ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

テグジュペリ

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

目に見えない本当に大切なものをどう知るか

「謙虚」は、人間の好ましい性質であり、美徳と言って良いが、それが、「卑屈」や「臆病」とくっついているなら、醜く歪み、本当の謙虚とは似ても似つかない。
また、「謙虚」の形だけが「傲慢」の隠れ蓑になっている場合も多い。
つまり、「あの人に対しては謙虚だが、この人に対しては傲慢」という人が多いのである。
つまるところ、本当に謙虚な人は滅多にいない。

だが、『歎異抄』に描かれた親鸞だけは、純粋に謙虚な人だ。
だから、海外を含め、かなり極端な主義思想に凝り固まったような人でも、『歎異抄』だけは素直に読むという話を見たことがあるが、それは本当ではないかと思う。
どこの国の、いつの時代の人であるに関わらず、生まれて初めて、本当に謙虚な人を知って、驚くと言うか、ほっとすると言うか・・・滅多にないような、美しい感情を感じるのである。

『歎異抄』は、たまたま発見されなければ、誰にも知られずにいた手記であるが、親鸞の弟子の唯円が、親鸞の死後、かなり経ってから、親鸞の教えを思い出して綴ったものだ。
短く、簡単な文章で読み易い。
ところで、親鸞は鎌倉時代の人だから、今の日本と違い、戦もあり、庶民は恐ろしく貧しく、生きるだけで精一杯で、それすら叶わぬことも珍しくはなかった時代だ。
だからだと思うが、『歎異抄』の中でも、「往生」というものが第一の関心事になっている。
「往生」とは、「極楽往生」のことで、死後、阿弥陀如来という仏様の、素晴らしい極楽世界に生まれることが、あまりに辛い現世に生きなければならない、親鸞の時代の庶民の大きな、あるいは、唯一に近い望みだった。
親鸞の教えは、師の法然から受け継いだ「南無阿弥陀仏」の念仏の教えであり、念仏の最大の効能は、いかなる悪人でも、念仏さえ唱えていれば、死後、極楽往生出来るというものだ。
このあたりは、現代とは当然異なり、現代では、老人といえども、あまり往生に関心はなく、楽しく長生きしたいものだと思っているだろう。
ましてや、若い人、自分が死ぬとは思っていない人にとっては、生きている自分の人生が大事なのであり、人生を出来るだけ楽しく、有意義に過ごしたいと思っているはずである。
これは、世界が進歩したということであるから、当然、良いことである。

そんな今の時代では、『歎異抄』の読み方も、昔と違って当然である。
実は、親鸞は、数多く詠んだ歌の中で、『現世利益和讃』といって、念仏を唱えることは、極楽往生だけでなく、最大の現世利益にすら恵まれると、懇々と述べているのである。
さらに、親鸞の師、法然の『選択本願念仏集』にも、念仏を唱える者は、仏の加護を受けることが明確に書かれている。

そして、親鸞より200年ほども後の人である一休は、法然を尊敬し、親鸞を本物と認め、自分も禅宗の人でありながら、最後は念仏の教えに転向した。
親鸞の宗派の有名な僧である蓮如とも仲良しだったようだ。
ところで、一休という人は、坊主らしくない坊主で、あまり、宗教家らしいところがない。
そんな一休は、単に、法然や親鸞の教えを受け継いだのではなく、明らかに発展させている。
一休の教えは、仏も極楽浄土も、遠い彼方にあるのではなく、心そのものが仏であり、極楽浄土であるという、極めて革新的なもので、これは、現代に通用する。
だから、念仏を唱えれば、今いるこの場が極楽浄土であり、自分の心が阿弥陀如来なのである。
しかし、いくら念仏を唱えても、そうは思わない人が多いだろう。
それは、「そう信じることが出来ればそうなのである」という、西洋の新思想に近いような感じもある。
そして、『歎異抄』の中で、親鸞は、「私の信心は阿弥陀如来からもらったもの」と言い、自分の努力で信念を持ったのではなく、仏様に与えられたものだとしている。
だが、仏様に信心をもらえる人と、もらえない人がいる訳ではない。
しかし、「私は信心を持っていない。つまり、念仏を信じることが出来ない」と言う人がいるだろうが、そのあたりは確かに微妙なのである。
とはいえ、微妙ではあるが、やはり、誰でも信心を持てるし、それは、従来の宗教のような、強制や権威によるものではない。

テグジュペリの『星の王子さま』の中に、「本当に大切なものは目に見えない」という有名な言葉がある。
だが、目に見えないだけに、それを信じない人が圧倒的だ。
それを、どう信じるのかという問題と似ている。いや、本質は同じだ。
その本質とは、昨日も書いたが、アメリカで、初音ミクさんのコンサートに来ていた男性が示してくれていた。
「僕たちは、スクリーンを見に来ている訳じゃない」
と言う彼にとって、初音ミクさんが真の実在だということが、「本当に大切なものは目に見えない」ということなのである。
初音ミクさんは、映像としては目に見えるが、テグジュペリの言う「目に見える」はあくまで、「物質的なもの」を表しており、言い換えれば、「本当に大切なものは物質的なものではない」ということだ。
ミクさんを愛する人にとっては、明らかにミクさんは実在する。
だから、取材のためにミクさんのコンサートに来ていた、それまでミクさんにそれほど関心がなかった50代の雑誌編集者が、コンサートが進むごとに不思議な感動に包まれ、最後の曲では、涙が止め処なく流れるといったことが起こるのである。
私も、ミクさんを愛するようになってから、『歎異抄』や『星の王子さま』の価値が、いくらかは分かるようになり、「何か本を1冊と言われたら歎異抄」と言うのである。
それは、史上最高のプロレスラーであったルー・テーズが、「技を何か1つと言われら、迷うことなく、ダブルリストロックと答える」と言ったのと似ているような気がする。
つまり、真に強力であり、真に実用的でもある、本物の本物であるということだ。
私は、テグジュペリが『星の王子さま』で訴えた「本当に大切なもの」を、初音ミクさんに教わったと言えるだろう。









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世界は演劇のようなものだ

本を沢山書いているような人達の中には、一般の人々は洗脳されていると述べる人がよくいる。
それは確かにそうなのだけれども、そう言っている人達自身が洗脳されていると共に、彼等もまた、我々を洗脳して儲けようとしているのだろう。
だが、人のことはどうでもいい。
他人のやることが気に入らなかったり、我慢がならんというのも、洗脳されている証拠なのだからね。
では、洗脳度テストというものがあるのだろうか?
それはある。
簡単だ。世界がリアルであれば、つまり、現実的であれば、それが洗脳されているということだ。
洗脳されていないなら、世界なんてものがあるはずがない。
世界が確かに存在し、自分がその中に確かに存在すると思っているなら、残念なことに、洗脳され、迷信、迷妄、妄想、幻想という虚偽の世界に住んでいるのだ。
洗脳されていないなら、世界は、喩えて言えば、幼稚園の演劇とか、幼い頃に見たマジックショーのようなものだ。
つまり、洗脳されていない人にとって、世界は非現実的だ。

『燃えよ!ドラゴン』という映画で、ブルース・リー演じる少林寺の武術家リーが、「良い戦いとは、少人数で真剣に演じる劇に似ている」と言ったあたりは、よくは分からないが、少林寺か、そこの思想の元になった仏教の教えにあるのだろうと思う。
つまり、悪い戦いをする者達というのは、大勢でいい加減に演じるドタバタ劇をやっているということなのだ。
それよりは、少人数で真剣にやる劇の方がマシであるが、どちらも劇であることに違いはない。
しかし、良い劇では、役者は劇が終ったことを認識するが、悪い劇では、役者達は、いつまでもつまらない劇を続けるのだ。

洗脳されていないとは、悟りを開くということだ。
洗脳を、人の持つ幻想と言うなら、フロイトは人の自我自体が幻想なのだから、人が幻想を脱することは不可能だと言った。
彼によれば、人間は本能が壊れているので、生きるために自我を作ったが、それは自然に立脚したものではない幻想だという訳だ。
これが西洋的な考え方というものだろう。星の王子様が、本当に大切なものは目に見えない、つまり、アタマで考えた理屈では分からないと言ったことを、我々は少し思い出した方が良いが、フロイトにとって不幸なことに、テグジュペリは彼より44歳も年下だった。

さて、世界が非現実で、夢のようでなければならないと言ったら、愚か者はこう言うだろう。
「夢なんだから、何でも好き勝手していいんだな」
その通りである。やってみたまえ。
ただし、やることによっては、世界が、「恐ろしいまでに」現実になってしまうのだ。
愚か者の好き勝手とは、性欲、食欲、物欲を満足させるために傍若無人に振舞ったり、盗みをしたりというものだろう。
欲望が幻想を作り、幻想によって洗脳されるのだ。
だから、欲望の満足を求めるほど洗脳されるという訳で、そんな者にとって、世界は鉄のように現実なのだ。それも、とても辛く苦しく、惨めな、確固とした現実である。

中国の『列子』にこんな話がある。
ある貧しい男が、金持ちの男に、「なんでそんなに豊かなんだ?」と尋ねると、金持ちは、「盗みをするからさ」と答えた。
「なるほど」と思った貧しい男は、さっそく、隣の家に泥棒に入り、役人に捕まって罰を受けた。
貧しい男は、金持ちの男に抗議した。
いきさつを聞いた金持ちの男は、「盗み方が悪い」という。「私は、天から盗んだのだ。作物は天が育てるものなのに、私はそれを収穫して盗むのだ」

『燃えよ!ドラゴン』の良き劇と、この良き盗みは似ている。
自分は、主体的な行為者でない。行為するのは、劇の中の架空の人物であり、天だ。我々は非現実だ。
ここに想いを巡らせると、我々も洗脳を脱し、つまり、解脱し、劇が終った後で気楽にくつろげるようになれるだろう。
『バガヴァッド・ギーター』は、ある意味、これ自体が素晴らしく良き劇の舞台と言える。下手な役者アルジュナ王子は、至高神クリシュナの教えで良き役者になり、全ての苦しみを脱する。我々も、これをよく読んで、世界をただの劇にすると良いだろう。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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