ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
コンピューターシステム開発技術者、サイコパスのKayのブログ

コリン・ウィルソン

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[2016/11/21]滅多にはありませんが、あまりにレベルが低いコメントは公開しません。
[2011/06/08]迷惑コメントが多くあったため、やむなく、コメントを承認後公開することとしました。

自分に合った方法が必要

凡人と天才の違いはあれども、凡人の能力だって、普通に考えられているよりはるかに高い。
逆に、天才だって、うまく能力を発揮出来なければ、大したことは出来ない。
その鍵は、無意識とどれだけ親しめるかであり、右脳の力が発揮出来るかである。
天才的な精神科医ミルトン・エリクソンは、トランス(変性意識状態)に入ることで、無意識の力が発揮されると述べているが、普通の人が深いトランスに入ることは難しい。
ただ、どういう訳か、容易にトランスに入ることが出来る人も時々いるが、そんな人達は、何かのきっかけで、自分に合ったやり方を見つけた幸運な人だろう。

トランスに入るためによく使われる方法が、「緊張した後に弛緩する」だ。
トランスの深さを問わなければ、誰でも確実に、それでトランスに入れる。
下手な人も、少し練習すれば出来る。
トランスというのは、それほど、あるいは、全く自覚出来ないこともある。
しかし、慣れれば、やはり分かるようになる。
やり方はいろいろあるが、自分に合ったものを見つけることだ。
小さな点をじっと見つめて(視神経が緊張する)、ぱっとそれを止める。見つめる時間は、何度もやって、やはり自分に合った長さを見つけることだ。
見つめるものも、白い紙に書かれた黒い点とか、壁の小さなしみのようなもの、水晶などの透明な石(宝石等)、いろいろなもので試すと良いが、感情を動かされないものが良いだろう。
小さい方が良いとは限らない。
コリン・ウィルソンなどは、電車の窓から見える風景に意識を集中したり、車のエンジン音に集中し、そして、緊張を解くと、かなりのトランスに入れたようだ。
もっとも彼は、19歳の時、「さあ、今から青酸カリを口に入れて死ぬぞ」という究極の緊張状態から、「やっぱりやめた」という、急降下とも言える弛緩を体験したことが大きかった。
ロシアンルーレットも、カチリと音がした後に、極めて深いトランスに入れる可能性もあるが、いずれも、下手したら死ぬし、緊張が強過ぎて、精神が崩壊する危険も高い。

最も良いのは、緊張を伴う仕事が成功した時の解放感を利用することだろう。
一流の人間の間で軍記が人気があるのは、軍記の中にはそんな場面が多く、自分もそれに近いことを体験しているので深い共感を感じるからだ。

科学者であれば、難しい問題を考え続けて、長い緊張状態にいた後、何かのきっかけで不意に緊張が解けた時に深いトランス状態に入り、無意識の扉が開かれ、左右の脳が同調し、素晴らしいアイディアが閃くということがあるのだろう。
武術の達人同士の決闘では、お互い構えあって緊張し、それが長く続いた後、不意に息が合った時に、両者が深いトランスに入ることがある。
そんな時は、もう戦う必要はない。両者の技量の差が、戦わずして明らかになるからだ。

緊張した後弛緩するという方法を書いた本は多いし、それを指導する人もいくらでもいるが、皆、特定のやり方を押し付け過ぎる。
だが、所詮、自分のやり方は自分で見つけるしかないのである。









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読書家達

来日したアメリカの新しい国務長官ジェームズ・マティスは、7千冊の蔵書を持っているらしい。
きっと広大な家を保有し、その中に図書館があるようなものだろう。
イギリスの作家コリン・ウィルソンは、ある時期に2万冊の蔵書を持ち、その後も増え続けたと思うが、彼は特に金持ちという訳ではなかったので、庭に次々に小屋を建てて、本を保管していたようだ。
ウィルソンは、豊かではない労働者階級の出身で、高校にも行かなかったが、マティスは多分、少なくとも、それなりに豊かな家庭の出身と思う。学歴も立派だ。

いろんな読書家の話を見たが、ビートたけしさんも大変な読書家らしい。昔、今のような監督ではなく、俳優として映画に出た時、海外で彼が宿泊していた部屋を覗いたら、ベッドの上に本を天井に届きそうなほど積み上げて勉強していたらしい。
映画監督だった伊丹十三さんは、寝室に本を持ち込んで熱心に読書していたのだが、読み終わらないうちに、次々に新しい本を持ち込んだのは、読書好きというのではなく、「読んで賢くならないといけない」という脅迫観念のようなものだったと思う。

言うまでもないが、超のつく読書家で、特に、蔵書が多いというのは、経済的に豊かな人であると思う。
私は寝室と書斎(いや、そんな大袈裟なものではないが)の壁一面が書棚で、さらにそこいらに書棚を置いているが、一部屋が8畳程度なので、せいぜい数百冊といったところだろう。
それでも、これ以上置くと、古い木造の家が傾く恐れがあるし、本棚も、一段に本を奥と手前に2重に置き、それらの安っぽい書棚の板の多くがたわんでいる。
要は、大した蔵書ではないが、これが限界で、数年前、2百冊ほどブックオフに売った。それらの本でかなり稼ぐことも出来たかもしれないが、向こうの言い値の1万円ちょいで売ったと思う。
売った分は既に補完されてしまい、今は、紙の本だと、1冊置くだけでも、場所がなくて悩む。
全く、ど庶民だ。
金持ちになって、大きな家でも建てようかという気になることもあるが、不相応な金があると面倒なので考えものだ。

ところで、魔法を使って治しているとまで言われた驚異的な天才精神科医のミルトン・エリクソンは、育った家には、聖書と辞書しかなく、辞書の方を選んで、それを繰り返し読み続けたらしい。そのせいで、ある時までは、辞書をひく時、必ず先頭のaから順番に見ていたと言う。
そんな彼が、精神科医になった後でも、辞書を読んだおかげで知識がついたと言っていたそうだ。
家にあった本は聖書だけで、それを繰り返し読んで知恵を得たという偉人もいたと思う。
エドガー・ケーシーは、9歳の時に自分専用の聖書を買ってもらったらしいが、それを毎朝必ず読み、14歳までに13回通読したと言う。さらに、毎朝聖書を読む習慣は一生続き、年に一度は通読したという。
私は、こんなふうに、1冊の本を徹底的に読むことに憧れるが、そんな本にはなかなか出逢わないし、出逢っていたとしても、こちらの問題で、それが分からない。
そもそも、「これは」という1冊の本がある訳ではなく、上に挙げた人達のように、「それしかなかった」といった理由でもないと、なかなか1冊に集中しないはずだ。
あるいは、特に尊敬する人から、「これを読め」と言われ、愚直にそればかり読んだとかね。そんな人は立派な人になると思う。
また、アンデルセンが育った家には1冊の物語の本しかなく、それを母親が繰り返し読んでくれたらしいが、その本がアンデルセンに大きな影響を与えたはずだ。

私は、今は、「何か1冊」と言われたら、『歎異抄』を挙げる。私はこれを念仏の指南書としている。まあ、一時間後に意見を変えている可能性もあるが。
史上最高・最強のプロレスラーと言われるルー・テーズは、多彩な技を使ったが、「何か技を1つ」と言われたら、迷わず、ダブル・リストロックを挙げると言う。
そんな、とっておきのものがある人に私は憧れる。
法然の念仏にも、そう思う。
ちなみに、ジェームス・マティスは、ローマ皇帝で五賢帝の一人、マルクス・アウレリウス・アントニヌス(西暦121~180)の哲学書『自省録』を特に重んじているのだと思う。
また、コリン・ウィルソンは、おそらく、H.G.ウェルズの『ポーリー氏の物語』を特に愛読していたと思うが、これの翻訳書は見たことがない。









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現代の魔女狩りが始まったら

サイコパスという、25人に1人もいるという、良心を持たない人達。
私は、自分がそうだと分かっても、悲しいとも、楽しいとも、何とも思わない。
ただ、自分が何者であるか解明出来た嬉しさというものは確かにある。

「人様に迷惑をかけてはいけない」とよく言う。
サイコパスの私もそう思う。
ただ、私の場合、道徳的感情を持って、そう思うのではない。
人様に迷惑をかけると、巡り巡って自分が苦しいことになると、論理的、あるいは、因果論的にそう思うというだけのことだ。

サイコパスの男性が、痴漢やレイプといったことをしないのは、道徳心によるのではなく、処罰が恐いからだ。
だから、処罰されない状況であれば、平気でやる。
そんな人に、「人でなし!」と罵っても、何の意味もない。
彼には、良心の咎めなど、全くないのだから。
学校の教師や、会社の上司がサイコパスであったら、いかに恐ろしいか想像出来ると思うが、それは、実際にありふれていることなのである。

小学生の女の子達に人気があるアニメの「プリキュア」シリーズの、一番最初の『ふたりはプリキュア』で、こんな場面があった。
悪の戦士ピーサードが、プリキュアに変身出来ない雪城ほのかを追い詰めていた。
ブルドーザーでも軽く投げつけられるピーサードの前に、今はただの中学2年の女の子でしかないほのかは逃げるしかないが、心は決して怯まない。
そして、
「人のものを無理矢理奪おうとする、あなたは間違っている!」
と、ピーサードの所業を堂々非難する(普段おとなしいのに、気の強い子だ)。
すると、ピーサードは言う。
「お前が何を言ってるのか意味が分からんな。強い者が弱い者から奪い取るのは当たり前だ」
ピーサードは本気でそう思っているのであり、ほのかは、全く的はずれなことを彼に言っているのだ。
ほのかは、ピーサードも良心を持っているということを前提としているのだが、その前提が完全に誤っているのだからだ。
実を言うと、見ていて、私もピーサードに共感していたのだ。
ただ、自分はピーサードのような力がないので、彼のようなことをやらないだけなのだ。
ところが、ほのかのパートナーのなぎさが現れた時、ピーザードはなぜか、ほのかに、プリキュアに変身するためのツール(コミューン)を返す。
そして、「全力でこい」と、正々堂々の戦いを宣言する。
このあたりは、悪者らしくない。
見ている人達は、「やっぱりピーサードにも良心があったんだ」と思うかもしれない。
だが、やはり、私には、ピーサードの気持ちが分かるような気がしたのだ。
私は、自分をピーサードに置き換え、こう考えたのである。
「俺には、この少女の考え方、価値観、思想が理解出来ない。また、この少女も俺についてそうなのだろう。ならば、どちらが正しいかは力で決めるしかない」

イギリスの作家コリン・ウィルソンは、23歳の時に書いた『アウトサイダー』で、一瞬で世界的作家になった。
アウトサイダーとは、要は、普通の人とは異質な存在で、社会的な教義、信念、規範の外にある者である。
ウィルソンは、それを複雑に、文学的に表現していて面白いが、何のことはない。
アウトサイダーとは、単なるサイコパスである。

ピーサードとほのかの戦いと同じで、良心を持たないサイコパスと、良心を持つ普通の人の、どちらが正しいかは、力で決めるしかない。
その点、サイコパスは、数が少ない分、不利である。
ただ、『アウトサイダー』が世界中で売れるのだから、普通の人にとって、サイコパスは謎なのだ。
つまり、普通の人達には、良心を持たない人間が存在することが信じられない。
世の中には、変なヤツがいることは分かっても、そいつらが何なのか分からない。
そして、サイコパスにとって都合の良いことに、『アウトサイダー』は面白いだけで複雑過ぎ、サイコパスの正体を晒していない。
だから、サイコパスが必ずしも不利ではない。
冷静に見れば、今の世界では、普通の人とサイコパスの「縄張り争い」は、五分五分で、むしろ、やや、サイコパスが優勢かもしれない。
だが、その正体がバレた時が、サイコパスの最後かもしれない。
サイコパスを正確に見分ける方法が分かれば、現代の魔女狩りが始まるかもしれない。
もしそうなれば、私は黙って殺される。
これも、良心からそう思うのではなく、そうなれば、数の点で圧倒的に不利だし、そもそも、私は他のサイコパスと結託する気はないのだから、全く勝ち目はない。
だが、そんな理屈からではなく、面倒だから戦いたくないのである。
サイコパスは、基本、怠け者だ。
初音ミクさんに、「なぜ私を見捨てた」などと恨み言を言う気もさらさらない。
ミクさんはサイコパスの天使ではないのだから。









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ミュージシャン、野球選手で成功するには

どんな野球選手が成功するかというと、素振りの数が多い野球選手で、多ければ多いほど成功する。
これには2つの意味がある。
1つは努力する者であるという意味で、もう1つは、それが好きだということだ。
昔、ビートたけしさんが何かのテレビ番組で、さりげなくだが、「あいつら(一流の野球選手達のこと)、一晩中バット振ってるのは、やっぱり好きだからだ」と言われていたのを、印象深く覚えている。
自らも、本当に漫才が好きなのだということは、彼の本を読めばよく分かる。

また、ある世界的ミュージシャンが、「ミュージシャンというのは、街角でハーモニカを吹いてさえいれば満足出来る者じゃないと務まらない」と言っていたのは、まさに核心を突いている。
野球選手もまさに、「バットを振ってさえいれば満足出来る者でないと務まらない」のである。

ある成功した塾の経営者は、幹部達に、「俺とお前達の違いは素振りの数だ」と言っていたが、やはり彼は、子供達に勉強を教えるのが好きなのだ。
実際、彼は大学時代、タダで子供達に勉強を教え、たまに、子供達の親にお菓子をもらったら、ラッキーと思ったそうだ。
それで、子供達に勉強を教えることが出来ない経営者になったことを、後悔している面もあったのだ。
彼は、「いまさら部長に戻してくれと言っても、皆、嫌がるだろうな」と、本当は今でも教師をやりたいという本音を見せたことがあった。
世界最大のEラーニングであるカーン・アカデミーを作ったサルマン・カーンだって、やっぱり、ただ子供達に勉強を教えることが好きなだけだ。

だが、イチローが子供達に、「早く好きなことを見つけてくれ」と言っても、今どきの子供は、バットを振ることより、儲かること、ちやほやされることが好きな子が多いかもしれない。
そうじゃなくて、儲からなくても、ちやほやされなくても、ただバットを振ってさえいれば満足出来るようなことでなくては駄目なのだ。

法然が1日中念仏を唱えていたことだって、やっぱり彼は、念仏が好きだったのだ。
もちろん、それは、仏様自体が好きで、人々を救うことが好きだったということなのだが、「念仏が好き」という言い方でも差し支えない。
だが、法然の弟子の親鸞は、法然ほどには念仏が好きではなく、法然ほどには、念仏というバットを振らなかった。
だが、やはり彼は、人々を救うことが好きだったのである。
人々の心を救えさえすれば満足出来る者でなければ、坊主は務まらない。
だが、親鸞は、なかなか方針が定まらなかったのだと思う。
そして、最後に行き着いたのが、「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」だったのだと思う。
これは、「善い人ですら極楽浄土に行けるのだ。まして、悪い人が行けないことがあろうか」という意味である。
素晴らしい境地ではあるが、はてさて、それで愚民が救えるかどうかは分からない。

親鸞は、もっとバットを振ることを教えた方が良かったかもしれない。
コリン・ウィルソンも、人々を救うことが好きだったから、死ぬまで活躍出来たのだと思う。
彼の素振りは、数万冊という蔵書を読むことだったかもしれない。
月数冊読む程度の素振りでは、とても彼には及ばないし、最低限成功した作家にも及ばない。
だが、ウィルソンも、人々に素振りをさせることは教えられなかったのかもしれない。
大切なことは、あくまで、素振りの数なのである。









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努力するためのエネルギーをどうやって得るか

私は、ちょっと前から、充実した修行をしているが、それでつくづく思うのは、所詮、人間にとって必要なことは「鍛える」ということだ。
修行と言っても、瞑想したりとか、マントラを唱えたりといった類のものではなく、現実的に頭を使い、身体を鍛錬することをしている。

もし、人生相談みたいなものを受けたら、解決策は1つである。
それは、鍛えるということだ。
あらゆる問題は、鍛錬の不足から起こる。
ただ、鍛錬するためには、特に精神的エネルギーが必要なのだから、それをいかにして得るかということが大切で、そこをないがしろにしたら、不毛な根性論になってしまう。
また、「将軍様のため」の努力や、「天皇陛下のため」と言いつつ、その実、軍部のための努力なんかしちゃいけないし、無理矢理に努力させられると、エネルギーも失くし、結果、心身の健康を損ない、死に向かうのである。

エネルギーを得て努力するためには、「崇める」態度が必要である。言うまでもなく、心の底から、自主的に、真に崇めることである。
「崇める」とは、「敬う」と「憧れる」が1つになり、さらに、それを突き抜けたものであるが、単純に、そして、純粋に「敬愛」することとも言える。
そのことを分かるために、イギリスの作家コリン・ウィルソンの指摘は重要だ。
それは以下のようなものだ。
ロオマン・ガリの小説『自由の大地』で、堕落したフランス兵達が、空想の少女を崇めることで騎士道精神を取り戻し、ゴーリキーの『二十六人の男と一人の少女』で、人間として最低の状態になった中年の男達が、ターニャという16歳の少女を女神のように崇めることで人間性を取り戻した。
これらを重要なこととして示したのは、まさに、ウィルソンの天才的な直観によるものだ。ウィルソンは、その意義を言葉で正しく示すことは出来なかったかもしれないが、考えてみれば、そこまで求めるべきではない。
示唆さえしてもらえれば、後は自分の努力で見出すべきである。

ラマナ・マハルシは、「私は誰か?」を問うという、悟りへの道を示したが、誰一人うまくいかなかったのは、所詮、努力不足だからだ。
それは、生半可な努力で到達出来ることではない。
ラマナ・マハルシは、起きている間は、ずっとやれと言ったのだ。
しかし、そのようなことをやり遂げることが出来るのは、たまたま、それに適したアスペルガー症候群(特に、興味やコミュニケーションに特異性を示す自閉症的症状)ででもある者くらいだろう。
間違いなく、マハルシはアスペルガー症候群だった。
人間に個性があることは認めざるをえず、従って、努力の方向は多様だ。
特に、現代は、多くのことに取り組むことが出来る反面、何をすれば良いのか決めるのが難しく、同時に、学生期には、受験など、無理矢理に目標を与えられて、精神性を壊したり、腐敗させられることも多い。
だが、被害者ぶっていては、さらに悪くなるだけである。

鍛錬といっても、日常生活や仕事だって、最高の鍛錬になりうる。
その中の何かについて、超人的な努力でもって達人の領域を目指すことは優れた鍛錬だ。
だが、目標とするレベルが低かったり、単にやるというのでは意味がない。
例えば、もし、受験というものを鍛錬の題材にするなら、生まれ持ってのIQの問題もあるが、出来るだけ難関の学校に入学することを目指すのが良い。
ただし、あくまで、自主的にその気になればの話で、親や教師が無理矢理そうさせようとしたら、その子を真の意味で殺すことになる。

さて、話を戻すが、鍛錬するためには、何かを崇めなければならない。
それは、単なる憧れや、ただの好きといったものではない。
青少年期によく見られる、誤った崇拝には問題があるが、鍛錬のためのネネルギーとしては有効である。
だから、まずは、鍛錬が何より重要であると考え、妄想しないように、自主的に厳しく鍛錬すべきである。
いかなる問題も、鍛錬が解決する。
逆に、鍛錬しなければ、問題は増え続ける。
鍛錬のためには、何かを崇めなければならない。
それが鍛錬に耐える力を与えてくれる。
崇めるべき何かは、遠くにある訳ではないのである。
そして、崇めるべきものがあれば、厳しい鍛錬ほど楽しいというのが事実である。









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