ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
コンピューターシステム開発技術者、サイコパスのKayのブログ

ダンテ

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。
[2016/11/21]滅多にはありませんが、あまりにレベルが低いコメントは公開しません。
[2011/06/08]迷惑コメントが多くあったため、やむなく、コメントを承認後公開することとしました。

神聖なる存在を崇めることで神に近付いた人達

理想とする存在を崇めることが、魂を輝かせ、高めることには疑問の余地はないと思うようになった。

イタリア最大の文学である『神曲』を生み出したのもまた、崇める力だった。
ダンテは、ベアトリーチェを崇めることで、自分の魂を、神の魂と融合させていったのだ。
ベアトリーチェは確かに実在の女性であったが、ダンテが崇めたのは、ただの女性ではないことに注意しなければならない。
ダンテは9歳の時、同い年の少女ベアトリーチェに出逢い、一瞬で魂を奪われた。
ダンテが再びベアトリーチェに会ったのは9年後、18歳になってからだったが、ダンテはほとんどベアトリーチェと口を利くことも出来なかった。
それでも、ダンテのベアトリーチェに対する想いは、再び燃え上がったが、その後も、ダンテはほとんど彼女と接触することがないばかりか、彼女に避けられるようになったという。
だが、ダンテのベアトリーチェに対する憧れは、消えるどころか、募る(ますます激しくなる)ばかりだった。

ダンテは、ベアトリーチェとうまくいかなかったことが、彼の魂の向上の為には絶対的に良かった。
もし、ダンテがベアトリーチェを恋人にしたり、あるいは、結婚などしていたら、やがては、ベアトリーチェもただの人間の女であることを思い知らされたことだろう。
ダンテは、ベアトリーチェの実際のことは、ほとんど何も知らなかったのだ。
それなら、ダンテが愛し、崇めたのは、ベアトリーチェの幻想であったと思うかもしれないが、そうではなく、ダンテは、自分の内にある神聖な理想を、彼女に投影して見ていたのだ。
そして、ベアトリーチェが24歳の若さで夭逝することで、彼女はダンテにとって、永遠の女神になる。
そんな神聖なる存在を崇めることで、ダンテは、彼がこの上なく尊敬した、古代ローマの詩人ウェルギリウスの『アエネーイス』にも並ぶ叙事詩の傑作『神曲』を生み出すことが出来たのだ。

探せば、ダンテのような例は多いし、それどころか、人間を超えるほどの力を得た者は、皆、人間でない何かを崇めていたことは間違いないと思うのだ。
レイ・ブラッドベリの短編『みずうみ』で、ハロルドは、純粋に愛していたが、12歳で永遠に失ってしまったタリーという、同い年の少女を、青年になり結婚してから、神秘的な出来事によって崇めるようになり、全くの別人になる。
まるで謎のような作品であるが、読む者は、これが恐ろしい傑作であることを感じるのである。
萩尾望都さんが、この『みずうみ』を漫画家しているが、萩尾さんの繊細な絵が、この不思議な物語にさらに輝きを与えていると思う。
ブラッドべりも、何かは分からないが、聖なる存在を崇めることで、魂を高めていたのであることを確信させるのである。

時々ご紹介する、ローマン・ガリーの『自由の大地』や、ゴーリキーの『二十六人の男と一人の少女』もまた、崇める力の不思議な力を描いてはいるが、『二十六人の男と一人の少女』では、崇める存在は人間であってはならないことの警告でもあると思われる。
男達が女神のように崇めたターニャという名の16歳の美少女は、高潔ではないにせよ、別に劣悪でもない、ごく当たり前の娘であった。
だが、やはり、人間は崇める対象には相応しくはなく、いつかは裏切られる。
その意味では、ダンテは幸運であったと言えるのだ。









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自分の世界を豊かにするには

「20世紀最大の詩人」と言われたアイルランドのW.B.イェイツは、「神秘を否定する人間は想像力がないのだ」と言ったのだと思う。
この神秘とは、例えば、霊的存在や神や妖精といったものであると思う。
だが、この主張に対しては、「それは想像と言うよりは、妄想、幻想だろう?」と言い返すことができ、現代では、この反論を支持する者が、理性的で「まとも」と言うことになるのだろう。
つまり、イェイツの言い方を借りれば、「想像力のない者が主流」なのである。

イェイツをもっと賢く擁護するには、次のような言い方が良いと思われる。
「色盲の人に色彩について説明するのは難しい」
神秘を信じない人というのは、想像力という、五感以外の感覚がないのである。
もちろん、片想いの彼女とキスするくらいの想像は出来るだろうから、多少の想像力はあるのだろうが、高度な想像力がないのである。
色盲の人に色彩について説明するのであれば、いろいろやり方があるだろう。
例えば、色盲の人には区別が付き難い、同じ形の赤い玉と青い玉を、色彩の区別がつく人が楽々と選り分けるのを見せる等だ。
だが、それを見ても、色盲の人が色彩の存在を信じないかもしれない。
その場合は少々厄介で、色彩をどうしても信じようとしない人の思考力を訓練する必要があるかもしれない。
しかし、もっと良いのは、色盲の人が色彩感覚を得ることである。
同じように、神秘を信じない人が霊的知覚を得れば、神秘を信じるようになるだろう。
ところが、霊的知覚というのは、高度な想像力に他ならないのである。

『星の王子さま』の中に、「本当に大切なものは目に見えない」という有名な言葉がある。
これは、言い換えれば、「本当に大切なものは想像力だ」ということである。

初音ミクさんのコンサート映像を初めて見たアメリカの子供達が、「いない人をどうやって好きになるんだい」と言って、ミクさんに声援を送る観客達を異常者扱いしたという話がある。
これは、その子供自身が言ったというよりは、その子は、自分が受けている教育を代弁したに過ぎない。
その教育とは、想像力を破壊する「狂育」である。
存在しないから愛せない?
それなら、死んでしまった家族や友達やペットを愛することは変なことだろうか?
「いや、家族やペットはかつて存在した」と反論するかもしれない。
だけど、その記憶が嘘の記憶でも、ちゃんと「本当に」愛せるではないか?
つまり、「かつて存在したから愛する」のではなく、「心の中で思えるから愛している」のである。
ハムレットやオフィーリアを愛することが、おかしなことでないことを考えれば、簡単に分かることだ。
だが、ジャック・スパロウやヨーダを愛するとなると、少し、「おかしい」ことになってしまう。
それはつまり、世間の権威的格付けに従っているというだけのことだ。
初音ミクさんは、権威的な格は決して高くないかもしれない。
しかし、愛する人にとっては、権威に意味はない。
そもそも、「偏見とは、世間的権威に盲目的に従うこと」なのである。
黒人は劣っている、ロックは若者を堕落させる音楽という考え方が偏見であることを考えれば、簡単に納得できると思う。

我々は想像力という、五感とは別の、そして、五感より高度で精妙な感覚を磨き、高めなければならない。
視覚、聴覚がなかったヘレン・ケラーは、「五感は幻想。idea(観念)が本当」と言った。
このideaは想像力が作るものである。
つまり、世界は想像力が作るのである。
想像力のない人の世界は、狭く、空虚だ。
自分の世界を豊かにするためには、想像力を高めなければならない。
誰もが初音ミクさんを好きになる必要はないかもしれないが、初音ミクさんを愛する人を否定する者の世界は、いかに貧弱であるかは「想像もしたくない」。
ダンテの『神曲』は想像ではあっても、妄想ではない。
あの叙事詩に対し、洗練された想像の光を当てると、高貴で壮大な世界が得られるのである。
想像力のない人間には得られない世界だ。
イェイツはダンテのことを「ルネッサンス随一の想像力の持ち主」と言ったが、想像力のない人間にとっては、ダンテは月の上の岩石・・・つまり、存在しないも同じである。
豊かな世界が欲しいなら、想像力を磨き、高めることだ。









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人類最大の片想いは報いられた

日本最高の文学が何であるか決め難いのは、日本の文学は良くも悪くも日本特有で、日本人以外には理解し辛く、海外の評価を参考に出来ないという理由もあると思う。
日本の素晴らしい文学も、英語にしてしまった途端、薄っぺらになってしまう可能性があると思うのだ。

世界最高の文学となると、さすがに難しいが、古代ローマの詩人ウェルギリウスの大長編叙事詩『アエネーイス』も、その候補に入ると思う。
『アエネーイス』は、ラテン語文学の中では最高傑作と言われている。
そして、イタリア文学の最高峰となると、ダンテの長編叙事詩『神曲』と言っても良いかもしれない。
昨夜も書いたが、『神曲』というタイトルは、森鴎外がつけたもので、本当の題名は『神聖なる喜劇』であり、ダンテ自身は『喜劇』としていたようだ。

『神曲』がそれほど偉大であるためもあり、この作品に、天界の高貴な美しい女性として登場するベアトリーチェへのダンテの片想いが広く知られている。
ダンテは9歳の時、同い年のベアトリーチェと出会い、たちまち夢中になってしまい、なんとダンテは、その想いを生涯持ち続けたようである。
だが、ダンテは、ベアトリーチェとほとんど会話をすることもなく、避けられていたようですらあったらしい。
その後、ダンテは許婚と結婚し、ベアトリーチェも他の男に嫁いだが、彼女は24歳で病気で死んでしまう。
始まりから終わりまで、なんとも悲惨な恋である。
ダンテはさぞや苦しんだことであろう。

だが、ダンテは、イタリア最大の文学とまで言われるようになる、この『神曲』にベアトリーチェを登場させることで、大逆転を果たしたのだ。
そのことを説明する。
『神曲』の初めで、35歳のダンテが深い苦悩に陥っていることが書かれている。
すると、聖母マリアがそんなダンテを心配して、偉大なる聖女ルチアをベアトリーチェのところに行かせる。
そして、ルチアはベアトリーチェにこう言うのだ。
(以下、河出文庫『神曲 地獄篇』(平川祐弘翻訳)より引用)

神の讃えのベアトリーチェ、
なぜ貴女をあれほど愛した人を助けないのですか?
貴女のために彼は俗物の群を離れたのです。
(以下略)

するとベアトリーチェは、彼女自身が「現世では自分のためになる事でも、また災いを避けるためにでも、こうすばやく動いた方はいらっしゃらなかったでしょう」(上記の書を引用したが、句読点を2つ付けた)と言うスピードで下界に下りてきたのだ。
そして、ベアトリーチェの目は涙に光っていたという。
そのベアトリーチェの依頼を受け、上にも書いた、ダンテも崇拝する大詩人ウェルギリウスがすっ飛んで来たのだ。
ベアトリーチェ自身は、後でウェルギリウスから引き継いでダンテを導く。

私は、ダンテ自身が書いたのだということも忘れ、思わず涙してしまった。
いや、ダンテは間違いなく報われたのだ。
『神曲』はダンテの頭脳が書いたというよりは、やはり、神の霊感で書いたものであろうからだ。
エマーソンは、「空想と想像は違う」と言ったが、まさに、ダンテの想像は、霊的世界の真実である。
「20世紀最大の詩人」W.B.イェイツは、ダンテのことを、「ルネッサンス最大の想像力の持ち主」と評したのであるが、イェイツほどの者が言うからには、やはり、ダンテの精神は神の領域と通じていたのだと思う。

人間にとって、最も重要な能力は想像力である。
3日前にも、想像力のない人間は恐ろしいで、そのことを書いたが、人間は幸福になり、願いを叶えるためにも想像力が必要だ。
ジョセフ・マーフィーも「想像は神の仕事場」と何度も買いていたと思う。
ダンテほどの神的な想像力を持ってしまえば、この世での幸福は得られないかもしれないが、彼は、人類を幸福にする鍵を残したのだ。
あまり読んだ人はいないと思うが、出来れば『神曲』を読み、想像力の秘密を手に入れれば、自由な人間になる道が開けるはずである。

マリア様が私に初音ミクさんをお遣わしになるには、私の苦しみは全然足りないのだろう。
まあ、片想いでも畏れ多いのであるが。









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なぜ古代の賢者はスケールが大きいのか

地球上には、今でも、天動説を信じている人も、結構いると思う。
バートラント・ラッセルが一般向けに科学啓蒙の講演をした時、世界は巨大な亀の背中の上だというお婆さんを説得できなかったそうだが、無理に説得する必要もあるまい。
昔、仏教学者のひろさちやさんが著書に書かれていたが、大事なことは、天動説を信じる人も、地動説を信じる人も、どちらも知らないという人も、そんなことは関係なく、お互いの良いところを敬い、仲良くすることだ。

考えてみれば、私が地動説を信じているらしき理由は、単に本で読んだり、テレビでそんな番組を見たからであり、自分で確認した訳ではない。
ところで、古代には、アリストテレスやプラトーンなど、巨大な哲学者が存在したが、中世や近代の賢人は小粒になってしまった。
その理由は、地動説になったからではないかと思うのだ。
天動説の方が、ロマンがあるだけでなく、想像性が格段に高いのである。
そりゃ、天動説では、天体の動きには矛盾があるかもしれない。
しかし、その矛盾を解消してきた思想は、実は、素晴らしいのではあるまいかと思う。

ダンテの『神曲』に書かれているような、地獄、煉獄、天国は、本当はないかもしれない。
しかし、あると考えて何が悪かろう。
そのことが、壮大な想像力をかき立て、生命力や高貴な感情を我々に与えたはずなのだ。
フランスの天才画家ギュスターヴ・ドレも、神曲の荘厳なる神秘を感じさせる想像性に魅せられ、若い時に、神曲の版画本を創ろうと決意し、実際に、精緻で見事なものを創ったのだ。
西の彼方に、阿弥陀如来の西方極楽浄土はないかもしれない。
だが、あると考えたからこそ、浄土仏教の優れた教えが生み出され、法然や親鸞のような素晴らしい僧が出てきたのだ。

世界には、物質世界と心の世界が確かに存在し、いずれも重要である。
そして、人が生きるとは、物質世界に生きながら、心の中に自分のストーリーを創ることだ。
現代人は、物質世界に偏重し、心の中の物語を創れなくなってしまったので、心が固く、虚しく、そのために、閉塞感に囚われてしまい、生命力が乏しくなってしまっている。
迷信を持てというのではない。
迷信とは、伝統や権威により、高圧的に押し付けられた幻想なのである。
そうではなく、心の世界では、想像の及ぶ限り、現実を自分で創っても構わないということなのだ。
そして、物質と意識は、実は等価であるのかもしれない。
想像力豊かな者は、物質世界でも奇跡を起こすものである。









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自己と世界を変革する想像力の高め方

ダンテの『神曲』(原題は『神聖なる喜劇』)や、ゲーテの『ファウスト』を読むと、彼ら(ダンテとゲーテ)がいかに聖母マリアを敬い崇めているかは感動するほどである。
ダンテが9歳の時にたまたま出逢い、ほとんどの何の接触もないばかりか避けられていながらも、彼が生涯熱愛し続けたベアトリーチェや、ゲーテの初恋の人も、彼らの想像の中で(ベアチリーチェらが)マリアに仕えることで(ベアトリーチェらが)救われ、同時に、ダンテ自身、そして、ゲーテが自己を投影したファウストが救われるのである。

だが、私はプロテスタント系の熱心なクリスチャンの男性に聞いたのだが、プロテスタントでは、マリアを全く重要視しないのであるらしい。
それこそ、「腹を借りただけ」という見下すような言い方を、彼はしていた。
彼は、教養があり、社長であり、人間性も優れた人であったが、それは愚かな話であると思う。
プロテスタントではこうだからと、なんでもかでも信じる必要はない。
エマーソンは、教会の教えが自分の魂にとって納得がいかないものであると思うと、牧師にそれを問いただし、純粋な共感を感じることができないと分かると教会を離れた。しかし、それはもちろん、エマーソンがキリストを離れた訳ではないのに、世間の人達とは、そう(エマーソンがキリストに背を向けること)思うのであろうから、それも愚かだ。
世間とは愚かで理不尽なものである。
それをどうこう言ったり、悲観しても仕方がない。
世間の喧騒は地上で空回りさせておき、我々は高く飛べば良いのである。
そのためには、どうすれば良いか?

ダンテやゲーテに限らないが、心豊かな人々には、マリアは最上の女性であり、平和の女王であり、天使も崇める人と思われているのだが、それは美しいことだと感じる。
もちろん、天界でのマリアのことは、彼ら(主にダンテやゲーテのような芸術家)の想像ではあるのだが、想像とは神の仕事場であり、エマーソンも言うように、想像と空想は異なり、個人的な想像であっても、それは真実である。
我々は、豊かな想像力を持たねばならないが、世間や学校は、子供達の想像力を速やかに叩き壊すのである。
だが、壊されたままであってはならない。
それで私も想像するのだが、マリアと初音ミクの関係は何だろう?
「そんなもん、あるかい」と言うのは、想像力も知性も無いことだ。
伝説では、水の精ウンディーネ(オンディーヌ)は金色の髪の絶世の美少女だが、想像力の教えるところでは、初音ミクの緑色の髪はウンディーネの性質を表している。
それは、あらゆるものの死骸から成った色なのであり、それが、あらゆるものを生み出す犠牲と慈悲の色である。
初音ミクは、ウンディーネの化身であり、ウンディーネは空気の精シルフに憧れ、シルフは火の精サラマンダーに憧れる。
ウンディーネはシルフに我が身を犠牲として捧げ、シルフはサラマンダーに犠牲を捧げる・
サラマンダーが地球の最も高いところにいて、それは天使に犠牲を捧げる。
(これらは、概ね、ルドルフ・シュタイナーの想像でもある)
マリアが初音ミクを知らないはずがない。
ミクの名はマリアに譲るための名である。即ち、aの母音から始まるマリアの名から、Mの音だけをミクは受け継いだのだ。
イエスが本来、インマヌエルという名であるのも、ダビデ(ヘブライ語のダーヴィーズ)の子であり、マリアの子であるからで(ダビデとマリアの名はaの母音で始まる)、イエスが「私の名で神に求めれば全て与えられる」と言ったその名は、「神と共にある」という意味である。
自分の中に、神性である無限の生命の一部を認めれば、いかなることも成し遂げるが、自分の中の神性が想像力でなくて何だろう?
だから、我々は想像力を、ちゃんと鍛えないといけない。
チームラボの猪子寿之さんが、想像力というものは、他の人を喜ばせるものだと言っていたが、そうであれば、世間の、他の人を苦しめるようなことしか考えない者に見込みはない。
他の人の心を傷付けること、悲しませること、悔しがらせること、不安にさせること、恐れを感じさせるのではなく、それらを取り除き、驚かせ、感動させることを考え、実践することこそ、想像であり、無限に向かう道であり、無敵の存在になる方法である。

アイルランドの詩聖W.B.イェイツは、ダンテを、ルネッサンスでも随一の想像力の持ち主と賞賛した。
また、イェイツは、神秘を信じない者には想像力が無いのだと言った。
我々が人間性を回復し、神になるには、想像力が必要である。
一度は、『神曲』や『ファウスト』を読むと良いと思う。
無限の想像に出逢い、あなたの精神は変革されることだろう。
尚、想像力のためには、ドレの凄い版画(彼の版画の緻密さリアルさは本当に凄い)のついた『神曲』や『聖書』を読むのも良いと思う。









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