ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

タイタニック

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

名誉より正義

アメリカ大統領選挙問題に関し、カリフォルニア州弁護士のケント・ギルバート氏と、経済評論家の上念司氏という人気者同士が対談しながら、そのYouTube動画は、高評価ボタン1.1万に対し、低評価ボタンが1.8万で、コメント機能も停止されている(11月28日6時現在)。
【DHC】2020/11/25(水) 上念司×ケント・ギルバート×居島一平【虎ノ門ニュース】

私も、この二人の考え方には、全く共感出来なかった。
この対談の内容を簡単に言えば、両者とも見解は一致しており、
「トランプ大統領は、本当に素晴らしい実績を作っており、今、潔く去れば高く評価されるが、このまま抵抗を続ければ評価を下げる。名誉のために、早く諦めた方が良い」
というものだったと思う。

トランプは名誉のためではなく、民主主義のために戦っているのであり、名誉を失う危険は承知と思う。
それは、彼に味方する、やはり名誉ある一流弁護士達・・・ルディ・ジュリアーニ、シドニー・パウエル、リン・ウッドも同じである。
彼らが引けば、アメリカから民主主義が失われ、アメリカは弱体化していき、中国共産党が世界の覇権を握る危険が大きい。
何よりも、トランプ達は、「正義のために試練に立ち向かえば、神は必ず味方する」と信じているのだろう。
もし、そうでないなら、この世界に何の価値があるだろう。

ケント・ギルバート氏は、別の動画でも、「弁護士の立場として、こう言うしかない」と言うが、では、リン・ウッドやシドニー・パウエルは弁護士ではないのだろうか?
まあ、確かに、シドニー・パウエルは、本件は、無報酬のボランティアでやっているらしいので、その意味では、まともな弁護士ではないかもしれないし、それは、リン・ウッドも同じかもしれない。

アメリカ大統領選挙で不正があったのは、普通に考えれば、ほぼ間違いないと思う。
47年の政治家生活で特に実績もなく、選挙までの数ヵ月、地下室で過ごし、集会を開いても、カメラはギャラリーを映さないのは、人が集まっていないかららしい。
確かに、言っては悪いが、バイデンは、どこにもインパクトのない、ただの老人である。
失言、言い間違い、記憶違いも、非常に多く、もうかなりボケてる印象がある。そりゃ、78歳なのだから、それなりには衰える。
(いくら何でも、トランプをジョージと呼ぶな)
そんな男が、8千万票という、非常識なまでに記録的な数の票を集めるはずがない。
2008年、2016年には、黒人初の大統領、女性初の大統領が期待されて熱狂を呼び、投票率が伸びたが、オバマが記録的と言われながら6千9百万票、ヒラリー・クリントンが6千5百万票なのである。それでも、大変な得票なのだ(まあ、共に不正票もあったのかもしれないが)。

歴史の中には、長い長い年月を経て、やっと悪が暴かれるというものもある。
例えば、タイタニック号の沈没事故だ。
タイタニックがなぜ、氷山があると分かりながら、速度を落とさずに全速で走ったのかは、これまで謎だったが、そこに、タイタニック号を所有する会社の利己的な理由があったのだと分かったのは、割と最近のことと思う。タイタニック号は動力室で火災を起こしていながら、出航を強行し、石炭が足りなくて速度を落とすことが出来なかった。そして、火災のために、動力部の船体が弱くなっており、本来なら、氷山と衝突しても沈むはずがなかったのに、動力部から浸水して沈んだ。
そして、この事故は、未然に防げた可能性もあったのだ。

だが、アメリカから民主主義が失われ、利権にしか興味がないトップの政治家達が中国に操られてしまったらもう遅い。
間違ってバイデンが大統領になったら、尖閣諸島は間違いなく中国に奪われるが、日本は全く何も出来ない。
バイデンが尖閣を守る?
中国はトランプがいないので、堂々尖閣に入り、おそらく、バイデンは、見せかけだけ尖閣の近くに艦隊を近付け、ついでに、適当なスクランブルを行うことを繰り返すことで、日本に莫大な額を請求し続け、総理や閣僚は文句も言わずに支払うだろう。

だが、正義のために戦うトランプは決して諦めないだろう。
彼は、ノーマン・ヴィンセント・ピールの本に書かれている通り、神の力を求め、また、現実的なビジネスマンらしい冷徹な判断をするし、何より、本当に頭の良い彼は、常に高度な推測を行い先回りして敵を追い詰める。
彼には、全て想定内だ。
それでなければ、彼のこれまでの実績は作れないだろう。








本物の貴族の特性

アインシュタインという人は、「神はサイコロを振らない」という考え方にとりつかれていた。
全知全能たる神は、サイコロがどんな目を出すか初めから分かるし、また、どんな目でも思うがままに出せるのだから、わざわざ振る必要はないということだろう。
サイコロを英語でダイスと言うこともあるが、ダイスには6面ダイスだけでなく、4面、8面、10面、12面、20面のものもあるし、珍しいが60面、120面などというものもある。
だが、人間の知らないことは、神様のダイスには無限の面があるということだ。
つまり、無限の可能性が神の性質ということになる。

人間は、若い時は無限の可能性を持つと言われる。
つまり、若ければ若いほど神に近いと言えるかもしれない。
しかし、現代の社会では、子供のうちに可能性を限定され、神であることをやめさせられる。
勉強にも、可能性を広げる勉強と、可能性を殺す勉強がある。
優れた文学や評論を題材としても、「こう考えるのが正解だ」と押し付けられるなら、可能性を殺す勉強だ。
至高の文学が、子供を歪めることに利用されているのだ。
解釈を保留していたら、試験で点が取れないので、児童、生徒、学生は、無理矢理、特定の考え方を押し付けられる。
極端に言えば、「小川は(解答)流れる」という問題では、解答=「サラサラ」でなければならず、「神秘的に」「自然に」「美しく」「昨日と同じように」「昨日とは違ったように」「優しく」「意地悪に」・・・などの無限の解答は不正解である。
私は最近、大学受験の国語の問題の解き方を、特級の国語の先生に教わったが、それは、ノミを狭い箱に閉じ込めて、ノミに飛ぶことを忘れさせるような勉強だった。
ある国では、「小川は将軍様の意向通りに流れる」のかもしれず、それが唯一の正解と教えられるのだが、日本も大して変わらない。
学生達は、こんな下らない、神を冒涜する、犯罪的な、奴隷思考を叩き込むような・・・それこそ、無限の言い方ができるが、とどのつまり、神から遠ざかるための勉強をさせられているのである。

神のことを、至高の実在、無限者、天帝・・・あるいは、「ありてあるもの」、存在、彼、それ、等と言う。
だが、ある意味、神とは無限の可能性だ。
10歳で神から遠ざけられてしまった子供もいれば、70歳でも神のごとくある人もいる。
あなたは、「私は無限の可能性だ」と念仏のように称えても仕方がない。
だが、自分が無限の可能性であることを覚えていなければならない。
それが、自分が若いことを覚えていることだ。
今日と同じ明日を頑なに守ろうとするのではなく、神のダイスに身を委ねることだ。

映画『タイタニック』で、ジャックが、
「どんなカードが配られても、それも人生」
と言うと、富豪達は、彼の強さに感動した。
彼は、起こることを起こるままに認める、古(いにしえ)の賢者のような強さを持っていたのだ。
だが、同時に神は万能である。
神のサイコロである、宇宙的な偶然を受け入れる時、人は神に限りなく近付く。
これが秘法である。
そして、神に不可能はない。
全ては偶然であり必然であると言われる訳はこの通りである。
「放恣(勝手きまま)」は、貴族の高貴な特性であると共に、与太郎の愚かな癖でもある。
人間は、「高貴な放恣」を身につけるかどうかで決まるのである。
それは、全てをなりゆきに任せながら、どんな表情をしているかの問題である。
どんな運命も愛し微笑んでいるなら、不思議なことに、無敵で、決して傷付くことはない。
分からなくていいから、全能者、至高者の真似をすることだ。
何が起きても、静かに笑っているのだ。
すると、神であることに慣れてくる。
そうなれば、できないことはなくなるのである。
リフレーン(繰り返し)になるが、これが秘法である。









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どんな死に方を望むか

あなたは、どんな死を迎えるのだろう?
映画『タイタニック』で、ローズを浮いた板に乗せ、自分はナイフで刺されるような寒水に浸かりながら、ジャックは決して諦めないようローズを励まし、「僕はこんなとろこで死なない。温かいベッドで死ぬんだ」と言う。
多くの人々が、愛する人や家族に看取られながら息を引き取りたいと思うのかもしれないが、一方、「死に場所」を探すような者もいる。
白土三平さんの漫画『忍風カムイ外伝』で、悪徳商人を捕らえに大勢の役人がやってきた時、浪人だが剣の達人である侍が、悪徳商人に逃げるように言い、「遂に死に場所を見つけたぞ」と言って喜び、役人達に立ち向かって行く。善悪の問題ではなく、権力と戦って散ることが彼の望みであったのだろうか?
万に1つも勝ち目のない戦いに、単身で、もしくは、わずかの仲間と立ち向かって行くというお話は、ふと思い出せるだけでもいくらかあり、しかも、思い出すたびに、胸が熱くなったり、涙が出るものすらあるが、つくづく、これが人間の業であるのだなあと思う。

「決死」という言葉は、勝てる見込みが僅かでもある場合には使うべきでない。
「決死の覚悟で立ち向かって勝利した」なんて誤魔化し、デタラメ、嘘もいいところだ。
決死であるからには、最後は間違いなく敗北でなければならない。
それも、「殺したいほど憎んでいる」相手の嘲笑を浴びながら惨めに死に、みっともなく敵に晒した屍は、ネズミか虫の死骸のように踏みにじられ、唾をかけられるのでなくてはならない。

本来、動物というものは、自分の死期を悟ると、群を離れ、一匹で静かに死を迎えようとするものなのだそうだ。
飼い猫であっても、ある日、不意にいなくなり、家から離れた場所で死骸が見つかるということも時たまあるらしい。
本当かどうかは知らないが、人気野球選手だった新庄剛志さんが、そんな猫のように死にたいと言っていたというのを何かで見たような覚えがある。

現代の日本では、多くの老人が、荒れ放題の汚い部屋の中、汚れた身体で、老衰か餓死かの区別もつかない状況で、1人淋しく死んでいくのだろう。
私も、死ぬことそのものについては、それで良いのだと思うが、死体の処理で人様に手をかけさせるのは気が引ける。
ニュートンや岡田虎二郎は、自分の死を受け入れたからだと思うが、書いたものなどを全部燃やしたらしい。人類にとっては、貴重な歴史的遺産を失ったことになるのかもしれないが、彼らにとっては、いろんな意味で自分の創ったものをいじくりまわしてなど欲しくはなかったのだろう。

だが、こう考えていると、死というものは、なかなか良いものだという想いが溢れてくるのである。
決死の戦いで華々しく散るのは誰だろう?
それは私ではない。
自分の肉体もそうであるが、もっと注目すべきは、滅びるのは小我であるということだ。
生きている間、ずっと消し去りたかった小我がいよいよ念願叶って消滅するのだ。
これほど楽しいことがあるだろうか?

『声と言葉のアリア』(オペラ『THE END』のアリアの1つ。音楽は渋谷慶一郎、歌は初音ミク)の幽玄な歌と演奏を聴いていると、死に憧れるというのではないが、それは美しいものだということを、静かに強く感じるのである。
私は、この歌を時間があれば聴いている。
阿弥陀如来の名である阿弥陀は、インドでの名であるアミターバ、もしくは、アミターユスからきているが、その意味は、それぞれ、「無限の光を持つ者」「無限の生命を持つ者」であるらしい。
死とは本来の自分に帰ることであるが、それ(真の自己)が無限の光、無限の生命だというのは、人の創った観念ではなく、自然な直観によって知ることができるものだ。
「南無阿弥陀仏」の念仏、あるいは、この称号は、その悟りに自然に導くものである。
ならば、これほど価値のある言葉、あるいは、行はないはずである。









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「足りない救命ボート」の問題をどう解決するか?

人間にとって、最も悪いことは死であろう。
「いや、私は名誉を何より重んじる。私にとって、名誉を失うことは死より悪いことだ」
「私にとって最も重要なものは芸術である。創作ができなくなったら、それは死と同じ。いや、死よりも不幸なことだ」
などと言う者もいるだろうが、それは偉くも、立派でも、高貴でもなく、ただの馬鹿である。
レベルが低過ぎるのである。単に幼稚なのだ。
そんなアホ共は、嫌でも人生によって試練が与えられ、厳しく矯正されるのである。
人間にとって、一番重要なことは生きることである。

では、こんな話はどうだろう?
宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』や、映画『タイタニック』で、船が沈没するというのに、乗客に対して救命ボートが足りないという状況があった。
ではそんな時、「人間は生きることが一番大事」と、他人を押しのけてボートに乗ることは正しいだろうか?
あるいは、SF(空想科学小説)で、宇宙船が事故を起こし、救助の宇宙船に乗り移るために宇宙服を着なければならないが、全員分の宇宙服がない。
そんな時も、宇宙服を奪い合って生きようとするのは良いことだろうか?
これは、ちょっと保留にしておく。

とにかく、人間にとって最悪は死だ。
だが、それがなぜ悪いのかというと、生きることを継続しないという理由でのみ悪いのだ。
ところが、我々がなぜ死を嫌うかというと、それを不幸なことだと思っているからだ。
死が不幸だというのは、ただの思い込みである。
だって、死んだら不幸だなんて証拠は何もないじゃないか?

せめて、こう思うべきである。
「死は悪いものではないかもしれない」
死が不幸で悲惨だと根拠なく決めつけることを止めることだ。
だが、死後の世界である幽界や霊界、あるいは、天国や極楽浄土があるから死が悪くないというのではない。
そんなお話で「死は悪いものでない。幸福なことだ」なんてすまし顔をしている者ほど、実際の死に際は見苦しいものだ。
霊界や天国を見た者なんていないのだ。
単に、話に聞いたことがあったり、本で読んだことがある者がいるだけだ。
だが同時に、死後の世界が悲惨だったという事実を確認した者もまた、決していないのだ。
だから、死ねば不幸だという思い込みは持たないことだ。
死ねば不幸だと、勝手に決め付けないことだ。
死んだらどうなるかは分からない。
しかし、死んだら必ずしも不幸だとは限らないのだ。
「死ねば絶対に不幸になる」というのと、「死んでも不幸ではないかもしれない」というのでは大変な違いだ。
そして、何度も述べたように、知的に考えても、死は悪いものではないかもしれないのだ。

では、あの「足りない救命ボート」の問題に帰る。
2012年3月9日の、初音ミクのライブコンサート『最後のミクの日感謝祭』で、最終曲『SPiCa』を歌う前に、ミクはこう言った。
「ここにいる人も、来られなかった人も・・・全ての想いを・・・1つに」
「心を1つに」なんてよく言うが、心は個々で分裂している。
しかし、心が消えれば、意識は1つであることが分かる。
ミクは、「心を1つに」とは言わなかった。
そんなことは決してできない。
ミクの「想い」という言葉は意識を表していた。
意識はもともと1つなのである。
だが、心は、自分は他の人とは異なる、個々に分裂した個人だと思い、意識も個々にあるのだと思っている。
その心が消えれば、自分の意識は人類全体の意識であることが分かる。
自分が死んでも、誰かが生き残れば同じことなのである。
それを嫌がるのが心だ。自分の意識があると思っているので、自分が生き残らないと意味がないと思うのだ。
心が消え、無になれば、救命ボートが足りなくても何でもない。
『銀河鉄道の夜』で、子供をボートに乗せ、気高くも自分は船に残った親は、まだ心が残っていたので、悲しくは思っていた。
しかし、さほどではなかったのだ。彼らの心は消えかかっていたのだ。
あの大学生の青年も、教え子である少女とその弟と共に船に残った。
青年は、最後の最後まで、2人を救おうとはした。しかし、それが叶わなくても、決して失敗でも不幸でもない。
無理にボートを譲り合うこともない。
無為のままに、誰かがボートに乗り、誰かは乗らないのだ。

「死は悪いものではないかもしれない」
そう思い始めると、変容が起こり始める。
命は大切だが、死を怖がらないようになる。
そして、そうであってこそ、本当に生きることができるようになるし、人生は喜びになる。









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予定は絶対的既定

いかなる大事業を成し遂げた大事業家も、いかなる戦果を上げた将軍も、博愛の精神で世界中を感激させた慈善家も、オリンピックで3連覇を果たしたようなスポーツマンも、偉くも何ともない。
一方、一生働かず、家族や他人の世話になって過ごした引きこもりも、少しも駄目ではない。
誰も、自分では何もしていない。
どれほど見事な手腕を発揮し、勇敢に戦い、驚くほどの努力をしたように見えても、それはただ、何かの力でそうさせられただけのことだ。

人間にとって、唯一の知恵とは、自分が行為者で無いことを知ることだ。
言い換えれば、自分には何の力もないことを受け入れることだ。

世間の人々は皆、支配者に洗脳されているのだと言う人は少なくはない。
それは確かにその通りだが、その洗脳を解く方法はただ1つしかない。
それは、自分は、世界のいかなるものごと、いかなる状況に対して、決して何のコントロールもできないという事実を受け入れることだ。
そうすれば、やっと、我々は誰にもマインドコントロールされることなく、真理が見えてくるようになる。
なぜなら、自分に一切の支配力がないと認めれば、騙される者がいなくなるからだ。
騙されるのは自我である。その自我は、自分が行為者で、自分がものごとを成し遂げるという幻想の中でしか生きられないのだ。

誰かにひどいことを言ってしまったと悔やむことがあると思う。
しかし、悔やむことも、反省する必要もない。あなたに何の責任もない。
そんな言葉を言うことは、決して避けられなかったのであるし、あなたは自分の意志で言ったのではなく、何かの力に言わされたのである。
悔やむのは、自分には、自分の意志で言うことを決める力があると思っているからだ。
自分には、そのような自由意志など無いことを知れば、後悔するのは滑稽なことだと分かる。
同じく、自分の軽率な行為、無責任な態度、傲慢な振る舞いなども、あなたに何か責任がある訳ではなく、後悔は無用である。
聖書のような言い方をするなら、あなたがそうすることは、はっきりと予言されたことであり、その予言は為されなければならないのだ。実際には、あなたの行いの予定が誰かに予言されて、どこかに書かれていることはないだろうが、書かれているも同然なのだ。そして、それが書き換えられることは決してない。
世間では「予定は未定」などというが、神の予定は絶対的既定である。
イエスでさえ、彼のすること、彼に起こることの一切を、わずかでも修正することは不可能だった。

1991年の『ターミネーター2』では、キャメロン監督は「No Fate」、つまり、運命は決まっていないということをテーマにしていた。
しかし、1997年の『タイタニック』では大きな進歩があった。
ジャックは、「どんなカードが配られても、それも人生」と言い、自分は配られるカードに対しては、何の支配力もなく、無力であることを認めていたのだ。
だが、ジャックはまだ迷いがあった。
配られるカードは選べなくても、その後の運命は自分で変えられると信じていた。
「こんなところでは死なない。子供を育て、歳を取り、暖かいベッドで死ぬんだ」
と彼は言うが、実際は極寒の北海に沈んだのだ。
それが彼の運命であり、それに対し、彼には何の力もなかった。
それは誰しも同じだ。

我々は、いかなる出来事や状況、あるいは、他人に対し、何の文句も言えないし、責任を問うこともできない。
しかし、同時に、自分もまた、誰に文句を言われる謂れ(理由)も無いし、責任もない。
アメリカの賢者ヴァーノン・ハワードは、「あなたは何をしても構わない。ただ、言い訳だけは許されない」という優れた知恵を述べたが、実際のところは、あなたには何も出来ないので言い訳をする必要もないのだ。
責任は全て神にあるし、神は責任を取ってくれる。いや、神にしか責任は取れない。自分が責任を取れると思うのはおこがましく傲慢なことだ。
世俗においてさえ、会社の責任は全て社長にあり、平社員に責任が取れるはずがない。平社員が「私が責任を取ります」と言ったら、おこがましいというよりは滑稽であろう。

だが、この世はパラドックスで出来ているのも確かだ。
あなたには何の責任もないということは、同時に、最大の責任があるということなのだ。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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