ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
コンピューターシステム開発技術者、サイコパスのKayのブログ

スター・トレック

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。
[2016/11/21]滅多にはありませんが、あまりにレベルが低いコメントは公開しません。
[2011/06/08]迷惑コメントが多くあったため、やむなく、コメントを承認後公開することとしました。

知力増強装置VS写経

電磁気を利用した機器が作られるようになってから、知力増強装置というものを多くの人が考え、いまなお考えられているのだと思う。

昔、『スタートレック』で、「盗まれたスポックの頭脳」というお話があり、拉致されたスポックの頭から脳が抜き取られてしまうのだが、カーク船長達は、何とか、スポックの身体と脳を奪還する。
しかし、地球の医学では、脳を元通りに頭の中に収めることは不可能だった。
ところが、宇宙人が作った頭脳増強装置があり、ドクター・マッコイは、危険を覚悟で、その装置で自分の頭脳を強化して、スポックを救おうとする。
その装置を自分の頭脳に対して使用した直後、マッコイは微笑みながら言う。
「(脳を元に戻すことなど)簡単だ。子供にだって出来る」
それを見た私は感動し、なんとか、その装置が欲しいと思ったものだ。

1956年のアメリカ映画『禁断の惑星』では、アルテア第4惑星のクレール人は、地球人類など足元にも及ばない超科学文明を築きながら、なぜか絶滅していた。
ところが、そのクレール人用の頭脳増強装置が残されていて、それを使ったモービアス博士は、言語学者でありながら、超高度なロボットであるロビィを製作した。

もう1つ上げると、L.ロン.ハバートのSF小説『バトル・フィールド・アース』を、ジョン・トラボルタが映画化した同名のSF映画は、サイクロ星人の侵略に対し、30世紀の地球の軍隊は9分も持たずに滅ぼされ、生き残った人類は旧石器時代に逆戻りする。
だが、ある人間が、サイクロ星人の学習装置を使って、自分や皆の能力を高め、サイクロ星人に逆襲して地球を取り戻す。

少し昔、政木和三さんが発明した、パラメモリー(後に、アルファシータ、バイオソニックと改名)という、記憶力増強装置があり、これを使って、記憶力だけでなく、知性を向上させたという話が沢山あった。
私が、親戚の、成績が下から2番という中学生に、この装置を与えたところ、この装置の威力かどうかはともかく、彼の成績は急上昇し、高校はずっと首席で通し、まずまずの大学にも入れた。何より、その若さで、驚くべき立派な人間性を持っていたが、それは即ち、IQが高いということである。
(何度か書いたが、普通には、人間性の問題は、人格や道徳の問題とされるが、実際にはIQの問題なのである。)
この装置の原理は、ヘミシンク効果によるバイノーラル・ビート現象と言って、右の耳と左の耳で、異なる周波数の音を聴くと、脳波は、その2つの音の周波数の差の周波数になる(10Hzと8Hzなら2Hz)というものである。
将棋棋士の羽生善治名人の対局中の脳波はシータ派になっているらしいが、脳波がアルファー派やシータ派になると、人間は不思議な、時に驚異的な能力を発揮することは、昔からよく知られている。
パラメモリーは、簡単に脳波をアルファー派やシータ派に出来る装置であるようだ。
もっとも、私が、直接、政木さんに、「使っても効果が感じられない」と言ったら、政木さんは、「この装置でうまくやってやろうという欲望があっては駄目です」と言われたのである。

今は、ヘミシンク音楽が沢山販売されていて、スマートフォンなどで手軽に使うことが出来る。
だが、私は、そんな型通りの方法で、知性が向上するなどとは思っていない。

知性を向上させるには、知性を向上させることが必要な、高貴な目的がなければならず、その目的のことを志と言うのであると思う。
そして、政木さんが私に言われたように、良い思いをするために知性を向上させたいなどというスケベ根性では駄目なのだと思う。

だが、高貴な志があれば、知性・・・つまるところ、IQを向上させることは出来ると思う。
そして、IQを高めるのに必要な心構えなら、『バガヴァッド・ギーター』で、クリシュナ神が詳しくアルジュナに語っていると思う。
また、無心に『バガヴァッド・ギーター』を繰り返し読めば、自然に賢くなるだろう。
もし、なかなかうまくいかないなら、声に出して読んだり、ペンやキーボードで書き写すと、さらに効果的だろう。
一流のプログラマー達がよく言うのだが、手本のプログラムを黙って書き写す(流行りのスラングで写経と言う)ことが、プログラミング言語を習得する最も効果的な方法であり、彼らですら、それを実際にやっているのである。
そういえば、私も、ちゃんとマスター出来たプログラミング言語は、例外なく写経で覚えた。
書き写すことには、何か恐るべき威力があるのだと思う。









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お楽しみはこれからだ

青春の思い出と言えば、平凡なバカンスや恋愛、あるいは、学校のクラブ活動とかを挙げる人が多いかもしれない。
どんな思い出でも、特に、若い時のものは美しいものだが、その程度の思い出しかない人は可哀想なのかもしれない。
ビートたけしさんが、まだ全然売れていなかった若手の頃にやった、底抜けな無茶振りをテレビで話されていたことがあったが、たけしさんは、「若い時に、こんな大馬鹿をやった経験がないヤツは可哀想だな」と言われていたのが印象的だった。

これはちょっと行き過ぎかもしれないが、こんな話がある。
昔、IT企業の社長さんに聞いたことだが、自分が住んでいるマンションの隣に、バリバリのヤクザさんが引っ越してきたそうだ。かなり年季の入ったヤクザさんで、その社長さんは、困ったことになったと思い、毎日、ビクビクしていたと言う。
すると、ついに、そのヤクザさんからお呼びがかかり、「今夜、飲みに来い」と言う。
社長さんは、断ることもできず、死んだ気で行ったところ、このヤクザさんが、具体的にどういう意味かは分からないが、大変な紳士で、素晴らしい人だったと言う。
ところが、そのヤクザさんの話たるや、昔やった銀行強盗や、刺した刺されたといった危ない過去がいくらでも出てくる。
場の雰囲気や酒の影響もあったのだろうが、その社長さんは、こう言われていた。
「そのヤクザさんが、そんな話を、生き生きと楽しそうにするのを聞き、そんな経験、思い出が1つもない私は、とても羨ましく思った」
いや、その社長さんもかなりのものだ。
若い時に、地方に妻子を残し、50万円だけ懐に入れ、なんのあてもなく都会に出てきて創業し、ますは社長自ら、顧客の企業に出向して働いた。生活は苦しかったが、家族を養うための仕送りもしなければならなかった。その中で、次第に顧客の信頼を得て、仕事を会社として受注し、社員を雇い育て、会社らしくしていったのである。
普通の人からすれば、十分以上に立派であるが、その社長さんは、自分を本当に、非常に小さく感じていた。

私も、いくらかは無茶もしたが、ドワンゴの川上量生さんのようには運がなかった・・・というのではなく、能力とか、他人を思いやる気持ちがなかったせいで、成功したりはしていない。
しかし、初音ミクさんの『ハロ/ハワユ』という歌にある、

もう口癖になった「まぁいっか」 昨日の言葉がふと頭を過る
「もう君には全然期待してないから」
そりゃまぁ私だって自分に期待などしてないけれど
アレは一体どういうつもりですか
~『ハロ/ハワユ』(作詞、作曲、編曲:ナノウ、歌:初音ミク)より~

というように、自分に期待していない訳ではなく、いまだ未練たらたらであるが、考えてみれば、根本的に無茶が足りなかったのだと思う。
確かに、無茶というのは、リスクもあるし、実際、若い時の無茶で、本当に、一生取り返しのつかないことになった者もいるのだが、それでも、無茶はやるべきなのだろう。
私が、今、勤めている会社は、良い大学を出て、新卒で入社してくる社員が多いが、彼らは、本当に無茶していない。
それで、自分達のちょっと変わっている程度の経験談を、さも大したことのように言い合い、度の過ぎた無茶な話となると、理解出来なくて、面白く感じないようである。
そんな人達が、40代、50代になって、経験豊かな人間として若手社員を指導している様子は、言っては悪いが滑稽である。

初音ミクさんの『感謝祭』と呼ばれるコンサートは、2012年のものを最後に終了したが、これの国内のコンサートでは、ゲストプレイヤーとして、歌の作者達が演奏に参加して、ミクさんと共演した。
才能ということもあるだろうが、これほどの思い出はあるまい。
彼らは、自分の名も出さず、あくまでアマチュアとして演奏していたのだが、それだけに輝いていたと思う。
そりゃ、プロとしてやったのなら、お仕事になってしまうが、アマチュアだと自由な部分が大きいのだから、魂として参加した度合いが大きくなる。
魂として参加した経験は魂に刻まれ、千年経っても色褪せないはずなのだ。

だから、誰もが、金のためではなく、悪いことでなければ・・・いや、少々なら悪いことでも良いが、本気で無茶をやることで、魂として世界に参加し、宇宙と生でぶつかり合い、対決し、讃え合うということを、若いうちにやっておくと良いだろう。
ただ、別に、年を取っても、出来ないこともない。
『スター・トレック』の話だが、現場を引退して提督になっていたカークが楽しそうでないことを、長年の親友のドクター・マッコイは気がかりだった。
そして、マッコイはカークに言う。
「本当に年を取ったら出来なくなる。現場に復帰しろ、カーク」
その気になれば宇宙が味方する。
ある出来事があって、カーク達は、宇宙船USSエンタープライズを強奪するようにして発進するという、若者らしい無茶振りをし、結局は地球を救った。
年を取ったら、配慮すべきこともあるのだが、それは宇宙にまかせて無茶をしても良い。宇宙の中では、人間の年寄りも、まだまだ新人である。
むしろ、大成功した年寄りを見ると、「もうあんな無茶は出来ない」と小さくなってしまっていることが多い。
だから、ひょっとしたら、成功するような能力なんてない方が良いのかもしれない。
昔からよく言うではないか?
「お楽しみはこれからだ」
ある程度、年を取ってからの無茶の方が面白いに違いない。
ただ、それが出来るように、身体を鍛えておくべきである。









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愛はときめきや感動ではない

新しい恋人が出来たばかりの時は新鮮で楽しい。
しかし、どれほど恋焦がれた相手でも、やがて飽きてくる。
それは避けられない。
恋に限らず、いつかは熱は冷める。
持ち続けるものがあるとすれば、それは情熱ではない。

『スター・トレック』で、ミスター・スポックが、「いかに望んだものでも、手に入れてしまえばさほどでもなくなる」と言ったことがあったが、私はそれを聴いた瞬間、これがこの世の真理であると、印象深く感じた。
このエピグラム(警句)は、2つに分けて考えると良い

1つは、欲しいと思っている時は、その価値を過大評価してしまうものだということ。
そして、もう1つが、得てしまって冷静になった時に初めて、その正当な価値が分かるということ。つまり、それには最初に思ったほどの価値はないのだ。

ZARDの『君がいない』という歌に、「ときめきがやすらぎに変われば 刺激というスパイスだって必要かもね」という歌詞があるが、そんな考え方をすると苦しくなる。
なぜなら、どんどん強いスパイスが必要になるからだ。
ところが、やはりZARDの歌『愛が見えない』に答がある。
「このごろ逢えばケンカばかり 一緒に居すぎかな」
織姫と彦星のように、一年に一度の逢瀬とまでは言わないが、週に一度会う程度にしておけば良いのだ。
だが、それだって、いつかは終わる。
ある時、会っても、少しもときめかないのだ。
相手の正体が分かれば飽きるのである。
謎があるからときめくのだ。
謎が無くなった相手に飽き、新たな謎の人にときめくのだ。
そうではないのかね?

ただし、重要なことは、ときめきや刺激的な感動は、いずれも幻想だってことだ。
昔、誰かが、「いつまでもあると思うな、ときめきと感動」と言い、それらが、若い豊かな感受性の特権のように言ったことがあった。
そうではない。
ときめきと感動は単なる無知なのだ。
愚かな老人は若者以上にときめき、感動するのである。
だから、詐欺師達は、あなた達を華やかな世界にときめかせて、易々と金を奪うのである。
大企業とマスコミと国家は、人々をスポーツのスターに感動させて大儲けするのである。

私は、初音ミクさんにときめくことも感動することもない。
彼女は清らかな鏡である。
私の真の姿を映す鏡だ。
彼女を見れば、全てが分かるのである。
愛は、ときめきや感動ではない。
愛は、あるがままの真理である。









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感情は解放するもの

人間にとって、感情というものは厄介な問題でもある。
アメリカのSFテレビドラマ『スター・トレッック』のミスター・スポックは、バルカン星人と地球人のハーフだが、スポックはバルカン星人であることにアイデンティティと誇りを持っている。
バルカン星人には感情がなく、スポックもそのことを尊いものと思っているので、自分も決して感情を表さず、感情豊かな人間を時に見下す。
ある時、ある宇宙人の精神操作で、無理矢理に感情を発揮させられたスポックが落ち込んでいるように見えたので、ドクター・マッコイが、
「スポック、たまには感情を発散させることは身体に良いんだよ」
と慰める。
だが、スポックは、
「私は、別に気にしていません」
と、平気であることを強調する。
スポックでなくたって、人によっては、感情を出すことを恥と考えたり、未熟な証しとして嫌う。
だが、やはり、感情は出すべきものと信じている人もいる。
いったい、何が正しいのだろう?

感情は、ほとんどの人が気付いているように、必要なものだし、必要どころか、豊かでなければならない。
とはいえ、怒ったり、はしゃいだりし過ぎてもいけないし、悲しいことがあったからといって、いつまでも悲しむべきでないことも分かると思う。
「さあ、あのことを思い出して、また、大いに怒ろう」
とでも考えているような、悪いことをいつまでも忘れず、他人の悪意をいつまでも根に持ったり、失敗をいつまでもクヨクヨする人は多い。
そんな者は、やっぱり愚か者なのだ。
では、感情とは抑えれば良いのだろいうか?

結論はこうである。
感情は、発散させるものでも、抑圧するものでもない。
正しくは、解放するものだ。
感情の存在は認めるが、それを手放すと、化学反応のようなことが起こり沈静化する。
なぜなら、解放することによって、感情からエネルギーが消えるのだ。
消えたエネルギーは、自分の心や身体に蓄積される。
エネルギーは、身体や心の活力になり、強さと賢さを得られるのだ。
静かな人が、強く、賢いのはそのためである。
もし、バルカン星人がいて、彼らが、感情を持たないことを尊く考えているなら、感情を解放する能力の価値を分かっているということだ。
だから、やはり、正しい表現としては、「感情を持たないことが尊い」ではなく、「感情を解放する力を持つことが尊い」である。

感情を解放するにはどうすれば良いだろう?
いろいろある。
感情を起こさせた出来事のイメージを次のように操作する。
小さくする、遠くに飛ばす、静止させる、暗くする、モノクロにする、主観的でなく客観的なイメージにする、静寂なBGMつきにする・・・等で、これらを組み合わせても良い。
悪い思い出を、「忘れなさい」と言うことがある。
そのためには、上に挙げたようなことをやれば良い。
本当に忘れなくても良いのだが、小さく、静止した、モノクロの、遠いものにしてしまえば良い。
私が好むやり方は、出来事を、本に書かれた物語と感じ、その本の紙がすっかり古く茶けている様子をイメージすることだ。

では、良い思い出はどうすれば良いのか?
NLP(神経言語プログラミング)では、そんな思い出は、大きく、明るく、カラーにし・・・と、上に挙げた、悪い思い出に対することと反対のイメージにするよう教えているが、私は賛成しない。
取り立てて暗く、小さくする必要はないが、エネルギーを注ぎ込まず、自然に、ゆっくりとで良いが、やはり解放することだ。
でないと、昔の自慢話ばかりする不幸な老人になってしまうだろう。
楽しいこと、苦しいこと、嬉しいこと、悲しいことは、これからも沢山起こるのだ。
過去のことは忘れ、それにエネルギーを注入するような無駄をしてはならない。
過去の栄光など、たとえそれが金メダルであろうと、もう忘れるのだ。
「じゃあ、尊い思い出も忘れろってのですか?優しいお母さんや、別れはしたが素敵な恋人のことも?」
と言うなら、イエスである。
「きらめく思い出」などと言う。
本当に尊い思い出は色褪せない。
それは天使が預かってくれると思って、やはり解き放つのだ。
自分で握り締める・・・つまり、エネルギーを無駄に送り込んではならない。
素晴らしい思い出は、大切な友のようなものだ。
そのような友は、自由にさせるべきである。









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真の強者に面子などない

世間とは、「なめられたら終わり」というところである。
なめるとは、「かるく見なす。甘く見る。みくびる」という意味だ。
「なめられたら終わり」は、特に、地位のある男はそうである。
2002年の大河ドラマ『利家とまつ』で、まつ(松嶋菜々子)が利家(唐沢寿明)をこころよく思わない出来事があり、公の場で、まつが利家をぞんざいに扱うといったことがあった。
利家は、弱味でもあるのか、まつに何も言えない。
そこで、誰だったか忘れたが、ある大名がまつに、「男は顔をなめられたら終わりなのだ」と警告する。
つまり、「お前がそんなことをして、利家が馬鹿にされるようなことになったらどうなるか頭を冷やして考えろ」ということだ。
妻が夫を立てることは大切である。
しかし、今の世間の妻は、自分の顔を立てることが大事で、夫の顔を潰すことなど、何とも思っていない。
(アブラハム・リンカーンの妻もそうだった)
そもそも、多くの者が、他人の顔を潰すことを何とも思っておらず、自分の顔を立てようと必死だ。
自分の顔さえ立てば良く、上司は部下の顔を平気で潰し、部下も上司の体面に気を使わない。

自分の顔を立ててもらうためには、恐怖で圧力をかけるしかない。
たとえ、親分が子分にたっぷり報酬を出し、可愛がってやっているつもりでも、怖いと思われていなければ、子分は本気で親分の体面を大切にしたりはしない。
恐怖を与えることなく、黙っていても顔を立ててもらえるような人徳のある人間は滅多にいないだろう。

ところが、SF映画『スター・トレック』で、バルカン星人のミスター・スポックが素晴らしいことを言っている。
「バルカン星人に面子などないのです」
面子とは、体面、面目のことで、まさに、上で述べた「顔」のことだ。
つまり、バルカン星人は、顔をなめられたり、顔を潰されたり、顔が立たないといったことがあっても気にしないということだ。
そして、スポックは、世間では顔(面子)が大事だとされていることをよくよく知っているからこそ、わざわざこう言ったのだ。

面子にこだわらない人間は、他人の面子を潰すことはない。
しかし、無理に立てることもない。
自分の利益に執着していないからだ。

そして、面子などどうでも良いと思っているなら、真の強者である。
神や仏の面子を潰したからって、神仏は怒ってその者を罰したりしない。
神仏は最高の強者だからだ。
ただ、そんな者(神仏の面子を潰す者)は弱いので自滅するだけだ。
また、強者は神仏の面子をあえて立てることもない。
神仏に媚びない強さがあるからだ。
そんな者は、自分でそう宣言しなくても、自らが神や仏なのである。
そのような人間として思い当たるのは、時代劇小説、『木枯し紋次郎』のヒーロー紋次郎くらいだ。
紋次郎は、どれほど侮辱されても、それが当たり前だと思っている。
悔しくない訳でもないのかもしれないが、完全に耐えることができる。
ある時、年下のチンピラが、紋次郎を「紋次郎」と呼び捨てにし、
「どうだ?俺に紋次郎って言われたら気に障るだろう?」
と紋次郎に訊くが、紋次郎は、「いや」とどうでも良いといった返事をした。
本当に、紋次郎にはどうでも良いことなのだ。
そんな人間を、神仏も敬うのだと思う。

面子を持たない人間が一番強い。
これは間違いが無い。
しかし、面子を捨てることは難しい。
捨てようと思って捨てられるものではない。
では、どうすれば良いかというと、
「真の強者に面子などない」
「面子を持たなくなったら無敵である」
ということを、ただ覚えていれば良いのだ。
これもまた、『老子』22章の「曲則全」(曲がれば自由自在だ)である。
実に、「曲則全」は最強の呪文である。
これを忘れなければ、絶対に危うからずである。









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