ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
コンピューターシステム開発技術者、サイコパスのKayのブログ

サイコパス

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。
[2016/11/21]滅多にはありませんが、あまりにレベルが低いコメントは公開しません。
[2011/06/08]迷惑コメントが多くあったため、やむなく、コメントを承認後公開することとしました。

壊れた人間の生きる道

エンジンが狂った車や、調律が出来ていない楽器、バグのあるプログラムのように、頭、あるいは、心が狂っていたり、歪んでいたり、深刻な欠陥を持っていたら、いくら努力し、修行をし、情熱をたぎらせ、犠牲的精神すら発揮して、強い意思で行動しても、結果は悲惨だ。

そんな壊れた人間は、どれほど頑張ろうとも、経験するのは失敗と屈辱だけだ。
たまたま(本人にとって)上手くいった例がヒトラーだが、成功したら成功したで、やはり、世の中にも自分にも災禍をもたらすだけだ。
だが、偉人のように思われている者にも、狂った者はいると思う。
極度のロリコンだったルイス・キャロルは間違いなくそうだったし、錬金術にのめり込んでいたニュートン、人格者のように思われているが(部分的にはそうかもしれないが)偏執的な人間であったアインシュタインや、特定の食品を偏愛する大物俳優のジョン・トラボルタもそうだろう。
彼らの場合は、肯定的に成功し、人類に利益すら与えたかもしれないが、マイナス面も少なくないはずだ。
そして、有名人とか成功者でない、「ただのつまらない狂った人間」は、きっと多い。
先天的に脳に異常がある場合もあるだろうし、家庭や学校の教育や、生まれ育った環境のせいで狂ってしまった者もいる。

狂った人間は、自分の狂いを自覚して、騙し騙しやったり、自分とは別の自我を自分で構築して、ロボットとして行動することで成功することもあるだろうが、そのままでは、狂った人生を送るしかない。

「努力したのに」
「がんばったのに」
「我慢したのに」
「犠牲を払ったのに」
「苦しかったのに」
敗北と屈辱と悲哀しか与えられなかった者達の霊の呻きが聴こえる。

「ザ・ケルン・コンサート」という、狂ったピアノで演奏された世紀の名演奏がある。
いったいなぜ、あんな奇跡が起こったのかは分からない。
だが、演奏者のキース・ジャレットは、ピアノが壊れていることはよく分かっていた。
まともな人間のことは見当がつかないが、我々狂った人間は・・・狂った脳や心を持った人間は、狂いを自覚し、それを隠さなければならない。
狂いの部分が評価されたことはない。
たとえ狂気の天才と呼ばれることはあっても、彼が評価されたのは、まともな業績であることに気付かなければならない。
念仏なんて、狂った人間が、それを隠すためのツールのようにも思える。
いや、般若心経の呪文でも何でもいい。
それで狂いを封じ込めれば希望はある。









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自己嫌悪の果て

昔、ロバート・シュラーの「セルフラブ」という本を、「買った」ことがある。
その本の表紙に書かれた、「自分を愛することが出来る人だけが成功する」という、絶望的な文に、悪い意味で関心を引かれて買ったのだと、はっきり覚えている。
セルフラブ・・・自己愛。これほど難しいものもないだろう。

ラマナ・マハルシは、「人は皆、自分が幸福であることを望み、悲惨であることを望まない。そこに自己への至上の愛が見られる」と言ったと本に書かれていたが、いや、それは、単に「痛いのは嫌」「楽したい」「自我を満足させたい」ってことで、「愛」なんてもんじゃないだろう。
まあ、本当にマハルシがそう言ったかどうかは分からないが、多分、日本語になるまでの過程で、齟齬が入りまくったのだろう。マハルシが使ったのはタミル語だったが、まず英語への訳の段階で、相当おかしくなる場合が多いだろうと思う。

『新世紀エヴァンゲリオン』では、自己嫌悪の碇シンジ君、自己否定の綾波レイ、そして、表向き自分大好き「偉大なり私」だが、本当はゴキブリより自分が嫌いな惣流アスカラングレー といいう3人を揃えていたのだから、面白いと同時に、見ていて(あるいは読んでいて)、どこか陰鬱になる作品に仕上がっていたと思う。
面白いことに、アスカのような、「自分大好き」「偉大なり私」って人間は、他人に一切共感しないサイコパスなのだ。あなたの周囲や、有名人にも、よくいると思う。
ただ、アスカの場合は、根深い「自己嫌悪」を覆い隠していただけの「擬似サイコパス」のような気もする。
要するに、「自分なんか死んでもいい」と思っている子供でないと、ヱヴァンゲリオンのパイロットにはなれないのだろう。

私は、「自分なんか死んでもいい」とは思ってはいないが、世界から自分がいなくなっても、別に問題ないと言うか、その方が良い世界になるとは確かに思っているから、なるほど、こう冷静に、客観的に考えると、私も自己嫌悪であって、自己愛とは程遠いのだろう。
自己嫌悪の極みと言える歌は、鏡音リンちゃんの『炉心融解』だろう。

僕のいない朝は
今よりずっと 素晴らしくて
全ての歯車が噛み合った
きっと そんな世界だ
~『炉心融解』(作詞:kuma、作・編曲:iroha、歌:鏡音リン)より~

いやあ、ここまで自分を嫌っちゃいけないが、分かる気がする・・・つまり、共感する。
ところで、今の中高生の多くは、自分にしか関心がないが、そんな大人も増えていて、世の中、相当気持ち悪くなっている。
そのような自分へのこだわりは、決して愛ではない。

そして、シンジもレイもアスカも、それに、自分にしか興味がない人達も、誰も信頼していない。
誰も信頼していないし、自分も信頼していない。
だから・・・
『BEATLESS』で、レイシアがアラトに、「あなたは私を信じますか」と言った時、私は光を感じたのだが、多分、多くの自己嫌悪の人達もそうだったのだ。
アラトは、疑いを持ちながらレイシアを信じた。
ただ、レイシアがきれいな女の子だという理由だけで。
ただし、「徹底的にきれいな女の子」だったからだ。
五感ってのは幻想で、欺くことはある。
私はよく覚えているが、小学5年生の、ある日ある時まで、大好きで可愛いと思っていた女の子が、瞬間、可愛いと思わなくなったことがある。
ああ、本当に感覚というのは嘘つきだと実感した。
だから、アラトと一体化し、レイシアを信じることで、信頼という、この世の宝を得ようと思うのだ。

いや、何でもいい。
何かを信じられたら、自分を信じられるだろう。
容易い道ではないが、なんとも価値ある道である。
アインシュタインは神を信頼していたが、「サイコロを振る神」を信頼出来なかった。
「神は老獪だが、悪意はない」
神の意図は人間には絶対に分からないので、サイコロを振るように見えることもある。
それは、神どころか、偉大なリーダーは皆そうである。
サイコロを振るように見えても、信頼出来る何かを見つけることだ。









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地獄を紙一重で逃れたことを知りゾっとする

デルポイ(デルフォイ)の神託の第一、「汝自身を知れ(身の程を知れ)」が本当に難しいことを思い知った。

自分を知るには、自分と似た人を研究すれば良いのではないだろうか?
私に似ているのは、脳の機能的欠陥により、共感や良心を持たないサイコパスだ。
しかし、書籍で取り上げられるサイコパスには、たとえ凶悪犯罪者であっても、スペックが高い者が多いし、あからさまに、「サイコパスは高い能力を秘めている」と主張する研究者や批評家、ジャーナリストもいる。
サイコパスには、感情に左右されずに冷徹な判断を下すことが成功につながる、経営者、弁護士、医師、将校が多いと言う。
刑務所に入るような下級サイコパスにしたって、そこで驚くべき才能を発揮して、いい思いをしているという例もあった。
どうも、彼らは私よりずっとハイスペックのようで、彼らを通して自分を見ることは出来ない。

精神分析学者の岸田秀氏は、毒親(母親)に育てられて精神が病み、それをなんとかしようとして精神の研究をして、人間の本性を解明した(らしい)。
岸田秀氏の著書には、非常に納得出来るところが多く、一頃はハマったが、離れてしまった。
岸田氏は、自分がおかしいことは認めているが、結局、人間自体が狂った存在であるとしている。
私だって、人間は大なり小なり狂っているというのは認めるし、世の中の人間がクズだらけなのは分かるが、全般的に言えば私よりマシだということを、感情的には納得しないが、論理的に分かってしまった。
そんな訳で、岸田氏の理論は、私には役に立たない。
岸田氏がモデルにした、吉本隆明氏の思想はと言うと、彼は日本最高の思想家らしいが、私には、やはり無縁の存在だ。いや、彼が間違っているのではなく、やはり彼の説く人間の性質ってのが、私からすれば上等過ぎるからなのだが。

これまで、「ああ、これが私だ」と思ったのは、ビートルスの『エリナー・リグビー』に出てくる、変な老女エリナー・リグビーだった。この歌に出てくる、もう一人の「孤独な人」マッケンジー神父は、いやしくも神父様だ。私だって、神父や僧侶になりたいが無理で、やはり、マッケンジー殿も、私からすればハイスペックだ。
では、エリナーお婆さんは?
老婆になっても、王子様を待っているような雰囲気があるあたり、妄想という点では私に似ているといえなくもないが、あそこまで信念があるからこそ、銅像まで作ってもらえたのだろう。私が死んでも、絶対に銅像は作ってもらえない。
どうやら、私はエリナーさんにも負けているようだ。
いや、そもそも、エリナーさんは大物である。
でないと、マッカートニーに歌ってもらえないさ。

だが、ついに、私が勝てる人間がいることが分かった。
詳しく言うのもはばかられるが、自分以下の人間の存在を知って爽快感を味わいたければ、中村淳彦氏の『ルポ 中年童貞 (幻冬舎新書) 』を読むと良い。
しかしだ。私が、この本に出てくる、とんでもナイナイな人間にならなかったのは、やはり、プログラミングが出来るようになったからだ。
紙一重ってやつだ。笑い事ではない。
BASIC言語を発明し、その著作権を放棄してくれた、ジョン・ケメニー博士とトーマス・カーツ博士に感謝する。
そして、彼らのBASICをパソコンに移植し、誰でもプログラミングが出来る世界を作ってくれたビル・ゲイツに感謝する。
だが、私は、微かに存在する自分以下の人間を見ることで、私自身が、かなり分かってしまった。
それまでは、自分はもう少し高級な人間と思っていたが、それは希望的な思い込みに過ぎなかった。
せめて、中村氏の本のような人間になる瀬戸際の人を救うために、プログラミングをお奨めしたく思う。悪いが、私には、他にお奨め出来るほど知っていることはない。
だから、プログラミングに興味があるなら死ぬ気でやって欲しいと本当に思う。
来年の目標とかにしたりしてね。









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性悪説は一部の人間にあてはまる

皆さんは誰かを憎んでいるだろうか?
ちなみに、「恨む」とは憎み続けるという意味で、「呪う」は、恨んだり憎んだりしている相手に災いが起こるよう願うことであると同時に、「強く恨む」ことであるらしい。
憎しみの王様が呪いであるということか。
しかし、呪う、恨む、憎むの間に、根本的な違いはない。

あなたは、誰かを、憎み、恨み、呪っているだろうか?
私は、若い頃は、私の担任だった教師の大半を憎んでいた。
かなり長い間だ。
だが、考えてみれば、今は全くそんな気持ちはない。
私が憎んで止まなかった教師達にも、私が見ようとしなかっただけで、良いところはあったはずだ。
では、私が憎んでいた、彼らの悪いところは無かったのかというと、それは確かにあったのだろう。
ただ、それは、単に彼らも未熟だったというだけのことなのだ。
今では、彼らが、あんなことを言ったりしたりしたのは、仕方のないことだったと納得出来る。

ところで、最近私がよく観ている『地獄少女』というアニメには、毎回、ひどい悪人が登場する。
平然と他人に大きな苦しみや悲しみを与え、それが、純情なクラスメイトを自殺の追い込んでも、良心の呵責を全く感じない。
自分のせいで真面目な後輩が苦しんで死んでも、自分が安全なら、それで何の問題もなしと考える。
そんな人間は、アニメや小説の世界にしかいないのではなく、現実にいるし、人間の実に1割から2割はそうであるという研究結果もある。
では、彼らをどうすれば良いだろう。
断罪し、罰を与え、自分の犯した罪を後悔させるべきだろうか?
いや、偉大な愛の力で説得し、改心させるべきだろうか?
無駄だ。
彼らは、後悔も改心も「絶対に」しない。
なぜなら、彼らの脳自体に、罪の意識を感じる機能がなく、ありもしない罪の意識を後悔したり、罪の意識をたよりに改心することは、科学的、論理的に「ありえない」のである。

人間の性は悪だと言っているのではない。
性が悪である人間がいると言っているのである。
そして、そんな人間だって、絶対に必要なのだ。
そんな良心を持たない人間は、良心を持たないがゆえに、良心のブレーキがかからないからこそ、普通の人には決して出来ないことが出来るのである。
残酷で、非人道的なことでも、それをしなければ、災いが起こることもある。
それを彼らがしてくれるという面もあるのである。
だから、彼らは、意外と英雄や大企業の経営者に向いているとも考えられるのだ。

それに、『地獄少女』のヒロイン閻魔あいや、その仲間にしたところで、いかに相手が悪人とはいえ、あれほどの断罪を行うからには、やはり、普通の人が持つ何か大切なものが欠けているのである。
良心を持っていないと言って良いかもしれない。
良心を持っていない人間のことを、心理学や脳科学、あるいは、精神医学では「サイコパス」と言うことがある。
サイコパスは魅力的であることが多いと言われている。
閻魔あいは、とても魅力的だろう?









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本当の悪人とは

昔から、時代劇やアニメは、正義と悪の戦いだった。
時代劇では、ラストで、調子の良い音楽と共に、正義の味方が、悪の集団をバッタバタとやっつけ、『鉄腕アトム』では、アトムの「えーい!」の掛け声と共に、アトムが腕力を振るって悪を叩き潰した。

そんな中で、それは良くないんじゃないのかと言う者達が時々いた。
その理由は、まず、いずれにせよ、暴力は良くないということ。
また、誰が本当に悪いのか、そんなに簡単に分かったりはしないということ(だから裁判は難しい)。
さらに、そもそも、善と悪の区別が本当につくのかという、ちょっと哲学的な問いもあった。

『荘子』では、善と悪というのは、単に立場の違いに過ぎないと述べられている。
CLAMPの漫画『魔法騎士レイアース』のテーマは「この世に絶対的正義や絶対的悪はない」というものだったらしい。

だがまあ、「過ぎた利己的行為」を悪というのだと言って、ほぼ間違いはないだろう。
誰もが、自分の喜び、自分の欲望の満足のために、他者を犠牲にしているが、その度が過ぎれば良くないということになる。
では、どこまでが許容の範囲で、どこからが限度を超えているかは、あまり確とはしていないこともある。
昔は、会社の中で、男の上司が女子社員のお尻を触っても、「こんなん普通や」だったかもしれないし、公共の場所やオフィスでタバコを吸うこととなると、まず、悪いとは言われなかった。
しかし、いずれも、今は大悪である。

ところで、Amazonのプライムビデオで『地獄少女』が無料で見れるので、3話ほど観たが、これがなかなか考えさせられた。
毎回、必ず悪人が登場し、それは、疑い様のない悪である。
では、なぜ完全な悪なのかというと、自分の悪い行為に対して、後ろめたさがないからである。
『地獄少女』に出てくる悪人達は、根本的に良心を持っていない・・・つまり、サイコパスなのである。
良心を持っていない者相手に、道理は絶対に通用しない。だから、説得や教化は不可能である。
他人を苦しめる自分の行為に、後ろめたさ、後悔を感じているなら、まだ救いようがあるが、サイコパスの脳には、後ろめたさを感じる機能が、そもそもないのである。

中学2年の時に、さらっと読んだだけで確証はないが、吉行淳之助さんの『無作法のすすめ』によれば、紳士というのは、何かを思い出して、首がきゅっとすくむことがある人間らしい。
つまり、恥ずかしいことを恥ずかしいと、しっかり認識出来る知性や感情を持っている者が紳士なのである。淑女も同じと考えて良いと思う。
本物の紳士、淑女には、絶対的な悪人はおらず、それを概ね、「よき人」(今のJK言葉で「よき」人か)と言うのだろう。
尚、『無作法のすすめ』に、実際にそんなことが書いてあったかは、本当に自信がない。
そもそも、中学生が読むような本ではなかったような気がするし、それは父親が持っていた本で、それを読んでいて、父親に何か言われたような覚えもある。









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