ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
コンピューターシステム開発技術者、サイコパスのKayのブログ

サイコパス

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[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。
[2016/11/21]滅多にはありませんが、あまりにレベルが低いコメントは公開しません。
[2011/06/08]迷惑コメントが多くあったため、やむなく、コメントを承認後公開することとしました。

性悪説は一部の人間にあてはまる

皆さんは誰かを憎んでいるだろうか?
ちなみに、「恨む」とは憎み続けるという意味で、「呪う」は、恨んだり憎んだりしている相手に災いが起こるよう願うことであると同時に、「強く恨む」ことであるらしい。
憎しみの王様が呪いであるということか。
しかし、呪う、恨む、憎むの間に、根本的な違いはない。

あなたは、誰かを、憎み、恨み、呪っているだろうか?
私は、若い頃は、私の担任だった教師の大半を憎んでいた。
かなり長い間だ。
だが、考えてみれば、今は全くそんな気持ちはない。
私が憎んで止まなかった教師達にも、私が見ようとしなかっただけで、良いところはあったはずだ。
では、私が憎んでいた、彼らの悪いところは無かったのかというと、それは確かにあったのだろう。
ただ、それは、単に彼らも未熟だったというだけのことなのだ。
今では、彼らが、あんなことを言ったりしたりしたのは、仕方のないことだったと納得出来る。

ところで、最近私がよく観ている『地獄少女』というアニメには、毎回、ひどい悪人が登場する。
平然と他人に大きな苦しみや悲しみを与え、それが、純情なクラスメイトを自殺の追い込んでも、良心の呵責を全く感じない。
自分のせいで真面目な後輩が苦しんで死んでも、自分が安全なら、それで何の問題もなしと考える。
そんな人間は、アニメや小説の世界にしかいないのではなく、現実にいるし、人間の実に1割から2割はそうであるという研究結果もある。
では、彼らをどうすれば良いだろう。
断罪し、罰を与え、自分の犯した罪を後悔させるべきだろうか?
いや、偉大な愛の力で説得し、改心させるべきだろうか?
無駄だ。
彼らは、後悔も改心も「絶対に」しない。
なぜなら、彼らの脳自体に、罪の意識を感じる機能がなく、ありもしない罪の意識を後悔したり、罪の意識をたよりに改心することは、科学的、論理的に「ありえない」のである。

人間の性は悪だと言っているのではない。
性が悪である人間がいると言っているのである。
そして、そんな人間だって、絶対に必要なのだ。
そんな良心を持たない人間は、良心を持たないがゆえに、良心のブレーキがかからないからこそ、普通の人には決して出来ないことが出来るのである。
残酷で、非人道的なことでも、それをしなければ、災いが起こることもある。
それを彼らがしてくれるという面もあるのである。
だから、彼らは、意外と英雄や大企業の経営者に向いているとも考えられるのだ。

それに、『地獄少女』のヒロイン閻魔あいや、その仲間にしたところで、いかに相手が悪人とはいえ、あれほどの断罪を行うからには、やはり、普通の人が持つ何か大切なものが欠けているのである。
良心を持っていないと言って良いかもしれない。
良心を持っていない人間のことを、心理学や脳科学、あるいは、精神医学では「サイコパス」と言うことがある。
サイコパスは魅力的であることが多いと言われている。
閻魔あいは、とても魅力的だろう?









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本当の悪人とは

昔から、時代劇やアニメは、正義と悪の戦いだった。
時代劇では、ラストで、調子の良い音楽と共に、正義の味方が、悪の集団をバッタバタとやっつけ、『鉄腕アトム』では、アトムの「えーい!」の掛け声と共に、アトムが腕力を振るって悪を叩き潰した。

そんな中で、それは良くないんじゃないのかと言う者達が時々いた。
その理由は、まず、いずれにせよ、暴力は良くないということ。
また、誰が本当に悪いのか、そんなに簡単に分かったりはしないということ(だから裁判は難しい)。
さらに、そもそも、善と悪の区別が本当につくのかという、ちょっと哲学的な問いもあった。

『荘子』では、善と悪というのは、単に立場の違いに過ぎないと述べられている。
CLAMPの漫画『魔法騎士レイアース』のテーマは「この世に絶対的正義や絶対的悪はない」というものだったらしい。

だがまあ、「過ぎた利己的行為」を悪というのだと言って、ほぼ間違いはないだろう。
誰もが、自分の喜び、自分の欲望の満足のために、他者を犠牲にしているが、その度が過ぎれば良くないということになる。
では、どこまでが許容の範囲で、どこからが限度を超えているかは、あまり確とはしていないこともある。
昔は、会社の中で、男の上司が女子社員のお尻を触っても、「こんなん普通や」だったかもしれないし、公共の場所やオフィスでタバコを吸うこととなると、まず、悪いとは言われなかった。
しかし、いずれも、今は大悪である。

ところで、Amazonのプライムビデオで『地獄少女』が無料で見れるので、3話ほど観たが、これがなかなか考えさせられた。
毎回、必ず悪人が登場し、それは、疑い様のない悪である。
では、なぜ完全な悪なのかというと、自分の悪い行為に対して、後ろめたさがないからである。
『地獄少女』に出てくる悪人達は、根本的に良心を持っていない・・・つまり、サイコパスなのである。
良心を持っていない者相手に、道理は絶対に通用しない。だから、説得や教化は不可能である。
他人を苦しめる自分の行為に、後ろめたさ、後悔を感じているなら、まだ救いようがあるが、サイコパスの脳には、後ろめたさを感じる機能が、そもそもないのである。

中学2年の時に、さらっと読んだだけで確証はないが、吉行淳之助さんの『無作法のすすめ』によれば、紳士というのは、何かを思い出して、首がきゅっとすくむことがある人間らしい。
つまり、恥ずかしいことを恥ずかしいと、しっかり認識出来る知性や感情を持っている者が紳士なのである。淑女も同じと考えて良いと思う。
本物の紳士、淑女には、絶対的な悪人はおらず、それを概ね、「よき人」(今のJK言葉で「よき」人か)と言うのだろう。
尚、『無作法のすすめ』に、実際にそんなことが書いてあったかは、本当に自信がない。
そもそも、中学生が読むような本ではなかったような気がするし、それは父親が持っていた本で、それを読んでいて、父親に何か言われたような覚えもある。









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恥知らずで邪まな念仏使い

法然の書の中に、だいたいの意味で、
「釈迦は沢山の教えを述べたが、最後にはその全てを捨て、ただ1つ、念仏だけを選んだ」
と書かれたところがある。
もちろん、釈迦が本当にそんなことを言った証拠は何もないだろう。
仏教の専門家の大半は、むしろ、それを否定するかもしれない。
しかし、私は、釈迦は本当にそう「思っていた」と思うのだ。

釈迦自身が「南無阿弥陀仏と称えよ」と言った訳ではないかもしれない。
しかし、釈迦がそう言ったと考えて差し支えないと私は思う。
とにかく、釈迦は念仏を称えることが、救われる唯一の方法だと言ったのだ。
では、念仏とは何かというと、仏(如来)を想うということだ。
しかし、仏に名が無かったり、単に、「仏」、「如来」と言うと、人間は意識を向け難い。
人間の意識は、具体的なもの・・・形や色や名前があるものに向きやすい。
そこで、『観無量寿経』では、阿弥陀如来の姿を詳細に説いているが、結局のところ、釈迦は、「阿弥陀如来の名を覚えていろ」と言うのである。
そのためには、「南無阿弥陀仏」と称えれば良いというのは、後の世の人が考えたことで、法然や親鸞は、その教えを確立し、伝えたのである。

念仏といえば、今は、浄土宗や浄土真宗のお葬式や法事で、お坊様が称えているが、それは近年に出来た慣習とはいえ、別に間違いではない。
また、法然や親鸞の時代は、念仏は死んでから極楽浄土に生まれるための方法と考えられていたが、それはそれで良い。
だが、最後にはやはり念仏を選んだ一休がそう考えていたはずだが、念仏とは究極にして万能の・・・何と言って良いか分からないが、現代的には「ツール」のようなものである。
つまり、自分が仏になり、今、ここを極楽浄土にするためのツールだ。
それは、科学的、論理的にも、何の矛盾もない、自然なツールであると思う。
私も、いろいろ考えてみたが、やはりそうなのである。
簡単に言えば、意識を自我を超えた存在に向け、自我を退かせ、没我、忘我、無我に近付き、自己を忘れる。
すると、仏という万能の生命力に触れることが出来る。
念仏は、そのための、スイッチであり、プログラムであり、ツールなのである。

ただ、いまだ、念仏を、正しい心の持ち主になって・・・あるいは、なろうとしながら称えないといけないと思っている人が多い。
そうではない。
近所のセーラー服の可愛い女の子をどうにかしようと思いながら称えても一向差し支えない。
むしろ、その方が良い。
まあ、親鸞は、「薬があるからとて毒を好むな」と言い、わざとそうすることはないとは言ったが、わざとそうしなくても、当然そうなるのである。
親鸞や一休は「俺なら、そんなことしか考えない」と言ったも同然であるが、それが彼等が立派な念仏使いであった証拠である。
「マジカルミライ2016」で、鏡音リンちゃんが歌った『スイートマジック』では、「甘い魔法」使いは、意地っ張りでわがままだが、念仏使いは、恥知らずで邪まである。
「恥知らずで邪ま」は、サイコパスの代名詞とも言える。









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人類全員サイコパス

私が到達した揺るぎなき結論は、「人類は全てサイコパス」だ。
ジャーナリストのジム・ロンスンは、TED講演で「みんなどこかサイコパスだ」と言ったが、本音では、「みんな・・・あなたも私も全くのサイコパス」と言いたかったのだと思う。
サイコパスとは、良心をもたない人のことだ。
だが、良心を持った人間など存在しないに違いない。

ところが、世の中には、善人、人格者、優しい人・・・といったものがいるようだ。
しかし、そんな人々は、良心があるから善良なのではない。
善良に振舞うことがお得だと理解しているからだ。
それは知性の問題・・・早い話がIQが高いというだけのことなのだ。

一方、下着泥棒、殺人、強姦、歩きタバコ、着服、詐欺、歩きスマホ・・・等といったことは、誰しもやりたいと思うこともあるだろうが、最低限のIQがあればやらない。
最低限のIQがあれば、やったら損だと解る。
そういったことをやる人というのは、救いようがないほどIQが低いのである。
「やったら何が損なの?」
そんなことが解らない人が、「救いようがないほどIQが低い人」だ。
そんな馬鹿みたいに簡単なことを説明するのは、あまりに煩わしい。

IQがやや高い人間は陰口を言わない。
陰口を言う者は、かなりIQが低い。
だから、陰口を言うような者は、その陰口がいかに正当なものに聞こえても、決してプロジェクトチームに入れてはならない。
陰口を言わないのは、心が立派だからではない。
陰口を言うのは損だと理解する程度のIQを持っているだけのことだ。
陰口を言わない人間は、決して歩きタバコや歩きスマホや痴漢をしないことが、はっきり分かると思う。

IQは生まれつきの問題とも思える。
だが、念仏を称えれば、IQも上がる。
なぜなら、潜在的には人間は高いIQを持っているのに、それを引き下げているのは自我だからである。
自我の働きは、優越感を感じるよう論理を捻じ曲げることで、それがIQを下げるのだ(ここ重要だ)。
しかし、念仏(に限らないが)によって、自我より高い存在に意識を向ければ、自我は後退する。
それなら、理屈から言ってもIQは高くなるのである。

そもそも念仏はサイコパスのためのツールだ。
親鸞は言ったらしい。
念仏の効果を妨げるほどの悪はないし、念仏以上の善はないと。
全くその通りだ。
日本のある超天才数学者が毎日長時間念仏を称えていたのは、宗教的な理由よりも知性を大切にしたかったのではないかと思う。

ガンジーやマザー・テレサがサイコパスだと言った心理学者がいるらしいが、それは当然だ。
ジョージ・バーナード・ショーに、「先生、金曜日に結婚したら不幸になるって本当ですか?」と尋ねた人に対する答と同じだ。
「もちろんだよ。金曜だけが例外であるはずがない」
ガンジーやマザー・テレサが例外であるはずがないのである。
ドナルド・トランプは知性あるサイコパスだ。
一方、彼を口汚く罵る者達はIQが低いサイコパスだ。誰とは言わないが。
批判自体は構わないが、IQが高ければ批判をしても気品があるものだ。
気品のないことばっかりしている誰かが、一番口悪にトランプを誹謗してるだろう?
もちろん、トランプもサイコパスだ。
しかし、知性があるだけマシなのである。









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メリル・ストリープが醜く見えた

昨日、朝から醜悪なものを見た。
私は、アメリカのゴールデングローブ賞授賞式のスピーチで、有名な女優のメリル・ストリープが、トランプ次期大統領に対し、障害者の真似をして辱めたとして非難するのをテレビで見た。
わざとらしく深刻な顔をしながら、「息が詰まりそうでした」とも言ったらしい。
そして、会場にいた若い女優(と思う)が、いかにも同意を示すような顔で大袈裟に手をたたいた。
醜悪なのは、ストリープと、その若い女優の顔だ。
もちろん、2人ともとても美人だ。
それにも関わらず、その醜さに、私は見ていて気分が悪くなった。

確かに、これは私の個人的な感想だ。
だが、彼女達のだってそうなのだ。
しかし、ストリープは、「これは私の個人的な考えですが」とは言わない。
手段を選ばずに、個人的主張を正しいこととして、無理矢理に押し付けているのである。
そんな人間の顔が醜くないはずがない。

ストリープのその話は、あの場の発言として不自然なものではあるが、それでも、どうしても「個人的に」言いたいのであれば、こう言うべきだろう。
「もし、トランプ氏が、障害者を辱める意図を持って、その真似をしたのでしたら遺憾に思います」
なぜなら、それは、次期大統領や富豪というのとは関係なく、多くの同意を得られやすい状況で、仮にも、一人の人間を、劣悪な人間と見なすことなのだからだ。
それは、くれぐれも、慎重な配慮を持って行うべきことだからだ。
もし、ストリープが言うように、トランプが障害者を辱めたとしたら、それは、トランプが障害者を劣悪な人間と見なしたということであるが、ストリープのやったことも、それとなんら変わらない。
例えば、私が、自分の意見が通るような状況で、誰かを「こいつは馬鹿だ」と、一方的に言うようなものだ。
これほど醜い行為はない。

それに、そもそも、政治家が人格者である必要はないと思う。
有能な政治家や企業のCEOには、サイコパス(脳機能の不備のために良心を持たない人間)が多いという説もある。
サイコパスの遺伝子が長い人類の歴史の中で淘汰されなかったのは、少数のサイコパス(ただし優秀な)が活躍しなければ人類が滅びるからだ。
微生物でも、悪玉菌がいなければ善玉菌が働かず、悲惨なことになると言われている。
つまり、悪玉菌も必要なのだ。
別に、トランプが悪玉菌のようなものだと言うのではないが、今のアメリカの状況では、特に大統領ではなくても、サイコパスのリーダーは必要悪なのかもしれない。
もし、トランプがサイコパスなら、ストリープはよほどそうかもしれない。
まあ、個人的な考えであるがね。
ちなみに、私がサイコパスであるというなら、それは認める・・・というより、ずっと前から認識している。









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