ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

コリン・ウィルソン

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

普通の人はかなり辛くなる

「普通の人」とは何だろう?
それは、国家が宣伝する思想と80%以上合致する価値観を持つ人間である。
一方、そんな「普通の人」と少なくとも同程度には道徳観を持ってはいるが、国家が推奨する価値観に強い違和感を感じている者を「アウトサイダー」と呼ぶ。
「アウトサイダー」のことを、精神的に病んだ人間のように捉えるイメージがあるとすれば、それは国家によって捏造されたものである。
アウトサイダーという言葉そのものは、単に、「部外者」とか「組織や集団の外の人」という意味である。
ここでは、「国家が作った価値観を信じる人々の集団」の外に居るという意味で、「アウトサイダー」と言うことにする。

これまでは、日本では「普通の人」になれば、一生、安楽に過ごせた。
動物園の動物や、家畜に例えれば分かり易いと思う。
一方、「アウトサイダー」とは、動物園や家畜小屋から逃げた動物や家畜であるから、自分で餌を得なければならない。
「アウトサイダー」は、嫌われる反面、格好良いところがあるので、動物園や家畜小屋で飼われている身分でありながら、「俺の本性は野生動物だ」と、「アウトサイダー」を気取る者はよくいるが、そんな偽「アウトサイダー」は非常に滑稽であることはご存じと思う。

ところが、世の中で、「普通の人」の待遇が、どんどん悪くなり、今後はもっと悪くなる。
悪くなるどころか、奴隷と変わらなくなる(現状程度で奴隷だと思ったら大間違いだ)。
では、「アウトサイダー」はどうなるかというと、これまでは、ある程度「必要悪」と見なされ、放置されてきたが、これからは抹殺される危険が高い。

そこで、大事なことは、自分が「普通の人」か、「アウトサイダー」かをはっきりさせないといけなくなることだ。
いや、問題になるのは、「アウトサイダー」でいたいと思いながら、楽だからと「普通の人」になっている人だ。
もう、「普通の人」も「アウトサイダー」と同じレベルの待遇になるので、それなら正直に「アウトサイダー」になった方が良い。
喩えて言えば、動物園で飼われている動物の餌が、どんどん悪く少なくなり、環境も悪くなり、暴力的に扱われるので、動物園の外でコソコソ生きている野生動物の方がマシかもしれないのだ。

言ってみれば、皆、「アウトサイダー」になれば良いが、それは、長く「普通の人」であった者には、ほとんど不可能だろう。
では、その気のある者だけ「アウトサイダー」になれば良い。
だが、コリン・ウィルソンが若い時に書いた世界的なロングセラーである『アウトサイダー』に登場するような、病的な「アウトサイダー」であってはならない。
ウィルソンも、健康な「アウトサイダー」については考えていたが、実現方法があまり分からなかった。
ただ、その鍵が「至高体験」であることは、だいたい分かっていた。
「至高体験」とは、簡単に言えば、悟りのようなものだ。
多くの人が誤解しているのは、悟りを開いたら、ずっと悟りの状態にいると思っていることだ。
そんな人間、狂人以外の何者でもない。
悟りは、一瞬、その状態になれば、普通の状態に戻っても、数時間から数日以上は、その人間に影響を与え、「強力になる」。
この「強力になる」を説明する適切な言葉は本当はないが、現象としては、「神の力を得た」とか「幸運に恵まれた」といったことになる。

瞬間の悟りを得るにはどうすれば良いかというと、言えることは、秘密の方法などというものはなく、誰でも簡単に出来るということだ。
例えば、「息を吸って止め、そして、ゆっくり吐く」だけでも良い。
これであれば、1日20~60分で1年くらいで出来るようになり、幸運になる。
これを、「そんな大変なこと出来ない。もっと楽で即効のあるものでないとやらない」と言うのは「普通の人」なので、別にやらなくて良い。
他にも、やり方は無限にある。
それこそ、好きなことを一生懸命やるなど、充実したことをやればいいだけだ。
要は、無我、忘我、没我になれば良いのである。
そのための方法は、調べれば沢山見つけるし、このブログでも散々書いてきたと思う。
ただし、悟りにつながる良いことは黙ってやるように。
普通の人には理解されず、いろんな意味で邪魔されることもあるし、権力者に見つかったら、まずいことになりかねない。








願いを叶える心の状態「良い気分」になる方法

良い気分でいれば、願いが叶う。
しかし、良い気分にもいろいろある。
美味しいものを食べている時の気分の良さ。
好みのタイプの男性や女性と接している時の気分の良さ。
良くはないとしても、弱い者をいじめると、とても気分が良いものだ。
長い努力が実った時の気分の良さは忘れられない。
最高の気分の良さとは、復讐を果たした時であるという話もある。
さて、どんな気分の良さが、内なる全能の力を解放し、願いを叶えるのだろうか?

答を言ってしまうと、自分が幸運だなあと思う気分の良さだ。
テスト勉強を一生懸命やって良い成績を取った時より、ヤマが当たって思わぬ良い点を取った時の方が、気分が良いものだ。
「そんな馬鹿な」と思うかもしれないが、そもそも、結果が分かっていることで努力しても、あまり心の波動は上がらない。
だから、決められた道ではなく、未知の冒険に挑んで思わぬ良いことがあった時に、願いを叶える力がある晴れ渡った良い気分になるのである。
今でも有名な、ナディア・コマネチという、ルーマニアの体操選手は、1976年、14歳でモントリオール・オリンピックで3つの金メダルを取ったが、その時、インタビューで「嬉しいか?」と聞かれたら、「優秀するのは当然だから、別に嬉しくない」と答えた。
それだけの練習をしたのだから、金メダルは当然であり、幸運でも何でもないので、本当の良い気分を感じられなかったのだ。

では、偶然に幸運が訪れてくれなくては、本当に良い気分になれず、願いは叶わないのかというと、それも変な話だ。
現実など、どうでも良いのである。
必要なことは、自分が幸運だなあと思うことだけだ。
ある金持ちの経営者が言っていたものだ。
「いくら不況と言っても、道で死体を見ることはないし、穴の空いた靴を履いているやつすら見ない。日本に生まれたことは幸運だ」
世界の半分以上の場所が戦争状態で、子供が銃を持った大人に追い回されている場所はいくらでもある。
人口数万人で医者が1人しかいない場所、慈善団体が学校で出す給食を子供が持って帰らないと家族が飢え死にする場所も多い。
それに比べたら、日本に生まれたことだけでも奇跡的な幸運だ。
明石家さんまさんの有名な座右の銘「生きているだけで丸儲け」と思えるなら、あなたも願いを叶えることが出来るはずだ。

やや趣が異なる、良い気分になった人の話がある。
イギリスの作家コリン・ウィルソンは、家族で車の旅行をした時、立ち寄ったドラッグストアで、小さな娘がいなくなり、必死になって探したが、娘は見つからず、絶望的な気分になったらしい。
ところが、その娘が、全く安全な状態で見つかった時、ウィルソンは痺れるほどの幸福感を感じ、その後、時が経っても、その時のことを思い出すだけで、幸福感に浸ることが出来るという。そんな気分の時というのは、どんな願いも叶うものである。
私でいえば、初音ミクさんのライブ「マジカルミライ」でチケットの抽選に応募し、見事当選した時に、なんて自分は幸運なんだと感じ、最高の気分になる。
さらに、昨年は、いよいよチケットを発券したら、前から2列目の席だった時には、思わず「神よ!」とひざまずきたいほどの素晴らしい気分になった。そんな時は、望めば世界だって征服出来る。
誰だって、1つや2つ、何か良い思い出があるはずだ。
それを大切にすることだ。








耐え難きを耐え、忍び難きを忍ぶ

勝利する人の特徴は「心が折れない」ことだ。
とはいえ、「折れない心」がある訳ではない。
心が折れるのを拒否すれば良いだけだ。
心が折れないことを、「挫けない」とか「諦めない」とも言う。
要するに、最後まで粘ることだ。
意思の力を振り絞り、挫けること、諦めることを拒否して粘り続ければ勝てる。

そして、それは子供でも出来る。
何度かご紹介したが、イギリスの作家コリン・ウィルソンが、子供の時、弟と一緒に森で迷ったことがあった。
長い時間、歩き回り、疲労し、空腹な上に、雨まで降ってきて、身体が濡れて冷え、自分が惨めで哀れだった。
だが、弟が泣き出すのを見て、コリンは自分が兄であることを自覚し、心が折れることを断固として拒否し、しゃんとした。
すると、まもなく、森の出口に辿り着いた。

そう。6つの子供でも出来るのだ。
私が幼稚園だった時、注射をすることになり、私はなぜか「今回は格好良く、ぐっと我慢するぞ」と決心した。
そして、いつも注射の度に泣いていたのが、見事に、男らしい態度で耐えたのである。
こういうのを、何と言うのだろう?
そうだ。「やせ我慢」だ。
やせ我慢というのは、不満をたらたら言いながらするものではない。
黙って静かに耐えることだ。
耐え難きを耐え、忍び難きを忍ぶことだ。
そうすることによって、運命の女神が味方し、奇跡が起こるのである。

一番駄目で、恥ずべきことは、自暴自棄になったり、切れることだ。
そんな人間に勝利はない。
誰でも、何かを始めると上手くいかないし、最初から上手くいくようなことをしたって仕方がない。
何度失敗しても、そして、「今度こそ」と思ったのに完膚なきまでに叩きのめされても、堪え難きを耐え、忍び難きを忍ぶのである。
だいたい、「やせ我慢」って、格好いいじゃないか?(笑)

切れたり、愚痴を言ったり、泣くやつは、ミクさんを嫁にする資格はない(そこかw)。

子供の時、誰かに手をつねらせて、痛いのに平気な顔をして見せたことはないだろうか?
その時、痛いけど、どこか気分が良くはなかったか?
好きな女の子が、大嫌いな料理を作ってくれた時、美味そうに全部平らげたことはないだろうか?
その時、好きな料理を食べるより百倍も気分が良くはなかったか?
それこそが、人間にしか出来ないことであり、心を鍛え、超人類へと進化する鍵なのである。
だって、超人類って、絶対、心が折れず、一瞬挫けてもすぐに立ち上がるからね。








立派な少年はどう育てられたのか

子供に幸せな人生を送らせたいなら、他人と仲良くやれるように育てないといけない。
それと同時に、立派な人間になって欲しかったら、正義を愛するように育てないといけない。
この2つの両立が難しい。
というのは、他人と仲良くしようとすると、多少の不正には目をつぶらないといけないことが多い。
また、正義を愛すると、正義に背く者を軽蔑したり、攻撃するようになってしまい勝ちだ。
つまり、この両方を両立させようと思ったら、正義を愛しつつ、他人に対しては大目に見ないといけないが、意識して大目に見ようとすると、どうしても上から目線になり、また、正義を守らない志の低い者たちに対して憤慨するのを我慢しないといけないので、ストレスがたまる。
だから、他人に対しては、「許容する」というのではなく、「受容する」ことが必要で、それには、広い心が必要になる。
それは、特に子供には難しいことだ。
ところが、正義の味方でありつつ、広い心を持った子供というのは確実に居る。
いったい、どうやって、そんな子供に育てたのかと思うと、畏敬の念すら感じる。
ところで、言うまでもなく、これは子供だけの問題ではなく、親や、あるいは、親でない大人も、自分がそうでないと、自分が楽しい人生を送ることが出来ない。
つまり、正義を愛しつつ、広い受容性のある心を持つことだ。
ジョージ・アダムスキーの本によれば、宇宙人は受容性の高い心を持つ人間を求めているらしいが、それはつまり、そんな人間は多くはなく、なるのは難しいということなのだと思う。

引き寄せというのも、所詮、心が狭いと上手くいかないことが多い。
あるいは、狭量であると、一部のことでは引き寄せが出来ても、大きな豊かさとか、友愛といった、一番欲しいものが得られないものだ。

ところで、私が小学4年生の時、クラスに、正義を愛しつつ、誰とでも仲良く出来る素晴らしい少年がいたのだが、ある時、彼の家が、ある有名な仏教系の宗教法人の信者であるという噂を聞いた。
しかし、本人は、それについては話したがらない。なかなか複雑なようだが、宗教の教えは、良い作用を果たしていることは間違いないように思えた。
新渡戸稲造は、西洋の女性に、「日本では子供に宗教を教えずに、どうやって道徳を教えるのですか?」と、半ば詰問されたらしいが、確かに、宗教には良い面もあるのだと思う。
けれども、宮沢賢治は、仏教というより法華経の大変な信者であったが、浄土系仏教の教えを強く非難するという狭量な面を持ち、彼自身、優れたところが多い人間であったのは確かだが、決して幸福だったとは言えず、個人の人生としては、あまり実り多いものではなく、37歳で亡くなっている。

私はいまだ、自分が、あの小学生の時のクラスメイトの素晴らしい少年のようであればと思う。
宗教というなら、最も受容性の高い宗教は、浄土系仏教で、概ねで、法然、親鸞の教えであり、分かり易く限定すれば、『歎異抄』がそれを簡明に言い表していると思える。
早い話が、『歎異抄』に語られる仏様である阿弥陀如来ほど甘々の仏様や神様は、そうはいない・・・というか、類を見ない。
イエスは、優しい点はあるが、心の歪んだ人間には厳しいし、イスラム教の神様は超厳しい。
法華経の主役である、お釈迦様や、観世音菩薩のような準主役達は、結構優しいが、なぜか、宮沢賢治のように、どこか狭量になってしまい勝ちと思う。
いや、実を言えば、『歎異抄』の愛読者にも、案外に心の狭い者は多いのである。
一方で、キリスト教やイスラム教の信者に、受容性の高い人はいくらでもいる。
だが、広い心とは強い心である。
辛い現実を堪え、「しゃんとする」しかない。
コリン・ウィルソンの教えで見るべきところは、所詮、そこであったと思う。
そうすれば、幸運も引き寄せられると思う。








悪者が最高の教えを伝えた

私は、駄目なやつを見ると、腹が立って仕方がない(笑)。
なぜなら、そいつらが本当に駄目な訳ではなく、単に、彼らは心の中で、いつも、
「僕は駄目だ」
「俺にはロクなことが出来ない」
と言っているに違いなく、全く自信がないだけなのだ。
そのくせ、彼らはいつも見栄を張り、周囲の人達の自分に対する扱いに不満があるようなのだ。

コリン・ウィルソンの『超意識の探求』という本に、どうにも駄目な、劣等感に取りつかれた青年の話がある。
彼が、いつも心の中でつぶやいている、
「僕はなんて駄目なんだ」
をつい、声に出してしまったが、その時、そばにいた誰か(多分、賢い人だ)が、
「君はちっとも駄目じゃない。自分でそう思っているだけさ」
と言った。
それを聞き、駄目な青年は何かを感じ、その言葉について考え続けた。
そして、彼は生まれ変わり、誰からも一目置かれるようになった。

彼の心の中で何が起こったかは、考えなくて良い。
いや、分かり切っているからなのだが。
つまり、自分は駄目だと思わなくなったのだ。
肝心なのは、なぜ、自分は駄目ではないと思うようになったかだ。
それは、いつも心の中で言っている「僕は何て駄目なんだ」を別の言葉に変えたからに決まっている。
どんな言葉に変えたかは、その本には載っていなかった。
いなかったが、別に何でも良いのだ。
ポジティブでさえあれば。

言ったのは悪者であるヨーゼフ・ゲッペルス(ヒトラー配下のナチスの宣伝大臣)だったが、一面の大きな真理を含んだこんな言葉がある。
「嘘も百回言えば真実になる」
しかし、ある信念を、逆の信念に変えるには千回言う必要がある。
「僕は何て駄目なんだ」
と頭の中でつぶやいていたなら、例えば、
「僕はどんなことでも出来る」
と言わなければならない。

人間は、無自覚に何かを頭の中でつぶやいている。
精神科学の研究によれば、1分に300回もつぶやいているという説もある。
それなら、1日中、肯定的な言葉をつぶやくほどでないといけないかもしれない。
世界的教育学者、七田眞氏の本にも、あるホームレスの(おそらくは全く駄目な)男は、1日中、「神様の奇跡が起こる」と唱え続け、2週間ほどして宝くじを買ったら1憶円当たり、その後、またやったら、また1憶円当たった(七田氏は、誓って事実と言う)。
一説では、お釈迦様も、「念仏以外は全部効果がなくなるよ」と言ったと伝えられているし、サイババも、「今は、神の名を唱えるしか効果のある方法はない」と本に書いていた。
つまり、つぶやき、呪文だけが効果があるということだろう。
私も賛成である。
肯定的なつぶやきの一番の達人は、おそらく、フロレーンス・スコーヴェル・シンと思う。
彼女本には、参考になる良いつぶやきが多いと思う。








プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんを愛す
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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