ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

サミュエル・スマイルズ

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
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「天は自ら助くる者を助く」の真意

サミュエル・スマイルズの『自助論』(原題:Selef-Help 1859)という書物をご存じと思う。
私も、地球物理学者の竹内均さんの訳で一度は読んだことがある。
日本では『西国立志編』というタイトルで1871年(明治4年)に刊行さた。これは明治の終わりまでに100万部以上売れ、当時の若者達を大いに発奮させたらしい。
この書の序文の「天は自ら助くる者を助く(Heaven(God) helps those who help themselves.)」という言葉は有名で、『自助論』の内容そのものは知らなくても、この言葉は知っているという人も多いかもしれない。

「天は自ら助くる者を助く」とはどういう意味だろう?
ごく普通には、「努力する者を天(神)は助けるのだ」という意味だろう。
「自分を助ける=努力する者」ということに関し、こんな印象深い話があった。
少し昔、テレビで、中国の45歳の男性(李さんだったと思う)が、妻と娘を連れて来日し、日本の大学で博士号取得を目指すドキュメンタリーを見たことがある。
事情があって、彼は、若い時に学問に打ち込むことが出来ず、中国では学位の取得に年齢制限があるので日本でそれをするという難題に挑んでいた訳である。
当然、なかなかうまくいかず、生活も苦しい中での奮闘で、大変な苦労をしていたが、その中で、彼の可愛い12歳の娘が、こんなことを言っていたのをよく覚えている。
「神様は夢を追いかけて努力する人を見捨てないのよ」
「天は自ら助くる者を助く」 を「天は夢を追って自ら助くる者を助く」にしたような感じで、こっちの方が、まさに夢がある。

しかし、自助を努力とするのは、ひょっとしたら、支配者による人類への洗脳で、世界中の下々の者達は、この言葉によって、支配者の都合の良い奴隷に仕立て上げられてきたのかもしれない。
スマイルズ自身が、そんな意図を持っていたかどうかは知らないが、彼は、支配者に利用されたような気はするのである。
いずれにせよ、本来あるべき、「天は自らを助くる者を助く」の意味が歪められてしまったのは確かだ。
この言葉の、本来の、「自らを助ける」とは、自分の感情をコントロールするという意味なのだ。
ただ、感情のコントロールというと難しそうだが、単に、「気持ちを切り替える」という程度と考えれば良い。
例えば、何か嫌なことがあって気分が悪くなった時、気持ちを巧みに切り替えて、良い気分に持っていける者は、具体的な天の助力を実際に得て、何をやってもうまくいくのである。
これは、支配者層にのみ伝えられてきた教えである。
一方、気分を害することがあった時、特に今の若者のように「ムカつく~」と言って、長く悪い気分を引きずる者は、悪いことの連鎖に見舞われ、惨めな状況に追い込まれるのである。
これらのことは、全くの真理で、これを知ると知らないでは、人生は全く変わる。
そして、これが正しいかどうかは、実践すればすぐに分かる。

それで、気持ちを切り替えるにはどうすれば良いかというと、オスカー・ハマースタイン2世作詞の『私のお気に入り(My Favorite Things)』では、悪い気分になった時に、自分のお気に入りのものを思い出すことだし、何でもいいから(猫でも女子大生でも)愛せよと言った人もいる。
だが、おそらく、最も良い方法は、無理にでも微笑むことだと思う。あるいは、ガッツポーズをすることだ。
このあたりのことは、ロンダ・バーンの『ザ・シークレット』の中で、ほとんどが元は下位層にいた、世界的上位者達が語っている(DVDでは、その上位者達が自ら登場して語っている)ので、参照するとよく解ると思う。








目を覚ましている

老子、荘子の教えとは、「無為自然」である。
それは何かというと、全てをなりゆきにまかせ、一切の作為・・・つまり、人が意識的に行う行為をやめてしまうということだ。
言い換えれば、一切を天にまかせるということである。
それに対し、大物一般人として意義を唱えたのが、通称「二宮金治郎」として知られる二宮尊徳(にのみやたかのり)だった。
彼の主張はこうである。
「田畑は作為しなければ荒れてしまい、作物が穫れない」
「家は作為しなければあばら家になる」
よって、人が一生懸命作為することが必要で、老子は阿呆だ・・・というわけだ。

法然、親鸞の教えは、簡単に言えば、
「私は、修行も良い行いも出来ない煩悩にまみれた愚か者であり、唯一出来る良い行いである念仏を称えることで、仏様(阿弥陀如来)に救っていただく」
ということだ。
これは、死後、極楽浄土に生まれるということが強調されることが多いが、この2人を尊敬していた一休は、
「念仏を称えれば、今、ここが極楽浄土」
と言い直した・・・つまり、死ぬまでもなく、即座に効験があるとした。
だが、実は、法然、親鸞も、そういったことは十分に言っており、一休は、それにスポットライトを当てたのであると思う。
つまり、念仏は、現世利益をもたらすものだ。

法然、親鸞、一休に流れる、あまり表向きとは言えないかもしれない、念仏の現世利益を現実に生きたのが、ごく一般の農民でありながら、念仏の教えによって稀有な存在となった、因幡の源左(いなばのげんざ)で、二宮尊徳が54歳の時に生まれた人だ。
源左は、19歳の時、父親が亡くなったが、その父親が、「これからは親様(阿弥陀如来)を頼れ」と遺言し、源左は仏様に一切をまかせて幸福に生きたのだと思う。

ところで、尊徳と源左の間くらいに生まれたイギリスのサミュエル・スマイルズは『自助論』で、「天は自分を助ける者を助けてくれる」と言い、自助努力の大切さを説き、明治時代の日本人に受け入れられ、当時の日本の青年達に大いにやる気を出させ、それが現代の日本の繁栄に結び付いた面は確かにあると思う。

こういった流れを見てきた我々は、老子、荘子、法然、親鸞、一休、尊徳、スマイルズ、源左の教えを昇華すれば無敵である。
誰が正しく、誰が間違っている訳でもない。
仏様に任せると言っても、親鸞や源左が何もしなかった訳ではない。
では、どう考えれば良いのかというと、我々のやることは、自分のエゴではなく、天や仏様の意思で「やらされている」と思うことだ。
さらに積極的に、「やらされよう」と考えても良いかもしれない。
Googleの人達は、インターネットの意思を実現するために技術開発しているそうだし、BUMP OF CHIKENは曲の意思を実現するために音楽を作り、演奏し、歌うのだそうだ。
そして、老子も荘子も、法然も親鸞も一休も、尊徳もスマイルズも源左も、みんなそうしたはずなのだ。
具体的には、

頭の中からっぽにして
目の前だけ見つめるの
~『Satisfaction』(作詞・作曲・編曲:kz、歌:初音ミク)~

のようにすれば良いのだと思う。
【初音ミク】Satisfaction【Project DIVA X HD】 ~YouTube by KamJPCHさん~
まあ、そのためには、念仏を称えるのが一番であると私は思う。
念仏を称えても、目は開けておくように。
これは、視力の問題ではなく、「目を覚ましておれ」ということで、「しっかりせい」ということである。









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孔子と荘子を共に輝かせる聖典『バガヴァッド・ギーター』

イエスって人は、「心配しなくても、必要なものは必ず神様が与えてくれるので安心しろ」と言ったのだが、中国の荘子となると、「一切の作為をしてはならない。無能で無為であってこそ、幸福な生涯を送れる」と言ったのだ。

一方、努力の大切さを訴えたのがサミュエル・スマイルズで、代表作『自助論』の中で、「神は努力する人を助けるのだ」と力説している。

法然や親鸞は、むしろ、努力が害になると述べている。
努力する者は、自分の力を頼っているということであり、仏様に完全に頼っていないので、仏様としては、救い難いところがあるのだという訳である。
これは、荘子と非常に似ているが、荘子の論は、実際は非常に高度である。ただ、荘子は、頭で判断せず、全てを成り行きに任せて作為を離れれば良いと教えている。そうすれば、その理由も自然に分かるということのように思う。

ただ、言うまでもなく、本当に何も考えず、何もしなければ、ひどく哀れな人間にならざるをえないのは確実である。
ジョセフ・マーフィーの潜在意識による成功法則でも、努力は無用であり、むしろ、してはならず、ただ、願望を潜在意識に引き渡せばそれが叶うと一貫して教えている。
しかし、本当にそれだけであれば、うまくいっても、一生ニートで、おそらく、幸福であることはなく、むしろ、非常に惨めである場合がほとんどのはずだ。

よって、親鸞や荘子の教えは素晴らしくても、孔子やスマイルズの教えを求める人も多いのだ。
ジョセフ・マーフィーや引き寄せの法則が人気があっても、やはり、自己啓発や能力開発業界も盛況なのである。

そして、我々はどうすれば良いのかと迷うのである。
「バランスが大切だ」なんて言う人もよくいるが、それは、適度に努力し、適度に天に任せろという意味だろうか?それでは、いずれの側の教えにも合致しない。
法然や荘子は、徹底して努力を避けよと言っているのだし、孔子やスマイルズは、徹底して努力し励めと言っているのだ。

ここで、止揚が必要になる。
新たな視点を導入し、問題をより高いレベルで構築し直し、いずれの教えも成り立たせるのだ。
それでこそ、全てうまくいく。

実は、どちらの側にも立たない、つまり、優れた止揚を実現しているのが、インドの聖典『バガヴァッド・ギーター』なのである。
アルジュナは、王子として戦争で立派に戦わなければならなかったが、同時に、敵の中にいる、尊敬する先生や親しい叔父さん、そして、愛すべき友人達を殺したくなかった。
悩むアルジュナに、至高神クリシュナが教えたことは、まさに止揚であった。
ラマナ・マハルシも、ラーマクリシュナも、『バガヴァッド・ギーター』を賞賛するが、これこそが至高の聖典であるのは確かと思う。これに書かれたクリシュナの言葉から想像すると、この教えは、神のごとき高次の存在、通俗的な表現をすれば高度に進化した宇宙人がもたらした教えであるのだろうと思う。

クリシュナは、アルジュナの問題をどう解決し、アルジュナの悩みを消したのだろう?
それは、人智の及ぶところではない。
だが、『バガヴァッド・ギーター』の教えは、孔子や荘子の教えを否定するものではない。これらの、表向きの解釈を止揚し、高い次元に持っていき、真の意味を明らかにするのである。
アルジュナは結局戦う。そして、叔父さんや友人を殺すことになるだろう。それは一見、孔子の仁義に、荘子の無為に、共に反する。しかし、同時に、双方を輝かせるのである。
なぜなら、アルジュナは殺しても、殺していないからだ。敵は既に神に殺されているのだ。

ラマナ・マハルシは言う。
「あなたは有能な財務長官として、責任を持って精力的に仕事をする。しかし、あなたは何もしていない。巨大なプロジェクトを率い、大きな成果を上げても、あなたは何もしていないのだ」
この意味が、頭ではなく、心の底から納得できれば、あなたはこの世界で自由な存在になっているはずだ。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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