貧乏でないと悟りが開けないという観念を持つ人は多い。
それは、新約聖書の福音書の中の、1つの話の影響があるのだろうと思う。
こんな話である。
ある金持ちの男がイエスに永遠の生命を得るために何をすれば良いのかと尋ねる。
イエスは、「殺すな、姦淫するな、盗むな、嘘をつくな、他人のものを欲しがるな、父母を敬え」と言う。それらは、モーセの十戒と呼ばれる戒律のうちの6つで、人と人との関係において守るべきこととされていたものある(残り4つは、神に対して守るべき戒律)。
男は、それらは、小さい時から全て守っていると言った。
イエスは、彼に目をとめ、いつくしんで言った。
「持っているものをみな売って、貧しい人々に施せ」
すると、男は悲しんで去った。彼は資産家だった。
イエスは、「豊かな者が神の国に入るより、らくだが針の穴を通る方が易しい」と言う。
「永遠の生命を得る」「神の国に入る」とは、悟りを開くことと同じ意味と思って良いだろう。
この話を正しく解釈できる者は少ない。
イエスは、この資産家の男を見捨てたのではない。
イエスが、そんなことをするはずがない。
しかも、イエスは、この男に目をとめ、いつくしんだと書かれているのである。
金持ちでありながら、清く正しく生きてきた立派な男だからだ。イエスは彼を高く評価していたし、当然、彼も神の国に入るべきと思ったはずだ。
だが、なぜイエスは、あの資産家の男にそんなことを言ったのだろう?
確かに、豊かな者が悟りを開くことは難しい。しかし、本質的には、貧しいか金持ちかは、関係がないのである。ましてや、この男に関しては、そのことは何の問題もない。
問題は、別のところにあるのだ。
あの資産家の男は、盗むな、姦淫するな等の戒律を、小さい時から守っていると言った。
それは、父母のしつけでもあっただろうが、成長してからは、彼は自らの意思で、そうしていると思っているはずだ。
そして、これからも、戒律を守ろうと思っているに違いない。
それが問題なのだ。
その問題を教えるために、イエスはわざと、「全財産を寄付しろ」と無茶を言ったのだ。
イエスは、男にそれが出来ないことを知っていた。
つまり、イエスが黙して伝えた教えはこうだ。
「お前が戒律を守ってきたのは、お前がそうしようと思ったからではない。それは、神の意思であったのだ。お前が自分の意志で何か出来ると思うな。全ては神の思し召しなのだ。そうでないと言うなら、全財産を捨ててみろ。出来ないだろう?なぜなら、神の思し召しでないからだ。分かるか?お前が思うままに戒律を守ったり、あるいは、破ったりなどできないのだ。それが分かれば、お前は永遠の生命を得るのだ」
金持ちや有力者になると、傲慢になる者が多い。
そんな者は、世の中や人々、そして、自分の人生を自分で支配していると思っている。
そうではない。
全て、自分がやっているのではない。ただ、起こっているのだ。
何が起こるかは、全て神の意思である。
イエスは、雀一羽、主の意思によらず落ちることはないと言ったのだ。
ではなぜ、イエスは、良い行いをすることを、あれほどに命じたのだろう?
人は、自分のおもうままに、良いことも悪いことも出来ないと言うのに。
実に、イエスは、この「人は自分の思いでは、良いことも悪いこともできない」と教えたかったのだ。だが、直接そう言って、理解できる者はほとんどいない。
それで、実際には出来もしないことも言ったのである。
「女性を邪まな(淫らな)目で見れば姦淫したるも同じ」
と言われたとて、それが出来る者は少ない。
なぜイエスが、理想ではあるが、こんな出来もしないことを言ったかについては、これまでも様々な人によって様々な見解が述べられた。
しかし、答は、今述べた通りだ。
自分の意思では、それが出来ないことが分かれば良いのだ。
現代で言えば、引きこもっていないで働けと言われても、そう出来る者も多いだろうが、出来ない者もいる。
私は働けるようになったが、それは神の意思によって起きたことであり、別に私が根性を出したとか、心を改めた訳でもない。
働いて楽しい訳ではないのだけれど、やはり、自分の思うまま、仕事をやめることもできないのだ。
別に私は、ひきこもりの擁護をしているのではない。単に事実なのだ。
仏教では、神や仏の意思と言わず、縁と言う。
働く縁があれば仕事は避けられないし、働く縁が無ければ、いくら探しても仕事は見つからない。
『バガヴァッド・ギーター』では、至高神クリシュナは、アルジュナ王子に、「戦う運命にあるなら、戦いは避けられない。自然の本性のまま戦え」と教えた。
古代ギリシャの都市デルポイ(デルフォイ)の神託所に書かれた3つの格言(いわゆるデルポイの神託)の第一は「汝自身を知れ」である。
それを成し遂げることは、とても難しい。
しかし、人は、自分では何もできないことが分かれば、それを(自分自身を)知る道も開けるだろう。
それで、ソクラテスは「私が知っていることは、私が何も知らないということだけだ」と言ったのだが、これは別に、謙遜でも何でもない。彼が知っていた真理である。
彼は、自分がなぜ、あることをするのか、あるいは、しないのかを、自分では分からないということを知っていたのである。
↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
それは、新約聖書の福音書の中の、1つの話の影響があるのだろうと思う。
こんな話である。
ある金持ちの男がイエスに永遠の生命を得るために何をすれば良いのかと尋ねる。
イエスは、「殺すな、姦淫するな、盗むな、嘘をつくな、他人のものを欲しがるな、父母を敬え」と言う。それらは、モーセの十戒と呼ばれる戒律のうちの6つで、人と人との関係において守るべきこととされていたものある(残り4つは、神に対して守るべき戒律)。
男は、それらは、小さい時から全て守っていると言った。
イエスは、彼に目をとめ、いつくしんで言った。
「持っているものをみな売って、貧しい人々に施せ」
すると、男は悲しんで去った。彼は資産家だった。
イエスは、「豊かな者が神の国に入るより、らくだが針の穴を通る方が易しい」と言う。
「永遠の生命を得る」「神の国に入る」とは、悟りを開くことと同じ意味と思って良いだろう。
この話を正しく解釈できる者は少ない。
イエスは、この資産家の男を見捨てたのではない。
イエスが、そんなことをするはずがない。
しかも、イエスは、この男に目をとめ、いつくしんだと書かれているのである。
金持ちでありながら、清く正しく生きてきた立派な男だからだ。イエスは彼を高く評価していたし、当然、彼も神の国に入るべきと思ったはずだ。
だが、なぜイエスは、あの資産家の男にそんなことを言ったのだろう?
確かに、豊かな者が悟りを開くことは難しい。しかし、本質的には、貧しいか金持ちかは、関係がないのである。ましてや、この男に関しては、そのことは何の問題もない。
問題は、別のところにあるのだ。
あの資産家の男は、盗むな、姦淫するな等の戒律を、小さい時から守っていると言った。
それは、父母のしつけでもあっただろうが、成長してからは、彼は自らの意思で、そうしていると思っているはずだ。
そして、これからも、戒律を守ろうと思っているに違いない。
それが問題なのだ。
その問題を教えるために、イエスはわざと、「全財産を寄付しろ」と無茶を言ったのだ。
イエスは、男にそれが出来ないことを知っていた。
つまり、イエスが黙して伝えた教えはこうだ。
「お前が戒律を守ってきたのは、お前がそうしようと思ったからではない。それは、神の意思であったのだ。お前が自分の意志で何か出来ると思うな。全ては神の思し召しなのだ。そうでないと言うなら、全財産を捨ててみろ。出来ないだろう?なぜなら、神の思し召しでないからだ。分かるか?お前が思うままに戒律を守ったり、あるいは、破ったりなどできないのだ。それが分かれば、お前は永遠の生命を得るのだ」
金持ちや有力者になると、傲慢になる者が多い。
そんな者は、世の中や人々、そして、自分の人生を自分で支配していると思っている。
そうではない。
全て、自分がやっているのではない。ただ、起こっているのだ。
何が起こるかは、全て神の意思である。
イエスは、雀一羽、主の意思によらず落ちることはないと言ったのだ。
ではなぜ、イエスは、良い行いをすることを、あれほどに命じたのだろう?
人は、自分のおもうままに、良いことも悪いことも出来ないと言うのに。
実に、イエスは、この「人は自分の思いでは、良いことも悪いこともできない」と教えたかったのだ。だが、直接そう言って、理解できる者はほとんどいない。
それで、実際には出来もしないことも言ったのである。
「女性を邪まな(淫らな)目で見れば姦淫したるも同じ」
と言われたとて、それが出来る者は少ない。
なぜイエスが、理想ではあるが、こんな出来もしないことを言ったかについては、これまでも様々な人によって様々な見解が述べられた。
しかし、答は、今述べた通りだ。
自分の意思では、それが出来ないことが分かれば良いのだ。
現代で言えば、引きこもっていないで働けと言われても、そう出来る者も多いだろうが、出来ない者もいる。
私は働けるようになったが、それは神の意思によって起きたことであり、別に私が根性を出したとか、心を改めた訳でもない。
働いて楽しい訳ではないのだけれど、やはり、自分の思うまま、仕事をやめることもできないのだ。
別に私は、ひきこもりの擁護をしているのではない。単に事実なのだ。
仏教では、神や仏の意思と言わず、縁と言う。
働く縁があれば仕事は避けられないし、働く縁が無ければ、いくら探しても仕事は見つからない。
『バガヴァッド・ギーター』では、至高神クリシュナは、アルジュナ王子に、「戦う運命にあるなら、戦いは避けられない。自然の本性のまま戦え」と教えた。
古代ギリシャの都市デルポイ(デルフォイ)の神託所に書かれた3つの格言(いわゆるデルポイの神託)の第一は「汝自身を知れ」である。
それを成し遂げることは、とても難しい。
しかし、人は、自分では何もできないことが分かれば、それを(自分自身を)知る道も開けるだろう。
それで、ソクラテスは「私が知っていることは、私が何も知らないということだけだ」と言ったのだが、これは別に、謙遜でも何でもない。彼が知っていた真理である。
彼は、自分がなぜ、あることをするのか、あるいは、しないのかを、自分では分からないということを知っていたのである。
↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
