ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

シミュレーテッド・リアリティ

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
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真言で魔法を当たり前のように起こす

この世界はやはり、人工的な3次元ホログラフィックで出来た仮想世界なのだと思うことがある。
それは、夢の中で、現代のテクノロジーを超えた世界に居る時だ。
最近も、私は、夢の中で、現代のモノレールとは全く異なる、壮大な規模でありながら緻密で、そして、美しく、徹底的に快適なモノレールのような乗車物に乗った。
私はモノレールや、その他の鉄道は、普通には乗るが、それほど関心はないし、リニアモーターカーやハイパーループ(真空チューブの中をカプセル型乗車物が高速に移動する乗り物で、現在は実験開発中)に関しても、あまり知らない。
よって、私は、未来の鉄道やモノレールを細かく想像することは、あまり出来ないと思う。
しかし、夢で見た、その未来モノレールは隅々まで明瞭でリアルだった。

つまり、我々の世界には存在しなくても、別の世界では、上で述べた未来モノレールが存在する世界もあるのだと思う。
そうであれば、そんなモノレールを仮想的に作り出すプログラムが存在し、目覚めている時の現実世界では、そのプログラムはロードされないが、夢の中の世界ではロードされることもあるのだろう。
インドの聖者、ラマナ・マハルシも言っていたらしいが、目覚めの世界も夢の世界も、実際は、同じなのである。
有名な推理作家の江戸川乱歩は、夢の世界こそが現実で、昼の世界の方が幻想なのだと常に言っていたらしいが、もしかしたら、そういうものかもしれない。有名な宇宙人バシャールも、同じように言っていたと思う。

夢の中では、より自由に、多様な「事象プログラム」をロード出来るということは考えられる。
何と言っても、現実世界より夢の世界の方がダイナミックで型破りなことが起こるからね。
例えば、現実世界では、学校や会社のマドンナ程度でも、なかなか付き合えないが、夢の世界では、憧れのスターとだって付き合えても不思議はない。
しかし、夢の世界がぱっとしない人も多いだろう。
そんな人はきっと、現実世界で、想像力を閉じ込める癖をつけ過ぎて、夢の中も小さくまとまってしまっているのだろう。
では、夢の中で、シュール(超現実的)で面白い事柄のプログラムを呼び出す精神性を得るにはどうすれば良いかというと、もちろん、真言を唱えることによってだ。
なんと言っても、優れた真言は、心の奥の潜在意識のさらに奥の、超意識とか純粋意識と呼ばれる領域か、その近くにあり、様々な事象プログラムを起動させる何らかのキーになっていると考えられるのである。その根拠は示し難いが、この論に、それほどの矛盾もないと思う。
よって、普段から真言を熱心に唱えていれば、不思議な夢や、もしかしたら、予知夢のようなものも見るようになるし、眠っている時の夢だけでなく、目覚めている時でも、一瞬、無意識になった時に、不思議な世界がやって来たり、不思議なことが起こったりするのである。
こういったことは、昔から神秘家の間で「幻視体験」と呼ばれ、「20世紀最大の詩人」とも言われたアイルランドのW.B.イェイツはそれに深い関心を持ち、熱心に探求していた。
また、イェイツが所属した魔法結社では、そのような仕組みがある程度、教えられていたのかもしれない。
デカルト、ニュートン、ゲーテらも、そのような研究をしていたようであった。

夢の世界だけでなく、目覚めている時にも、意識の状態を変えることで、特殊な世界プログラムを呼び出すことが出来、これこそが魔法の原理なのである。
難しいことはともかく、あなたも、熱心に真言を唱えていれば、そんなことが出来るようになるだろう。
仏教の経典に書かれていることも、このことのように思うのである。








仏典が正しい不思議な理由

この世界が、宇宙人か高次元生命体かは分からないが、そんな者達のコンピューター(のようなもの)が作り出す仮想現実世界であるシミュレーテッド・リアリティであるとする。
実際にそうなのだが、信じられない場合は、まあ、仮の話としておいて欲しい。
そして、以下は、この仮想世界の仕組みに関わることで、公言することは禁忌(道徳的、科学技術的に禁止されていること)であったのだが、もう分かることなので、バラしてしまう(笑)。
尚、芸術家や哲学者の中には、科学技術が分からなくても、知っていた者は、昔からいた。

仏教の経典、つまり、仏典について考えてみる。
仏典に書かれていることは正しいだろうか?
だが、その質問はおかしいのだ。
仏典は正しいに決まっていて、間違っているはずがない。
なぜだろうか?
ちょっと変なことを言うが、
「仏典に書かれているから正しい」
のではない。
「正しいから仏典に書かれている」
のだ。
もう少し、世間的な言い方をすれば、
「あなたが読んだから正しい」
のである。いや、あまり世間的に感じないかもしれないが・・・
仏典は、あなたが読むまで正しくなかった・・・と言うより、あなたが読むまで、何も書かれていなかったのだ。
これが、仏典に関する、この仮想世界のルールである。

サルトルが言ったことを引用するなら、
「本を読むとは、本を書くこと」
であり、あなたが読む時に、あなたが一瞬で書くのである。
同じく、絵は、見る時に、あなたが一瞬で描くのであり、あなたが音楽を聴く時に、あなたは一瞬で音楽を創造するのだ。

我々は、脳機能の制約により、自分の外に世界があると思っているが、全ては内側にあるのである。
その中で、あなたは、仏教以外の大抵の聖典には、虚偽を含ませて再現するが、仏典に関しては、正しいことしか再現出来ない取り決めがある。
もっとも、虚偽があると言っても、虚偽の因子もあなたの脳の中にあり、虚偽だから値打ちがないというのではなく、何らかの意味があるのである。
だが、仏典には嘘がない。
もちろん、仏典だって、読めば荒唐無稽に思えたり、作り話に思える部分もあるだろうが、それも含めて、今、あなたが、正しいこととして書いたのであり、実際、正しい。
もし、作り話に思えるなら、こう考えると良い。
「私は今、なぜ、作り話のようなことを書いたのか?」
参考に言うと、聖書の場合は、少し違った考え方の方が合っている。
それは、こうである。
「私はかつて、どんな意味でこれを書いたのか?」
つまり、聖書は、自分を過去に引き戻す作用がある。
一方、仏典は、現状である。
しかし、実際には、時間は幻想のようなもので、実際には存在しないし、仏典とその他の聖典の違いについても、どうせ理屈では分からないので、あまり気にしない方が良いかもしれない。

そして、仏典である華厳経にも法華経にも観無量寿経(浄土三部経の1つ)にも、仏の名を呼べと書いてある。
つまり、あなたが今、そう書いたのだ。
主には、阿弥陀如来と観世音菩薩の名だ。
よって、それらの仏・菩薩の名を呼べば、この世界で自由自在である。
そんな仕組みなのだ。
江戸時代の無学な念仏者達は、それを夢か宇宙人に教えてもらい、この上ない自由を得た。

仏や菩薩の名について述べる。
「アミターバ(阿弥陀如来)」と呼ぶか、敬いの気持ちを込めて「南無阿弥陀仏」と呼んでも良い。
「アヴァローキテーシュヴァラ(観世音菩薩)」と呼ぶか、敬いの気持ちを込めて「南無観世音菩薩」と呼んでも良い。
そして、仏典が正しいのだから、そこに出てくる仏の真言を唱えると、仏典に書かれた利益は確実である。
そのようなわけで、科学的に言っても、真言を唱えることを勧めるのである。
阿弥陀如来の真言は「オン、アミリタ、テイセイ、カラウン」であり、観世音菩薩の真言は「オン、アロリキャ、ソワカ」である。
その他の、仏、菩薩、明王などの真言も全て良く、書籍やWebサイトに載っているので、どれを唱えても効果は同じである。
上下、優劣、一切ない。

今回の話の理屈が分かれば幸いであるが、別に分からなくても問題ない。
ただ、これが正しいのである。
理解したい場合、エマーソンのエッセイ『歴史』『自己信頼』(『精神について』に収録)が参考になると思う。また、引き寄せ関連の本は、真理そのものではなくても、真理の周辺のことを書いている場合がある。まあ、だから混乱するのであるから、あくまで参考にすると良いのではと思う。












般若心経を怒られるほど簡単に

般若心経という260文字(中国語翻訳版)ほどの短いお経を、名前くらいは聞いたことがあるかもしれない。
短いながら、非常に優れたものだと言われ、宗派に関係なく唱えられている。
ところが、その内容の解釈に関しては、多くの専門家が非常に難しいことを言い、挙句、「俺の解釈が正しい。他の者は間違っている」といった主張や争いも見られる。

だが、般若心経に書かれていることは、簡単な3つのことだ。

(1)あらゆるものに実体はない
(2)(1)を見抜いた観自在菩薩は人間を超えた
(3)(2)をなすために観自在菩薩は呪文を唱えた

尚、観自在菩薩は観世音菩薩と同じで、観音様と言われる有名な菩薩様だ。
(1)のあらゆるものに実体はないというのは、今流に言えば、この世界は、シミュレーテッド・リアリティ(コンピューターが作った仮想世界)だということだ。
つまり、リアルな三次元バーチャルゲームの世界のようなもので、『マトリックス』や『ソードアート・オンライン』みたいな世界である。
あるいは、夢と同じだと思えば良い。
だから、「悩んだって仕方がない」「考えたって仕方がない」ということを、クドクド書いているだけで、原文はもっと気楽なことを書いているんじゃないかと思う。だから、別に分からなくていいので、読み流せば良いと思う。
そもそも、読んで理解出来ることではなく、観世音菩薩同様、呪文を唱えれば誰でも分かると言っているのである。
よって、ここに書かれた真言である呪文を唱えれば良い。
その呪文は、中国語への音写では、
「ぎゃてい、ぎゃてい、はらぎゃてい、はらそうぎゃてい、ぼうじそわか」
で、元のサンスクリット語では、
「ガテー、ガテー、パーラガテー、パーラサンガテー、ボーディ、スヴァーハー」
であるが、ネイティブが発音したら(サンスクリット語がネイティブの人は今はいないと思うが)、ひょっとしたら中国語版の方が近いかもしれず、別にどっちでも、好きな方を唱えれば良い。

だから、般若心経を現代的に言えばこうである。

この世界は仮想現実世界であって実体はなく、夢と変わらない。
観自在菩薩は呪文を唱えることでそれを見抜き、人間を超え世界の支配者になった。
あなたも呪文を唱えればそうなれる
その呪文は、
「ガテー、ガテー、パーラガテー、パーラサンガテー、ボーディ、スヴァーハー」
である。

そんなわけで、あなたも、この真言である呪文を唱えれば、この仮想世界を自在に支配出来る。
この世界(というかあなたの人生)の一応のシナリオは用意されているが、気に入らないなら変えれば良い。
ただ、真言は、心の中で、丁寧に穏やかに、出来るだけ多く唱えなければならない。
この真言は、唱え易い言葉で作られているのでお勧めであるが、真言は他にも沢山あり、自分の好きなものを選べば良い。
真言に上下優劣などない。

これが般若心経の本意である・・・と言ったら怒られるかもしれないが、他に考えられないのである。
よって、とにかく、真言を唱えるべきと思う。
「俺は1万回唱えたぞ」などと下らないことを言わず、ただ唱えれば良い。

尚、下にご紹介したSF小説『ヴィーナシアンの花嫁』は、元々Web小説ながら、学識ある著者がシミュレーテッド・リアリティなどを面白く描いた作品で、可愛い女の子も沢山登場する、私が好きな小説だ。これで、世界の有り様が楽しく分かると思う。








運命に乗って悠々と生きる ※今回の情報は特に純度が高く上質

この世界が、映画『マトリクス』や、小説・アニメ『ソードアート・オンライン』のような、作り物の幻のような世界であることは間違いない。
科学的には、こんな世界をシミュレーテッド・リアリティと言い、おそらく、超高度なコンピューターが作り出している見かけ上の世界である。
なぜ、この世界がシミュレーテッド・リアリティであるかというと、私の場合、あり得ない奇跡的な偶然が、あまりに頻繁に起こっているのを見続けて、いくら何でも気付かざるを得なかった。
書籍『マスターの教え』で、「本当は誰でも、そんなこと(奇跡的な偶然など)が度々起こっているはず」とあった通り、私以外の誰でも、同じようなものを見たり、体験しているのだと思う。だが、この本でマスターが言う通り、それを忘れてしまう人が多いのだ。

そして、人生とか運命の大枠は、初めから決められていると思って間違いない。
当たる占いはやはり当たるし、占うまでもなく、具体的にというのではないが、あらゆる人間の運命の雰囲気は、だいたい感じるのである。簡単に言えば、特別な運命か、平凡な運命かというものである。
名前や、あるいは、生年月日が同じでも、全く同じ運命になるわけではないが、そんな人間同士は、性質的にはどこか似ていたり、運命の傾向も似ていると思える。
そして、より良い人生・・・苦痛が少なく、楽しい人生にするには、あらかじめ用意された運命に逆らわず、運命の波に乗ることが一番だろう。
とりあえずはサラリーマンになる運命にあれば、スポーツ選手や歌手になろうとせず、サラリーマンになるのが良いのである。
逆に、サラリーマンになることを、どうしても心が納得せず、ミュージシャンになるのが自然に思えるなら、ミュージシャンを目指すべきだろう。
ただし、本当にそれを自然に感じる場合だけで、そうであるなら、困難なはずのミュージシャンへの道にも、不思議な自信があって、それほど不安は感じないと思う。
私が、成功した社長達に、「独立の際、不安がなかったか?」と聞いた時も、全員が「ノー」と答えたのであるが、それと同じだ。
ミュージシャンになる運命であるなら、どれほど長時間、演奏をしても歌っても疲れないし、自分の演奏や歌が受けても受けなくても、平気でいられると思う。
何より、演奏したり歌ったりが楽しくて仕方がないはずだ。
ある世界的ミュージシャンがこう言っていた。
「街角でハーモニカを吹いてさえいれば満足出来る人間じゃなきゃ、ミュージシャンになんかなれないのさ」

では、どうすればうまく運命の波に乗れるかというと、「発想即行動」で、あまり頭であれこれ考えないことだ。
もっとも、「酒が飲みたいと思うから、即、飲む」とか「こいつが気に入らないから、即、殴る」というのは、自己コントロールを失ってしまっているだけで、もうかなりヤバいのである(笑)。
だから、気の毒なのは、自己コントロール(自己制約)が出来ない親に育てられた子供だ。
まあ、そんな親に育てられるのも、あらかじめ決められた運命なのであり、そんな子供が、自分を厳しく律することを覚えれば、偉大な人間になる可能性が高い。
しかし、そうでなければ(その子供が自分を律しないままでいれば)、ロクでもない親に育てられたらロクでもない人間になるというだけのことである。まあ、そんな子供でも、それなりの人間に出会い、自分を考え直す機会は必ず与えられるので、そのチャンスを生かすことが出来るかどうかで運命は決まる。

宗教とか芸術は、自分の運命を感じる感性を磨くために生まれた。
もっと詳しく言えば、まず、宗教が出来たが、宗教は、形骸化・権威化し易く、そんな宗教では、人間の深い感性を高めることは出来ない。そこで、宗教から芸術が生まれ、今度は、芸術が人間の感性を高める役割を果たしている。
まあ、その芸術も、かなり、形骸化・権威化しているので、気を付けるべきであるが・・・
そこで、形骸化・権威化していない宗教を信仰するか、優れた芸術に親しむことは大切・・・というか、ぶっちゃけ「お得」なのである(笑)。
それで、自分の運命を見極め、それに逆らわずに生きることが出来、結果、楽しい人生を送れるのだからだ。
また、真摯にやるなら、占いも良いと思う。
私の場合、阿弥陀真言を唱えている時期の運が非常に良いのも頷けるので、今後は、熱心に唱えようと思う。
興味があれば、皆さんも、自分の干支の十三仏の真言を唱えると良い。「十三仏」で検索して、自分の守本尊を知り、さらにその仏・菩薩名で検索して、その真言を知ると良い。








魔法使いになれるヤバい話

事業家で世界一の富豪イーロン・マスクは、この世界はシミュレーテッド・リアリティという、いわばコンピューターが作り出した仮想世界であると断言しているそうだ。
ところで、私は、7歳くらいの時と思うが、それを直観的に見抜いていた。
もちろん、当時は、仮想世界なんて考え方はしなかったが、とにかく、この世界が「作り物」であることは薄々気付いていた。
別に私が特別なのではなく、子供が喋ることを注意深く聞いていたら、子供にはそんなことは分かっているのだと思う。
例えば、子供は、家の中の物・・・例えば、時計やテレビや人形が、前はこんなじゃなかったと言うことがあるが、大人は、それは単なる子供の気のせいとしか思わない。
だが、実際に、それらの物が、子供が言う通り、微妙に、あるいは、全く違うものに変わっているのかもしれない。
いや、実は、我々だって、今見ている物は以前見たものと違うのかもしれないが、それに気付かない、あるいは、気付いてはいるが無視しているだけかもしれない。

世界が作り物だということを確認する実験は意外と簡単である。
何でもいいが、平凡な物(平凡と感じる物)で、動かない物の方がやり易いかもしれない。
実際は、特殊な物や動く物でも構わないが、特に最初は、ありふれていて、静止している物の方が良いと思う。
私は、7歳の時、意識的にやった実験では、ドアノブ(銀色の金属製で丸いドアノブ)を使ったことを憶えている。
そのドアノブをじっと見るのだが、集中して見るというのではなく、さりげなく、しかし、視線は動かさずに見る。
そして、何も考えないのだが、視線を何かに固定していると、考えないことは難しくないと思う。
それで言えば、文字が書かれていないものの方が良い。なぜなら、文字が書かれていたら、それを読むことで思考が働くからだ。
何かを、何も考えずにじっと見ていたら、すぐに、変な感じがしてくる。
私は、その感覚に夢中になった。
その物が、一瞬前には、存在していなかったという感覚・・・というより、実際、存在していなかった。
この瞬間に、それは生まれたのだ。
「世界5分前仮説」というものあるが、それは、世界は5分前に生まれたのかもしれないというものだ。
5分より前の世界の記憶はあるが、その記憶は心の中に現れる偽物だ。
そして世界は、5分前どころか、今この瞬間に生まれていて、記憶もまた、今この瞬間に「捏造」されているのだ。

この実験は、そこそこにやった方が良い。
世界が瞬間に生まれていることを意識すると奇妙に感じるのは、ひょっとしたら、世界のこの有り様に対し、脳のキャパシティが追いつかないのかもしれない。
そうであるなら、あまり続けて、脳の情報処理にエラーを生じさせ続けたら、深刻なトラブルに陥ってしまうかもしれない。
実際、これを長くやると、吐き気を感じる。
サルトルの有名な小説『嘔吐』は、フランス語の原題を直訳すれば「吐き気」になるらしいが、サルトルは、そんなことを自分の世界全体に見ようとしていたのかもしれない。
そんなことをすれば、いかに優秀なサルトルの頭脳を持ってしても、狂気に陥るはずだ。

ただ、この感覚を掴み、少しの意思を潜り込ませれば、世界を自由に構築出来る。
どうやるかというと・・・って、こんなこと、こんな気楽にバラして良いものかと悩まないでもないが、少し練習は必要なこともあるし、慣れれば、そんなに面白くもないから、とりあえず書いてみよう。
何かをさりげなく、考えずにじっと見る時、その物の存在があやふやになるが、その物を存続させることに執着しないことだ。
つまり、それがないならないで良いとするのだ。
そして、存在するのは、その物ではなく、見ている自分の意思であるという単純な事実を思い出すのだ。
つまり、世界は自分の意識が作っているのである。
それなら、世界を好きなように作れる可能性があることが了解出来るだろう。
だが、心には、何かロックがかかっている。
そのロックを外すことが出来れば、もう魔法使いになったも同然である。
そして、魔法使いになっても支障のない精神力を持てば、実際にロックは外れる。
おそらく、本物の魔法結社なんてのは、魔法使いに相応しい精神力を作るノウハウを持っているのである。








プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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