ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

ゲーテ

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

いつでも、叶えるべき夢はゴマンとある

人間は自分の願いを叶える力があるが、どんな願いでも叶うわけではない。
では、どんな願いなら叶うのかと言うと、所詮は、強い願いである。
強い願いは、奇跡のように、魔法のように叶うことは、私も驚きと共に何度も体験したことを覚えている。
しかし、このように言うと、自分や誰かのことについて、「強く願ったが叶わなかった」と言う人もいるが、それも本当である。
最も明確なことは、人間は何よりも生きることを願うのに、病気で死んでしまうことだ。
いや、人間は歳を取っても生きたいと願うのに、永遠に生きる人はいない。中国の伝説の長寿者である彭祖(ほうそ)や、ヨガの超人ババジだって、たかだか数百年だ(ババジはまだ生きているという話もあるが)。
また、イエスは、「白い髪の毛1本、黒くすることは出来ない」と言い、若返ることは不可能であると言った。
それで思い出すのは、「20世紀最大の詩人」と言われたノーベル賞作家W.B.イェイツが、彼の詩のどれかの中で「老人の願いは、もう一度若くなって、あの娘を抱くことだ」と書いていたが、これは「老人の」と言うよりは、何よりも、老人になった彼自身の願いだったのだろう。
しかし、それは叶わない。
彼は、どこかでエラい美少女に会った際、「君はこんなに美しく、ここに立っているのに、君を愛せないとは残念だ」などと言ったという話がある。とんだエロジジイであるが、正直者ではあるのだろう。
だが、彼には分別と言うよりは、知性があったので、若い子に血道を上げることはなかった。
ゲーテも同じであったらしく、老人になっても十代の若い娘が大好きで・・・いや、誰でも大好きだろうが、彼の場合は、70歳を過ぎても、本当に十代の娘と結婚しようとしたらしい。ここらは阿呆である。
だが、改めて言うと、これらの偉大なエロ爺さんらの願いは叶わなかった。

そして、人間にとって大きな悲劇は、若い時に願えば叶ったかもしれなかったが、諦めたことだ。
45歳でプロボクシング世界ヘビー級王者に返り咲いたジョージ・フォアマンは「やる気があれば40歳を過ぎても夢を叶えられることを見せたかった」などと言ったが、いやいや、彼は、20代前半で怪物と呼ばれた世界ヘビー級王者だったのであり、異常に強かった彼は、残り少なくはなっていたが若さで偉業を達成したのだ。
25歳で、米国の陸上短距離競技のナショナルチームに入った選手がいたが、もちろん、別のスポーツでスプリント力を磨いていたからであり、素人だったわけではない。だが、彼のことを取り上げ、「歳を取ってもやれるんだ」と言う者が居るので、騙されないようにしないといけない。
若いというのは無条件で良いことだが、最も無駄にし易いものである。

プログラマーを、歳を取ってから始めて成功した例では、直接知っているわけではないが、私が知る限りは、やや昔の話だが、45歳で始めた人がいる。そのおかげで彼は、ある大企業の中で異例の、高卒で次長にまでなり、世間からの注目も集めた。
『実録!天才プログラマー』という本には、50歳まで砂金取りをやっていて、プログラマーになって成功した人の話があったと思う(うろ覚えだが)。
では、何歳までプログラマーになれるかというと、おそらく、頭さえ良ければ、いくつでもなれる。ただ、プログラマーの仕事はハードなので、歳を取っていたら、お金を稼ぐことは難しい。とはいえ、もっと頭が良ければ、新しい稼ぐ方法も考えられるだろう。

いくつになっても叶えられる夢はゴマンとあり、決して「ショボい」ものばかりではない。
とはいえ、それは、やはり若い人のものと違い、もし、30歳もとおに過ぎて、スポーツ選手やミュージシャンなどで華々しくデビューすることを夢見ているなら馬鹿であるが、そんなやつが沢山いるんだ(笑)。
別に、世間で言う年齢相応の夢を持てと言うのではない。しかし、浅はかな夢を持ってはならないのも確かだ。
その夢は、誰も想像しないことでなくてはならない。
スポーツ選手やミュージシャンになるなど、誰でも思いつくことだ。
そんなのは、たとえ成功し、瞬間騒がれても、すぐに枯れてしまうことだ。そんな儚いことは、儚いことが専門の若い人にまかせれば良い。
ミュージシャンだって、若くなくなれば、ほとんどが消えるが、残るのは、予想外なことをやった者達だけだ。そんな者達は、彼らが以前そうだったミュージシャンとは全く違う存在だ。
そして、予想外は無意識からしかこない。
無意識の超専門家ミルトン・エリクソンの本を読んだり、腕振り運動で無意識と親しくなれば、予想を裏切る人になるヒントを得られるだろう。








一番役に立つスキル

特別な才能もなく、IQ(知能指数)もさして高くない人が、持っておくことを最も勧められるスキルは何だろう?
それは。間違いなく、誰とでも仲良くなれるスキルだ。それだけあれば、一生、楽にやっていける。
人によっては、「人に好かれるスキル」と言う人もいるが、確かに、嫌われていたら、仲良くなれない。
ただ、若いうちは、ニコニコしてさえいれば、間違いなく好かれる。
なぜなら、誰だって若い時はあったのであり、年配者は、若い人を見ると青春が蘇る感覚があり、それは、悪いものではないからだ。
だが、歳を取ると、ニコニコしている上、謙虚でなければ好かれない。
逆に言えば、優れた人間であっても、威張るやつ、自慢の多いやつは、必ず嫌われる。

ゲーテが、一番戒めていたのが、自慢することだった。
自慢は老人の欠点だが、若者が自慢好きだと、若者の欠点と共に老人の欠点を持つわけだから、どこに行ってもうまくやれないと言うのだ。
ところが、今は自己アピールの時代で、自分を売り込まないと道は開けないと思われている。
しかし、自分を大きく見せようとしたら、大抵、ロクでもないことになる。
確かに、ある事業家が、就職面接で、出来もしないドイツ語やフランス語が出来ると嘘を言って採用され、入社後、苦労はしたが力を付けたという話もあり、その事業家は、「ハッタリは大事だ」と言っていたが、普通の人は、出来ないことは出来ないと言った方が良いだろう。

友達のアイドルオーディションについていった人が採用されたなんて話があり、それは、ついていった方が美人だからというのもあるかもしれないが、自分が採用されようなんて欲望のないところが、好印象を与えたのだ。
面接だとか、オーディションと言っても、余程のレベルでない限り、所詮、採用側の人間の個人的な好き嫌いで決まるのである。
採用担当者への金言として、「嫌いな人を採用しなさい。でないと、自分より優れた人採用出来ない」というものがあるが、そんなことを本当に心掛けて採用する者はいない。
だから、嫌われないためにも、自分を実際より大きく見せようとしてはならないし、かといって卑屈にならないためにも、自分が出来ることを正確に伝えることに大いに頭を使うべきだ。
私の場合、初めは、「読み書き算数は普通に出来ます」程度しかなかったし、やがて、「C言語出来ます。ただし、ファイル処理くらいしか出来ません」で、次が、「C言語とPerl出来ます、どちらででもWebページ作れます」くらいだった。
だが、3つ目の転職で、相変わらず、「読み書き算数は・・・」の人が多い。ただ、それならそれで、その通りに言うしかない。

「私は神様に好かれています」と言う者は、人間には嫌われるし、本当は神様にも好かれていないかもしれない。
一番良いのは、「神様に好かれている」と確信し、それを決して人に言わないことだ。
そういう人は、大物や重要人物に好かれる。確かに、凡人には嫌われるかもしれないが。
しかし、大物にだけ好かれると、その大物がいなくなった時、全く駄目になるかもしれない。
大物に好かれてうまくいっているうちに、謙虚でいて、他の人にも好かれておくと良い。
そうすれば、次の大物はあなたかもしれない。
神様とか宇宙を、意思ある存在と見た場合、あなたは確実に、非常に好かれている。
無限の力のことを、無意識(あるいは潜在意識)とか宇宙の活力と見た場合、それらは、あなたの意思に従う。
それだけ分かっていれば、楽にいくだろう。








真にコスパの高い生き方

ものの考え方が変わると、その度合いに応じて世界が違って見える。
考え方が変わるとしても、ゆっくり変わる場合が多いので、大抵の人では、世界はゆっくり、少しずつ変化する。
ゆっくりした変化は気付き難く、記憶力の良い人が昔を鮮明に思い出すと、「世界は随分変わってしまった」と感慨に耽ることがある。だが、変わったのは自分だ。
自分が変わらなければ、今も昔も変わらない。
急激に考え方が変わると、世界は「コロっと」変わる。
それが、悪夢から覚めたような、楽しい、清々しい体験であることを願う。それを悟りと言うのだから。

ほとんど全ての人が、悪夢に閉じ込められている。
では、どうすれば、悪夢から目覚めることが出来るだろうか?
それは、心を消すことによってだ。
最初に、「考え方」が変われば世界は変わると述べたが、「考え方」とは、心の色とか傾向性という言葉で表現出来るものだ。
だから、根本の心が消えれば、考え方というものはなくなり、世界を色づけることをしなくなる。
その時、「ああ、世界はこんなだったのだ」と感動する。

だから、『バガヴァッド・ギーター』で、クリシュナ神は、
「亀が手足を甲羅の中に引き込むように、五感を引っ込め、外に向けるな」
と言ったのだ。
一方で、アルジュナ王子には、
「お前は戦うことに向いている。天性のままに戦え」
と言う。
クリシュナの言葉は、どこまでも慈しみに満ちている。

要は、なりゆきにまかせ、あるがままでいることだ。
だが、怠惰でいると、悪魔が忍び込んで来る。
そういえば、ゲーテの『ファウスト』で、神は、休みたがる怠惰な人間のところに悪魔を送ると言っていたので、それは、神の意思、あるいは、自然の摂理なのだろう。
だから、アルジュナは戦うしかなかった。
怠惰な人間がどうなるか、知っているだろうか?
快楽指向になり、どんどん落ちていく。
世間には、悪魔の誘惑が満ちている。
「これをやりなさい!楽しいぞ!」
「これを買いなさい!ハッピーになるぞ!」
という声がいつでも、人々を誘惑し、悪魔の手下にしようとしている。
悪魔に加担することをビジネスだと思っている者、悪魔の側につくことがコスパの高い生き方だと言う者がいる。
だが、悪魔が差し出すギフト(贈り物)ではなく、天使が差し出した手を掴むことだ。

具体的にはって言うと(笑)。
欲張らないことだ。
欲張ってもここまで・・・と決めておくと良いだろう。
世界最強とも言われる投資家に「勝つ秘訣は?」と尋ねたら、彼は静かに「欲張らないことだ」と答えた。
世俗のことすら、道理は通用するのである。
マントラや神の名を唱えながら欲張ることは出来ないので、「辛子の種1つほどの」信仰があれば。マントラや神の名を唱えると良いだろう。
私は、心がかなり汚れているので、アレクサンダー・ロイド博士の「ヒーリングコード」や「エネルギー療法」に励んでいるが。








究極のコスパの良い生き方

ゲーテの代表作は『ファウスト』だと言っても良いと思う。
小説というものは、目的は2種類で、1つは、読者を喜ばせるもので、もう1つは、人間はいかに生きるべきかを教えるものだ。
実際は、どの小説も、それらが混ざり合っている。
「人間、いかに生きるべきか」のみだと、それは小説ではなく、哲学書や思想書、あるいは、宗教書で、まとめて「エッセイ」と呼び、小説とは別なものになる。

『ファウスト』は、小説(形式は戯曲)でありながら、「人間、いかに生きるべきか」を強く教えるものだ。
『論語』やエマーソンの『自己信頼』は、「人間、いかに生きるべきか」のみを書いたエッセイだ。
シェイクスピアの『リア王』や『ハムレット』などは、『ファウスト』同様、「人間、いかに生きるべきか」を教える小説(これらも形式的には戯曲)である。

『ファウスト』や『リア王』が、なぜ、小説の形で「人間、いかに生きるべきか」を書いたのかというと、その方が、「多くの人に読んでもらえるから」と、「分かり易いから」という理由がある。
だが、『ファウスト』や『リア王』ですらそうだが、結局のところ、作者にも、「人間、いかに生きるべきか」を確信出来てないのだという理由で小説にし、「人間、いかに生きるべきか」を曖昧にしたり、(全体、あるいは、部分部分を)読者に考えさせ、決めさせたり、自分も書きながら考えたりしたのだろう。
『ファウスト』も『リア王』も、決して断定的なことは書いていないのだ。

『リア王』と言えば、口先で騙されるリア王のような愚かな真似をしてはならないというのが、この作品の主張であると思われていると思う。
しかし、全くそうではない。
根本的には、自分への愛情で自分の子供達を差別しようとしたことが愚かだっただけである。
また、リア王の末娘も、正直なだけでは駄目で、ある程度の演出や機嫌取りもしないと、自分だけでなく、リア王も不幸にしてしまうのだ。
悪いのは、リア王や、リア王の末娘の傲慢さであると考える方が正しいかもしれない。
そもそも、人間は、それほど大したものではない。
リア王やリア王の末娘も、性悪と思われる娘たちともうまくやってこそ立派な人間なのである。
あの程度の不誠実な人間は、どこにでもおり、そんな人間と無関係ではいられないのだからだ。
末娘以外の娘たちも、本来は、案外、良い人間であるに違いないのである。

『ファウスト』となると、部分部分でゲーテの言いたいことは分かるが、つまるところ大事なことは何かは、ゲーテにだって分かっていない。それで壮大な作品になってしまった。
だから、あの作品から人生を学ぼうなんて、あまり思わない方が良い。書いた本人だって、まるで分かっちゃいないのだから。
ただ、部分的には役に立つかもしれない。
『ファウスト』に似た作品に、『ツァラトゥストラはかく語りき』がある。
部分的には良いが、作者のニーチェにも、「人間、いかにいきるべきか」の確信が持てなかったのだ。
だが、頭が良過ぎる彼は、それを大真面目に考え、発狂してしまった。いかに天才とはいえ、人間には大き過ぎる問題だ。

文明が進歩し、権力者の欲望もあろうが、庶民を統制しないといけない部分が大きくなってしまった。
そんな中で、出来るだけ気分よく支配されつつ、効率的に(つまり、無駄を排しつつ)生きることを教えるネットのインフルエンサーの人気が高くなっている。
彼らの言っていることを一言でまとめると「コスパ(コストパフォーマンス)を上げろ」であるが、そんなことを言われたり、彼らのコスパの上げ方を教えてもらっても、真似出来ることではない。
インフルエンサー達だって、我々が思うほどうまくはいっていないし、うまくいっている部分も「たまたま」でしかない。

で、結局、何が究極の「人間、いかに生きるべきか」であるが、それは、仏教の「自己を忘れる」なのである。
だって、もし、見栄っ張りでない人間がいれば、自然に、最もコスパの良いことをしているし、どんな時代でも、能力の範囲で最高のコスパを発揮するはずだ。
リア王だって、自己を忘れたら、「誰が私を一番愛しているか」なんて馬鹿なことを考えず、末娘も、自分の主義を貫かず、リア王の御世辞を言って、丸く収まったのだ。
ハムレットも、自己を忘れたら、オフィーリアが素晴らしいことを認めつつ、さほど執着せず、面倒を起こさなかったのである。
『荘子』や『老子』も、自己を忘れるということに関しては、仏教と同じである。
エマーソンの『自己信頼』は、自己を忘れることと真逆と思われるかもしれないが、忘れるべき自己とは「小さな自己」であり、実は正しいのである。
仏教の目的は自己を忘れることと明言したのは道元であるから、道元の『正法眼蔵』の分かり易い本を読むと良いだろう。『現成公案』だけでも良い。








人生は喜劇だ

ゲーテの『ファウスト』や、ダンテの『神曲』は、いずれも人類の歴史に残る文学の傑作なのだが、何が良いのか分かり難いし、そもそも、これらを読んだ人は、そんなに多くはいないだろう。
いずれも、簡単に言えば、「人生が嫌になった中年男が救いを求めるお話」である。
そして、いずれも、鍵は「女」である・・・と言ったら下品に聞こえるかもしれないが、そんなものである。
ファウスト(錬金術師の怪しい男)は老人に近い歳と思うが、グレートヒェンという若い娘(何歳かは分からないが、15~17歳と思える)に夢中になるという、言ってみれば、スケベジジイと言ったら怒られそうだが、やっぱり、そんなものである。
そもそも、ゲーテ自体が、歳を取っても若い女の子が大好きで、いろいろやらかしている。
一方、ダンテの方は、実生活での片思いの相手、ベアトリーチェを『神曲』の絶対的ヒロインにするが、ダンテとベアトリーチェは、お互い9歳の時に出会って、ダンテの方が夢中になるが、ベアトリーチェがダンテに友好的だったことは全くなく、むしろ、拒否されていたところがあり、ベアトリーチェは他の男に嫁ぎ、24歳で病死した。
だが、ダンテは、『神曲』の中でベアトリーチェと深い交流を果たすという、妄想的願望がイタリア最大の文学を生み出したわけである。
ファウストとグレートヒェンは無残な結果に終わっているが、おそらく、グレートヒェンにはモデルがいて、それは、いい歳をしたゲーテのお気に入りの美少女だったのではあるまいかと勝手な想像をするが、ゲーテのことを考えれば、無理な想像ではない。

ゲーテもダンテも、きっと、彼らの人生が、自分で思うような人生ではなく、幸福感を感じておらず、むしろ、人生の辛さに苦しんでいたと言って間違いないだろう。
そもそも、満ち足りた人間が文学を生んだりしない。
だから、もし、あなたが文学的作家になりたいなら、幸福な人生は望めない。これは間違いない。
いや、たとえ、娯楽作品を書く作家だとしても、深い心の傷を抱えていない限り、読者の心を掴めるものは書けないはずである。

だが、作家というのは、どこか、人生の苦しみに折り合いをつけた者だとも言える。
ただ苦しい、悲しい、辛いだけでは、やはり作品は書けない。
自分が見つけた、人生の苦しみを克服する鍵が文学のテーマになる。
『ファウスト』にも『神曲』にも、それ(人生の苦しみを克服する鍵)がある。しかし、極めて難しい鍵であるし、鍵というよりは希望の欠片といったものだろう。
つまるところ、ゲーテもダンテも、生涯、救われなかった。
だが、それで良かったのだと言える。
『ファウスト』も『神曲』も、彼らが自分の生涯をお芝居(戯曲)にしたものであり、良い終わり方にはならなかったが、とにかく、「はい、芝居はここで終わり」というふうにした・・・つまり、落とし前をつけた(評価を下した)のだ。
自分で、どう落とし前をつけるかで、人生の満足度が決まるのである。
ベートーヴェンが死に際に「諸君、拍手を。喜劇は終わった」と言ったが、彼は、彼なりに、自分の人生に落とし前をつけたから、そんなことを言えたのだろう。

人生は、自分で落とし前をつけるべき喜劇だ。
実際、『神曲』というタイトルは、森鴎外が勝手につけたもので、本当のタイトルは『神聖なる喜劇』であり、ダンテ自身は、タイトルをただ『喜劇』としていた。
ゲーテの生涯も、ダンテの生涯も、ただの喜劇だった。
それなら、私やあなたと何の違いもない。
我々の生涯は喜劇である。
だが、最初から、そう思えば、案外に面白いのである。
実を言えば、シェイクスピアも、イェイツ(「20世紀最大の詩人」と呼ばれた詩人・劇作家。ノーベル賞受賞)も、人生が芝居に過ぎないことはよく認識しており、それは、やはり喜劇であった。
何度も言うが、我々の生涯は喜劇である。
伊達政宗も言ったではないか。
「馬上少年過 世平白髪多 残躯天所赦 不楽是如何」
馬に乗って戦場を駆け巡った少年(若い頃の自分)の時代は過ぎ、世の中は平和になり、私も歳を取った。
天が私をまだ生き長らえさせているのだから、大いに楽しもう。
・・・だいたい、そんな意味である。彼に深刻さはない。
我々も同じで、まだ馬上の少年なのか、戦う時代は終わったのかは分からないが、楽しむべきである。
だが、無理な楽しみ方をする必要はない。
どの時代であろうが、真言を唱えることを忘れなければ、楽しいこと、嬉しいこと、面白いことだらけである。
そうなるように、真言が与えられたのである。
これは、多くの証拠があり、間違いのないことである。
人生はただの喜劇であるのだから、楽しまねばならない。
まあ、ゲーテもダンテも、そこそこは楽しんだと思う。
だが、あれだけの大天才でも、真言を知らなかった。
いや、知っていたかもしれない。知っていたら、彼らも人生を楽しめただろう。しかし、それは分からない。
だが、我々は間違いなく知っているので、人生は面白いに決まっているのである。








プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
Kay Twitter Home

執筆のご依頼




最新コメント


月別アーカイブ
記事検索
ブログバナー&Mail


メールはこちらへ

PV since 2010/09/08
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

人気ランキング参加中
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ
にほんブログ村 メンタルヘルスブログ ひきこもりへ


タグクラウド
QRコード
QRコード