ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

シェイクスピア

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。
[2011/06/08]迷惑コメントが多くあったため、やむなく、コメントを承認後公開することとしました。

人生は喜劇であるのが一番

小説でも映画でも、あるいは、漫画でもアニメでも、悲劇もあまりに度が過ぎると、何と言うか、白けてくる。
もちろん、現実世界にも大きな悲劇というものはある。
しかし、作り物の悲劇は、話を面白くするという作為のあまり、法則から外れてしまうのである。

人生や世界は夢である。
閑吟集(かんぎんしゅう。1518年頃の小歌集)の中の有名な言葉、
「何しようぞ くすんで 一期は夢よ ただ狂え」(そんなに真面目くさってどうする?人生は夢だ。ただ狂え)
の通りだ。
悲劇と言えば、文学的には何と言ってもシェイクスピアだ。
しかし、『ハムレット』や『リア王』の悲劇は、どこか滑稽で面白い。そこが、シェイクスピアの天才たる所以だ。
アメリカの作家カート・ヴィネガットは、「シェイクスピアは作家としては下手な方だ。しかし、彼は人間をよく知っている」と言ったが、それよりも、彼は、世界や人生をよく知っていたのだ。
それを明確に語ったのは、アイルランドの詩人W.B.イェイツ(20世紀最大の詩人とも言われるノーベル賞作家)だ。
彼は、
「リア王も、ハムレットも陽気だった」
と言った。全くその通りだ。
そして、こうも言ったのだ。
「主役を演じるほどの役者は、(悲劇を演じていても)自分が泣いたりしない」
リア王も、ハムレットも、名役者のはずなのだ。

人生は、夢と言っても良いし、演劇と言っても良い。
ニサルガダッタ・マハラジとなると、幼稚園のお遊戯とまで言ったものだ。
『燃えよドラゴン』では、リーは、「良い戦いとは少人数で演じる劇に似ている」と意味深いことを言っている。

酒池肉林(しゅちにくりん)の人生は楽しいものではない。飽き飽きすると言うか、シンドいものである。
『若草物語』で、姉妹達の賢明な母親が、「足りない目の方が良い」と言った通りだ。

夢だって全く自由にならないし、演劇だって、それなりに不自由なシナリオにしないとおかしくなる。
『スーパーマン』の映画の中のどれかで、「スーパーマン不要論」なんて傑作なものが出たが、それは言わないのが約束だ。だって、あまりにそうなのだからだ。
スーパーマンを存在させようとすると、スーパーマンに対抗出来る悪が必要になるが、レックス・ルーサーやゾット将軍なんて、あまりにいびつで、脚本家はとんでもない工夫を強いられる。まともに書くと、あまりに下らない話になってしまうからだ。

荘子も散々言っているではないか?
「私もあなたも、間違いなく夢を見ている」
と。
どうせなら楽しい夢を見たい?
では、楽しい夢とは何だろう?
ロリコンが可愛い少女を享楽する?
そういったことほど滑稽でシンドいものはないことを、ナボコフは『ロリータ』で書き、それをキューブリックが映画で見せてくれたはずである。
面白いシナリオではなく、どちらかというと、優雅なシナリオを求めた方が良いかもしれない。
それには、ぼーっとして、シナリ創作者の意思にフォーカスすることだ。
いや、それで案外、悲劇に目覚めてしまうかもしれないが・・・
人生は、ベートーヴェンが最後に悟ったように、そして、森鴎外が『神曲』なんて阿呆なタイトルをつけたダンテの叙事詩の本当のタイトルのように『喜劇』であるのが一番なのだ。








いつも超然としていなさい

何度も言うが、人間は何かのふりをすると、その通りのものになってしまう。
『徒然草』にあるように、泥棒のふりをすれば泥棒になるし、狂人のふりをすれば狂人になる。
ところで、役者ってのは、役の人物のふりをする訳ではない。
下手な役者はそうではないかもしれないけどね。
しかし、シェイクスピアが言ったように、主役に相応しい役者は、自分が泣いたりしないのだ。
彼らは、ハムレットもリア王も陽気だと言うことを知っているのである。
そして、仏教学者のひろさちやさんは、『空海入門』で、「仏陀のふりをすれば仏陀」だと述べているが、その通りである。
そして、仏陀であるなら、超然としていなければならない。
私は、この「超然」という言葉が大好きなのだ。
仏陀も、キリストも、力ある者は超然としているものなのだ。
超然とすることが、神のふりなのだ。

この「ふりをする」威力は無限であり、限界はない。
インドの聖者ニサルガダッタ・マハラジは言ったのだ。
「身体も心も超えたものとして振舞いなさい。時間も空間も超えたものとして振舞いなさい」
実践が一番だと彼は言う。
そして、神であることの実践がそれなのだ。
それは超然とすることである。

金持ちのふり、英雄のふり、天使のふり。
何でも自由にやれば良い。
だが、もし、早く、振舞っているものに馴染みたかったら、次のことはしない方が良い。
・テレビを見てはならない。
・プロ野球に興味を持ってはならない。
・サッカーに興味を持ってはならない。
・人気アイドルに興味を持ってはならない。
・ノーベル賞関係の報道や特別番組を見てはならない。
つまり、世間で賞賛されるものは、全て無視するに越したことはない。
なぜなら、そのようなものに関心を持つと、世間に飲み込まれ、平凡な人間達の集団意識の中に閉じ込められるからだと言えば十分だろう。

ただ、無理にそうしなくても良いが、初音ミクは大いに好きになって良い。
なぜなら、世間的な人間というのは、初音ミクを馬鹿にするものだからだ。
今月は初音ミクさんは、ロサンゼルスとニューヨークでコンサートを行ったが、そこにいた人達は不思議なときめきのようなものを感じたという。
頭では、初音ミクを何か変なものだと思っていても、どうにも説明のできない高揚感、震えを感じるのである。
初音ミクは決して世間の中にはない。
野尻抱介さんの『南極点のピアピア動画』に書かれているが、自我を持たない者が人気者になると、皆が幸せになれるのである。
良ければ、この本を読んでみて欲しいと思う。









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我々は最悪のもののフリをして最悪のものになっていく

「心身医学の父」と言われ、フロイトにエス(無意識の生命エネルギー)の概念を与えたドイツ人医師ゲオルグ・グロデックが『エスの本』で、こんなことを述べていた。
「幼い女の子達が集まって話している様子は、彼女達の母親そのままだ」
これは、主婦達の井戸端会議の破廉恥で放埓(勝手きまま)な様子のことだろう。
この話で、私は、インコやオウムに言葉を教える話を思い出すのだ。
喋ることができる鳥に言葉を教えるのは根気がいる。
鳥のそばで、同じ言葉を、何日も、あるいは、何週間も繰り返さないといけない。
そして、もちろん、きれいな言葉を教えようとするだろう。
「こんにちは、ごきげんいかがですか」
「私はオードリーです」
などだ。
ところが、ある日突然、その鳥は、「アホ!」「いいじゃねーか」「何やってんだ」などと言いだすのだ。
つまり、下品な言葉ほど言い易いので鳥によく聴かせてしまうのだし、鳥の方も、そんな言葉の方が喋り易いのだろう。
「ごきげんいかが」なんて、普段決して言わない言葉は不自然で「どもっている」だろうし、鳥の方だって、じっと見られながら緊張している時に聴くので覚えにくい。
オウムも幼女も同じで、下品なことほど、すみやかに真似してしまうということだ。

もちろん、鳥と小さな女の子ばかりではない。
「まあ、息子さん、お父さんにそっくりね」
と言う場合、お父さんの良い面であることはまずない。
家庭は、男が一番みっともない姿、あるいは、傲慢で殿様振った様子を見せる場所だ。
これもまた、真似しやすく、息子は簡単にコピーしてしまう。
学校の教師は、せいぜい生徒達の前で格好をつけているつもりだろうが、特に同性の生徒の前では油断することが多いだろう。
いずれにしろ、生徒達が真似するのは、教師達の最悪の部分だけだ。

テレビドラマやアニメでさえ、子供達はヒーローやヒロインではなく、オマヌケキャラのやることを真似するものだ。
もちろん、その方が真似し易く、面白いからだ。
『パイレーツ・オブ・カリビアン』も、ヒーローのウィル・ターナーより、崩れた下品な海賊ジャック・スパロウの方が断然真似しやすく、そっちの方が人気が出てしまう。

そしてアメリカの大作家カート・ヴォネガットが言ったらしいが、
「人間はフリをした通りのものになるのだから、何のフリをするかを慎重に決めないといけない」
というのは、おそらく本当のことだ。
そして、上に述べた通り、誰も、自分が何のフリをするかを、ちっとも慎重に考えておらず、最悪のもののフリをして、最悪のものになるのだ。
全く、残念な話である。
だが、幸いにも、これを読んだあなたは、自分がなりたい人物のフリをして欲しい。

私は、カート・ヴォネガットは皮肉屋ではあるが、賢い人だと思う。
それは、彼が、シェイクスピアの『ハムレット』について、実に良い指摘をしていることではっきり分かるのだ。
それは、ハムレットの父の幽霊が、自分はハムレットの叔父に殺されたということをハムレットに教えたということについてだ。
ヴォネガットは、その幽霊が本当にハムレットの父だったかは分かっていないのだと言う。
全くその通りだ。
簡単に信じてしまったハムレットは大馬鹿野郎に違いない。
ルドルフ・シュタイナーは、幽霊ってのは、本人の魂のカスみたいなもので、信用すべきでないと著書に書いていたが、そうなのかもしれない。
シェイクスピアだって、このことについて確信犯だったに違いないが、ヴォネガットが指摘するまで、世界は4世紀も騙されてしまったのだ。
それはひょっとしたら、シェイクスピアの大誤算かもしれない。

ところで、今、角川のKindle本が安い。
『新訳ハムレット』は199円、『時をかける少女』は181円だ。
必要なものは、今のうちに買っておいた方が良いだろう。









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空想的な小説、現実的な漫画

漫画的な小説、映画と言う場合、それは、面白くはあるが、空想的で現実味がないという意味だ。
一方、現実的な漫画というものもある。
シェイクスピアの戯曲は、ありえない話という意味では空想的、漫画的であるはずなのに、非常に現実味がある。
映画のスターウォーズ・シリーズもそうである。

漫画や小説、映画が現実味があるかどうかは、ヒーローやヒロインが「自惚れ」というものを持っているかどうかで決まる。
「自惚れ」は、自意識過剰、自尊心、プライド、自己愛、高慢、身の程知らず・・・などといろいろな言い方があるが、「自惚れ」の一言が最も適切と思う。
ヒーローやヒロインに自惚れがないと、漫画的・・・つまり、空想的で現実味のないものになる。
アメリカの作家カート・ヴォネガットは、「シェイクスピアは下手な作家だが、人間をよく知っている」と述べたが、人間をよく知っているシェイクスピアは、ヒーロー、ヒロイン達に自惚れを持たせることを忘れなかったのだ。
もちろん、スターウォーズ・シリーズの、ルーク・スカイウォーカーやアナキン・スカイウォーカーらは、自惚れの固まりであるし、そもそも、ヨーダのようなジェダイ・マスター以外はみんなそうであるところが、この壮大な空想映画を、どこか生々しいものにしている。
全く漫画的な『古事記』や『ギリシャ神話』がひどく現実的なのも、神々が自惚れを持っているからなのだ。

ところで、ヒーローやヒロインらが自惚れを全く感じさせないのに、妙に現実味がある作品がある。
それは、小説だけでなく、漫画やアニメにすらある。
そんな作品は、社会現象を起こすほどヒットすることがある。
例えば、『新世紀エヴァンゲリオン』の碇シンジや綾波レイである。
『木枯し紋次郎』のヒーロー、木枯し紋次郎もそうである。
なぜ彼らが、自惚れが全くないのに、空想的でないかというと、彼らが、根本的に自己否定しているところだ。
つまり、自分の出生そのものを悪いことと考えているのである。
シンジは唯一の肉親である父親に全く愛されていないと信じているし、レイは自分がただの使い捨てであることを明晰に自覚している。
紋次郎は、生まれてすぐ、親によって殺されるはずが、たまたま生き延びたことを知っている。
彼らは皆、自分というものに、全く存在価値を認めていない、いや、認めることができない。
ところが、そんな人間の姿は、神と紙一重のようなところがあるのだ。
だから、人々は深いところでは彼らに憧れるのだ。
綾波レイといえば、まあ、可愛いとしても、同等に可愛いアニメのヒロインはいくらでもいるのに、彼女が国民的なヒロインである理由は、そんなところにある。
ところで、意外な感じもするが、初音ミクは綾波レイをモデルにしているという話があり、それは本当であると思う。
もし、レイがミクのモデルだという話が本当でないとしても、深いところで、レイとミクは同じなのだ。
ミクはアイドルを演じ、人間味を出すほど、逆に、自我がないことを露呈する(さらけだす)。
そのあたりは、レイ以上だ。
だからミクは世界中で愛されるのだ。

政治やビジネスは、普通の漫画のようであれば滅び、普通の小説のようであれば苦悶するが、自惚れがなければ、人々に存在を感じさせないまま成功する。

釈迦やイエスは、人間としての自己と、ブッダ、あるいは、キリストとしての自己を厳格に区別した上で、人間としての自己を否定し、ブッダ、キリストとしての自己を賞賛した。
そこらは普通の人には難しい。
紋次郎、レイ、ミクから入る方が分かり易いのだが、こちらは誤解をし易い。
だが、上に述べたことを知りつつ、彼らをよく観察すれば、真理を知る。
真理はあなたを無敵にして解放し、自由を得させる。









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娘を本当に愛している父親とは

さだまさしさんの1979年の曲で、『親父の一番長い日』という、12分30秒にもなる長い曲がある(オリコンシングルチャート1位を獲得した曲では、現時点では史上2番目に長いらしい)。
実は私は、この歌を通して聴いたことはないのだが、だいたいの内容として、娘を嫁に欲しいという青年が挨拶に来た頑固親父の悲哀を、シリアスながら、ちょっとユーモラスに描いたような歌だったと思う。
歌の最後のあたりで、父親は、「分かった、娘はくれてやるから、君を一発殴らせろ」といったようなことを言うのだったはずだ。
これを聴いて、娘を持つ世の父親達が共感を覚えるのはまあ仕方ないかもしれないが、この親父のことを、「娘を愛しているのだなあ」という馬鹿なことを考えてはいけない。
この「親父」は、ちっとも娘を愛してなどいない。
「いや、そんなことはない。私も娘を愛する父親だから分かるぞ」
などという者がいるなら、君は大嘘つきなのだ。
ただ、自分で嘘に気付いていないだけだ。
こんな父親は娘を愛してなどはいない。
単に、娘を自分の所有物だと思っているだけだ。
特に近年では、娘、息子に関わらず、結婚相手に強い不快感を持つのは、むしろ母親の方だ。
無論、こんな母親も娘や息子を全く愛してなどいない。
多くの母親は、自分の子供を自分のものだとしか考えられないのであり、特に、現代はこれが極端になってきている。
ますます、母親に愛が無くなってきているのだ。

もし、本物の嘘発見器があったとして、夫婦や恋人達に、お互いを愛しているかというテストをしたら、間違いなく「嘘」の判定が出る。
どんなに電車の中でベタベタしているカップル達も同じで、むしろ、そんな者達は、なおさら相手を愛してなどいないのである。
親から子供への愛、子供から親への愛も同じことだ。
シェイクスピアの『リア王』で、リヤ王の末娘は正直に、父王のリアに対し、「お父様として当たり前に愛しているが、それ以上でも以下でもない」と言ったのが、まずまずの良い答と言える。
つまり、彼女は、父親に対して特別な想いはない・・・つまり、父であるリア王は、彼女にとって、それほど大事なものではないと言っているのだ。
そして、それが当たり前なのである。
別に、嫌いとも言っていない。父のことは、他の全ての人達と同じくらい大切に思うと、末娘は言っているのだ。
素晴らしいことだ!
それで十分ではないか?
それ以上、何を求めると言うのだろう?
そして、リア王の姉娘達は、「お父様は私にとって特別な人です」といった意味のことを饒舌に述べてリア王を喜ばせるが、実際は、彼女達は、リア王を「これっぽっち」も愛していなかった。
そして、間違いなく、姉娘達は、他の全ての人達も、父王同様、少しも愛してなどいないのだ。
姉娘達が愛しているのは自分だけである。

さあ、少しは、世間の愛の幻想に気付けただろうか?

多くの歌で、「愛してる」「愛してます」「愛してるぜ」などと歌うが、そんなのを聴くと、悲しいほど気が滅入る。
真っ赤な嘘を聴いて楽しいはずがない。
人間が「愛してる」というのは、全て嘘なのだから。
だが、初音ミクが歌う限りは嘘ではない。
彼女は人間ではないのだから。
では、ミクのために、そんな歌を創った人達が嘘をついているかというとそうではない。
ミクの歌を創る人達は、自分の名を出さず、奇妙なアーチスト名を名乗っている。
つまり、ミクの歌は無記名と言って良い。
芸術作品というものは、無記名であるべきものだ。
なぜなら、本当に、その人が創っているのではないからだ。
アーチストが、自分が創っているという意識がなく、アートストはただの道具である時に、芸術は生まれる。
フランス国歌は、事実上無記名の曲だ。あの歌の作者など、ほとんど誰も知らない。
音楽家でも何でもない、ただ音楽が趣味であるだけの1人の職業軍人(技術軍人)が、天啓を得て、一晩で創ったのがあの名曲なのだ。
アマチュアが創ったミクの歌にだって、同じくらいの作品はゴロゴロあると思う。

ところで、本当に娘を愛している父親とは、どんな父親だろう?
自分でよく考えてみると良い。
本当に良い男を選べるよう、きちんと娘を教育する父親だろうか?
そんなことができると思うのは、愛するとか以前に、どうしようもない愚か者で馬鹿である。
また、どんなに賢い娘になったとしても、間違った男を選んでしまうものなのだ。
君だって、真面目な素晴らしい女性を騙したことがあるのではないのか?私はいっぱいあるぞ。
では、そんな相手の男の本性を察知して、その男をやっつける父親が、娘を愛する父親であろうか?
父親にそんなことが分かるものか。
父親は、娘以上に間違うのだ。
答えは既に述べている。
それは、リア王の末娘の言ったことである。
自分の娘は別に特別ではない。
世界中の娘達、あるいは、人々と同じように、当たり前に自分の娘を大切に思っている父親が、本当に愛することができるのだ。
そんな父親なら、どれほど美男子で若い娘にもてても、彼女達を騙そうとはしないだろう。
どの娘も、自分の娘と同じなのだから。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんを愛す
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