ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

スティーヴン・ホーキング

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

人間であることを忘れると神になる

無神論にも、いろんな考え方があるが、私は、無神論者と言えば、物理学者のスティーヴン・ホーキングと、発明家のレイ・カーツワイルを思い浮かべる。
ただ、彼らに共通するのは、「人間がいつか神になる」だと思う。
ホーキングは、今はまだ科学が未熟で、人間に分からないことが沢山あるが、いずれ、全てが分かるようになると言う。その時に、人間は神になったと言える。
カーツワイルは、はっきりと「神はいないが、いずれ誕生する」と言い、やがて誕生する神は人間とテクノロジーの融合体だ。つまり、今はテクノロジーが未熟で、出来ないことが沢山あるが、いずれ、発達したテクノロジーは全てを可能にする。人類は、銀河を越え宇宙を征服する。そんな人類が神なのである・・・というわけだ。

だが、人間に、それほどの可能性があるなら、人間の中には神がいると考えた方が良い。
テクノロジーの未来を、驚くほど正確に予言してきたカーツワイルは、2045年頃にAI(人工知能)の知的能力は人間を超えると言うが、人間の脳が今の形になったのは20万年前だ。
その、未来の超科学がようやく到達する人間の脳は、どうやって出来たのだろう。
カーツワイルの言い分では、偶然に出来たことになってしまう。
それを可能にしたのは、生物の遺伝子情報システムであるが、人間にとっては神秘としか言えないほど高度な遺伝子情報システムも偶然に出来たことになってしまう。

アナログ式腕時計を完全に分解して、全ての部品をプールの中にばら撒き、プールに水流を起こすと、偶然に時計が元通りに組み上げられることも、確率は極めて低いながらゼロではないと言う。
かといって、そんなことが実際に起こったりはしない。
あるいは、猿が紙に無造作にインクを付けていたら、大文学や百科事典が偶然に出来上がる可能性もゼロではないかもしれないが、実際には、そんなことは起こらない。
脳や遺伝子情報システムが偶然に出来たというのも、それらと同じことである。

それなら、宇宙誕生以前から神が存在していたと考える方が自然である。
(まあ、その神が偶然に出来たとまで言うなら、もう何も言うことはないが)
けれども、カーツワイルの「人間がいずれ神になる」という考察は的外れではない。
だが、実際は、人間は既に神であるが、神でないように考えたり、振る舞ったりしているだけだ。
なぜ、そんなこと(神でないように振舞う)をするのかというと、それには諸説あるが、そこは今は考えないことにする。
とにかく、人間は元から神なのである。
そして、おかしなこと・・・と言って良いのかは分からないが、「自分が人間であることを忘れた時に、神の能力の一端を見せる」のである。
例えば、我を忘れた時に、物理的に発揮出来るはずがない力を発揮したり、祈りに集中し切って忘我の状態になった時(法悦の状態と言う)に奇跡を起こすことがある。
これらは、やはり、自分が人間であることを忘れた時に、内にいる神の力がわずかかもしれないが発現したのである。

そういうわけで、人間を超えた、神の領域の力を発揮するには、人間であることを忘れないといけない(変な言い方だが)。
そして、それは難しいこととは思えない。
例えば、自分が病気だとして、自分が病人であることを忘れるにはどうすれば良いだろう?
それは、何かに意識を集中しさえすれば良い。
そして、ずっと何かに集中し、病気であるという意識を持つ暇を無くすと、実際に、病気が治ってしまうことがある。
おそらく、本当に、意識を病気とは別のものに完全に持っていくことが出来れば、病気は治ってしまうのだと思う。
そして、病気を作ったのも、内なる神なのである。
さらに言えば、全ては内なる神が作っているし、起こしている。
説明を抜きに言えば、自分が人間であることを忘れる(これを解脱ということがある)には、「私は在る」と心で唱えるだけで良い。
なぜそうなるのかは、本1冊でも、とてもではないが語れないが、やれば分かることである。
「私」とか「神」と唱えても、同じく「私」は消え去る。「私」が消え去ることを仏教では「自己を忘れる」と言うらしいが、言い方はどうでも良い。
仏教では、自己を忘れるために、坐禅を組んだり、念仏を唱えたりするが、坐禅を組んでいる自分や、念仏を上げている自分に集中してしまって、かえって自意識を強くしてしまう・・・つまり、自己を忘れることから、より遠のいてしまう。
だから、「私は在る」と、心の中で、ゆっくり、丁寧に唱えるのが良いのである。








大人になって抜け落ちてしまったもの

イギリスの天才理論物理学者スティーヴン・ホーキングが著書に書いていたことだ。
今から半世紀以上昔と思うが、アリストテレス以来の大論理学者と評され、その当時、共に平和運動を行ったアインシュタインと並ぶ天才とまで言われた、数学者・哲学者バートラント・ラッセルが一般の人々を相手に科学の啓蒙のための講演を行っていた時のことだった。
ラッセルが、地球が丸くて太陽の周りを回っていることを説明すると、20世紀も過ぎたその時代に、いまだ天動説を信じているらしいおばあさんが、ラッセルに反論した。「世界は亀の背中の上に乗っているのよ」と。
ところで、今の時代でも、世界には、地動説を信じていたり、世界は平たいと思っている人は、さほど珍しい訳ではないと思う。
ラッセルは、その「無知な」おばあさんに、「では、その亀は何に乗っているのですか?」と返した。おばあさんの主張の矛盾を突いたつもりだろう。
しかし、おばあさんはまるで平気で、「まあ、お若いのにオツムのよろしいこと!でもよくって。亀の下はずっと亀なのよ」と応えた。

ホーキングは、未来の人から見れば、このおばあさんと我々は、何の違いもないと思うだろうと述べていた。
それを、当時の私は、未来の人は現代の人類より、はるかに進歩しているので、この馬鹿なおばあさんより進んでいるといったところで、それほどのものではないと見なされるということだと解釈していた。
しかし、そうではないかもしれない。
現代においてすら、我々と、このおばあさんは、全く同じなのだ。
我々の方が優秀である訳では決してない。
我々が正しいなら、このおばあさんも同程度に正しいのだ。
そして、このおばあさんが間違っているなら、我々も同じくらい間違っているのだ。
ラッセルが地球は丸いと言ったことが正しいように、おばあさんが言うように、世界は亀の背中の上で、その亀の下はずっと亀なのだ。
なぜそう言えるかというと、全く論理的ではないが、以下のような経験から来るものだ。

子供の頃、私は図書館で、老子やアリストテレスをよく読んでいた。
別に私が賢い子供だった訳では全くなく、むしろ、私の知能指数は平均以下だ。
幸い、本にはフリガナがふってあったので、読むことが出来たのだ。
ところが、私は、本当に、それらの本を、「なるほど!」と思いながら、興奮しながら読んでいたことを思い出すのだ。
本当によく分かったし、強く納得することが多かった。
後に大人になってからではそうはいかなかった。アリストテレスの科学理論に誤りを見つけたり、老子の論の中に納得できないものを見つけて批判的に読むようになった。そして、偉大な知恵を見逃していたのだ。
だが、子供の頃は、本を読んでいる時、アリストテレスや老子が隣で語りかけているようなもので、それは友達のように親密だったのだ。
それは、本来なら誰でも同じと思う。
そんな感覚があったのは、私が、中学の1年生くらいまでだったと思う。
その頃、面白いことがあった。当時、私は、走り高跳びをしたら誰にも負けなかった。しかし、中学2年生くらいになった時、それまで自分がどんな飛び方をしていたのか、全く思い出せなくなったのだ。
吉行淳之介の短編小説『童謡』で、走り高跳びが得意だった少年が、長い病気の後、以前のように飛べなくなってしまう。
彼の友人達は、「また飛べるようになるさ」と言ったが、少年は、「いや、もう飛べないだろう」と言う。
彼は大人になったのだ。そして、自分の中から消えてしまったものを感じていたのだ。
私もきっと、そうだったのだろう。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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