ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

サルトル

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

皆、こうして天才・超人になった

一気にハイレベルな神秘力を得た人は、それは偶然のきっかけによる場合がほとんどと思う。
コリン・ウィルソンは、ただの文学かぶれの青年に過ぎなかった19歳の時、自殺するために、劇薬である青酸カリを、いまや口に含もうとした時に、その極度の緊張の反動のようなもので意識が澄み渡り、別の次元を垣間見、それで天才になった。
インドの聖者ラマナ・マハルシは、16歳の時、部屋で寝転んだら、不意に金縛りにあったが、スポーツ万能の彼であっただけに、全身が動かないことへの恐怖を感じ、それに反発して強い集中を長く行ったことで、一気に意識が覚醒したのだと思う。そして、彼がそんな状況になった原因は、身体や脳に、何らかの異常があったのではあるまいか?
なぜなら、彼は、ボクシングや水泳に励んでいたことで、脳に、衝撃や振動、あるいは、酸素不足の状態をかなり作り出し、それが蓄積することで、何らかの症状があったのではないかと思う。
著名な精神科医であり、『パワーかフォースか』で知られる神秘家であるデヴィッド.R.ホーキング博士も、少年時代、事故が原因で、厳寒の中で凍死しそうになった時、神秘的なビジョンを見て、それから、世界を自由に動かせるようになったらしい。
こんな話は無限にあるし、おそらく、並外れた人間には、必ず、こういった体験があるのだと思う。
そして、これらの現象は、アルコールで引き起こされるものより、ずっと強力であるのだと思う。
例えば、スティーブ・ジョブズや著名な哲学者サルトルの場合は、ヘロインやLSDのような幻覚剤を使ったが、同じような著名人は、上げればキリがないほどだ。

確かに、粘り強く「私は在る」と唱えれば、超越次元に入れるが、それまでに、飽きて止めてしまう人が多いのである。
かなり根気強くやっていた人でも、もっと刺激のあるものがないかと思ってしまい、別のことをやって、「私は在る」と唱えることを止めてしまう場合が多いのだと思う。

日本では幻覚剤が法律で禁止されているが、そうでなくても、それらを使って高次元に入るのは、むしろ弊害が多くて、悪い状態になる場合がほとんどだ。
サルトルだって、自分の体験から、他の人には、幻覚剤を使わないことを勧めていたほどだ。
並の人間の場合、その影響をコントロールし難く、下手をしたら、脳に変調をきたすことになる。
だが、高次元に触れたことがある者と、そうでない者では、引き寄せや世界の創造能力は相当に違う。
合法的なやり方もいろいろあるが、やはり、どこか危険なのである。
合法的なやり方とは、例えば、瞑想やヘミシンクだが、これらは、うまくいくことは少ないし、悪い結果になることもある。
実は、案外に効果がある怪しい方法もあるのだが、気楽に教えるべきではないだろう(笑)。

ただ、ほとんどの人には、高次元への参入は必要ない。
とはいえ、普通にやっていては、どん底に落ちるしかない、どうしようもない人間が確かにいる。
実のところ、スティーブ・ジョブズも、コリン・ウィルソンも、本来は、最底辺の人生を送り、60歳かそこらで半分野垂れ持になるような(あるいは本当に野垂れ死にする)運命だったのだと思う。
だが、彼らは、道があることを信じ、それを強烈に求めたのだ。
そして、人間を超えたければ、彼らのようにやるしかない。
敢えて繰り返すと、道があることを信じ、それを強烈に求めることだ。
その気持ちがない者が、幻覚剤を使ったり、特別なテクニックを教えてもらって行うと、もうロクなことにならない。
もし、今の自分の状況がどうしても嫌で、何としてでもそこから抜け出し、神のように生きたいと、本気で願うのでなくてはならない。
それが出来ないなら、小市民としてせいぜい安楽に生きることを願うべきである。
だが、本気であるなら、「求めよ、そうすれば、与えられる」である。
本気なら、導きは向こうからやって来る。
そうなれば、僅かな回数、あるいは、たった1度、「私は在る」と唱えただけでうまくいくかもしれない。
だが、それまでは、ダメモトでも「私は在る」と唱えなければならない。
そして、何かと戦いながら、人間を超えることを、強く強く求めるのである。それが高次元参入の資格である。








魔法使いになれるヤバい話

事業家で世界一の富豪イーロン・マスクは、この世界はシミュレーテッド・リアリティという、いわばコンピューターが作り出した仮想世界であると断言しているそうだ。
ところで、私は、7歳くらいの時と思うが、それを直観的に見抜いていた。
もちろん、当時は、仮想世界なんて考え方はしなかったが、とにかく、この世界が「作り物」であることは薄々気付いていた。
別に私が特別なのではなく、子供が喋ることを注意深く聞いていたら、子供にはそんなことは分かっているのだと思う。
例えば、子供は、家の中の物・・・例えば、時計やテレビや人形が、前はこんなじゃなかったと言うことがあるが、大人は、それは単なる子供の気のせいとしか思わない。
だが、実際に、それらの物が、子供が言う通り、微妙に、あるいは、全く違うものに変わっているのかもしれない。
いや、実は、我々だって、今見ている物は以前見たものと違うのかもしれないが、それに気付かない、あるいは、気付いてはいるが無視しているだけかもしれない。

世界が作り物だということを確認する実験は意外と簡単である。
何でもいいが、平凡な物(平凡と感じる物)で、動かない物の方がやり易いかもしれない。
実際は、特殊な物や動く物でも構わないが、特に最初は、ありふれていて、静止している物の方が良いと思う。
私は、7歳の時、意識的にやった実験では、ドアノブ(銀色の金属製で丸いドアノブ)を使ったことを憶えている。
そのドアノブをじっと見るのだが、集中して見るというのではなく、さりげなく、しかし、視線は動かさずに見る。
そして、何も考えないのだが、視線を何かに固定していると、考えないことは難しくないと思う。
それで言えば、文字が書かれていないものの方が良い。なぜなら、文字が書かれていたら、それを読むことで思考が働くからだ。
何かを、何も考えずにじっと見ていたら、すぐに、変な感じがしてくる。
私は、その感覚に夢中になった。
その物が、一瞬前には、存在していなかったという感覚・・・というより、実際、存在していなかった。
この瞬間に、それは生まれたのだ。
「世界5分前仮説」というものあるが、それは、世界は5分前に生まれたのかもしれないというものだ。
5分より前の世界の記憶はあるが、その記憶は心の中に現れる偽物だ。
そして世界は、5分前どころか、今この瞬間に生まれていて、記憶もまた、今この瞬間に「捏造」されているのだ。

この実験は、そこそこにやった方が良い。
世界が瞬間に生まれていることを意識すると奇妙に感じるのは、ひょっとしたら、世界のこの有り様に対し、脳のキャパシティが追いつかないのかもしれない。
そうであるなら、あまり続けて、脳の情報処理にエラーを生じさせ続けたら、深刻なトラブルに陥ってしまうかもしれない。
実際、これを長くやると、吐き気を感じる。
サルトルの有名な小説『嘔吐』は、フランス語の原題を直訳すれば「吐き気」になるらしいが、サルトルは、そんなことを自分の世界全体に見ようとしていたのかもしれない。
そんなことをすれば、いかに優秀なサルトルの頭脳を持ってしても、狂気に陥るはずだ。

ただ、この感覚を掴み、少しの意思を潜り込ませれば、世界を自由に構築出来る。
どうやるかというと・・・って、こんなこと、こんな気楽にバラして良いものかと悩まないでもないが、少し練習は必要なこともあるし、慣れれば、そんなに面白くもないから、とりあえず書いてみよう。
何かをさりげなく、考えずにじっと見る時、その物の存在があやふやになるが、その物を存続させることに執着しないことだ。
つまり、それがないならないで良いとするのだ。
そして、存在するのは、その物ではなく、見ている自分の意思であるという単純な事実を思い出すのだ。
つまり、世界は自分の意識が作っているのである。
それなら、世界を好きなように作れる可能性があることが了解出来るだろう。
だが、心には、何かロックがかかっている。
そのロックを外すことが出来れば、もう魔法使いになったも同然である。
そして、魔法使いになっても支障のない精神力を持てば、実際にロックは外れる。
おそらく、本物の魔法結社なんてのは、魔法使いに相応しい精神力を作るノウハウを持っているのである。








父親は不要

今もさほど変わらないと思うが、父親について、昔、よく言われた笑い話にこんなものがある。
子供が帰宅し、応接間のドアを開けて覗くと、父親1人がいた。そこで、子供が言ったのは、
「なんだ、誰もいないのか?」
だった。
つまり、父親は家族にカウントされず、給料を運んでくるだけの存在である。
こんな風潮に対し、笑いは取れたかもしれないが、それほどの批判はなかったと思う。それが割と一般的な認識だからだ。
ところが、最近は、イクメンとか言って、父親が育児に参加したり、さらには、父親が育児休暇を取ることが話題に上がったりもする。

結論を言おう。
母親が育児を出来ないような何らかの理由があれば別だが、育児、あるいは、家庭に、父親は、全くとはまでは言わないが、ほぼ必要ない。
ヨーロッパでは、シングルマザーに対する社会的援助が手厚く、父親などいなくても安心して子育てが出来るが、それは、父親なしで育つことによる子供の精神形成にほぼ問題がなく、少なくとも、愚かな父親の影響を受けるよりはるかにマシであることが分かってきたことも、そのような社会福祉の発展を、さらに強力に推進させているのだと思う。
無論、子供の成長において、父親が良い影響を与える場合もあるかもしれないが、全体としては、父親がいないことの方のメリットがはるかに大きいのである。
サルトルが「私の幸運は、父親が早くに死んだこと」と断言したのは、彼の家が父親がいなくても豊かであったことも確かにあるが、経済的な問題がなければ、やはり、父親がいないことより、いることのデメリットが大きいのだと思う。

日本では、育児に対する理解が薄く、母親が大変な場合が多いので、それをサポートする必要がある場合は、男性の育児休暇も悪くはないが、どこかの金持ちの大臣のような家庭で、国民の下僕たる大臣が育児休暇など、とんでもないことだと私は思う。
日本も、財源を割り当てることが可能なうちに、ヨーロッパのように、シングルマザーが十分に育児が出来る制度を整えないと、少子化がますます進み、間違いなく日本は滅ぶのが明らかだと思うが、いかがだろう?
女性は直観が鋭く、遺伝子的に優れた子供を作れる男を選ぶ能力がある。
しかし、結婚となると、諸事情で、間違った男を選ぶ場合が多いものだ。
いまや、結婚制度というのは時代遅れも甚だしいのではあるまいか?
ひきこもり自体は全然構わないが、父親がいることで、ひきこもりからネルギーを奪っている場合が多いし、母原病と言われるものだって、つまるところ、父親の家長制度が生み出した歪みなのではないかと思う。
日本は、なぜかくも遅れているのだろうか?
このままでは、マジで日本は滅ぶし、それを避けるには、ジム・ロジャースが言うように、日本では子供に、日本語でなく、中国語を覚えさせる絶対的な必要が出てくるだろう。








サルトル、エマーソン、マーフィーが明かした秘法は同じだった

小説の中には、一人称で語られる、つまり、全体を通して、「私は・・・」「僕は・・・」といった調子で書かれたものがある。この場合は、主人公である1人の人物の視点で描かれた作品ということである。だが、そうでなくても、どんな作品でも、大なり小なり、主人公の視点が大きな割合を占めているだろう。登場人物達の視点が公平に取り上げられていたら、さぞ締まらないものになるのは間違いない。
『フランダースの犬』では、主にネロの視点で語られるし、『三銃士』だって、ダルタニアン視点の描写が当然多い。『若草物語』では、4人の姉妹のそれぞれの感情が表現されはするが、やはり、作者自身でもあるジョーの視点で描かれている。

ところで、小説は、主人公ではなく、別の登場人物の視点で描き直すと、実に斬新で面白いものだ。
実際、ある作品を、本来の主人公とは異なる登場人物を主人公にして作り直すこともある。ただ、小説作品で、そんなことを同じ小説の形で行う権利があるのは著者だけであるので、古典的作品を映画で行うようなものが多いだろう。例えば、『アーサー王物語』をランスロットやマーリンを主人公にした映画にする等である。

『涼宮ハルヒの憂鬱』および、その後の涼宮ハルヒシリーズでは、主人公は、「俺は・・・」と一人称で語り続けるキョンである。ハルヒは主人公ではなく、ヒロインとでもいうものだ。
しかし、これを、「私は・・・」とハルヒ視点で語ると面白いかもしれない。だが、そんなことをしなくても、作品中で、ハルヒや、あるいは、別の登場人物達の視点や感情が、キョンを通して描かれることは多い。それを、キョン自身は気付いていないように描いてしまうこともある。読者は分かるが、語っているキョン自体は分かっていないという奇妙なものだが、これもまた、小説を面白くする手法の1つかもしれない。
むしろ、ハルヒ視点のものを、著者が本当に描くよりも、ハルヒの視点や感情がぼかされるのが良いに違いない。
『僕は友達が少ない』は、主人公は小鷹という高校2年生男子だが、著者自身がヒロインの三日月夜空視点で少し描き直した企画が実施されたが、読んでみて案外に面白くないと感じたものである。やはり、ものごとは、曖昧に語り、想像させることが大切なこともある。俳句や和歌に風情があるのは、著者が語ることを最小限にすることで、後は読み手の想像力に委ねるからである。

ところで、物語には、登場人物が1人か、ほとんど1人というものがある。その場合は、一人称で語らず、むしろ、客観的に描くことで、読者の想像力に訴え、作品に深みを与えるものである。
ゆえに、読み手に想像力や深い思想がなければ、何の価値もない作品になることもあるが、読むべき者が読めば、壮大であったり、深遠な作品になるのである。これは、登場人物が多い小説でも同じであるが、1人の登場人物を見つめるものは、特にそうで、読者が試されるのである。そのような作品として、『老人と海』や『マッチ売りの少女』が思い浮かぶ。こういった作品を読みながら、読者は想像力を働かせているうちに、物語の1人の登場人物を見守る神になるのである。そして、その神の視点で自分を見つめるようにもなる。
偉大な文学を読む意味もそこにある。
『新約聖書』の4つの福音書は、主人公のイエスを、4人の異なる著者が客観的に描いた物語である。そして、この物語は、それよりも昔に、既に予言されていることが展開していくのである。読者は、イエスの言葉を学ぶ真摯な弟子であると共に、イエスを見守り、イエスの物語を決定した神に近いものなのだ。イエス自身、父なる神と自分は一体であると言う。実に、読者、主人公、著者と真の著者である神、全てに区別が無いのである。

サルトルは、小説を読むことは、その小説を再度、自分で書くことであると言った。
エマーソンは、いかなる偉大な人物の物語を読む時も、自分のことが書かれていると思わなければならないと言った。
ジョセフ・マーフィーは、『ヨブ記』など、古代の偉大な書を読む時は、かつて自分がそれを書いた時のことを思い出して読めと言った。
福音書を読む時、我々は、教えを受ける者であり、イエスであり、神なのである。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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