アメリカのテレビドラマ『大草原の小さな家』のお話を少ししよう。ある夜、大勢の客をディナーに招いていた家で、その家の主人である年配の男性が、フットボール選手だった若い頃の自分の活躍を話していた。それは、自分が劇的タッチダウンを決めたゲームで、彼は、そのことを、もう何度となく話して聞かせていたのだった。
「そう、あれは50ヤードはあった」
客達はマナーに則って賞賛を示し、主人は得意げだ。
「今夜は楽しかったよ」
主人は満足して、客達に別れを告げた。
客達が去った後、妻が静かに微笑みながら、ためらい勝ちに言う。
「あなた、タッチダウンまでの距離が話すたびに長くなるわ」
主人は顔色を変え、
「私が嘘を言っているとでも言うのか!?」
と怒りを表す。妻には元より悪意はなく、
「そうじゃないわ。年を取れば、誰でも記憶違いがあるわ」
と弁解する。
主人は不機嫌そうに、
「私はもうろくなどしておらん!」
と怒鳴るが、後ろめたさも感じている。
妻は、老人の自慢はみっともないことを控えめに指摘すると同時に、主人に気遣いもしていた。彼だって、心の中では、そんなことは分かっているのだろう。
「過去に生きる」という言葉がある。
昔は他人に抜きん出ていたのに、今はただの人だったり、あるいは、落ちぶれてしまっている者が、輝かしかった昔の栄光にすがって生きている状態を言うものだろう。
子供向けの話では、『機関車やえもん』という、50年以上もロングセラーを続ける絵本作品がそんな話だった。
実は、あの宮本武蔵もそうだった。
年を取った武蔵は、なんとか仕官できた藩で、昔の自慢話ばかりして周りの者達に嫌われていたようだ。ただ、いつもそうであったという訳ではなく、そんなことが何度かあったという程度のことかもしれない。それでも、老人の自慢はみっともないのだ。
ゲーテは言っている。「自慢をするな。青年時代の過ちを卒業しないうちに、老人の過ちを犯したいのか?」と。
だが、人は老人になってから愚かになるのではない。
若い栄光の時に、すでに過ちを犯していたのだ。
自慢をする老人のわびしさは、その因果なのだ。
若かろうが、老人だろうが、どんなに大きなことを成し遂げても、それを自分がやったと思っていなければ、そんな因果は彼に作用しない。
オリンピックの柔道決勝で、勝利した日本人選手が、対戦相手の前で何度もガッツポーズをしてはしゃぐ姿を見せたことがあった。
元来、日本人はあんなことはしない民族だ。
しかし、マスコミは、スポンサーの思惑通り、激賞の報道を繰り返し、本人はますます重い因果を背負うことになる。彼は、いつかそれを清算できるのだろうか?
柔道も、相撲同様、礼に始まり礼に終わる。勝っても賞賛は受けないのが決まりだったのだ。
勝った方が、負けた方を思いやるというだけではない。
自分が勝ったのではない。勝ったのは自分ではない。
ただ、自然の本性のまま戦い、宿命を果たしただけなのだ。
だから、結果について、思い煩うことはない。
全ては神の至高の力が動かす。ならば、成果は神に捧げればいい。
これを、老子は、「聖人は偉業をなしても、成果に寄りかからない」と言ったのだ。
極限の努力をして、なおかつ、そのような悟りに達した時、彼は天地と一体となり真に無敵となる。
あるヤクザが、昔、銀行強盗をやった時の自慢をしていた。
それを聞いていた、私の友人だった会社社長が羨ましく思ったという。
「私には、あんな風に自慢できることが何もない」
そのヤクザにとって、自慢ではあったが、栄光ではないだろう。その後、ブタ箱にぶち込まれたはずだ。だから、だからこそ、オリンピックの金メダルよりは、まだマシなのだ。
そのヤクザも、いつかは、「俺は馬鹿なことをした」と悟るからだ。彼は、それを手放せると分かれば、喜んで手放すだろう。
大悪人が意外に早く悟るというのは、そんな理由である。
思い切って行動するほど、恥ずかしい思い出が積み重なるものだ。
吉行淳之介が、本当の紳士ってのは、思い出すと思わず首をすくめたくなることがあるものだと何かに書いていた。
吉行淳之介が、どんな意味でそう書いたのかは覚えていないが、紳士ってのは、自分の栄光に酔うより、他者への心遣いが強いからそうなるのだと思う。
紳士の代表である騎士について、アラン・ワッツは、「騎士道では、深刻な決闘ですら、遊び心を忘れないのだ」と述べていたのを思い出す。遊びに栄光は無縁だ。
あの柔道金メダリストが、相手選手の前で繰り返したガッツポーツを思い出して、思わず首をすくめるようになった時、初めて彼の偉大な努力が彼に味方するだろう。
しかし、それは何十年先だろう?いや、彼が生きているうちであれば、まだマシなのだ。
本当は、こんなことにならないよう、師が導ければ良かったのだが、今は、そんな師もいない。しかし、教えられるまでもなく、そんな天の理に自然に従っていた日本人は、本来は偉大な民族だったのだ。
それを完全に教える師が、『バガヴァッド・ギーター』の至高神クリシュナである。
「我が為したと思わず、成果を神に捧げよ」
美しい道理を外れない者を神は愛する。それをクリシュナは、「我を愛する者を我もまた愛す」と言ったのだ。
神に愛される者に恵みがないはずがない。
それは観念でも宗教でもなく、単に自然なことである。自然なことだから、例外は決して見ることはない。
これが幸運の秘訣と言うなら、天下無敵の幸運の秘訣である。
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「そう、あれは50ヤードはあった」
客達はマナーに則って賞賛を示し、主人は得意げだ。
「今夜は楽しかったよ」
主人は満足して、客達に別れを告げた。
客達が去った後、妻が静かに微笑みながら、ためらい勝ちに言う。
「あなた、タッチダウンまでの距離が話すたびに長くなるわ」
主人は顔色を変え、
「私が嘘を言っているとでも言うのか!?」
と怒りを表す。妻には元より悪意はなく、
「そうじゃないわ。年を取れば、誰でも記憶違いがあるわ」
と弁解する。
主人は不機嫌そうに、
「私はもうろくなどしておらん!」
と怒鳴るが、後ろめたさも感じている。
妻は、老人の自慢はみっともないことを控えめに指摘すると同時に、主人に気遣いもしていた。彼だって、心の中では、そんなことは分かっているのだろう。
「過去に生きる」という言葉がある。
昔は他人に抜きん出ていたのに、今はただの人だったり、あるいは、落ちぶれてしまっている者が、輝かしかった昔の栄光にすがって生きている状態を言うものだろう。
子供向けの話では、『機関車やえもん』という、50年以上もロングセラーを続ける絵本作品がそんな話だった。
実は、あの宮本武蔵もそうだった。
年を取った武蔵は、なんとか仕官できた藩で、昔の自慢話ばかりして周りの者達に嫌われていたようだ。ただ、いつもそうであったという訳ではなく、そんなことが何度かあったという程度のことかもしれない。それでも、老人の自慢はみっともないのだ。
ゲーテは言っている。「自慢をするな。青年時代の過ちを卒業しないうちに、老人の過ちを犯したいのか?」と。
だが、人は老人になってから愚かになるのではない。
若い栄光の時に、すでに過ちを犯していたのだ。
自慢をする老人のわびしさは、その因果なのだ。
若かろうが、老人だろうが、どんなに大きなことを成し遂げても、それを自分がやったと思っていなければ、そんな因果は彼に作用しない。
オリンピックの柔道決勝で、勝利した日本人選手が、対戦相手の前で何度もガッツポーズをしてはしゃぐ姿を見せたことがあった。
元来、日本人はあんなことはしない民族だ。
しかし、マスコミは、スポンサーの思惑通り、激賞の報道を繰り返し、本人はますます重い因果を背負うことになる。彼は、いつかそれを清算できるのだろうか?
柔道も、相撲同様、礼に始まり礼に終わる。勝っても賞賛は受けないのが決まりだったのだ。
勝った方が、負けた方を思いやるというだけではない。
自分が勝ったのではない。勝ったのは自分ではない。
ただ、自然の本性のまま戦い、宿命を果たしただけなのだ。
だから、結果について、思い煩うことはない。
全ては神の至高の力が動かす。ならば、成果は神に捧げればいい。
これを、老子は、「聖人は偉業をなしても、成果に寄りかからない」と言ったのだ。
極限の努力をして、なおかつ、そのような悟りに達した時、彼は天地と一体となり真に無敵となる。
あるヤクザが、昔、銀行強盗をやった時の自慢をしていた。
それを聞いていた、私の友人だった会社社長が羨ましく思ったという。
「私には、あんな風に自慢できることが何もない」
そのヤクザにとって、自慢ではあったが、栄光ではないだろう。その後、ブタ箱にぶち込まれたはずだ。だから、だからこそ、オリンピックの金メダルよりは、まだマシなのだ。
そのヤクザも、いつかは、「俺は馬鹿なことをした」と悟るからだ。彼は、それを手放せると分かれば、喜んで手放すだろう。
大悪人が意外に早く悟るというのは、そんな理由である。
思い切って行動するほど、恥ずかしい思い出が積み重なるものだ。
吉行淳之介が、本当の紳士ってのは、思い出すと思わず首をすくめたくなることがあるものだと何かに書いていた。
吉行淳之介が、どんな意味でそう書いたのかは覚えていないが、紳士ってのは、自分の栄光に酔うより、他者への心遣いが強いからそうなるのだと思う。
紳士の代表である騎士について、アラン・ワッツは、「騎士道では、深刻な決闘ですら、遊び心を忘れないのだ」と述べていたのを思い出す。遊びに栄光は無縁だ。
あの柔道金メダリストが、相手選手の前で繰り返したガッツポーツを思い出して、思わず首をすくめるようになった時、初めて彼の偉大な努力が彼に味方するだろう。
しかし、それは何十年先だろう?いや、彼が生きているうちであれば、まだマシなのだ。
本当は、こんなことにならないよう、師が導ければ良かったのだが、今は、そんな師もいない。しかし、教えられるまでもなく、そんな天の理に自然に従っていた日本人は、本来は偉大な民族だったのだ。
それを完全に教える師が、『バガヴァッド・ギーター』の至高神クリシュナである。
「我が為したと思わず、成果を神に捧げよ」
美しい道理を外れない者を神は愛する。それをクリシュナは、「我を愛する者を我もまた愛す」と言ったのだ。
神に愛される者に恵みがないはずがない。
それは観念でも宗教でもなく、単に自然なことである。自然なことだから、例外は決して見ることはない。
これが幸運の秘訣と言うなら、天下無敵の幸運の秘訣である。
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