ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
コンピューターシステム開発技術者、サイコパスのKayのブログ

コリン・ウィルソン

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。
[2016/11/21]滅多にはありませんが、あまりにレベルが低いコメントは公開しません。
[2011/06/08]迷惑コメントが多くあったため、やむなく、コメントを承認後公開することとしました。

こみ上げる幸福感

自分が不幸だとか、苦しい状況にあると思っていても、難民や戦争状態にある地域に住む人のことを思うと、平和そのものである。
日本で、それほどの不幸になることは滅多にない。
まさに、「日本に生まれただけで丸儲け」である。
まるで駄目男君(ある30代後半の人生の落伍者)が「逆境に耐えてます」と言った時は、私は怒りがこみ上げ、本当に殴ってやろうかと思ったほどだ。まあ、殴る値打ちもないが。

それでも、人間は不満を持ち易いものであるから、自分が恵まれていることを知るために、アンネ・フランクの『日記』を読めば良いと思ったことがあるが、それは駄目だった。私は『アンネの日記』は30%も読んでいないと思う。
あの状況で明るさを保ったアンネは大したものだと思うし、かなり頭の良い子だとも思うが、彼女は普通の少女である。そして、彼女が普通の少女であり続けたことが、日記の価値を高めている面もあるのだと思うが、私は、その普通の少女の感覚というものについていけない。時代が違うとはいえ、少女というものは、そんなに変わらないのではと思う。

それでは、ナチス強制収容所に送られるも、奇跡の生還を果したユダヤ人精神科医のヴィクトール・フランクルの『夜と霧』を読めば、今度こそ、相対的な自分の幸福を実感出来ると思ったが、予想外な意味で「アテが外れた」。
確かに、フランクルの苦痛や苦悩は大変なものなのであるが、やはり、読んだだけでは実感が出来ないことに関しては納得が出来た。
しかし、フランクルもまた、「普通の人間」であることをやめなかったのだ。
彼は、あの極限状況でも正気を保ち、良心を持ち続けた。思考という点では、彼も言う通り、薄弱になったり、感覚も鈍磨していたが、それでも、彼は異常にならず、また、強制収容所時代、そして、解放されてからも「超人」にはならなかった。
それなら、平和な状況にある我々が、どんな修行をしたところで、人間を超えることなんか出来る訳がない。
平凡かどうかは分からないが、人間は人間として生きるしかないことが分かるのである。
だが、安心して良い。

人間の精神というものは、普通の人が考えるよりはるかに高度なもので、その中に神がいると考えて差し支えないのだから。
『アラビアのロレンス』のモデルになったイギリスの軍人トマス・エドワード・ロレンスの『知恵の七柱』の中に、早朝の砂漠でロレンスが体験した、神秘的な精神状態を語っている場面があるが、それは、フランクルも感じたことがあったし、強制収容所の他の囚人にもあったようだった。
そして、それは本来、誰でも感じることが出来るし、心理学者のアブラハム・マズローや作家コリン・ウィルソンの著作にも、ごく普通の人々が、そんな「高い精神状態」に達した実例が描かれている。
それは、宗教で言う法悦と似ている、あるいは、同じである。
ラルフ・ウォルドー・エマーソンは、それを、「神の魂が自分の魂の中に流れ込む」ことであると言い、その体験は忘れることが出来ないと述べている。
そして、それはやはり、異常なことでも、特殊なことでもなく、人間の精神の中に標準で備わった機能なのである。
子供であれば、見知らぬ地に旅行に連れて行ってもらう時や、明日から夏休みという時に、しばしば、それを感じているのである。

それは「至高体験」と言われるものかもしれないが、コリン・ウィルソンは、それは単に「自分が幸運であると思うこと」であると言う。
しかし、「自分が幸運であると思うこと」とは、フランクルの著作と合わせて考えると、「楽しみを求めない」ことに深く関係することが分かる。
既に幸運であるのに、楽しみを求める必要はないからだ。









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至高体験の本質

心理学者のアブラハム・マズローが、「偉大な人間かどうかは、至高体験の有無だけで決まる」と言ったという話がある。
至高体験とは、万物と一体となった没我(忘我)の体験で、宗教でいう「法悦」は、その極限であると思われる。
道元は「仏道とは我を忘れることだ」と言い、W.B.イェイツは「芸術の目的はエクスタシー(忘我)」と言っていたようだ。
現代の心理学で言うフロー(完全にのめり込んだ状態)にも通じるかと思う。

ところが、マズローと親交のあったイギリスの作家コリン・ウィルソンは「至高体験は誰にでもある、ありふれたもの」と言い、緊張の後に弛緩した時に起こり易いと言った。
緊張の後の弛緩の極端な例で言えば、地雷や時限爆弾を解体し、起爆の可能性がなくなってほっとした時などだが、それほどでなくても、緊張した後、安心してほっとすることは誰にでもある。
『荘子』には、名料理人の包丁(ほうてい。刃物の包丁の語源)が、牛を見事に解体し終えた時に、常にそれを感じるような記述があった。
そして、マズローもウィルソンも同意したと思われるのは、至高体験とは、単に、自分を幸運だと思うことだ。
だから、マズローは大学で、学生達を被験者にした実験で、教室の中で学生達に、自分の幸運の体験を話させると、他の学生達の至高体験を引き起こしたと言う。
私は昔、志ある大人達(10人ほどだったと思う)に、これをさせたことがある。
その時、1人の50代の女性の、自分が強盗に遭い、冷静に切り抜けることが出来た体験の話で、他の人達も至高体験に達したのを感じた。

ところで、では、幸運体験を発表し合う機会のない、ぼっちはどうやって至高体験を得れば良いかというと、これも、コリン・ウィルソンが凶悪犯罪者相手に教えている。
ペン等の先に強く集中し、いっきに集中を解くのである。
それを何度か繰り返せば、至高体験、あるいは、それに近い状態に達する。

至高体験は、本来、量子論(量子物理学、量子力学)で解くべきものではないかと思う。
量子論とは、波動と粒子の変換の科学と言えるかもしれない。
じっと集中し、粒子の状態になった後、弛緩して波動の状態になると、真の世界を垣間見る・・・それが至高体験である。

昔、歴史的テニス・プレイヤーのジミー・コナーズが「テニス選手には2種類しかない。ウィンブルドンのタイトルを持つ者と、そうでない者だ」と言ったという話がある。
4大タイトルの中でも別格のウィンブルドン(全英オープン)大会のマッチポイントという最大の緊張の後、勝利が確定し、一気に緊張が解けた時は、さぞ、大きな波動の状態になるのだろう。

ナチス強制収容所から生還したヴィクトール・フランクルは、『夜と霧』の中で、「人間には2種類しかない。まともな人間とまともでない人間だ」と述べているが、まともでない人間とは、小さなことに凝り固まり、広がることがない人間なのだろう。
緊張や集中は必要である。
しかし、弛緩や解放も必要である。









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成功を約束する至高体験

大成功した事業家の斎藤一人さんが昔の著書で、「私が成功したのは、頭が良いからでも頑張ったからでもなく、ツイてたからで、なぜツイてたかというと、ツイてると言葉で言ったからだ」といったことを書いていたと思うが、これだけ見ると、受け入れない人も多いと思う。
だが、こんな話がある。
著名な心理学者のアブラハム・マズローは、「優れた人間と平凡な人間の違いは、至高体験があるかないかだけ」と言っているらしい。
至高体験とは英語のpeak experienceの訳で、ある人は「絶頂体験」と訳す方が良いと言っているが、表現し難い体験である。
万物と一体となった没我の体験と言う人もいるが、このようなものは、エクスタシーと言った方が良いかもしれない。しかし、エクスタシーと至高体験は別のものではない。
「20世紀最大の詩人」とも言われるアイルランドのW.B.イェイツは、「芸術の目的はエクスタシーである」と言った。
また、夏目漱石は、おそらく、同じことを「天賓」と呼んだし、およそ文豪で、この体験を知らない者はなく、ロマン・ロランは、至高体験と同じことを太洋感情と言っていた。

至高体験の最も直接的なビジュアルは、ジャン・ロレンツォ・ベルニーニの彫刻「聖テレジアの法悦」であろう。
「聖テレジアの法悦」は、英語でEcstasy of St Theresaで、まさに、「聖テレジアのエクスタシー」で、原語とも言えるイタリア語のEstasi di santa Teresa d'Avilaも全く同じである。
聖テレジアの法悦
この彫刻(特にテレジアの様子)を「エロい」と言っても、決して不謹慎ではあるまい。ベルニーニも、そんな意図で作らなかったとは思えない。
私なら、閻魔あいと 御景ゆずきの姿にしたいが・・・と思うのであるから、やはりそうである(笑)。

マズローは、至高体験は特別なもので、これが得られるかどうかは幸運に頼るしかないと言うが、マズローと親交のあったイギリスの作家コリン・ウィルソンは、「至高体験とは、単に自分を幸運と思うこと。誰にでもある、ありふれた体験」と言った。
この中卒のヒッピー作家は、超エリートのマズローを超えていた。
そして、マズローが、大学の教室で学生達に、「自分が幸運だと思う体験」を発表させたら、皆が至高体験に達した。
斎藤一人さん風に言うなら「ツイてる体験」であろう。
不幸な人生を送っているあなただって、ツイてた経験、幸運だった経験の1つや2つあるはずだ。
何かの人気小説のように、中学生の少女が不意に胸を見せてくれた・・・なんて特例はなかなかないだろうが(私はもっと凄いのがあるが内緒だw)、幸運の1つもない人間はいないし、思い起こせば奇跡的な幸運だってあるに違いないのだ。
いや、実際は人生は奇跡だらけだ。
それが解れば・・・そうでなくても、きっと「ツイてる」と言えば、奇跡も起こるし、過去の奇跡も思い出すだろう。そうすれば、さらに奇跡は起こる。

成功を約束する短い話が出来てしまった。百円頂戴と言いたいところである(笑)。









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まるで駄目な2人の青年が、なぜ生まれ変われたのか

当時、20代だったヨガ指導者の藤本憲幸氏の本の中に、面白い実話があった。
自信のない暗い二十歳くらいの青年(男性)が、突然悟りを開いて超人になったと自称してやって来て、藤本氏も、胡散臭くは感じたのだろうと思う。
しかし、その立ち居振る舞いは堂々として立派だし、実際、沢山の人達に敬われているようでもある。
その若き超人が話したことを読むと、私も、やはり何かを掴んでいるとは思う。
コリン・ウィルソンの本にも、やはり劣等感と無力感に取りつかれた駄目な青年が、少しの間に啓示を受けたように生まれ変わり、実際に人々の信奉を集め、賢者と言えるほどであるというお話がある。

藤本氏は、その超人の青年に、ダイエットの方法を尋ねている。
超人の青年は、「自分はすでに10kg痩せてすっきりした身体になったと思うと良い。食事を制限したり、運動したりは不要」と言う。
藤本氏も、それには反対ではないようだったし、私もそう思う。
ただ、「思う」というのは、かなり、シンドイ・・・つまり、負担なのだ。
シンドくて負担だから、大抵・・・いや、99%続かない。
そうではないだろうか?
成功哲学の本に書かれている通り、金持ちになった自分、美人美男になった自分をイメージしても、それを10日続けられた人は、まあ、いないと思う。
一方、コリン・ウィルソンの本にあった「元駄目で今は立派な」青年の方は、もっと良い・・・つまり、実行可能な、実際的、合理的なヒントを与えてくれる。
その青年は、ある時、「僕はなんて駄目なんだ」とつぶやいたら、それを聴いた人が「君はちっとも駄目じゃない。自分でそう思っているだけだ」と青年に言ってくれた。
それから数日で、青年は生まれ変わった。
その本には、青年が「君はちっとも駄目じゃない。自分でそう思っているだけだ」という言葉について、ずっと考え続けたことになっているが、考えるだけでは、少し気が晴れはするかもしれないが、すぐに元に戻るはずなのだ。
本には書かれていないが、この青年が、そんなに立派になれたとしたら、1つにことをやっただけなのだ。
即ち、自分は駄目ではないという意味の言葉を、頭の中でずっとつぶやき続けたのだ。
それは、「僕はちっとも駄目じゃない」を意味するような言葉で、例えば、「僕は可能性に満ちている」「僕は希望に満ちている」「僕はどんなことでも出来る」などだ。
「大丈夫」とか「絶好調」でも良いし、その時、たまたま、その青年が、ノーマン・ヴィンセント・ピールの本『積極的考え方の力』(トランプ大統領の愛読書でもある)や、聖書を読み、「私を強くして下さる方によって、私はどんなことでも出来る」という言葉を覚えて、それを唱えたのかもしれない。

藤本氏の本の方の超人の青年も、やはり、何かの言葉を唱え続けたはずなのだ。
心で抽象的に思ったり、イメージするのは、やはり、大きな負担であり、それを続けられる人はいない。
法然も、仏の姿をイメージし続ける正統的な修行は、よほどの人でなければ続かない・・・あるいは、よほどの人であっても続かないと思ったから、「南無阿弥陀仏」の念仏だけを選ぶべきであると言ったのだと思う。

どんな駄目な人間・・・このブログに時々出てくる、まるで駄目男君(30歳過ぎの人生の落伍者。派遣の雑用係)ですら、たった1つの言葉をつぶやき続ければ、上の2人の青年のように、強くなり、幸福になれるのである。
その言葉は、早い話が何でもいいし、何度か変えても良い。
1つの特別な言葉があれば、人生の問題の99%以上は(おそらく100%)解決する。
「大丈夫」「絶好調」で良いのである。
「私に恐れはない」でも、「奇跡は起きる」でも。
すぐに1つ決め、ずっと唱えるべきである。
もちろん、独自に決めても良いが、あまり凝らないことだ。
すぐに始めた方が良い。
ただ、注意しておきたいのは、特別な言葉は1つでなければならないということだ。
2つ以上だと、ほとんど続かないのだ。それで失敗する人が、あまりに多いのである。
つまるところ、「大丈夫」も「絶好調」も「奇跡は起こる」も同じなのである。








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人生が気に入らないなら換えてしまえばいい

SF小説か何かで、こんな話があった。
未来を見てきた時間旅行者が、墜落することになる飛行機に乗ろうとする知り合いを止めようとするが、歴史の改変を許さない宇宙の力の作用で身体が動かなくなって目的を果たせず、そのまま飛行機に乗った知人は死んでしまう。
運命とは、そのように変えられないものであり、つまり、人の運命は決まっている。
神話などでも、宇宙の摂理に反するようなことを試みる者は、ことごとく失敗したり、悲惨な目に遭っている。
例えば、死んだ妻エウリュディケーを黄泉の国から連れ戻そうとしたオルペウスは、所詮、失敗するしかなかったのだ。

では、どうあがいても運命は変えなれないのかというと、人間に留まる限り、その通りだ。
人間は運命に従うしかない。
それは、映画が脚本通りに始まり、展開し、終わるようなものだ。
ところが、宮崎駿さんは、ストーリーを考えずに作っていたらしい。
それで、「後30分しかないのに話が終わらない」なんて鈴木プロデューサーに泣きついたことがあったという。
観ている観客は、予想のつかない展開に興奮するが、何のことはない。元々、監督にも結末は分からなかった・・・いや、決めていなかったのだ。

H.G.ウェルズの『ポーリー氏の物語』(未翻訳)で、ポーリーが「人生が気に入らないなら換えてしまえばいい」と言ったのを、同じイギリスの作家コリン・ウィルソンはひどく気に入り、多分、座右の銘にしていたのだと思う。
そうだ。人生という映画が気に入らないなら、映画自体を換えてしまえばいいのだ。
物理学の量子力学の仮説である多世界解釈(いわゆるパラレルワールドに関するもの)の1つの考え方では、世界なんて、何かの拍子にぽんと1つ発生する。
新しい理想の世界を作り、そっちに移動すれば良い。
それには、自分は役者に過ぎず、自分という人間は単に登場人物で、そんな人間が本当に存在する訳ではないと気付くことだ。
「20世紀最大の詩人」W.B.イェイツは『ラピス・ラズリ』という詩の中で、
「良い役者は自分が泣いたりしない」
と書いている。
その通りだ。
不幸な役を演じたからって、何が悲しかろう。
「良い役者は泣いたりしない」
それを忘れないことだ。
初音ミクさんの『FREELY TOMORROW』のように、「顔を上げて微笑む」ことだ。
それで奇跡が起こるに決まっている。









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