真言を唱えることの有り難い効果の1つに、業(カルマ)の解消がある。
真言で運が良くなる大きな理由が、この業の解消によるものと思う。
業とは、罪のある悪い行いによって作る悪因縁といったものだと思う。
簡単に言えば、「善いことをすれば良いことが起こり、悪いことをすれば悪いことが起こる」という、「善行の報い」「悪行の報い」のうちの「悪行の報い」の原因となるのが、業、悪因縁である。
「悪行」で作る「業」や「悪因縁」に対し、「善行」で作るものは「徳」と言われるのだと思う。
業の報いを、因果応報と言うことがある(徳の報いである良い因果応報もある)。
因果応報は、すぐに来ることもあるが、かなり時間が経ってから来たり、生まれ変わった次の生で受けることもあるという説もある。
超心理学分野で世界的に有名なジナ・サーミナラ(哲学博士)の、エドガー・ケーシー関連の本を見ると、インドでは、カルマによる因果応報が一般的に信じられているので、不幸な人に対して、あまり同情しないと書かれていたのを思い出す。
サーミナラの本では、多くの因果応報の事例が紹介されており、来世にまたがる話も沢山あったように思う。
飯田史彦氏の有名な『生きがいの創造』では、因果応報といった懲罰めいた書き方は避けていたと思うが、行った行為に対する反作用が、来世で起こる事例も多数紹介されていたと思う。
また、因果応報に関し、割とよく聞く話としては、
「悪いことがあったら、これで業が軽減し、将来起こる悪いことが軽くなったり消えたりするから喜びなさい」
というものがあえる。
風邪をひくことだって、それが因果応報によるものであれば、苦しむことで業の軽減につながり、「風邪1つひかないなどというのは、かえって恐い」と言う者もいる。

ところで、真言を唱えることで背負っていた重い業が消えると言う話があるが、私は、それは本当だと実感することがある。
業の存在を心で感じているのだが、真言を唱えているうちに、「あれ」という感じで消えてしまうのである。
具体的にどんな業が消えたというのではなく、「あれ、何か重い業がのしかかっていたような気がするが、それが消えて軽くなった」と感じ、本当にホっとするのである。
ただそれは、「なんとなく」といった観念的なものというよりも、やはりどこか明晰な感じはするのである。

業を消すために、善いことをすることを奨励する人も多い。
私が好きな本である『パイロットが空から学んだ運と縁の法則』では、ジャンボジェットのパイロットである著者が、自分の力ではどうしようもないような空でのトラブルから救われるためには、不思議な運とでもいうものに頼るしかないことが多いが、そんな幸運である「善の報い」は、日頃積む徳で貯えるしかないのではと述べる。
徳は、一般的には善行によって積むことが出来るが、隠れてやる善行による陰徳だけでなく、大っぴらにやる善行による陽徳とでもいうものにも効果があると言う。例えば、有名人が災害被害者に多額の寄付をするのは売名行為のように言われることもあるが、その寄付は実際に役立つのであり、それは、やはり、幸運をもたらしたり、悪業を解消する「陽徳」になるのである。

真言が業を消すということに関し、真言の1つである念仏について言えば、親鸞は、業を消すために念仏を唱えるというのは間違いだと言ったようだ。
ただし、それは、「念仏を唱えて業を消してやる」という自力の想いでやるのが間違いだと言う意味で、念仏で業が消えることは肯定している。
いや、念仏で業が消えるどころか、極めて重く大きな悪業が念仏1つで消えてしまうのである。
これは、親鸞の教えを弟子の唯円が記した『歎異抄』や、親鸞の著書である国宝『三帖和讃』の『浄土和讃』の章の『現世利益和讃』などで見ることが出来る。
親鸞が強調したことは、自分で善いことをして業の解消をしようとしても、人間は思い通りに善いことをすることは出来ず、それどころか、故意に、あるいは、無意識に悪いことをして、どんどん業を積み重ねるので、本来であれば、我々凡夫は救われず、地獄に行くしかないが、念仏を唱えて、阿弥陀如来に頼れば、業を消してくれるのである。
これは確かに、あまりに都合の良い話であるが、結果としては正しいのだと思う。
また、親鸞は、念仏以上の善はないので、他に善いことをする必要はないのだと言う。
ただ、実際は、念仏のみならず、優れた真言であれば、同じ効果があると思う。

そんなわけで、身に覚え(罪を犯したという自覚)がある人・・・多少でも記憶力があれば、憶えているものだけでも沢山あるだろうが、そんな、やってはいけないこと、やるべきでなかったことをやってしまった者は、ますます熱心に真言を心で唱え、我々には理解不能ではるが、高次元の力で、良い方向に持って行ってくれるよう願うのが良いと思う。
不安や恐怖で心が重いのは、業を背負っているからかもしれない。
そんな時、熱心に真言を唱えていると、程度の大きさはあっても安らぎを感じると思うが、それが業が解消された証かもしれない。
私の場合、もっと明確な感覚で業の解消を感じることがあるが、長く真言を唱えれば、あなたにも分かるかもしれない。