「馬鹿は死ななきゃ治らない」と言うが、誰が言い始めたのか知らないが、この言葉には、心の底からの深い嘆きが感じられるのである。
この「馬鹿」の中には、悪人や性悪といったものも含めて良いと思う。いや、むしろそちらが主と言って良い。単に頭が悪いとか、要領が悪いというのであれば、他の美点で十分カバーできるし、そもそも、単純な意味での馬鹿というのはむしろ美点になる場合が多い。
「馬鹿は死ななきゃ治らない」の馬鹿は、業、因縁、宿命によって与えられた、どうにもならない人間の愚かさである。
それは、死ななきゃ・・・あるいは、死んで治らない。
それは、強い呪いででもあるかのようだ。
昔、今の「プリキュア」シリーズのように、小さな女の子達に人気のあった『美少女戦士セーラームーン』という作品の映画『美少女戦士セーラームーンR』の主題歌『Moon Revenge』は、作詞した冬杜花代子さん(故人)によれば、「宿命の愛は、追いかけても逃げても、死んですら終らない。なぜならそれが月の復讐だから」という想いが込められていたらしいが、まさに、何かの魔が、人間界を支配しているようである。
人間の愚かさは、死んでも治らないのであり、教育など何の役にも立たない。
教育には体罰も必要だと訴える体罰肯定論者は、人間の愚かさの根深さをある程度は実感している者も多いのだろう。しかし、所詮、体罰で何かができると考える馬鹿自体が、死んでも治らないどうしようもないほど知恵の無い愚か者である。体罰だろうが、泣き落としだろうが、教育などというもの自体が、全く無効であることがどうしても理解できないのだろう。それが、神ならぬ人間の浅知恵である。猿と変わらないだけでなく、猿に劣るのである。
「俺がその性根を叩き直してやる」と言う者の性根自体が死んでも治らないのだ。そんな馬鹿に一体何ができるというかね?
あなたも、あなたの親、きょうだい、夫や妻、子供の、「どいうにもならない愚かさ」に疲れ果てているに違いない。
「なんとか治らないものか」という、愚かな考えにとりつかれているのでがないかと思う。
学校の教師と生徒は、お互いが、「こいつ、なんて愚かなんだ。なんとかして治せないだろうか?」と思っているのだ。たまたま教師の方が立場が強いので、教師の試みが笑えない愚かな行為として伝わることが多いが、おそらく、生徒による教師への暴力も、本質は生徒による教師への教育であり、一切の、教師による生徒への体罰と何ら変わらない。
他人の愚かさを治すには、まず自分からというのが当然である。
しかし、自分の愚かさなんてものも、決して、決して、絶対に治せたりしない。それが分からないことを、「死んでも治らない馬鹿」と言うのだ。
そして、こんなことをいちいち注意しなければならないことが憂鬱であるが、「死んでも治らない」ほど愚かでない人間は、この世に1人もいない。ただの1人もだ。
他人の愚かさを非難することのできる人間など絶対にいないのだ。
「お前は間違っている。俺は、お前をなんとかしてやりたい」と言う者は、会社の中などでもよくいるものだが、そう言う者が一番の愚か者だというのは、ほんの少し冷静な目で見れば、一目瞭然であろう。
さて、ではどうすればいいかと言うと、念仏を唱える以外に無いではないか?
法然は、自分を実験台(実験の対象)として、つまり、自分を実験動物として、長い長い間、必死に観察した結果、「こりゃ、死んだって治らないわい」と完全に理解し、治すことは完全に諦めた。しかし、経典を見れば、阿弥陀如来という仏様なら治すことができることが書かれてあることを知り、また、過去の、知恵ある人達による、経典の解説によって、その確信を深めたので、念仏を唱え続けたのだと思う。おそらく、「これで駄目なら、何しても駄目。ならば、これに懸けよう」というのであったと思う。
そして、彼をみれば、それは絶大な効果があったことが分かるのである。
自分が愚かに思う相手に、念仏を唱えさせてやれれば良いが、それは縁の問題であり、自分の望むようにはならない。しかし、自分が念仏を唱えることはできる。本当は、自分が念仏を唱えることができることも縁であるが、念仏を唱えることができるなら、その縁があったのであり、それは、仏の方から働きかけてくれたことで起こった奇跡である。
念仏は、最大の善であり、最大の自己教育である。自分の頭で考えた愚かな行いをまた重ねるのではなく、ただ念仏するのが良いだろう。
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この「馬鹿」の中には、悪人や性悪といったものも含めて良いと思う。いや、むしろそちらが主と言って良い。単に頭が悪いとか、要領が悪いというのであれば、他の美点で十分カバーできるし、そもそも、単純な意味での馬鹿というのはむしろ美点になる場合が多い。
「馬鹿は死ななきゃ治らない」の馬鹿は、業、因縁、宿命によって与えられた、どうにもならない人間の愚かさである。
それは、死ななきゃ・・・あるいは、死んで治らない。
それは、強い呪いででもあるかのようだ。
昔、今の「プリキュア」シリーズのように、小さな女の子達に人気のあった『美少女戦士セーラームーン』という作品の映画『美少女戦士セーラームーンR』の主題歌『Moon Revenge』は、作詞した冬杜花代子さん(故人)によれば、「宿命の愛は、追いかけても逃げても、死んですら終らない。なぜならそれが月の復讐だから」という想いが込められていたらしいが、まさに、何かの魔が、人間界を支配しているようである。
人間の愚かさは、死んでも治らないのであり、教育など何の役にも立たない。
教育には体罰も必要だと訴える体罰肯定論者は、人間の愚かさの根深さをある程度は実感している者も多いのだろう。しかし、所詮、体罰で何かができると考える馬鹿自体が、死んでも治らないどうしようもないほど知恵の無い愚か者である。体罰だろうが、泣き落としだろうが、教育などというもの自体が、全く無効であることがどうしても理解できないのだろう。それが、神ならぬ人間の浅知恵である。猿と変わらないだけでなく、猿に劣るのである。
「俺がその性根を叩き直してやる」と言う者の性根自体が死んでも治らないのだ。そんな馬鹿に一体何ができるというかね?
あなたも、あなたの親、きょうだい、夫や妻、子供の、「どいうにもならない愚かさ」に疲れ果てているに違いない。
「なんとか治らないものか」という、愚かな考えにとりつかれているのでがないかと思う。
学校の教師と生徒は、お互いが、「こいつ、なんて愚かなんだ。なんとかして治せないだろうか?」と思っているのだ。たまたま教師の方が立場が強いので、教師の試みが笑えない愚かな行為として伝わることが多いが、おそらく、生徒による教師への暴力も、本質は生徒による教師への教育であり、一切の、教師による生徒への体罰と何ら変わらない。
他人の愚かさを治すには、まず自分からというのが当然である。
しかし、自分の愚かさなんてものも、決して、決して、絶対に治せたりしない。それが分からないことを、「死んでも治らない馬鹿」と言うのだ。
そして、こんなことをいちいち注意しなければならないことが憂鬱であるが、「死んでも治らない」ほど愚かでない人間は、この世に1人もいない。ただの1人もだ。
他人の愚かさを非難することのできる人間など絶対にいないのだ。
「お前は間違っている。俺は、お前をなんとかしてやりたい」と言う者は、会社の中などでもよくいるものだが、そう言う者が一番の愚か者だというのは、ほんの少し冷静な目で見れば、一目瞭然であろう。
さて、ではどうすればいいかと言うと、念仏を唱える以外に無いではないか?
法然は、自分を実験台(実験の対象)として、つまり、自分を実験動物として、長い長い間、必死に観察した結果、「こりゃ、死んだって治らないわい」と完全に理解し、治すことは完全に諦めた。しかし、経典を見れば、阿弥陀如来という仏様なら治すことができることが書かれてあることを知り、また、過去の、知恵ある人達による、経典の解説によって、その確信を深めたので、念仏を唱え続けたのだと思う。おそらく、「これで駄目なら、何しても駄目。ならば、これに懸けよう」というのであったと思う。
そして、彼をみれば、それは絶大な効果があったことが分かるのである。
自分が愚かに思う相手に、念仏を唱えさせてやれれば良いが、それは縁の問題であり、自分の望むようにはならない。しかし、自分が念仏を唱えることはできる。本当は、自分が念仏を唱えることができることも縁であるが、念仏を唱えることができるなら、その縁があったのであり、それは、仏の方から働きかけてくれたことで起こった奇跡である。
念仏は、最大の善であり、最大の自己教育である。自分の頭で考えた愚かな行いをまた重ねるのではなく、ただ念仏するのが良いだろう。
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