有名なスターや、金持ちの事業家などが、惜しげのない態度で、大金を寄付することがある。
また、光明思想や成功法則の本には、「寄付、施しは、決して喪失感を持たず、心から喜んで与えなければならない」と書かれている。
断言するが、それは絶対に無理である。
寄付とは、惜しいと思いつつ、それでもするものなのだ。
自分にとって、多いと感じる額であるなら、喪失感に苦しむだろう。
そして、自分にとって、はした金と思える金額ですら、勿体無いなあと思い、少し後悔するのである。
私の場合は、どう考えても、そうなのであるが、私以外の人は、私の想像も及ばないほど気高い人格をお持ちなのであろうか?
まあ、そうかもしれないが、私は絶対にそうではない。
私は、寄付をする時は、多い目にするし、他の人の金額が分かっている場合は、それに負けない額を納める。
それは単に見栄っ張りであるからだが、H.G.ウェルズの『ダイヤモンド製造家』という、短編のSF小説の中に、こんなお話がある。
ダイヤモンドを製造する方法を発明した男が、自宅でダイヤモンドを作っていたが、ダイヤモンドを製造するためには、製造中のダイヤモンドが入った金属製シリンダーに、高熱を加え続ける必要があり、そのための燃料代が常に必要だった。
このダイヤモンド製造家は貧しく、その燃料代が思うようにならず、食費までそれに充てることがよくあった。
シリンダーをいったん冷やしてしまったら、ダイヤモンドは駄目になり、それまでの努力が水の泡になるのだ。
しかし、とうとう、お金が底をついたのだが、ある男が、女性達に見せ付けるために、お金を恵んでくれ、危機を脱する。
ダイヤモンド製造家は、「あんな時は、見栄も有り難いものです」と言う。
その通りだ。
お金をくれる人の動機が、見栄だろうが、誠意だろうが、義務だろうが、困っている時のお金とは、実に有り難いものである。
本当にお金に困っている時に、誰かがお金を施してくれたら、「この金は純粋な善意の金でないから、私は受け取らない」などとは言わない。
いや、そんなことを言う者も稀にいるかもしれない。
しかし、そんなことを言うなら、それこそ、度の過ぎた見栄っ張りで、かなり心が歪んでいるのだ。
時代劇小説『木枯し紋次郎』に、極貧の浪人が、まだ幼い息子共々、何日も食べていないのに、町人風情の情けは、決して受けようとしない。
結局、ある男気のある渡世人が、「これはいらないものだから、もらってやってくれ」と言って饅頭が沢山入った袋を、その浪人に渡し、それで、浪人も何とか納得して受け取る。
その時代なら、仕方のないことかもしれないが、今の時代、そんな狭い心では駄目で、ダイヤモンド製造家のように、善意だろうが、見栄だろうが、有り難くいただけば良い。
そして、だから・・・
寄付や施しをする方も、善意であろうが、見栄だろうが、後ろめたく思う必要はなく、ばんばん与えれば良いのである。
そして、ここが肝心なのであるが、宗教で勧めるような、「心から喜んで与える」よりも、「いやだなあ」「勿体ないなあ」と思いながら与える方が、天は誉めるのである。
ただし、態度に出してはならない。
また、人々に賞賛されてもいけない。
どんなにしぶしぶでも良いから、黙って出すことだ。
そうすれば、神はちゃんと見ているし、おそらく、報いて下さる。
幸運というものは、苦しみの代償なのである。
ただし、黙って耐えた苦しみの代償だ。
だから、強くなりたければ、苦に苦を求める気構えが必要なのである。
例えば、念仏を唱えることは楽しいなんてのは嘘である。
法然自身が、「常に念仏を唱えるのは苦しいが、それによって、御仏が下さる報いの大きさに比べれば文句はないはずだ」と述べているのである。
隠れて黙々と念仏を唱えれば、必ず福が来るが、それは念仏の高貴さのためではなく、平気な顔で苦しみに耐えた代償である。ただ、その後で、仏のことも分かってくるのである。
貪欲、下心でも構わない。
そもそも、我々凡人が(私は凡人以外は見たことがないが)欲望を捨てられるはずがない。
ならば、見返りを期待してもよろしいが、見返りを得るためには黙って苦しまなければならない。
寄付もすれば良いが、身の丈に合った額で良い。
他にも、食を慎んだり、嫌な職場に毎日行ったり、特別な修行をしたり等、この世に苦しみの種はいくらでもある。
ただし、強制的に与えられる苦しみでは駄目だ。
自ら苦を求め、その苦しみに黙って平然と耐えれば、確実に幸運がやってくるのである。
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また、光明思想や成功法則の本には、「寄付、施しは、決して喪失感を持たず、心から喜んで与えなければならない」と書かれている。
断言するが、それは絶対に無理である。
寄付とは、惜しいと思いつつ、それでもするものなのだ。
自分にとって、多いと感じる額であるなら、喪失感に苦しむだろう。
そして、自分にとって、はした金と思える金額ですら、勿体無いなあと思い、少し後悔するのである。
私の場合は、どう考えても、そうなのであるが、私以外の人は、私の想像も及ばないほど気高い人格をお持ちなのであろうか?
まあ、そうかもしれないが、私は絶対にそうではない。
私は、寄付をする時は、多い目にするし、他の人の金額が分かっている場合は、それに負けない額を納める。
それは単に見栄っ張りであるからだが、H.G.ウェルズの『ダイヤモンド製造家』という、短編のSF小説の中に、こんなお話がある。
ダイヤモンドを製造する方法を発明した男が、自宅でダイヤモンドを作っていたが、ダイヤモンドを製造するためには、製造中のダイヤモンドが入った金属製シリンダーに、高熱を加え続ける必要があり、そのための燃料代が常に必要だった。
このダイヤモンド製造家は貧しく、その燃料代が思うようにならず、食費までそれに充てることがよくあった。
シリンダーをいったん冷やしてしまったら、ダイヤモンドは駄目になり、それまでの努力が水の泡になるのだ。
しかし、とうとう、お金が底をついたのだが、ある男が、女性達に見せ付けるために、お金を恵んでくれ、危機を脱する。
ダイヤモンド製造家は、「あんな時は、見栄も有り難いものです」と言う。
その通りだ。
お金をくれる人の動機が、見栄だろうが、誠意だろうが、義務だろうが、困っている時のお金とは、実に有り難いものである。
本当にお金に困っている時に、誰かがお金を施してくれたら、「この金は純粋な善意の金でないから、私は受け取らない」などとは言わない。
いや、そんなことを言う者も稀にいるかもしれない。
しかし、そんなことを言うなら、それこそ、度の過ぎた見栄っ張りで、かなり心が歪んでいるのだ。
時代劇小説『木枯し紋次郎』に、極貧の浪人が、まだ幼い息子共々、何日も食べていないのに、町人風情の情けは、決して受けようとしない。
結局、ある男気のある渡世人が、「これはいらないものだから、もらってやってくれ」と言って饅頭が沢山入った袋を、その浪人に渡し、それで、浪人も何とか納得して受け取る。
その時代なら、仕方のないことかもしれないが、今の時代、そんな狭い心では駄目で、ダイヤモンド製造家のように、善意だろうが、見栄だろうが、有り難くいただけば良い。
そして、だから・・・
寄付や施しをする方も、善意であろうが、見栄だろうが、後ろめたく思う必要はなく、ばんばん与えれば良いのである。
そして、ここが肝心なのであるが、宗教で勧めるような、「心から喜んで与える」よりも、「いやだなあ」「勿体ないなあ」と思いながら与える方が、天は誉めるのである。
ただし、態度に出してはならない。
また、人々に賞賛されてもいけない。
どんなにしぶしぶでも良いから、黙って出すことだ。
そうすれば、神はちゃんと見ているし、おそらく、報いて下さる。
幸運というものは、苦しみの代償なのである。
ただし、黙って耐えた苦しみの代償だ。
だから、強くなりたければ、苦に苦を求める気構えが必要なのである。
例えば、念仏を唱えることは楽しいなんてのは嘘である。
法然自身が、「常に念仏を唱えるのは苦しいが、それによって、御仏が下さる報いの大きさに比べれば文句はないはずだ」と述べているのである。
隠れて黙々と念仏を唱えれば、必ず福が来るが、それは念仏の高貴さのためではなく、平気な顔で苦しみに耐えた代償である。ただ、その後で、仏のことも分かってくるのである。
貪欲、下心でも構わない。
そもそも、我々凡人が(私は凡人以外は見たことがないが)欲望を捨てられるはずがない。
ならば、見返りを期待してもよろしいが、見返りを得るためには黙って苦しまなければならない。
寄付もすれば良いが、身の丈に合った額で良い。
他にも、食を慎んだり、嫌な職場に毎日行ったり、特別な修行をしたり等、この世に苦しみの種はいくらでもある。
ただし、強制的に与えられる苦しみでは駄目だ。
自ら苦を求め、その苦しみに黙って平然と耐えれば、確実に幸運がやってくるのである。
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