ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
コンピューターシステム開発技術者、サイコパスのKayのブログ

シュヴァイツァー

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。
[2016/11/21]滅多にはありませんが、あまりにレベルが低いコメントは公開しません。
[2011/06/08]迷惑コメントが多くあったため、やむなく、コメントを承認後公開することとしました。

聖者達はサイコパス

マザー・テレサがサイコパス(良心を持たない人間)であったと言う研究者がいるらしい。
実際はどうだったかは分からないが、私は納得出来る。
そして、それなら、「密林の聖者」アルベルト・シュヴァイツァーもサイコパスだったのだと思う。
この2人がなぜサイコパスだと思うかというと、いろいろあるが、1つには、「サイコパスの顔をしている」というところだ。
もちろん、マザー・テレサが本当の聖女だとしても、優しいとか、気高いだけであんな活動が出来るはずがなく、強い「戦う女」でなければならなかったはずだ。
シュヴァイツァーも然(しか)りである。
そうであれば、当然、アクの強いふてぶてしい顔にもなるだろう。
だけど、彼らのようなことをするには、「サイコパスでない人間は優し過ぎる」のである。
邪悪な顔をしていない普通の人は、歴史的な聖者にはなれない。

シュヴァイツァーは、なぜ、全てを捨て、アフリカの未開地で医療活動をしようと思ったのだろう。
学者、音楽家として成功し、地位も名誉も得ていた30歳の時に、医大に入学し、38歳で医学博士になると、医療器具や薬品を自分で調達し、アフリカに乗り込み、医療サービスを受けることがなく、未開地の劣悪な環境の中で難病に苦しむ現地の人々を治療し始めた。
そんなことをした理由として考えられるのは、サイコパスらしい過剰な自尊感情だ。
確かに、シュヴァイツァーは、神学者や音楽家として成功し、特に、パイプオルガン奏者としてはかなり有名であったと思う。
しかし、それだけでは、人類の歴史に残るほどではないことを、彼はよく理解していたはずだ。
かなりの才能があり、努力もしたのだろうが、特別な天才というほどでもなかったのだ。
ここらは、映画『アマデウス』におけるサリエリの悲哀を思い出させる。
サリエリは素晴らしい音楽家であったが、モーツァルトのような大天才ではなく、そのことでサリエリは自分を哀れみ嘆いた。
シュヴァイツァーは富と名誉に囲まれて30歳になろうとしていた時、アフリカでは人々が、医療サービスを受けることが出来ずに苦しんでいるということが書かれた慈善団体のパンフレットを見る。
伝記によれば、ここで彼は天啓を得、「神よ、私が行きます」と思ったという。
本当にそう思ったのかもしれない。
しかし、それは善意ではなく、神に近い位置に自分を置きたいという、強い自尊感情のためかもしれない。
良心は、さほどのエネルギーを生まないが、強烈な自尊感情は、山をも動かす力を持つ。

また、サイコパスは、衝動的で、深く考えずに思い切った決断が出来る。
それが悪い方向に働けば・・・つまり、IQが低くて、大したことが出来ない人間であれば、犯罪行為に走ることも多いが、シュヴァイツァーのように優秀で富もある場合は、自尊感情を最高に満たせる選択肢を選べる。
しかし、それとて、冷静にじっくり考えれば、決して実際にやろうとは思わないものである。

人類として初めて月面に立ったアメリカの宇宙飛行士ニール・アームストロングもサイコパスであったという説がある。
今もある程度はそうだろうと思うが、特に、あの時代の宇宙飛行士は命知らずでなければ、とても務まらない。
そのためには、ある意味、鈍感で恐れを知らず、その分、刺激を求め、衝動的でなければならないが、生まれつきのIQが高いので、その衝動性が、大胆で、かなり良い決断になり得ることが宇宙飛行士に向いているのだと思う。
それはつまり、IQが高いサイコパスであるということである。









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滅亡を免れ、繁栄するための奥義は簡単である

最近、このブログで、よく取り上げている、脳を癒しつつ強化するAndroid、iOS用無償アプリの“GeniLax”は、元々は電子装置であったパラメモリ(アルファシータ、バイオソニック)をソフトウェアでエミュレーション(模写)したものだ。
そして、GeniLaxは、パラメモリを正しく再現出来ていると私は思う。
パラメモリの発明者は政木和三さんで、当時、隆盛を極めていた岡山の林原グループの企業の中に研究所を持っていた。
私は、その政木さんの研究所を訪ねる度に印象深い出来事に遭ったのだが、その中の1つのことを述べる。
政木さんの研究所は、非常に質素な、小さな町工場といった感じのもので、あちこちに、作りかけの機械装置が置いてあった。
すると、床にゴキブリが現れたのだが、政木さんは、いつも用意しているのか、小さな箱で器用にゴキブリを捕らえると、研究所の外の茂みに放しながら、「もう入ってきちゃ駄目だよー」と声をかけておられた。
その頃の私は、ゴキブリやハエを見ると、殺虫剤を吹きかけて殺していたが、それからしばらくしてから、私は、一切の虫を、出来る限り殺さなくなった。
「密林の聖者」と言われたアルベルト・シュヴァイツァーは、アフリカで、家の中にいるハエを捕まえて外に出すために、紙コップをいつも用意していたらしい。
また、シュヴァイツァーは、実験のために、蚊一匹殺す時も、悲痛な表情をしたと伝えられている。
私も、少し前から、プラスチック製の透明なコップを一部屋に1つ置いている。
さっきも、ごく小さな虫がいたので、そのコップで捕らえ、窓の外のベランダに放した。
最近、名前は分からないが、スズメ蜂よりやや小さい位の、蜂にも見える虫がよく家の中にいる(私の母親がドアを開けっ放しにする隙に入ってくるのだろう)。
その虫は、かなり活発に飛び回るのだが、私は必ず捕まえることが出来る。
私に殺意がないので、虫の方が、あまり抵抗せずに捕まえられるのかもしれない。
洗濯物を干す時には、今の季節、蚊が寄ってくるのだが、一応は追い払うが、半ば、私の美味しい血は、蚊達に提供することにしている。
庭の通路に、クモが巣を作っていて、悪いとは思ったが、その巣を壊し、「こんなところに巣を作るなー」と言ってやったら、翌日には、違うところに巣を作っていたので、当然、それは放置している。
だが、私は、虫が好きではないし、むしろ、かなり嫌いだ。
しかし、よほどのことがない限り、殺すようなことはしなくなった。

釈迦は、ヴァッジという国で、滅亡を免れる7つの法を説いた。
その中身は単純なもので、例えば、「ものごとを決める時は、一部の者が決めず、合議で決めよ」とか、「年長者を敬え」、「他人の妻や娘さんを略奪するな」などであるが、それを聞いた、ヴァッジを攻め滅ぼそうとしていたマガダ国の大臣ヴァッサカーラは、「その1つを守るだけでも、ヴァッジは繁栄し滅亡はない」と悟った。

私も、いくつかの掟を持っている。
そのうちの1つが、上に述べた通り、出来る限り、いかなる生き物も殺さないことで、他には、初音ミクさんを敬い、邪まな目で見ないことなどがある。
この2つを守るだけでも、私は繁栄し、滅亡はないだろう。









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肌がゾクゾクするような目標を持つには

ジョージ・ワシントンが少年時代、斧の切れ味を試したくて、父親が大切にしていた桜の木を切ってしまったが、父親に正直に告白したら、父親は怒るどころか、かえって感心して彼を誉めたという有名な逸話は、どうやら作り話らしい。
ワシントンにはもう1つ、真偽が疑われる逸話がある。
それは、ワシントンがやはり少年時代、屋根から落ちたか、穴に落ちたのかは忘れたが、大人に、「大丈夫か?」と聞かれた時、「将来、アメリカを救う英雄になる僕が、こんなことくらいでどうにかなるはずがない」と答えたというものだ。
このような思い込みを持てることは幸運なことだ。
人間を動かす大きなエネルギーは、根拠のない自信、盲目的な信念だ。
だがそれは、意図的に持つことは出来ない。
だが、これこそ、「求めよ、そうすれば与えられる」である。
どうすればそれが与えられるかが、今回のお話である。
これを持てば、情熱溢れるスリリングな、不安などとは無縁な、楽しい冒険の人生が待っている。

アルベルト・シュヴァイツァーは二十歳の時、学者になるか宗教家(キリスト教の神父と思う)になるかで悩んでいた。優秀な彼は、いずれの道にも自信があった。
しかし、ふと、こんなことで迷うのは、自分のことしか考えていないからだと気付いた。
それで、「30歳までは自分のために生きる。30歳からは他の人のために生きる」と決意したら、迷いは消えた。
そして、学者、音楽家として大成功し、富も名誉も得たが、二十歳の時の誓いも忘れてはいなかった。
だが、何をすれば良いのか分からない。
ところが、30歳目前という時、たまたま見たパンフレットに、「アフリカでは人々が医療サービスを受けることが出来ず苦しんでいるので、誰か助けて欲しい」ということが書かれているのを見て、「これだ!」と思い、30歳にして医大に入学し、38歳で医学博士になると、90歳を過ぎて亡くなるまで、アフリカで医療活動を行い、また、そうしながら得た思想を『生命への畏敬』と題して発表した。
シュヴァイツァーの「30歳までは自分のため。30歳からは人のため」というのは、一種の霊感によるものと思うが、これが下りてきたのも、二十歳の時の彼がすでに、非利己的な人間であったからだと思う。

シュヴァイツァーの真似・・・というのも何だが、20代で医学博士の学位と富を得たアーマンド・ハマーは、「青春は終わった」と宣言し、医療機器を満載した船で、旧ソ連に行ったが、チホノフ首相に「医者はソ連にも居る。経済を頼む」と言われて、ビジネスで旧ソ連に貢献した。
このハマーの盲目的な信念が面白い・・・と言っては不遜だが、実際、興味深い。
それを得たのは、彼が7歳の時。
それはある願いなのだが、それは、「自分より優れた人のために役に立つこと」で、これが彼の生涯忘れなかった目標だった。
「自分より優れた人」というのは、自分以外の全ての人と解釈して間違いあるまい。
この謙虚さに満ちた利他的な目標が、彼に無限のエネルギーと幸運を与えたのだ。

偉大になる鍵は、利他的な目標である。
しかし、それを持つ器というものがあるのかもしれない。
普通の人は、自分が何とかやっていけるようにと願い、それを目標にする。
しかし、それでも別に構わない。
「人様に迷惑をかけない人間になる」というのは、庶民の目標として立派であるし、そう簡単なことでもない。
そもそも、まずこちらを達成してからでないと、利他的な目標もあったものではないので、まず、こちらを目標に持っても良いのかもしれない。

自分がまだ自立していないと思ったら、腕振り運動をしながら、少し、「人様に迷惑をかけない人間に」と思っていれば、アイデアは出てくるし、運も開け、必要なものは容易く得られる。
自分が自立していたら、あるいは、その自信があれば、「世のため人のため」と少し思いながら腕振り運動をやれば、より大きな閃きと幸運がやってくる。
あるいは、心の中で、微かな声で、「愛」とか「神」という一言を囁けば、そして、それを思い出す度にやれば、やがて、肌がゾクゾクするような霊感が起こるだろう。
人生というのはなかなか楽しいもののようである。









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荘厳な言葉の力

「密林の聖者」と呼ばれたアルベルト・シュヴァイツァーは、フランス人ということになっているが、その90年の人生のほぼ前半の半分はドイツ人だった。
それは複雑な当時のヨーロッパの事情に因ることだ。
それはともかくだが。
シュヴァイツァーがたどり着いた究極の思想・哲学は「生命への畏敬」だった。
「畏敬(いけい)」とはまた難しい言葉だが、とても印象的に感じるかもしれないと思う。
畏敬とは、「崇高なものや偉大な人を、おそれうやまうこと」で、多分、「畏」の文字に馴染みが薄いと思うが、「畏」は、「畏(かしこ)まる」という使い方をする。
「畏」は、うやまう、かしこまるという意味だ。
人間は、畏を失くした時に堕落するが、現代の日本人には、敬い、畏まる気持ちは少ない。つまり、既に、かなり堕落している。

「生命への畏敬」の言葉には、シュヴァイツァーの、「生命とは敬い、畏まるべき究極のもの」という想いが感じられると思う。
畏敬するものを示す言葉に集中すると、心は外に向かわなくなり、内に潜入していく。
いつも述べるが、外の世界への関心を弱め、意識を内部に向けるほど、人間は神に近付く。
それは、万能の知恵・力と融合するということだ。
生命とは自然であり、生命を畏敬するということは、自然を荘厳なものと感じることである。
人間は、荘厳に感じるものを畏敬するのである。
我々は、畏敬し、荘厳と感じるものを、しっかりと持っていれば、いつでも、意識を外の世界から引き上げ、自己の内部を見つめ、神と溶け合うことができる。
だから、真っ直ぐな心を持っていれば、「生命」、「自然」という言葉に想いを寄せるだけで、外部の物質的なものから離れ、内部の霊的なものに同調するのである。
もし、「愛」という言葉に、畏敬、荘厳を感じるなら、愛という言葉を想うだけで、至高の知恵と力に一致していく。

無論、畏敬する言葉、荘厳に感じる言葉を、魔法を行使するための公式にしてはいけないが、事実上はそうなるのである。
だから、使う場合には、荘厳なる公式として使わなくてはならない。
面白半分に、あるいは、自己中心的に使うと大変なことになる。
だが、これらが、力のある言葉、加護の言葉であることも確かである。
それほどおかしなことではないと思うが、困った時には、そのような言葉に集中すると奇跡が起こり、大難は小難に、小難は無難になる。
その言葉に普段から馴染んでいれば、いかなる大難も無難になる。
都合の良い考え方のように思われるところもあるだろうが、実際そうである。

「生命」、「自然」は、程度の違いはあっても、ほとんど誰でも、畏敬し、荘厳に感じる言葉だ。
「自然な」という言葉ほど、人間が安心する言葉がないことからも明らかだ。
ヴァイオリンという言葉が、その人にとって、生命や自然と一体化しているなら、ヴァイオリンという言葉が、その人を「ぐいっと」神に引き寄せる。
それが、オートバイとか、ウルトラマンである場合だってあるだろう。
物質的な名前は確かに本質ではないのだが、それらを通して、心が内部に向かい、外の世界を消し去るなら、それは、その人にとって貴い言葉といえるだろう。
私にも、あるいは、誰にでも、そんな言葉はあるはずだ。

本当は、究極の言葉は「神」であるのかもしれないが、世間での神という言葉はあまりに汚れてしまっている。
だが、神という言葉を純化するなら、至高の言葉になる。
理解しにくいかもしれないが、「私」という言葉も同じである。
神という言葉が輝きを取り戻し、私と一致する時が地球人が宇宙人に飛躍する時なのだろう。









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青春はいつかは終わると覚悟する

アルベルト・シュヴァイツァーは、二十歳位の時、人生の進路に悩んでいたらしい。
学者になるか音楽家になるか、あるいは、聖職者になるかといった道が彼の前に開けており、才気溢れるアルベルトは、どの道でも成功する自信があった。
しかし、全ての道を選ぶ訳にもいかず、大いに悩んでいた訳だ。
ところが、やがて彼は気付く。
こんなことで悩むのは、自分のことしか考えていないからだと。
それで彼はこう決めた。
30歳までは自分のために、自分の好きなことをするが、30歳になったら、不幸な人々を救うための奉仕活動に専念しようと。
そして彼は、学者としても音楽家としても大成功し、栄光と富を得た。
それでも彼は、二十歳の時の誓いを決して忘れなかった。
だが、30歳が近付こうとしているのに、自分が何をすれば良いのか分からない。
しかし、心配しなくても、神の導きはやって来る。
アフリカの未開の地で、人々が医学の恩恵を受けることなく、難病に苦しんでいるのを、誰か何とかして欲しいと訴えるパンフレットを見て、彼はこれこそ神の導きだと悟り、「神よ、私が行きます」と誓った。
そして、30歳で医大に入学し、38歳で医学博士の学位を得ると、自分で得た有り余る富で、医療器材や薬品を大量に購入し、アフリカに旅立った。

今朝も述べたが、我々も、シュヴァイツァーを少し見習い、まずは、物質的、精神的に満たされ、神の導きを待ちながら、勇気と期待を心に秘め、情熱的に生きることを当面の目標にすれば良いだろう。
いつかは、自分のための平和を楽しむ青春は終る。
そして、戦う日々が始まる。
そうして、やがて死を迎える時、満足してあの世に旅立つことができるだろう。

尚、アメリカにも、シュヴァイツァーと同じ生き方をしようとした人がいた。オクシデンタル石油の伝説のCEO、ドクター・ハマーことアーマンド・ハマーだ(ハマーも実際に医学博士だった)。
ハマーはシュバイツァーとは違う道を行くことになったが、世界平和のために貢献できたのだと思う。









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