ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

ダンテ

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文豪達が直観で見抜いたこの世のカラクリ

「人生は大したものではない」「人間は大したものではない」「あなたは大したものではない」と言うネットの人気者がいるようだ。
その理屈は、だいたい、
・ほとんどの人には、さほどの才能や能力がない
・スーパースターになれるのは、一握りの特別な才能がある人だけ
・自分に才能があると思うのは、自己啓発本に騙されているだけ
あたりに集約されると思う。
そして、才能もないくせに、凡人に甘んじるのは嫌だと思っている者(中二病)ほど滑稽なものはなく、また、そのままでは人生を棒に振る恐れもあるので、早めに諦めて楽な道を選べというわけだ。

実は、この論には、私も反対ではないのだが、1つ抜けているのだ。
『荘子』の中に、こんなことが書かれている。
「本物の神人は、お前には区別がつかない」
つまり、神人は、そこそこいるのだが、凡人のフリをしている。
一方、有名なスーパースターなんて、操り人形に過ぎず、少しも幸福でないものだ。
だから、学校やマスメディアや自己啓発本が宣伝するようなスターなど目指さないことだ。
神人は、力の及ぶ範囲に違いがあるだけで、その気になれば誰でもなれる。

私は、W.B.イェイツの『ラピス・ラズリ』は、暗記しておくべき詩と思う。
イェイツは、世界のカラクリを全部知っていたわけではなかったと思うが、天才詩人の直観で気付いた肝心なことは、この詩に全部書いてある。
イェイツの時代は漫画が無かったので、彼はシェイクスピアの戯曲を使って説明しているが、漫画の方が分かり易いので、漫画で考えても良いと思う。
劇の主役たる、ハムレットも、リア王も、オフィーリアもそこいらにいる。
で、本物のハムレットなら、これが劇であることを知っているし、自分が劇の登場人物、つまり、漫画のキャラクターであることも知っている。
だから彼らは・・・陽気なのだ。
彼らは泣いたりしない。シャンとしているのである。
また、高貴な魂を持とうとしている。でないと、劇の主役を張れないことも分かっているのだ。

ダンテにいたっては、イタリア文学の最高傑作とまで言われることになる自分の作品に『喜劇』と名付けた。
それが、『神聖なる喜劇』という御大層な題名になってしまい、日本では、森鴎外という困った人が(笑)『神曲』というわけのわからないタイトルにしてしまった。
だが、ダンテは、9歳の時からずっと憧れたが、相手にされないまま24歳で亡くなったベアトリーチェとの大ロマンスを書きたかっただけかもしれない。ただし、やはり、高貴な魂を持ってね。
ダンテは、この世界が劇であることは、あまり分からなかったのかもしれない。
だが、イェイツが「ルネッサンス最高」とまで言ったダンテの想像力は偉大だ。
だから、『喜劇』もしくは『神曲』を読んだ人は、分かってくれるだろう。








人生は喜劇だ

ゲーテの『ファウスト』や、ダンテの『神曲』は、いずれも人類の歴史に残る文学の傑作なのだが、何が良いのか分かり難いし、そもそも、これらを読んだ人は、そんなに多くはいないだろう。
いずれも、簡単に言えば、「人生が嫌になった中年男が救いを求めるお話」である。
そして、いずれも、鍵は「女」である・・・と言ったら下品に聞こえるかもしれないが、そんなものである。
ファウスト(錬金術師の怪しい男)は老人に近い歳と思うが、グレートヒェンという若い娘(何歳かは分からないが、15~17歳と思える)に夢中になるという、言ってみれば、スケベジジイと言ったら怒られそうだが、やっぱり、そんなものである。
そもそも、ゲーテ自体が、歳を取っても若い女の子が大好きで、いろいろやらかしている。
一方、ダンテの方は、実生活での片思いの相手、ベアトリーチェを『神曲』の絶対的ヒロインにするが、ダンテとベアトリーチェは、お互い9歳の時に出会って、ダンテの方が夢中になるが、ベアトリーチェがダンテに友好的だったことは全くなく、むしろ、拒否されていたところがあり、ベアトリーチェは他の男に嫁ぎ、24歳で病死した。
だが、ダンテは、『神曲』の中でベアトリーチェと深い交流を果たすという、妄想的願望がイタリア最大の文学を生み出したわけである。
ファウストとグレートヒェンは無残な結果に終わっているが、おそらく、グレートヒェンにはモデルがいて、それは、いい歳をしたゲーテのお気に入りの美少女だったのではあるまいかと勝手な想像をするが、ゲーテのことを考えれば、無理な想像ではない。

ゲーテもダンテも、きっと、彼らの人生が、自分で思うような人生ではなく、幸福感を感じておらず、むしろ、人生の辛さに苦しんでいたと言って間違いないだろう。
そもそも、満ち足りた人間が文学を生んだりしない。
だから、もし、あなたが文学的作家になりたいなら、幸福な人生は望めない。これは間違いない。
いや、たとえ、娯楽作品を書く作家だとしても、深い心の傷を抱えていない限り、読者の心を掴めるものは書けないはずである。

だが、作家というのは、どこか、人生の苦しみに折り合いをつけた者だとも言える。
ただ苦しい、悲しい、辛いだけでは、やはり作品は書けない。
自分が見つけた、人生の苦しみを克服する鍵が文学のテーマになる。
『ファウスト』にも『神曲』にも、それ(人生の苦しみを克服する鍵)がある。しかし、極めて難しい鍵であるし、鍵というよりは希望の欠片といったものだろう。
つまるところ、ゲーテもダンテも、生涯、救われなかった。
だが、それで良かったのだと言える。
『ファウスト』も『神曲』も、彼らが自分の生涯をお芝居(戯曲)にしたものであり、良い終わり方にはならなかったが、とにかく、「はい、芝居はここで終わり」というふうにした・・・つまり、落とし前をつけた(評価を下した)のだ。
自分で、どう落とし前をつけるかで、人生の満足度が決まるのである。
ベートーヴェンが死に際に「諸君、拍手を。喜劇は終わった」と言ったが、彼は、彼なりに、自分の人生に落とし前をつけたから、そんなことを言えたのだろう。

人生は、自分で落とし前をつけるべき喜劇だ。
実際、『神曲』というタイトルは、森鴎外が勝手につけたもので、本当のタイトルは『神聖なる喜劇』であり、ダンテ自身は、タイトルをただ『喜劇』としていた。
ゲーテの生涯も、ダンテの生涯も、ただの喜劇だった。
それなら、私やあなたと何の違いもない。
我々の生涯は喜劇である。
だが、最初から、そう思えば、案外に面白いのである。
実を言えば、シェイクスピアも、イェイツ(「20世紀最大の詩人」と呼ばれた詩人・劇作家。ノーベル賞受賞)も、人生が芝居に過ぎないことはよく認識しており、それは、やはり喜劇であった。
何度も言うが、我々の生涯は喜劇である。
伊達政宗も言ったではないか。
「馬上少年過 世平白髪多 残躯天所赦 不楽是如何」
馬に乗って戦場を駆け巡った少年(若い頃の自分)の時代は過ぎ、世の中は平和になり、私も歳を取った。
天が私をまだ生き長らえさせているのだから、大いに楽しもう。
・・・だいたい、そんな意味である。彼に深刻さはない。
我々も同じで、まだ馬上の少年なのか、戦う時代は終わったのかは分からないが、楽しむべきである。
だが、無理な楽しみ方をする必要はない。
どの時代であろうが、真言を唱えることを忘れなければ、楽しいこと、嬉しいこと、面白いことだらけである。
そうなるように、真言が与えられたのである。
これは、多くの証拠があり、間違いのないことである。
人生はただの喜劇であるのだから、楽しまねばならない。
まあ、ゲーテもダンテも、そこそこは楽しんだと思う。
だが、あれだけの大天才でも、真言を知らなかった。
いや、知っていたかもしれない。知っていたら、彼らも人生を楽しめただろう。しかし、それは分からない。
だが、我々は間違いなく知っているので、人生は面白いに決まっているのである。








神聖なる存在を崇めることで神に近付いた人達

理想とする存在を崇めることが、魂を輝かせ、高めることには疑問の余地はないと思うようになった。

イタリア最大の文学である『神曲』を生み出したのもまた、崇める力だった。
ダンテは、ベアトリーチェを崇めることで、自分の魂を、神の魂と融合させていったのだ。
ベアトリーチェは確かに実在の女性であったが、ダンテが崇めたのは、ただの女性ではないことに注意しなければならない。
ダンテは9歳の時、同い年の少女ベアトリーチェに出逢い、一瞬で魂を奪われた。
ダンテが再びベアトリーチェに会ったのは9年後、18歳になってからだったが、ダンテはほとんどベアトリーチェと口を利くことも出来なかった。
それでも、ダンテのベアトリーチェに対する想いは、再び燃え上がったが、その後も、ダンテはほとんど彼女と接触することがないばかりか、彼女に避けられるようになったという。
だが、ダンテのベアトリーチェに対する憧れは、消えるどころか、募る(ますます激しくなる)ばかりだった。

ダンテは、ベアトリーチェとうまくいかなかったことが、彼の魂の向上の為には絶対的に良かった。
もし、ダンテがベアトリーチェを恋人にしたり、あるいは、結婚などしていたら、やがては、ベアトリーチェもただの人間の女であることを思い知らされたことだろう。
ダンテは、ベアトリーチェの実際のことは、ほとんど何も知らなかったのだ。
それなら、ダンテが愛し、崇めたのは、ベアトリーチェの幻想であったと思うかもしれないが、そうではなく、ダンテは、自分の内にある神聖な理想を、彼女に投影して見ていたのだ。
そして、ベアトリーチェが24歳の若さで夭逝することで、彼女はダンテにとって、永遠の女神になる。
そんな神聖なる存在を崇めることで、ダンテは、彼がこの上なく尊敬した、古代ローマの詩人ウェルギリウスの『アエネーイス』にも並ぶ叙事詩の傑作『神曲』を生み出すことが出来たのだ。

探せば、ダンテのような例は多いし、それどころか、人間を超えるほどの力を得た者は、皆、人間でない何かを崇めていたことは間違いないと思うのだ。
レイ・ブラッドベリの短編『みずうみ』で、ハロルドは、純粋に愛していたが、12歳で永遠に失ってしまったタリーという、同い年の少女を、青年になり結婚してから、神秘的な出来事によって崇めるようになり、全くの別人になる。
まるで謎のような作品であるが、読む者は、これが恐ろしい傑作であることを感じるのである。
萩尾望都さんが、この『みずうみ』を漫画家しているが、萩尾さんの繊細な絵が、この不思議な物語にさらに輝きを与えていると思う。
ブラッドべりも、何かは分からないが、聖なる存在を崇めることで、魂を高めていたのであることを確信させるのである。

時々ご紹介する、ローマン・ガリーの『自由の大地』や、ゴーリキーの『二十六人の男と一人の少女』もまた、崇める力の不思議な力を描いてはいるが、『二十六人の男と一人の少女』では、崇める存在は人間であってはならないことの警告でもあると思われる。
男達が女神のように崇めたターニャという名の16歳の美少女は、高潔ではないにせよ、別に劣悪でもない、ごく当たり前の娘であった。
だが、やはり、人間は崇める対象には相応しくはなく、いつかは裏切られる。
その意味では、ダンテは幸運であったと言えるのだ。









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自分の世界を豊かにするには

「20世紀最大の詩人」と言われたアイルランドのW.B.イェイツは、「神秘を否定する人間は想像力がないのだ」と言ったのだと思う。
この神秘とは、例えば、霊的存在や神や妖精といったものであると思う。
だが、この主張に対しては、「それは想像と言うよりは、妄想、幻想だろう?」と言い返すことができ、現代では、この反論を支持する者が、理性的で「まとも」と言うことになるのだろう。
つまり、イェイツの言い方を借りれば、「想像力のない者が主流」なのである。

イェイツをもっと賢く擁護するには、次のような言い方が良いと思われる。
「色盲の人に色彩について説明するのは難しい」
神秘を信じない人というのは、想像力という、五感以外の感覚がないのである。
もちろん、片想いの彼女とキスするくらいの想像は出来るだろうから、多少の想像力はあるのだろうが、高度な想像力がないのである。
色盲の人に色彩について説明するのであれば、いろいろやり方があるだろう。
例えば、色盲の人には区別が付き難い、同じ形の赤い玉と青い玉を、色彩の区別がつく人が楽々と選り分けるのを見せる等だ。
だが、それを見ても、色盲の人が色彩の存在を信じないかもしれない。
その場合は少々厄介で、色彩をどうしても信じようとしない人の思考力を訓練する必要があるかもしれない。
しかし、もっと良いのは、色盲の人が色彩感覚を得ることである。
同じように、神秘を信じない人が霊的知覚を得れば、神秘を信じるようになるだろう。
ところが、霊的知覚というのは、高度な想像力に他ならないのである。

『星の王子さま』の中に、「本当に大切なものは目に見えない」という有名な言葉がある。
これは、言い換えれば、「本当に大切なものは想像力だ」ということである。

初音ミクさんのコンサート映像を初めて見たアメリカの子供達が、「いない人をどうやって好きになるんだい」と言って、ミクさんに声援を送る観客達を異常者扱いしたという話がある。
これは、その子供自身が言ったというよりは、その子は、自分が受けている教育を代弁したに過ぎない。
その教育とは、想像力を破壊する「狂育」である。
存在しないから愛せない?
それなら、死んでしまった家族や友達やペットを愛することは変なことだろうか?
「いや、家族やペットはかつて存在した」と反論するかもしれない。
だけど、その記憶が嘘の記憶でも、ちゃんと「本当に」愛せるではないか?
つまり、「かつて存在したから愛する」のではなく、「心の中で思えるから愛している」のである。
ハムレットやオフィーリアを愛することが、おかしなことでないことを考えれば、簡単に分かることだ。
だが、ジャック・スパロウやヨーダを愛するとなると、少し、「おかしい」ことになってしまう。
それはつまり、世間の権威的格付けに従っているというだけのことだ。
初音ミクさんは、権威的な格は決して高くないかもしれない。
しかし、愛する人にとっては、権威に意味はない。
そもそも、「偏見とは、世間的権威に盲目的に従うこと」なのである。
黒人は劣っている、ロックは若者を堕落させる音楽という考え方が偏見であることを考えれば、簡単に納得できると思う。

我々は想像力という、五感とは別の、そして、五感より高度で精妙な感覚を磨き、高めなければならない。
視覚、聴覚がなかったヘレン・ケラーは、「五感は幻想。idea(観念)が本当」と言った。
このideaは想像力が作るものである。
つまり、世界は想像力が作るのである。
想像力のない人の世界は、狭く、空虚だ。
自分の世界を豊かにするためには、想像力を高めなければならない。
誰もが初音ミクさんを好きになる必要はないかもしれないが、初音ミクさんを愛する人を否定する者の世界は、いかに貧弱であるかは「想像もしたくない」。
ダンテの『神曲』は想像ではあっても、妄想ではない。
あの叙事詩に対し、洗練された想像の光を当てると、高貴で壮大な世界が得られるのである。
想像力のない人間には得られない世界だ。
イェイツはダンテのことを「ルネッサンス随一の想像力の持ち主」と言ったが、想像力のない人間にとっては、ダンテは月の上の岩石・・・つまり、存在しないも同じである。
豊かな世界が欲しいなら、想像力を磨き、高めることだ。









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人類最大の片想いは報いられた

日本最高の文学が何であるか決め難いのは、日本の文学は良くも悪くも日本特有で、日本人以外には理解し辛く、海外の評価を参考に出来ないという理由もあると思う。
日本の素晴らしい文学も、英語にしてしまった途端、薄っぺらになってしまう可能性があると思うのだ。

世界最高の文学となると、さすがに難しいが、古代ローマの詩人ウェルギリウスの大長編叙事詩『アエネーイス』も、その候補に入ると思う。
『アエネーイス』は、ラテン語文学の中では最高傑作と言われている。
そして、イタリア文学の最高峰となると、ダンテの長編叙事詩『神曲』と言っても良いかもしれない。
昨夜も書いたが、『神曲』というタイトルは、森鴎外がつけたもので、本当の題名は『神聖なる喜劇』であり、ダンテ自身は『喜劇』としていたようだ。

『神曲』がそれほど偉大であるためもあり、この作品に、天界の高貴な美しい女性として登場するベアトリーチェへのダンテの片想いが広く知られている。
ダンテは9歳の時、同い年のベアトリーチェと出会い、たちまち夢中になってしまい、なんとダンテは、その想いを生涯持ち続けたようである。
だが、ダンテは、ベアトリーチェとほとんど会話をすることもなく、避けられていたようですらあったらしい。
その後、ダンテは許婚と結婚し、ベアトリーチェも他の男に嫁いだが、彼女は24歳で病気で死んでしまう。
始まりから終わりまで、なんとも悲惨な恋である。
ダンテはさぞや苦しんだことであろう。

だが、ダンテは、イタリア最大の文学とまで言われるようになる、この『神曲』にベアトリーチェを登場させることで、大逆転を果たしたのだ。
そのことを説明する。
『神曲』の初めで、35歳のダンテが深い苦悩に陥っていることが書かれている。
すると、聖母マリアがそんなダンテを心配して、偉大なる聖女ルチアをベアトリーチェのところに行かせる。
そして、ルチアはベアトリーチェにこう言うのだ。
(以下、河出文庫『神曲 地獄篇』(平川祐弘翻訳)より引用)

神の讃えのベアトリーチェ、
なぜ貴女をあれほど愛した人を助けないのですか?
貴女のために彼は俗物の群を離れたのです。
(以下略)

するとベアトリーチェは、彼女自身が「現世では自分のためになる事でも、また災いを避けるためにでも、こうすばやく動いた方はいらっしゃらなかったでしょう」(上記の書を引用したが、句読点を2つ付けた)と言うスピードで下界に下りてきたのだ。
そして、ベアトリーチェの目は涙に光っていたという。
そのベアトリーチェの依頼を受け、上にも書いた、ダンテも崇拝する大詩人ウェルギリウスがすっ飛んで来たのだ。
ベアトリーチェ自身は、後でウェルギリウスから引き継いでダンテを導く。

私は、ダンテ自身が書いたのだということも忘れ、思わず涙してしまった。
いや、ダンテは間違いなく報われたのだ。
『神曲』はダンテの頭脳が書いたというよりは、やはり、神の霊感で書いたものであろうからだ。
エマーソンは、「空想と想像は違う」と言ったが、まさに、ダンテの想像は、霊的世界の真実である。
「20世紀最大の詩人」W.B.イェイツは、ダンテのことを、「ルネッサンス最大の想像力の持ち主」と評したのであるが、イェイツほどの者が言うからには、やはり、ダンテの精神は神の領域と通じていたのだと思う。

人間にとって、最も重要な能力は想像力である。
3日前にも、想像力のない人間は恐ろしいで、そのことを書いたが、人間は幸福になり、願いを叶えるためにも想像力が必要だ。
ジョセフ・マーフィーも「想像は神の仕事場」と何度も買いていたと思う。
ダンテほどの神的な想像力を持ってしまえば、この世での幸福は得られないかもしれないが、彼は、人類を幸福にする鍵を残したのだ。
あまり読んだ人はいないと思うが、出来れば『神曲』を読み、想像力の秘密を手に入れれば、自由な人間になる道が開けるはずである。

マリア様が私に初音ミクさんをお遣わしになるには、私の苦しみは全然足りないのだろう。
まあ、片想いでも畏れ多いのであるが。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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