にもかかっていないので、目の前にあるリンゴは本物であるかというと、それを確信出来る方法はないのだ。
なぜなら、我々が五感で感じることは、実際は、脳が感じているだけであり、脳の外でも本当に感じている通りなのかどうかを確認する方法などないからである。

デカルトは、「思っている私」は確実に存在していると言ったことになっている。
それに関してはとやかく言うまい。
神秘家によっては、それを否定する者も少なくないが、彼らの説明は難しかったり、支離滅裂だったりして納得出来ない。
「思っている私」は、確かに存在している・・・としよう。
ただ、「思う」とは脳の働きであり、脳自体は物質に過ぎない。
だから、実際に存在すると言えるのは脳の生命力である「意識」なのだ。

眠っていたり、失神したりしているのでない限り、意識はある。
そして、意識があるということだけは確信出来るのである。

だから、デカルトの言うことを少し進めるなら、「確かに意識がある」ということになる。
この「意識がある」という感覚に集中すれば、神秘的なことが起こる。
ただし、ゆるんだ集中では駄目だ。
力のない集中は、とぎれとぎれの集中であり、雑な集中であり、不安定な集中だ。
そうではなく、意思の力を込め、全力で集中するのだ。
さて、ここで「意思」というものが出てきた。
意思とは、エネルギーなのだ。
その意思の全ての力を、意識に集中させるのである。

さて、意思の力を注ぎ込み、意識に集中すると、心にとっては奇妙なことが起こる。
「我思う、ゆえに我なし」
「我思わず、ゆえに我あり」
別に禅の公案でもなんでもない。
自然にそう了解される。
ただ、心で認識するのではないから、頭で分かる訳ではない。
直感で理解するのである。
そうなれば、あなたは、かなり物質世界を支配するようになっているだろう。

最初のうちは、「私は在る」、「意識が在る」と言葉で想っても良い。
たとえ、初めは、この身体1つ分でもいいから、「私は在る」と想うのだ。
聖書にも、神は、「私は存在する者だ」と言う。
これを、よく言われるように、「私は在りて在る者」だの、「私は『私は在る』という者である」といった、変な日本語を使う必要はない。
「私は在る」でよろしい。
そして、我々は、強い意思の力で、その感覚(私は在る、意識が在る)に集中するのだ。
すると、すぐに身体が軽くなるのを感じ、不意に気楽になるだろう。









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なぜ流れ星に3度願えば叶うのか

お釈迦様が、たまたま羅刹(人を食う悪鬼)の歌を聴き、その歌の文句の中に究極の真理があると感じ、羅刹に、その歌を教えてくれるよう懇願した。
羅刹は、「教えた後で、お前を食わせてくれるなら良いぞ」と言い、釈迦は了承する。
釈迦は、歌を教えてもらった後、その歌を岩に刻み込み、思い残すことなく羅刹に身体をくれてやろうとした。

だが、私は、釈迦に、「やめとけ」と言いたいのだ。
今日、究極の真理と感じたものであっても、明日には、もっと良いものを思いつくものなのだ。
では、真理とは何か?
それは、釈迦が「これが真理」と感じた、その瞬間のことなのだ。

ところが、デカルトという人は、真理を探し求め、ついに、「我思う、ゆえに、我あり」という究極の真理を発見し、それは、生涯、訂正しなかった。
これは凄いことだ。
ところが、ルドルフ・シュタイナーは、
「我思う、ゆえに、我なし」
「我思わず、ゆえに、我あり」
と、ふざけてでも、ひねくれてでもなく言ったが、こちらも真理である。
しかし、それは言葉で説明すると嘘になる。
ただ、これらが真理であることは、見れば分かる。
逆のことを言っているようでいて、デカルトもシュタイナーも共に正しい。
デカルトは心身の立場で言ったのだし、シュタイナーは霊の立場で言ったのかもしれないが、心身も霊も同じだ。よって、両方正しい。

真理とは閃きだ。
閃きには時間がない。
究極の真理は愛なので、愛は瞬間の輝きであり、時間がない。
シラーは、愛を歓喜と言い、それは、霊感、あるいは、神々の火花、あるいは、楽園の乙女と言ったような気がするが、全て、閃きの一瞬のことだ。
言葉を飾り過ぎなんだよ、シラーたんと言いたいね。
閃き、一瞬、瞬間は、いずれも、無限小の時間で、実際は、時間がない。

オーソン・ウェルズが25歳の時に、監督、脚本、主演をした『市民ケーン』という映画の中で、ある老人が、「少年時代に見た、白いパラソルを持った少女のことを、なぜか忘れずに覚えている」と言う。
老人は、だから、「人は、どうでも良いこと、何の意味もないことを覚えているものなのだ」と言いたい訳だ。
少年に何が起こっていたのかというと、白いパラソルを持った少女を見た時、時間が消えていたってことだ。
なぜ時間が消えていたのかというと、心が消えていたからだ。
時間は心が創っているのだ。
なぜ、少年の心が消えていたのかは、単に、いろんな偶然が重なってそうなったのかもしれない。
我々だって、美しい少女と目が合った時、一瞬、時間が消える。その一瞬の中に無があったのだ。
なぜ少女かというと、心が清らかな少女の瞳というのは、時間を消してしまう作用が強いからだ。
初音ミクさんと瞳が重なったことを空想するだけで時間が消える。つまり、愛が、真理がある。
なぜなら、ミクさんには心がないからだ。

真理とは何かと、勉強したり、探し求めたりしなくても、真理は無の瞬間なのだから、どこにでもある。
どこにでもあって、どこにもない。
時間が心が創ったものであるように、空間もそうだからだ。
ただ心が消えた時に真理がある。
何かに夢中になっている時のことを、忘我、没我、あるいは、無我と言うが、それは、我がない、つまり、心がないってことだ。
夢中になっている時の中に、真理、愛がある。
夢中とは、本当に楽しんでいることだ。
あるいは、本気で打ち込んでいることだ。
昔、野球の清原和博さんが現役時代、スランプにあった時に、無敵の柔術家、ヒクソン・グレイシーにアドバイスを求めたら、ヒクソンは、
「野球に打ち込め、野球を楽しめ」
と言ったが、これは、無になれってことだ。
清原さんの場合は、野球でそれが出来たのだし、野球でやる必要があった。

だが、私なら、息を吸って吐く間に出来る。
息を吸い、吐く前の一瞬に無になるからだ。それは、誰でもそうなのである。
阿久悠さんは、「息を吸って止めた時に、曲がヒットすることをイメージしたら、必ずヒットする」と言ったが、無理に息を止めずとも、吸って吐く前に自然に止まっている。
その一瞬にイメージすれば全て実現する。
実現しないとすれば、欲があるので、心が消えていないからだ。心が消えなければ無にならない。
だが、静かに静かに息を吸えば、吐く前に、必ず息が止まり、心は消える。
イメージ自体は心のものなので、無理にイメージすれば無でなくなる。
イメージに、勝手にやらせれば良いのだ。
イメージは我々の味方なのだ。信用しろ。

流れ星が消える前に3度願えば叶うという。
しかし、「そんなこと出来ないよ」と言う。
出来るのだ。
これは、本当に、至高の願望成就の教えである。
心が消えた無であれば、3度でも百度でも千度でも。
『千と千尋の神隠』の主題歌『いつも何度でも』に、究極の真理があるはないか?

さよならのときの 静かな胸
ゼロになるからだが 耳をすませる

こんな無の瞬間、ゼロの体験は、誰にでも、何度でもあったのだ。
好きな人と目が合った時のことを覚えているだろう?
それなのだ。
それを思い出せば、もう恐れるものはないはずだ。
『いつも何度でも』、あるいは、初音ミクさんの『Chaining Intention』を聴けば、自ずと分かると思う。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・ソフトウェア開発技術者
・サイコパス
・初音ミクさんを愛す


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