ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

ディール・カーネギー

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

ジャニーズ問題がなくなるはずがない

ワイドショーネタに興味はないが、今話題のジャニーズ事件に対する反応を見て、日本人のIQがここまで下がったのかと恐怖したので書いておこう。

かつて、大相撲で八百長事件が話題になった時、当時、東京都知事だった石原慎太郎氏が、テレビのインタビューではっきり言ったのだ。
「(大相撲の八百長は)あって当たり前じゃない」
この発言は、何の波紋も呼ばなかった。当たり前だからだ。

かつて、プロレスのレフェリーだったミスター高橋氏が、プロレスの試合は、全部最初から勝敗が決まっていると暴露する本を出し、ベストセラーになったが、高橋氏のところに、関係者からの苦情は一件もなかったという。
(プロレスがショーだというのは)当たり前のことだからだ。
そんなこと、ちょっと頭の良い子なら子供でも分かる。予想通りの勝敗にしかならないのだから。

枕営業という言葉を、実は私は、割と最近まで知らなかった。
性的サービスにより、営業を圧倒的に有利に進めるというもので、表向きはないとされている。
別に、国政政党党首の立花孝志氏が「そんなのNHK時代にいくらでも見た」と言わなくても、あって当たり前である。
これについて、こんなたとえが役に立つかもしれない。
『Wの悲劇』(1982)という、当時人気絶頂だった薬師丸ひろ子さん主演の映画がある。
女優の羽鳥は、有力者に身体を売ることで大女優になったのだが、彼女が別の有名女優に言う。
「あなた、這い上がるために女使わなかった?私は使ったわよ」
相手の有名女優は黙り込む。使っていないはずがないからだ。
ところが羽鳥は、自分の枕営業が世間にバレないために、薬師丸ひろ子演じる駄目な劇団研究生の静香に、枕営業をやったのはあなた(静香)ということにしてくれと言い、代わりに大役を与えると約束する。それに応じた静香は、初めこそ世間から中傷を受けたが、羽鳥のバックアップで素質のない静香がスターに上り詰める。
芸能界は人気第一で、実力は二の次とでも言いたい映画だが、批判は全くない。当たり前のことだからだ。
今の、大根のアイドル俳優が主役を張る映画を見れば分かることでもある。

人気プロスポーツ、エンターテインメント、オリンピック・・・有力者の意向で大きなお金が動く世界が、きれいなものであるはずがない。
ジャニーズ問題みたいなものは、絶対になくならない。
ジャニーズのことを暴露した男性が、超人気の女性アイドルグループについても暴露したという話だが、暴露するまでもなく、あって不思議なことではない。
こういったことをなくそうと思ったら、芸能界をなくすしかない。確かに、それが本当は一番良い。
しかし、なくなるとは思えない。
よって、私は、そのようなものに一切目を向けない。
そして、誰も、アイドルみたいなものになろうとしないことだ。他にやるべきことはいくらでもあるはずだ。
全然悪いことではないが、アイドルになりたいというのは、決して崇高な目的ではない・・・などと偉い人が言ったら大問題になるだろう。
しかし、アイドルになりたいというのは、簡単に言えば、激しく羨まれる優越感に浸りたいというのが本音で、昔は、アイドルはお小遣い程度しかもらえなかったが、それでもなりたい者が沢山いたのだ。

水妖
AIアート367
「水妖」
Kay


いかに人間の「羨まれる優越感」への執着が強いかが分かるのである。
それはディール・カーネギーの『人を動かす』を読んでも、よく分かる。
そのような欲望を、この本では「自己重要感」と述べ、人間最大の欲望と断定している。まあ、今は承認欲求というのが一般的だ。
だが、そんなものに負けてはならない。
深呼吸をすることである。








なろうとするな、なっていると知れ。

私が昔読んだ、ディール・カーネギーの『人を動かす』に、人間の最も強い欲求は「自己重要感」だと書かれていたが、カーネギーはこれを読者に納得させるだけのことをうまく示していたと思う。
自己重要感とは、言葉通りの意味で、自分が重要な人間だと思うことだ。
だが、今は、自己重要感を欲することを「自己承認欲求」と呼ぶのが一般的と思う。
これも、言葉通りで、自分の価値を自分で承認することだが、これを心から感じることを、人間は強く求めているということだ。
学校で良い成績を取ろうとする意欲は、ほとんどが、それによって、自分に価値があると感じることが出来る・・・つまり、自己重要感・自己承認欲求が満たされるからである。

人間は誰でも、自己重要感・自己承認欲求を強く求めるが、それは、最も単純には、「自分は偉いと思いたい」「自分は優秀だと思いたい」という欲求に現れ、それは、他人が自分を偉いと認めてくれることで実感する。
つまり、『星の王子さま』に出てきた、変なおじさんのように、ただ皆が自分を「やんや」と持てはやしてくれたら満足するのである。
それで、多くの人が、「私は東大卒です」「私はPh.D(博士号)を持っています」「私はアメリカの大企業に勤めています」「私は内科医です」「私の年収は2000万円です」と、別に言う(書く)必要もないところで言ったり書いたりする。
これも、『星の王子さま』にあったが、子供が大人に、自分の友達がどんな子かを話す時、「明るい色の髪で」とか「クッキーが好きで」とか「サッカーが好き」と言っても通用せず、「お父さんが弁護士だ」と言ったら、すぐ納得してもらえるというのも、大人は前者のような言い方(サッカー好き等)では、その子の価値が分からないが、後者のように言えば(パパが弁護士等)、その子の価値が分かると「思い込んでいる」からである。
また、家を説明するのでも「壁の煉瓦の色が」とか「庭にゼラニュームの鉢が置いてあって」では駄目で「10万ドルの家」と言わないといけない。
そういったことに関し、『星の王子さま』では、「大人ってへんてこりんだ」と、正しく評価し、読者だって、「本当はそうなんだ」と思っているのである。
そして、我々は『星の王子さま』の、その「へんてこりんな大人達」と同じになってしまっているのだろう。

だが、『星の王子さま』の王子さまは、子供っぽい人間の弱さも示している。王子さまには、自立心、自律心ってものが全くない。
せっかく、当たり前の価値観を持っていながら、力がない。
つまり、優しいけど何にも出来ない愚か者だ。
その王子さまの進化形が『かもめのジョナサン』のジョナサンだ。
ジョナサンは、当たり前の価値観と共に、自立精神を持っていた。
面白いことに、『星の王子さま』は、王子さまが死んで物語が終わるが、『かもめのジョナサン』では、ジョナサンが死んでからジョナサンはやっと本物になり、本当に生きる。
我々は、今すぐ、死んで生まれ変わったジョナサンにならないといけない。
ただ、『かもめのジョナサン』の作者のリチャード・バックが、ヒッピー思想に留まってしまっていたのだろう。
いまひとつ、生まれ変わった後のジョナサンにリアリティがない。
つまり、バックは、ジョナサンになりたいと思っていただけで、なれなかったのだ。
これに関しては、私はあまり詳しくないが『マトリックス』で、ネオがモーフィアスに教えられたように、
「速く動こうとするな。速く動けると知れ」
である。
つまり、
「ジョナサンになろうとするな、ジョナサンであると知れ」
である。
日常的なことに言い換えれば、
「金持ちになろうとするな。金持ちであると知れ」
「イケメンになろうとするな。イケメンであると知れ」
「脚を長くしようと思うな。脚が長いと知れ」
「あの子を彼女にしようと思うな。あの子が彼女であると知れ」
である。
とりあえず、そう思い込めば良いのだが、そのためには、いろんな方法があり、人によって、多少、合う合わないがある。
ここで、そのいろんなやり方を書いているので、それぞれで多少の矛盾を感じるかもしれない。
その中で、自分に合ったものを根気強くやれば良いだけだが、実をいうと、向き不向きも、それほどはなく、どれでも良いのである。








楽しくプロになる方法

とてもお得なお話をしようと思う。
このお話で、プログラミングや、それに限らず、あらゆることでプロになれる方法が解ると思う。

例えば、プログラミングについて言えば、大学の情報学科やコンピューター専門学校で学んだり、システム開発会社に入って修行した者より、普通の中学や高校の中でプログラミングしたり、会社の中でも、情報部門でない人が会社のパソコンで仕事の効率を上げるためにプログラミングした方が、良いプログラマーになることが多い。
ビル・ゲイツは高校生の時、マーク・ザッカーバーグはハーバード大学で、自主的にプログラミングをやり、結果、二人ともハーバードをやめることになった。
ネットの有名人であるQPONさんという人は、トヨタ自動車の社員だった45歳の時に、パソコンでBASIC言語でプログラミングを始め、学歴はなかったがプログラミングの力で大きな会社の参与を務め、80歳過ぎた今でも活躍中だ。

なぜ、そんなことになるかの単純な原理がある。
それは、次の音楽家の話が解り易い。
その音楽家は女性の双子だったが、事情があって、それぞれ別の里親に育てられた。
双子の1人は音楽家になったが、もう1人は音楽は駄目だった。
それは、才能の違いによるのではなかった。
この双子の、一方の里親である母親が音楽教師で、もう一方は、音楽とは無縁の家庭であったと言えば「なるほど」と思うだろう。
ただし、音楽家になったのは、音楽とは無縁の家庭で育てられた方だったのだ。
意外に思うかもしれないが、話は簡単なのだ。
音楽教師の母親の親戚、友達には、やはり、音楽に関係する人が多く、そんな人達の子供は、幼い頃から音楽の英才教育をされてた。
音楽教師に引き取られた双子の1人もそうで、小さい時から母親からピアノのレッスンを受け、そこそこ上手かった。
だが、周りにいる子供達だって、皆、ピアノが上手く、自分がちょっとくらい上手くなっても、目立たないばかりか、特に上手い子と比べられて劣等感を持ったりする。それで、つまらなくなって、音楽が嫌いになったのだ。
ところが、もう一方の、音楽と無縁の家庭に引き取られた方の双子の1人は、学校のオルガンを弾いてみたところ、他の子よりちょっと上手く弾けたので嬉しくなり、熱心に練習するようになった。すると、ますます上手くなり、皆の前で演奏すると、「やんや」の喝采を受け、ますます楽しくなって練習に励み、いろいろな音楽活動を行う中で、立派な音楽家になったのである。

プログラミングも全く同じだ。
大学の情報学科や、専門学校では、周囲の皆がプログラミングをやるので、それは、学校の算数や英語で、少々勉強しても、もっと出来るやつが沢山いるような状況だから、面白いはずがない。
ましてや、システム開発会社に入ったら、先輩達は生きるために、それなりに必死でプログラミングしているのだから、ついていくのも難しく、下っ端意識が出来てしまう。
しかし、周囲の誰もプログラミングが出来ない中で、ExcelのVBAでプログラミングしたり、Webサイトを作って見せたら、「すごーい」と羨望の目を向けられて気持ちが良い。上に挙げたQPONさんもそうだったと思うし、何より、私がそうだった。

ディール・カーネギーは、世界的ベストセラー&ロングセラーである『道は開ける』で、人間の一番強い欲望は自己重要感と述べていたが、一番かどうかはともかく、自己重要感が人間の偉大な原動力であることは確かだ。
何もスキルを持たない者が自己重要感を満足させるために、YouTubeに、目立つというだけの馬鹿げた行為の動画をアップするのだと言えば解り易いと思う。そんな者達は、自分は何も出来ないので劣等感に苦しみ、自己重要感に飢えている可哀想な者達であるのだ。

闇雲に「努力しろ」と言ったって駄目なのだ。
かといって、努力の見返りが、物や多少のお金、あるいは、好きでもなければ尊敬もしていない親や教師に褒められることでは、全然嬉しいはずがない。
そうではなくて、人間は、「やんや」の喝采が欲しい、「すごーい」という羨望の眼差しが欲しいのである。
そのためには、食欲を抑えてダイエットだって出来る人はいくらでもいるのである。
そして、人間は、「これをやれ」「このようにやれ」と言われるのは嫌いで、自主的に自由にやるのが楽しいのである。
中学や高校、あるいは、大学で、自分の好きなようにプログラミングや、その他のいろんなことを自主的にやるべきだ。
システム会社に入るのは得策ではなく、事務をやりながら仕事でプログラミングしたり、見せる相手がいなければブログでも開いて、自分のプログラミングを披露すれば良い。
楽器も、学校の吹奏楽部に入ったら、よほど上手くないと目立たないが、ロックならまだまだやってる人が少ないので、ちょっと上手くなるときゃあきゃあ言われて気持ちいい。
絵やイラストも同様と思う。

人と違うことをやれ。
ライバルが少ないところでやれ。
ちょっとやれば「やんや」の喝采を受けやすいことをやれ。
人間は、所詮、自己重要感、つまり、「私は凄い」が欲しいのである。
そして、ちょっと出来るようになったら、「私は凄い」と自分で自分を褒めてやらないといけない。
千回は褒めると良い。
すると、ますます凄くなり、プロにだってなれるのである。








チャチな優越感、自己重要感が無用になる法

自分のことはもちろん棚に上げるが(笑)、現代人が救いようがないほど愚かであるのは、「優越感」を渇望するからだ。
なぜそうなったかは細かい話なので省くが、誰もが「優越感」に飢えている。
「優越感」と言うよりも、ディール・カーネギーの言う「自己重要感」と言っても良いかもしれない。
カーネギーも言う通り、これ(自分は優れている、自分は重要であるという確信)が人間最大の願望だ。
カーネギーは、それ(自己重要感)を他人を操るために利用する方法を説いたが、それが強いと愚かになるから、それを消すという大切なことは、あまり説かなかったと思う。
人間の愚かな行いは全て、自己重要感、あるいは、優越感を求めてのことだ。
電車の座席で、男が短い脚を精一杯開いて座ったり(笑)、長く見せたくて(笑)大袈裟に組んで見せるのは、「俺はこんだけ立派なんだぞ(だから偉い?)」という悲しい訴えなのである。
老人になって、実力で優越感を示せなくなると、特に、そんなことをしたがるのはまだ分かるが、若い時から誉められるべきものが何もないと、そんな老人の真似をするのである。そして、今は、そんな若者や中年があふれかえっている。
言うまでもないが、老人でも、実力に自信があれば、そんな愚かな真似はしない。

言っては悪いが、あなたも根本的にはそうなのだ。
だが、優越感を捨てれば、面白いことに、万物が敬ってくれる。
イエス・キリストの宴席の話がとても良い。
進んで上座に座ると、「恐れ入ります。あなたより偉い人が来ますので、下座に下がって下さい」と言われて恥をかくが、下座に座ると、「どうか上座にお着き下さい」と言われるのである。それは、人によってではなく、宇宙を統べる見えない存在によってである。
今日から、椅子に座る時も、きちんと、出来れば、小さくなって座るのだ。
そうすれば、王者に見えるようになる。

せっかく、Excel VBAをマスターしても、それで優越感を持てば、活躍するチャンスに恵まれない。
しかし、その力で奉仕するつもりなら、その能力が称賛され、敬われる流れになる。
見えざる絶対的な力によってね。

だが、誤った優越感を持たないために、自己制約(自己抑制)をしようとしても、なかなかうまくいかない。
実を言えば、自己を制約する力の倍の(やがては数十倍以上の)力を、神は人間に与える。
しかし、意思の力で自己制約するのは難しい。
そこで、合掌したり、手を胸に当てるのである。
合掌は、てのひらをぴったり合わせ、少し強く押すと、霊的エネルギーが活性化し、願いも叶う。
胸に手を当てる時は、どちらの手でも良いし(多少、効果に違いはあるが)、両手でも良いが、胸の中央から指2本分右のあたりを抑える。
光のパワーを発し、目に見えるチャチな優越感、自己重要感などどうでも良くなる上に、運に恵まれ、超能力まで発揮するのだから、やらずにいられようか?
この知識を得たことに謙虚に感謝すれば、もはや無敵なのである。








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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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