ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

シミュレーション仮説

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

マッチ売りの少女はパラレルワールドに移動していた

無限の、想像可能なあらゆる世界(宇宙)が存在するというパラレルワールド(並行宇宙)理論は、世界はコンピューターが作っているVR(仮想世界)であるというシミュレーション仮説と共に、それが現実であると考えられるようになってきていると思う。
ただ、この両者を結びつける理論がまだないのだが、相対性理論と量子力学という、それぞれは正しくても、この両者を結び付るのが難しいように、どちらも正しいということは十分にあり得ると思う。

引き寄せは、パラレルワールドとシミュレーション仮説のいずれかと共に語られることが多くなってきたが、それは壮大なお話になると共に、壮大過ぎてファンタジーっぽくもなっているのだと思う。
だが、ファンタジーこそが本当だというのが、昔から賢者によってよく言われてきたことでもある。

人間の望みは、健康であること、美しいこと、愛されること、敬われること、多くを所有すること、そして、好みの男性や女性と共に親しくあることで、それらによって、安心と満足を得ることで幸福を感じる。
だが、理屈ではなく、感じることで、この世界の有り様を知ってしまった者は、一切が不要になる。
とはいえ、その前に、あらゆる良いことが自動で起こるということを体験する場合が多い。
それは、なんらかのきっかけで起こる。
精神医学者のデヴィッド.R.ホーキンズ博士の場合、少年時代に凍え死にしかけた時に分かってしまったという。
マッチ売りの少女は、マッチを一回擦る度にパラレルワールドに移行したが、彼女には欠けたものがあったため、元の世界に引き戻された。
アンデルセンは、彼女が見たものは、ただの幻想ではないことを強調したのだが、アンデルセンも、このお話を絵本にした人も、それが何であるかを表現することが出来なかったので、このお話は、単なる白昼夢とされている。

我々は、無限のパラレルワールドに同時に存在するが、この世界にリアリティを感じているので、この世界が現実で、他のパラレルワールドを空想、あるいは、想像世界と見なしている。
自分がとんでもない大富豪である世界もあるのに、あまり豊かとは言えないこの世界にリアリティを感じているので、こちらが現実になっているのだ。

根本的には、「この世界は幻のようなものだな」と分かった時に、無意識的に好きな世界にリアリティを感じるようになり、表向きには、何をやってもうまくいくし、何もしなくても幸運に恵まれる。
たとえば、宇宙飛行士が宇宙から地球を見た時に感じる幻想感は半端ないので、パラレルワールド移行を普通にやるようになり、ほとんどの宇宙飛行士は、地球に帰って来た時には別人になっていると言われる。
ただ、宇宙飛行士はうまくいく条件が出来ている。
彼らは非常に個性派揃いなのだ。
そりゃ、よほどの変人でない限り、狭いカプセルに閉じ込められて宇宙に行こうなんて思わないからね(笑)。
一方、酒やドラッグに溺れて、この世界が幻だと一瞬分かっても、そうなる人間には本物の個性がないので、すぐに帰って来る。与太者扱いされる世界にね。
だから、あなたは世間に拒否されるほど個性を磨かないといけない。
岡本太郎が、「嫌われたっていいじゃないか。いや、嫌われないといけない」と言ったようにね。








人生はやはり芝居だ

人生は芝居のようなものだ。
つまり、台本があって、それに沿って展開される1つの劇なのである。
・・・などということが分かったからといって、何か良いことがあるだろうか?
人生が劇だということが分かって、良くなることとしては、不安がなくなるということだ。
劇の中で殺されたって、実際に死ぬわけではないし、膨大な借金を背負う役だからといって、実際に負債を抱えるわけではない。
しかし、良い役者は、ある程度は、劇の内容に感情移入するものだし、役者だって、多少の不安があった方が面白いかもしれない。
とはいえ、アイルランドの詩人W.B.イェイツが『ラピス・ラズリ』という名高い詩で述べているように、「主役を演じるほどの役者は、劇の途中で泣いたりしない」のであり、過度の感情を持ってはならないのだろう。

そもそも、普通の人は、人生が仕組まれた芝居だということに気が付いてすらいない。
それなのに、ここでバラして良いものかというと、ここでバラされるのが台本であるのだから良いのである。
とはいえ、時々私も、人生が劇であることを忘れ勝ちだ。
まあ、私が、人生が劇であることに最初に気付いたのは小学4年生の時だったが、死の直前に気付く人も少なくない。
というのは、死の直前が気付き易いのだ。
大河ドラマ史上、視聴率1位の『独眼竜政宗』では、伊達政宗は、死の間際に「人生は夢でござる」と言うのだから。大河ドラマに関して言えば、政宗も死の直前に理解したことになる。いや、薄々とは気付いていたのかもしれないが。
ベートヴェンは、死に際に、「拍手を。喜劇は終わった」と、自分の人生は喜劇であったと言っているが、彼の場合、それにいつ気付いたのかは分からない。

今朝の夢の中で、人生が劇であることを思い出させてくれることがあった。
劇ではなく、映画の役者になる夢だったが、撮影機材、撮影スタッフなどは一切見当たらない。
ある建物(スーパーだったか…)の2階に階段で上がろうとすると、2階から数人の男性が下りて来て「宇宙人が来た」と言う(もそっとマシなところから来い…)。
宇宙人だからといって怖がる道理もないが、怖がらないといけないことが「分かってしまった」。
侵略しに来た宇宙人という設定なのだろう。
実際、少しだが不安になった。
さて、宇宙人は10人ほどの、見かけは全く人間で、リーダー格の宇宙人は40代くらいの、雰囲気としては国会議員みたいな自信たっぷりの女性だった。
細かい展開は省くが、私は、別にウルトラマンに変身するのでもなく、そのリーダー格の女性宇宙人と戦うことになる。
しかし、私はただの人間で、あちらは、超能力を持っていて、ご存じなら、『シン・ウルトラマン』のザラブあたりを思い出してもらうと良い。
それで、その宇宙人は、手に持った短い棒のようなものを振れば、何でも(多分)切断してしまえる。
これはヤバいと思い、私は長いレンチのようなもので打ちかかるが(乱暴だなあ)、宇宙人は、その短い棒で、レンチを軽く弾く(レンチは切られなかったが)。
私は、これが映画だと、一切聞かされておらず、少しは怖いのだが、やはり、なぜか、「これは映画だ」という確信があり、本当に恐怖しているわけではなかった。
人生もまた、この程度の緊張感が良いのかもしれない。

人生を劇や映画にたとえれば、我々は役者であると共に、監督や脚本家でもある。
それは丁度、漫画や小説の作者は、小説の中の登場人物に自分を投影させるようなものである。
作者は、どんなモブキャラ(端役)でも、登場している間は、自分をそのキャラの立場に立たせるものだが、我々は、主役か主役クラスで、作者は登場人物になり切る。
我々も、劇や映画や小説や漫画の登場人物になり切った、監督、脚本家、小説家、漫画家なのである。
役者は、自分の役柄を考えると、少しは怖いと感じるかもしれないが、監督が怖がるはずがない。
だから、我々は、実体である監督の目線に立てば、少しも怖くないし、また、ストーリーを動かす権限もある。
可愛いあの子は、別の登場人物の彼女になる予定だったが、そこは切り替えて、自分の彼女になるよう決めれば、それで決定である。

あなたも早く、自分が、映画の登場人物で、監督でもあると気付くべきである。
もちろん、小説や漫画の登場人物で、作者でもあるというのでも良い。
どうすれば、それに気付けるかというと、意識的に「これは映画」「これは劇」「これは漫画」「これはアニメ」などと思うと良い。
そろそろ、イケメンの彼氏や天使のような美少女の彼女でも登場させると良いし、なぜか分からないが、お金がザックザクと入ってくるようなストーリーにしても良いだろう。
漫画の『めだかボックス』が、主役達が、自分は漫画の中の登場人物だと気付いているような雰囲気があったと思う。
面白い作品だったが、原作者の西尾維新の作品は、いつも、長編になると面白くなくなってくるので、途中から読んでいないが。
いや、長くなっても面白いのだが、作品を壊すのが怖いのか、流れに大きな変化がなく、飽きてしまうのかもしれない。








引き寄せは科学になってきた

子供の時から、何度も聞かれ、答えてきた・・・いや、答えさせられた質問がある。
「将来の夢は?」
「今、興味があることは?」
「(様々な期間、例えば、今年とか中学校等)の目標は?」
これらは、世間というちっぽけな枠でしかものを考えられないようにするための洗脳や思想統制であった。
こう言ったら、「なんでだよ!」と怒り出す人や不快に感じる人も多い(それが圧倒的多数かもしれない)が、そういった人達は、うまく洗脳された人達なので、相手にしようがない。
ポイントは、これらの質問に対し、先生やクラスメイトや同僚等といった他人に話さなければならなかったことだ。その際、「なるほど」と納得してもらえる回答でないと許されない。
だから、規格を外れたスケールの大きな夢や目標は持てなくなる。
まあ、賢い人は、そんな時に「1人で静かに暮らす」「放浪する」などの、「変わってるなー」と(大抵は蔑まれて)笑われる程度の回答でお茶を濁しておくのである。
こういった話は、アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリの『星の王子さま』の冒頭の話に似ている。
要は、子供は、世間の大人のようになることを強要されるのである。

昔だと、大きく考えることが出来る者は「今、興味があることは?」と聞かれたら、回答に困るか「別に何も」と言うしかなかったが、今は、子供の時でも、「シミュレーション仮説」とか「パラレルワールド」と答えることが出来るわけである。
まあ、私の場合は、似た意味で、タイムトラベルと答ていたかもしれないが、学校の時のことは意図的に忘れている(笑)。

今は、漫画でも、ライトノベルでも、アニメでも、異世界を扱ったものが多く、これが「シミュレーション仮説」や「パラレルワールド」と共通するところが多いので、これらについて理解している者が多くなった。だが、まだやはり少数派だ。
私の場合は、筒井康隆さんの短編のSF『果てしなき多元宇宙』(角川文庫の『時をかける少女』に収録)で、パラレルワールドの概念を知ったが、だいたい、これくらいで十分と思う。

シミュレーション仮説は、この世界がコンピューターゲームのようなVR(仮想世界)であるというものだ。
これに関しては、まだ証明されてはおらず、シミュレーション仮説が正しいと確定してはいないが、よく知られているところでは、世界一の大富豪イーロン・マスク(最近2位になったらしいが、小差であり、すぐ返り咲くだろう)や、イギリスの天才哲学者ニック・ボストロムらが、シミュレーション仮説が正しいことを断言・・・と言うか、極めて可能性が高いとしている。
パラレルワールド(並行宇宙)論とは、この世界と同じような世界が無限に存在するというもので、この世界では、今、あなたは青い色の服を着ているが、ある世界では赤い色の服を着ているといった些細な違いである場合もあるが、この世界では平凡なサラリーマンが、世界的なプロスポーツ選手であるような世界もある。いかなる世界でも存在し、新たに想像すれば、新しい世界が即座に生まれる。

この2つを合わせて考えると面白いのだが、あまりに壮大で、当分無理かもしれない。
丁度、物理学で、相対性理論と量子力学という、それぞれでは完璧な理論があっても、両方をつなぐ理論を作ることが難しいのに似ている。

シミュレーション仮説は、一応、コンピューター科学や数学の分野であるが、物理学、さらには、生物学や天文学、そして、あらゆる領域を巻き込む。
そりゃそうだ。あらゆる領域をシミュレートしているのだからだ。
パラレルワールドに関しては、量子力学の分野であり、証明はされていないまでも、かなりの説明は出来ていて、研究者の中にも賛同者は多い。
まあ、賛同の意味もいろいろではあるのだが。

そして、引き寄せというのは、シミュレーション仮説やパラレルワールドに深く関係し、いずれでも説明することが出来る。
両方合わせて説明するのは、普通の頭脳の人には複雑過ぎるので、良いやり方ではない。
そこで、シミュレーション仮説で言えば、この世界はコンピューターゲームみたいなものなのであるから、根本的には、どんな世界でも作ることが出来る。
丁度、漫画家や小説家が、どんな作品世界でも作れるようなものだ。
引き寄せとは、いわば、漫画や小説の中の登場人物が、自分がいる世界を自由にしようとするようなものだ。
そこで、登場人物が、「あ、俺って作者なんだ」と気付けば、それが可能になる。
この世的に言えば、自分が神であると知るようなものである。
まずは、自分を、漫画や小説の登場人物だと思うと良い。
たとえば、この作品では、あなたは男で、身近に可愛い女の子がいて、彼女をなんとかしたいと思う。
それなら、作者の視点に立ち、幸運なハプニングが起こって、あれよあれよと言う間に彼女とうまくいく・・・という展開にすれば良い。
ああ・・・具体的にどんな流れになるかは作者(神)にまかせてね。だって、作品全体の整合性みたいなものがあるので、1登場人物の視点だけではいけないので。
要は、作者(神)と、どうやって仲良くなるかだけの問題だ。
長くなったので、午後の記事に続く。








夢と現実を支配する簡単な練習方法

トップレベルの頭脳の持ち主達が、この世界も夢の世界も、コンピューターが作ったVR(仮想現実)世界であると断言するようになってきた。
もし、それが事実だとしても、そうであることは万全に隠されているが、時折、世界がVRであることがバレてしまうような出来事が起こる。それは、あなたも、一度や二度は見たことがあるかもしれない。
昨日も書いたが、私や、量子物理学者のフレッド・アラン・ウルフは、幼い時に、テレポーテーションを明確に体験している。無論、それは錯覚とか、記憶の改ざん現象であるかもしれないが、私の場合は、自分では憶えていないが、周囲の者が教えてくれたのである。

こんな話もある。
ある少女は、草を踏みつぶさずに、その上に乗れるという(M.M.ベインの『解脱の真理』か『神癒の原理』のいずれかにあったと思う)。
どのようにやるのかというと、ただ、「乗せて下さい」と思うのだそうだ。
そこらに、この世界というVR世界の設定を変更する鍵がありそうである。
なぜ、そんな「ほころび」とも言える、世界の設定を変える方法があるのかは分からないが、それが、この世界の製作者のミスではないと思えることがある。
つまり、意図的に、世界の設定を変更出来る者が大勢いる場合だ。
『ヒマラヤ聖者の生活探求』では、流れの速い、広くて深い川の上を歩いて渡る人々の話があるが、その人々は、それを見て驚くアメリカの人達に対し、「一緒にやりませんか?あなたにも出来ますよ」と誘ってきたらしい(アメリカ人達は、恐ろしくて断った)。
私は、草とか水の上に乗ったことはないが、空中に浮き上がるということは普通にやっていたと思う。
たとえば、階段のとんでもない高い段に飛び上がったりであるが、よほど仲の良い子供にしか見せなかった。
しかし、走り高跳びで活用していて、特に運動が出来るわけでもない私が、走り高跳びで失敗したことは一度もなかった。ただ、他の子がついてこれなかったので、あまり高く飛んだことはない。
だが、浮き上がる方法を忘れたのは、中学1年生の時だ。
しかし、それは、わけあって意図的に封印したような気がし、やろうと思えば出来るのだと思う。

夢の中では、常に、世界の標準設定を変えることを試みると良い。
たとえば、空を飛ぶとか、サイコキネシス(念動力)を使うとかである。
夢の中でそういったことが自在になれば、この世界でも、かなりのことが出来、引き寄せなんかも楽に出来ると思う。
私は昨日、寝落ちした時に、半覚醒の状態で、現実世界を意識しつつ、夢を見ていることに気付いていた。
私は、剣を出そうとした。
すぐには出てこなかったが、やがて、日本刀のような剣が現れ、その柄(つか。ナイフでいうハンドル)を握っていた。
さて、ちゃんと切れるだろうかと思った。
目の前に白い壁があって、切っても問題なさそうなので、剣を突き立てて刃の方向に動かしたら、切るというより、壁が崩れた。
では・・・と思うと、目の前にベッドであったので、その中央あたりを横に切ったら、見事に切れた。
これは良いと思い、もっと大物を切りたくなった。
大きな窓があったので、それを開けると、右の方と左の方の、いずれも遠くに、レーザー光線の放射装置が見える。
これは良い。高出力レーザーを切るのかと思うとワクワクし、やる気十分だった。
見れば、持っている剣は、美しく輝いている。
その後の記憶がないが、何かとんでもないことをやらかしたのだろう。

普段から、思考を止める練習をしておけば、夢の中でこんなことが簡単に出来る。
そして、本当は、夢でも現実でも同じなのだ。
思考を止める練習とは、例えば、呼吸をゆっくりにして、呼吸の回数を減らすとか、非常に微かな呼吸をする。
あるいは、今に集中する。
あるいは、丁寧にマントラ(真言)や念仏を繰り返すなどの方法がある。








世界の創造主に愛されるには

この世界が漫画で、自分が漫画のキャラクターだと考えると、私の知る範囲の哲学、思想、宗教、科学、その他のあらゆることに説明が出来てしまうことが分かった。
これは驚くべきことだ。
作者は神であり、主要な登場人物は、作者と意識を共有する、あるいは、作者の意識の一部を持つ。
モブキャラ(群衆キャラ、背景キャラ)は意識を持たないが、自分が意識を持っていることを自覚出来るなら、モブキャラではない。
また、主要な敵キャラには、作者の変質された部分の意識を持つことが多いが、その意識が、大きく、強くなることもある。いわゆる、「偉大な敵」である。

さて、今回は、主要キャラである我々が、この漫画の世界で幸福になる・・・願いが叶い、自己実現し、人生に満足する方法について述べる。
漫画のメインキャラが不幸な結末に終わることはなく、もし、そうなった(バッド・エンドになった)と思われる場合でも、メインキャラの魂は救われ、少なくとも楽しんでいる。
キャラクターの死亡、あるいは、作品の終了と共に、キャラクターの意識は消えるのであるが、それは、単に、作者の意識の中に吸収されるだけである(それを恐れるのは勘違いであるが、ここでは説明しない)。
そして、漫画の読み手が現れた時に、別次元でキャラクターの意識が生まれるのである。
読み手が途中で読むのを止めたり、途中から読み始めても同じことである。漫画の一部は全体である・・・一部が全体で、全体が一部であるホログラム構造になっている。
まあ、細かいことは考えなくても良い。
要は、どうすれば、ハッピーでいられるかだ。
それには、神に愛される者がハッピーであるように、作者に愛されるキャラがハッピーである。
作者が、そのキャラを好きなことは、読んでいれば分かるだろう。
不屈の心を持ち、信念があり、自分の正義を貫く・・・まあ、なかなかそれを完全には出来ないが、それをやろうとする。
そして、その根本にあるのは、「魂の声を聞く」ということである。
魂の声を聞いていれば、不安はない。
だから、主役級のキャラは、言い訳をしないし、泣き言を言わないし、欲張らない。

ただ、言葉で書けば、あまりに「ご立派なキャラ」でついていけないと思うかもしれない。
だが、作者は、弱いキャラを慈しみ、守ってやりたいのだ。神が人間に対して、この上なく慈悲深いように。

手近治虫の『マグマ大使』という古い漫画がある。
地球を作った、神にも等しい存在であるアースは、ロケット人という、人間とロケットの合(あい)の子(混血。中間)の夫婦である、マグマ(男性)とモル(女性)を作った。
人間でいうところのアダムとイブだが、高度な知性と正義の心を持ち、自分の創造主であるアースを心から敬ってはいたが、自立的で独立した存在でもあった。
アースとマグマ、モルが住むところに、人間の少年である、まもる(小学校の高学年だろうか)が連れてこられた。
アースとマグマ、モルが、まもるとやり取りをし、要件が片付いた後で、マグマは「アースさま、お願いがあります」と言う。
そして、マグマは、「私は、この坊やが好きになりました」と言い、アースを驚かせる。
つまり、マグマとモルは、まもるのような子供が欲しいと言うのである。
マグマは、まもるの勇気に惚れたらしい。きっと、自分の正義を貫く勇気だ。
モルは、単にまもるを可愛いと感じたのだが、マグマが感じた勇気の部分もあるのだと思う。
そこで、アースは、まもるとそっくりのロケット人を作り、マグマとモルは大喜びし、モルはこのロケット人の子供に「ガム」と名付けた。
マグマのようなメインキャラに愛される、まもるは、作者に愛されていると言って良い。
よって、我々は、まもるをモデルにしたキャラクターになれば、作者に愛されるのである。
一方、この漫画の中には、地球侵略をたくらむ、ゴアという怪物宇宙人が登場する。
そして、ゴアもまた、主要キャラであり、作者に分け合らえられた意識がある。
いや、実は、ゴアは作者の投影ですらある。もちろん、作者の人格全体の投影ではないが、分身であることも確かだ。
読者もまた、ごく一面かもしれないが、ゴアを好きになるかもしれない。
私に関して言えば、ゴアに共感し、ゴアとの一体感を感じたので、ある意味では、作者と融合したのである。

幸福になりたいなら、作者に愛されるキャラクターになることで、どんなキャラクターになれば良いかは、いろいろな漫画作品を見れば分かって来ると思う。








プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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