ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
あなたをSE、プログラマー、あるいは、超能力者にするブログ。ひきこもりも歓迎。

コリン・ウィルソン

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。
[2011/06/08]迷惑コメントが多くあったため、やむなく、コメントを承認後公開することとしました。

人間に才能なんてものはない

モーツァルトは神童の代名詞のようなもので、幼い時に、いきなり、ピアノを凄い腕前で弾き、素晴らしい曲を作った・・・なんて聞いたか見たかした覚えがある。
しかし、そんな話は、必ずと言って良いほど誇張がある・・・ないはずがない。
幼いモーツァルトがロクに練習もせず名演奏をしたという話は、実際は、モーツァルトは、なんらかの理由でそれなりの期間、猛練習していたに違いないのだ。
幼いモーツァルトが作った曲も、実際は大したことないものだったが、「立派な曲」にされてしまったのだろう。
よくある話じゃないか。
ただ、モーツァルトが恵まれた環境にあり、音楽をやる時間がたっぷりあり、また、音楽を好きになる出来事や状況があったのは確実だと思える。

イギリスの作家コリン・ウィルソンが『至高体験』で書いたように、「天才とは全て、内なる衝動」なのである。
イチローは、天才と言われるのが嫌なように思うが、彼も、どれだけ練習したかはあまり言わない。
しかし、メジャーの大打者テッド・ウィリアムズ(出塁率メジャー記録保持者。最後の4割打者。三冠王2度はメジャーの歴史で2人)は、少年時代から、起きている時間の全てをバッティングの練習に注ぎ込んでいると言われるほどだった。
イチローも負けていなかったのだとと思う。
国際的な陸上選手だった為末大さんは「アスリートは才能が99%」と言ったらしく、私も長く信じていたが、多分、それは間違いだ。
ある人類屈指の水泳選手がいて、その選手の体形が泳ぐためにいかに有利かと語られたことがあったが、名スイマーの全部が、そんな体形をしている訳ではない。
短足で不向きと言われながら、陸上の短距離で無敵を誇ったマイケル・ジョンソンは極端な例だが、どう見ても、向いているとは思えない競技で成功したアスリートは多いし、成功したら、向いている点が無理矢理に強調されるものなのだ。

まあ、超一流の話は我々に縁遠いので、私がなぜプログラミングが上手くなったかという話をすれば、暇で他にやることがなかった・・・以外に特に理由はない。
昔の話だが、パソコンの普及期、標準言語だったBASICをマスター出来る者は100人に1人とか言われたが、それが極端な言い方であることは確かとしても、実際、プログラミングをマスターした者は少なかった。
しかし、プログラミングをマスター出来なかった理由は、その気がないか、暇がないかのどちらかでしかない。
理系か文系か、若いか年配か、男か女か、要領が良いかドン臭いか、対話などでの感じで頭が良いか悪いか・・・一切、関係ない。
集中力があるとか、のめり込む・・・などと言えば聴こえは良いが、自分の殻に閉じこもるとか、周囲を無視して自分勝手に行動出来る者がプログラミングをマスターしたように思う。私が全くそうだ。
だが、テッド・ウィリアムズやイチローも、伝え聞く範囲では、極端なまでにそうなのだ。
イチローは修学旅行が嫌で、それに行かなくて済むよう、甲子園に出るために大活躍したと言うし、テッド・ウィリアムズは周囲の都合を一切無視してバットを振ったし、私も社員旅行などは、どれほど常務等の役員に脅されても絶対に行かなかった(あれほどの時間の無駄と精神の苦痛はない。今は、私がいた会社でも無理に社員旅行に行かせるのはパワハラであるという認識が外部から教えられた)。

人間に才能などない。
その気になって時間を注ぎ込んだ者だけが勝利する。それだけが事実だ。
スポーツでも仕事でも、スタート時点で頭抜ける者がいるものだが、そんな者は大抵、ある時期からうまくいかず、むしろ、スタート時点で「向いてない」と言われた者が逆転してトップに立つものである。
才能で成功したかのような者の裏側に何があったかなんて誰も知らないし、ジャーナリズムなんてのは、本当に肝心な情報を知らせないのが鉄板(確実なこと)である。







「しゃんと」して、「ぼーっと」する

あらゆるスピリチュアルな天才達の魔法の教えを統合すると、それは、「強く思ってぼーっとする」になる。
1つの分かり易い例で話そう。
イギリスの世界的作家コリン・ウィルソンは、まさにオカルトオタクだったが、天才だった。
しかし、彼は天才の鋭さは十分だが、具体的手段を体系化するといったことは、苦手だったか、興味がなかったかだと思う。
だが、彼の本はまさに、貴重なヒントの宝庫だ。

彼は子供の時、弟と一緒に森で迷ったことがあった。
行けども行けども、森から出られる兆しは見えず、疲労し空腹に襲われ、その上、雨が降って身体が冷えてしまった。
小さい弟はずっと前から泣きべそをかき、歩くことも拒否する・・・コリンも、弟と同じ状態に陥る寸前だったかもしれない。
しかし、コリンは、「僕は兄さんだ」という自覚を奮い起こし、元気なところを見せ、弟を安心させ、そして、励ました。
そして、考えるのをやめ、勘を頼りに進むことで、ついに森を出、生きて家に帰れた。
この経験から得た貴重なものは、ウィルソンは、「しゃんとする」ことだと言う。
森を出ることが出来た内面的導きは右脳の力だが、まず、左脳が「しゃんと」しなければならないのである。
左脳の仕事はそれで終わりだ。
左脳がやるべきことをし、後は右脳に任せてしまうことでうまくいったのだ。

矢追純一さんも、同じことを著書の中で述べていたと思う。
目標を決め、後は、自分では何もせず、何も考えず、ただ大きな力にまかせるのだ。
矢追さんは、まともに学校に行ったのは中学の3年間だけで、高校時代は、妹2人を養うために働いたり(住むところの家賃も稼いでいた)、朝帰りになるほど飲んで遊ぶのに急がしく(笑)、全く高校には通わず、制服も持っていなかった。
それでも、大学に進学しようと思い、中央大学法学部を受験する。中央大学の中でも法学部は別格とも言える名門で、当時の司法試験では、合格者数で東大を超えていて、全国のエリートが集まっていた。
矢追さんは、合格すると強く思って、後は野となれ山となれだったのだと思う。
参考書を1冊か2冊は読んだようなことは書かれていたが、とても受験勉強と言えるようなものではない。
しかし、試験後、合格と決まっていると思って心配もせず旅行に行き、帰ってきたら、やはり合格通知が届いていた。

ビル・ゲイツだって、成功の始まりであった8080BASICをポール・アレンと作った時も、まず、「作るぞ」と強く思い、後はただ、趣味のアセンブリ語プログラミングを楽しんでいたはずなのだ。
困難な仕事に挑む時、頭では自分にはとても出来ないと思っても、「しゃんと」して、やり遂げると決め、後はぼーっとして、宇宙に偏在する無限の知恵と力にまかせてしまうのだ。
とはいえ、最初に「気負う」のではない。
どちからというと、「選択する」のだと思う。
私事で言えば、初めてソフト開発の仕事を受託した時、私は、「わりとベテラン」という売り込みだった(笑)。
仕事を見事受託し、車を運転して帰る時のことを、昨日のことのように思い出す。
とても自分に出来るとは思えなかったが、もう受託してしまった。やるしかない。
それで、もう何も考えないことにした。
そして、3ヵ月後、受注先の部長は「さすがプロ」と言っていたらしい。
アントニオ猪木さんが、重要なこととして本によく書かれていた「開き直り」という言葉を思い出す。
絶望的な状況でも、開き直ってしまう・・・何も考えず、ぼーっとしてしまうことが大切だ。
「もうどうにでなれ」ではあるが、自暴自棄になるのではなく、「しゃんと」し、何とかなることを選ぶのである。









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時代劇に見る真の愛

このブログも、いよいよ愛というテーマにたどりついた。
笹沢佐保さんの時代劇小説『木枯し紋次郎』に、素晴らしい愛の例がある。
紋次郎は、刀を折り、至急、新しい刀を必要とし、腕の良い刀鍛冶師がいるという山に行く。
確かに、天才的な鍛冶師がいて、丁度、新しい刀が完成間近で、それは素晴らしい名刀であり、しかも、紋次郎の鞘にぴったりだった。
だが、鍛冶師は、丹精込めて鍛え、仕上げつつあるその名刀を、紋次郎には売らないと言う。
当たり前である。紋次郎は乞食同然の流れ者。それに、売ってくれるとして、紋次郎に払える額とも思えない。
だが、紋次郎は、すぐにでも刀を手に入れないと命がない。大勢の敵に追われていたのだ。
そこで、紋次郎はどうしたか?
鍛冶師が、その名刀を仕上げるべく、朝から仕事を始めると、紋次郎は、やや離れた場所から、鍛冶師の仕事を見ていた。
時間が経過し、鍛冶師は熟練の技と研ぎ澄まされた心で仕事を続ける。それを、紋次郎は静かに見ている。片時も目を離さず。
そして、夕刻に、ついに刀が完成する。
すると、鍛冶師は静かに紋次郎に近付く。鍛冶師は黙って手を出し、紋次郎は黙って自分の折れた刀を渡し、鍛冶師は黙って受け取ると、それを持っていき、柄から折れた刀を外すと、完成したばかりの刀をはめ込む。
鍛冶師は黙って紋次郎に刀を渡し、紋次郎は黙って受け取る。
「御代は要りません」
紋次郎こそ、この名刀の持ち主だった。
小説には、これ以上は書かれていない。

では、なぜ、紋次郎は、この刀を手に入れることが出来たか?
また、なぜ、鍛冶師は、こんな大切な刀を紋次郎に譲ったか?
それは、紋次郎が、鍛冶師を、鍛冶師の仕事を、じっと見ていたからだ。
じっと見るというのは関心を示すが、紋次郎は実際に、鍛冶師とその仕事と彼が作る刀に対し、言葉で言うことも出来ないような深い関心を注ぎ続けた。
関心とは愛なのである。
マザー・テレサが、愛の反対は無関心と言ったように。
そして、人間の愛は、人も全ても動かすのである。

コリン・ウィルソンの『右脳の冒険』に、こんな実話がある。
心神喪失の妻を、何日も観察し続けた男の話だ。
妻が心を取り戻すのを願い、そして、心を取り戻した時を逃さないために、男は片時も離れず、妻を見続けた。
妻は奇跡の回復をしただけでなく、男は賢者になった。
これが愛の力である。
そして、無論、関心の力である。

46歳で亡くなったミュージシャン、村下孝蔵氏の、沢山の人がカバーした名曲『初恋』の、こんな一節を覚えている。
「遠くで僕はいつでも君を探してた」
「探してた」は「見ていた」でも良かったが、意識を向け続けること、関心を持ち続けることが愛である。
この歌は、「愛という字書いてみてはふるえてたあの頃」で終わる。

関心を自己から切り離し、対象に向けた時、それが真の愛なのである。
『バガヴァッド・ギーター』では、「五感を外界から切り離して自己の内部に向けよ」とある。
それは、内なる神にのみ関心を注げという意味で、神を愛せよということである。
ただし、全ては神の現れでもある。神として見る限り、何を見ても、内なる神を見るのと同じだ。
だから、本当に好きなものを、神聖な目で見れば、それは神を愛することである。

尚、最初の話は、『木枯し紋次郎』の何巻の何だったか分からない。









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内なる魔術師を解放すれば全能である

2つの重要な情報について語る。

1つは、人気がある精神療法のNLP(神経言語プログラミング)の創始者の1人、リチャード・バンドラーの本で見た覚えがあることだ。
自分の過去を映像で思い返す時には、2つのやり方がある。
1つは、その映像の中に自分がいるもの。
もう1つは、映像の中に自分はおらず、自分の視点で思い出している。
普通に考えれば、後者の自分視点で思い出す方が自然だ。だって、実際には、それしかないのだから。
しかし、前者の、自分が映像の中にいることも少なくないと思う。

2つ目の情報は、コリン・ウィルソンの『フランケンシュタインの城』に書かれていたものだと思う。
自分の中には「魔術師」がいる。
そして、今、自分の五感で感じている世界というのは、その内なる魔術師が一瞬で作ったものだ。
これは、ウィルソンの意見とかではなく、多くの名のある研究者達の報告である。

この2つを組み合わせると面白い。
世界を創る「内なる魔術師」は、自分の外に移動することが出来るのだ。
いや、実は、魔術師は、我々の理解を超えた存在で、大きさや形がなく、自分の内にも外にも、宇宙のどこにでも存在している。
そして、世界を生み出し続けている。
こんな話にピンとくる人は多いと思う。
模様のない、白や黒の壁を見た時に特に多いような気がするが、小さなドーナッツ状(人によっては多少違うかもしれない)の赤い沢山の光が動き回っているように見える。人によっては、赤でないかもしれない。
この光の模様が、魔術師が世界を創るのに使うマテリアル(原材料)である。
ただ、実際は、このマテリアルは非常に小さなもので、電子より小さい何かかもしれない。
それが、話題のヒッグス粒子であれば、ヒッグス場の形はシャンパンボトルの底の形をしているらしいし、色も赤とは言えないが、そう感じるのかもしれない。
まあ、ここらへんは興味があれば調べると良いと思う。
内なる魔術師は、生きた模様を使って、あるいは、生きた模様と意思疎通して世界を創っている。
そして、魔術師とは本当の自分なのである。

なぜ、偉大な魔術師たる自分が世界を自分の思う通りに創れないのかというと、自分視点の場合、脳の影響を受けるからで、脳には、様々な情報が詰め込まれているが、その多くが有害なものだ。
だから、自分から抜け出し、自分が見えるように考える・・・一般的には客観視する方が力を発揮し易い。
何でも、武道の達人の教えでは、敵の頭の後ろが見えれば勝てるそうで、これは、脳から抜け出した自由な魔術師の視点なのだろう。
考えることをやめ、魔術師を解放すれば全能なのである。








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ゾーンに入り世界を動かそう

では、超越状態に入り、世界を動かしたり、現象を創造したり、超能力を発揮しよう。
集中が大切だが、自分が集中に入り易い感覚を使えば難しくない。
人によっては、集中し易い感覚が違うが、視覚か触覚で大抵うまくいく。

コリン・ウィルソンがセミナーで教えていた方法は、視覚を使うものだった。
ペン先などに全力で集中し、不意に集中を解くということを何度も繰り返すだけだ。
それだけで、浅いかもしれないが、至高体験、あるいは、ゾーンと呼ばれるものに入れる。

触覚を使う簡単なやり方は、親指と薬指を微かに触れ合わせ、その感触に集中するものだ。
薬指は敏感なので、微かな感覚を感じ易い。
出来るだけ微かに触れ合わせ、限りなく微かな感覚に集中する。
京都の広隆寺にある、第1号の国宝である、弥勒菩薩半跏思惟像(みろくぼさつはんかしいぞう)の弥勒菩薩の姿のようにやれば良い。
弥勒菩薩半跏思惟像「宝冠弥勒」(広隆寺霊宝殿)
これも、適度なところで集中を解き、少し間を置きながら繰り返す。

他に簡単なやり方としては、細く長く吐く息に集中するというものがあり、私が気に入っているやり方だ。
短めに鼻から息を吸い、鼻から出来るだけゆっくり吐く。
息を吐き終わったところで目を見開くなどで意図的に集中を解き、少し間を置いて何度か繰り返す。

集中が長いと、より深い超越に入れるが、無理はしないように。
コリン・ウィルソンの『右脳の冒険』に書かれていたと思うが、こんなものがあった。
ある男性の妻が、ある出来事のため、心神喪失となり、ベッドで寝ていた。
その男性は、ずっと妻の様子を注意深く見守っていた。
長い間、そんなことをしていて、妻の心が戻った時、男性の長い集中が解け、男性は別の人間に・・・神的な人間に生まれ変わった。
坐禅修行も、本来はそんなものを目指しているのかもしれないが、修行のつもり、悟りを求めるつもりでやっても、ほとんどうまくいかない。
一方、この男性のような状況では自然に出来てしまう。

高度な超越状態に入れるようになると、周囲からは超然とした人間に見えるようになる。
人格者であるとは限らないが、鷹揚である・・・つまり、ものごとにこだわらず、なりゆきにまかせ、一喜一憂しない。
普通の人には解らないが、彼は世界を動かし、世界を作っている。
彼にとっては、世界は自分のものであり、願わずとも思い通りになるので、ただ要求するだけである。王の命令が絶対であるのと同様、彼の要求は適切な時期に叶うが、それに対して、彼は満足はしても、そんなに喜ばない。当たり前だからだろう。王が、自分の命令が為された時の様子と同じである。

身体を動かすのも良い方法である。
腕振り運動や四股を、1回1回丁寧にやると、しばらくしたらゾーンに入っている。
その感覚に慣れれば、深い水の中で自在に活動するようなものなので、この世である浅い水の世界は簡単過ぎて、何をしても勝手に成就・・・つまり、叶ってしまうのである。
数学者の岸根卓郎さんは著書でステレオグラム(立体画)を利用することを薦めておられたが、脳に直接作用するので、面白いかもしれない。
とはいえ、最も良いのは、好きなことに没頭することであることは言うまでもないと思う。









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