ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

ゲオルク・グロデック

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

才能の有る無しの判定

才能がないことをやってはならないし、やらせてもいけない。
無駄な努力になり、貴重な人生の時間を無駄にする。
才能もないことを、親が自分の子供に無理矢理やらせることも多いが、そんな子供は、ストレスで病気になるかもしれないし、心に深刻な影響を抱えるかもしれない。
一方、才能もないことを、自主的に熱心にやる場合は、子供っぽい妄想があったり、あるいは、邪な想いがあることが多い。
子供が、単に格好良いからという理由でやりたがるのは、ある程度仕方がないが、それなりの歳になれば、自分には向いていないことを自覚した方が良い。
あの手塚治虫さんだって、子供の時、宝塚歌劇団に憧れ、中学か高校の文化祭で、本物の宝塚歌劇団の衣装を借り(貸してくれる大らかな時代だった)、自分で歌劇を演じたが、失笑を買って、やっと、自分に才能がないことを理解した。
多くの場合、才能がないことは、他者が客観的に見た方が分かり易いので、手塚さんの場合も、もっと早く誰かが指摘してあげるべきだった。そうすれば、手塚さんも恥をかかなくて済んだ。
だが、沢山の人達に「才能がない」と言われながら、強い意思で継続し、成功した稀な例が注目されてしまうので、「自分には才能があるに違いない」と思い込む人も、多いのかもしれない。
もちろん、本当に好きなら、才能の有無に関わらずやれば良いが、好きであっても、必ずしも才能があるとは限らず、それでプロになろうなんて妄想してはならない。
だが、自分に才能がないことは、なかなか認めたがらないものかもしれない。
例えば、音楽が好きで、そこそこは出来るようになる者は少なくないが、プロになる才能がある者は、悲しいまでに少ない。
以前、クリプトン・フューチャー・メディア(初音ミクさんの会社)の伊藤博之社長が、音楽に限定したわけではないと思うが、「人生を賭けてはならない」と言われていたと思うが、それが非常に印象的だった。あの人は、才能もないのに音楽に人生をかけて、そして、人生を棒に振った人を沢山見たのだと思う。

ところで、現代の医者になるのに、特別な才能はいらないと思う。
そこそこ頭が良く、性格に極端な欠陥でもない限り、親が金持ちの医者なら、誰でも医者になれる・・・というか、なれている。
だが、医者に向き、不向きはあり、本来は医者に向いていない医者は多いと思う。
「心身医学の父」と言われたドイツ人医師ゲオルク・グロデック(1866~1934)は、兄が何人かいたが、医者であった父親は、ゲオルクだけを医者にした。
その理由について、ゲオルクは、自分が姉と人形遊びをしているのを父親が見たことがきっかけだったのではないかと述べていた。
彼が、姉と人形遊びをしていた時、姉が、人形にもう1枚服を着せようとしたら、ゲオルクが「人形が苦しがる」からと止めたのだそうだ。
さっき、医者に才能はなく、向き不向きがあると言ったが、この話から、本当は、向き不向きと才能は同じものだと思う。
単に、現代の職業医師に才能はあまりいらないということだろう。

むしろ、プログラマーの方が、現代の職業医師より才能が必要かもしれない。
ただ、今のところ、全てのプログラマーに、それほどの能力が求められているわけではないという理由で、なろうと思えばプログラマーになるのは、そう難しいことではない。
とはいえ、必要とされる能力は、時代と共に高くなるので、やはり、才能がないならやめておいた方が良く、それは、Excdelマクロ(VBAプログラミング)の場合もだし、むしろ、才能のない者がExcelマクロを作ることで深刻な問題が発生することが多い。

才能があるかないかをどう判断すれば良いかだが、それには、私が昔からよく書いている、あるミュージシャンの言葉を覚えていると良い。
それは、こんな言葉だ。
「ミュージシャンてのは、街角でハーモニカを吹いてさえいれば満足出来るやつじゃないと務まらない」
これが全てであると思う。
有名な、スマイルズの『自助論』を読んだ上で、熱心にやれることが、自分に向いたものではないかと思う。








驚異のエス

CLAMPの漫画・アニメ『カードキャプターさくら』に、こんな場面がある。
高校1年生の天宮撫子(あまみやなでしこ)は、巣から落ちた雛を巣に戻そうと木に登るが、運動神経は無いに等しいとまで言われる撫子は、雛を巣に帰すことには成功したが、直後、足を滑らせて落下する。
しかし、撫子は、たまたま下を通りかかった、彼女が通う高校に赴任してきたばかりの男性教師、木之本藤隆(きのもとふじたか)の上に落下し、藤隆がクッションになったおかげで、ほとんど怪我はなかった。
その時、藤隆は、
「天使が落ちてきたのかと思いましたよ」
と、咄嗟に憎い言葉を発するが、おそらく、彼の性格から考えれば、それはごく自然に出た言葉で、妙な意図はなかった。
それから2人は付き合い始め、すぐに同棲に至り、毎朝、手をつないで登校。お弁当は料理が得意な藤隆が作った。
この藤隆と撫子が、主人公、桜(さくら)の両親である。

20年以上前の話とはいえ、本当なら、藤隆は即、懲戒処分だろうが、それは置いておく(笑)。
藤隆と撫子は、大変な偶然で出会ったように見える。
作者のCLAMP(女性4人のチーム)の重要思想が「この世に偶然はない。全て必然」であるから、この出来事も必然なのであろうが、それを、1つの説から話す。
「心身医学の父」と呼ばれたドイツ人医師、ゲオルク・グロデックは、人間の内部には、「エス」というエンティティ(生命体)が存在すると提唱した。
このエスは、後にフロイトが精神分析学に取り入れることで知られるようになるが、グロデックのエスは、フロイトのエスよりはるかに驚異的だ。
そして、藤隆と撫子の出会いは、こう考えられるのである。
この、藤隆と撫子のドラマティックな出会いは、全てエスが仕組んだものだ。
撫子のエスは、撫子を木に登らせ、藤隆のエスは、藤隆をその下を通るようにさせた。
そして、エスは、絶妙のタイミングで撫子の足を滑らせ、藤隆の上に落下させるが、2人のエスは2人の身体を功名に操作し、目立った怪我はさせない。いや、ドラマ性を高めるため、藤隆には、多少の負傷をさせたかもしれない。
さらに、藤隆のエスは、藤隆に、「天使が落ちてきたのかと思いましたよ」と、シビれるセリフを、動転している撫子のハートを撃ち抜く笑顔で言わせ、1万本の薔薇どころでない無敵のプロポーズになってしまった。
雛が巣から落ちたことすら、エスの仕業かもしれない。

「そんなアホな」と思うかもしれないが、グロデックが論文に引用した実話に、こんなものがある。
戦場で、1人の兵士の男が、同じ部隊の男に、自分の膝を指さしながら、
「ここに弾が当たったら、おれは故郷に帰れるのになあ」
と言う。
すると、その直後、流れ弾が飛んで来て、まさに、膝の指を指したところに命中した。
グロデックは、これもエスが行ったことだと推測している。

私は、小さい頃、何度も交通量の多い車道に目をつぶって飛び込んだが、危ない目に遭ったことはない。
これも、私は、無意識に、エスに危険を避けるよう頼んだからだったのかもしれない。
※決して真似しないように。

エスが、どれほどの力を持っているのかは分からない。
グロデックは、いかなる病気でも、罹(かか)るのも治るのもエスが起こしており、どれほどの難病でも、治る時は何もしなくても治ると言う。
簡単なことでは、エスは、女性の手を、好きな男性に前では冷たくさせ、その男性に暖めてもらうよう促すといったこともするらしい。

グロデックもフロイトも、エスは、肉体とか細胞とかではなく、無意識の中に存在すると考えている。
精神そのものが謎であり、エスの実態など、全くの未知と言って良いだろう。
引き寄せの古典で、いまだ引き寄せの最上のテキストである『イット・ワークス』の著者は、人間の内部にある、いかなる願いも叶える力をインマヌエルと呼んでいるが、エスは、その一面であるのかもしれない。








損な人を止め得な人になる方法

常に得な役回りになる人と、逆に、常に損な役回りになる人がいるように思う。
例えば、2人の子供が全く同じことをしても、片方は褒められるのに、もう片方は、褒められないばかりか、「余計なことをするな」と怒られるが、その2人は、いつも決まって、そういう役回りになる。

ある漫画で、2人の男の子が1人の可愛い女の子を助けるのだが、女の子が感謝するのは、片方の男の子だけだった。そして、女の子は、ごく当たり前にそうするのである。少しも報われない男の子は、「人間は平等ではない」と嘆くが、この場合は、良い思いをした男の子は格好良く、もう一方の男の子はダサいというだけのことだった。
女の子だって、可愛い女の子がやると、感謝されたり褒められたりしても、可愛くない子がやると、無視されたり、「ウザい」って言われてしまうことも少なくないだろう。
だが、見かけや、その他、表面的な条件に差があると思えないのに、なぜか、いつも良い思いをする者と、良い思いが出来ない者がいるのである。

いろいろ述べたが、実は、明らかなことがある。
得か損かを決めるのは、「えこひいきされるか、されないか」の差だ。
えこひいきと言えば聞こえは悪いが、誰にだって好き嫌いはある。そして、それは容姿だけの問題ではない。
えこひいきされることを、単純に言えば、「特に好かれる」ということだ。
そして、誰にでも好かれる者というのは、実は、自分の親を好きな者で、そんな者は、親に好かれているのである。
だが、子供の時、親にべったりくっついている子供が、親が好きな訳でも、親に好かれている訳でもない。
それは単に、親が、子供を自分に依存するよう躾けただけで、そういった親子は、内心では憎悪し合っている場合が多い。
自分の親が好きでなく、自分の親に好かれてもいない者は、残念なことに、損な役回りをする定めとなる。
それは、主に母親に関してだ。
だから、母親なしで育った者は、損な役回りになり勝ちだ。ただ、そんな者には、うまく立ち回るよう努力する傾向があり、表面的にはうまくいっている場合が多いが、それでは、どこか無理があるのである。

ところが、心理学者の岸田秀氏が本に書いていたが、自分が母親が嫌いだと(実際は憎んでいると)気付いたのは、母親が死んでからで、岸田氏は二十代の半ばも過ぎていたと思う。
だが、一生、気付かない人もいるのだろうし、岸田氏は心理学の勉強をしていたから気付いたが、もしかしたら、気付かないまま死ぬ人の方が多いかもしれない。
ドイツの「心身医学の父」と言われたゲオルク・グロデックは、「母親を憎んでいる娘は子供を作らない」とエッセイに書いていたが、そんな娘は無意識にそうするのだろう。
また、親を嫌いな人は、何かを偏愛してしまうことが多い。
それが、自分の子供である場合は悲惨で、大抵、子供には嫌われる。なぜなら、自分だって、本当に子供を愛している訳ではないからだ。

ちなみに、母親が嫌いな男は、聖母マリアが嫌いなので、すぐ分かる。
そんな男は、ニンフェット・コンプレックス、いわゆる、ロリコンになり易い。

しかしまあ、嫌いなものは仕方がなく、無理に好きになることは絶対出来ない。
そんな者は、可能であえば、自分はアンドロイド(正確にはヒューマノイドと言うべきかもしれないが)だと思うと良い。
アンドロイドにもいろいろあり、長門有希のような宇宙人製有機アンドロイドもいれば、神が自然の精気から作った不可思議なエネルギー体としてのアンドロイドもいる。
アンドロイドとは原義は「男のようなもの」で、ヒューマノイドは「人間のようなものだ」。
ちなみに、「ボーカロイド」とは、「ボーカルのようなもの」である。
『まちカドまぞく』に登場する、千代田桃のような魔法少女は、身体を人間の肉体とは異なるエーテル体で再構築した存在だ。
いろいろ研究し、自分がそれであるというファンタジーを持てば(ただし、人には言わないこと)、得な役回りになることも出来るのである。
簡単に言えば、自分が作り物であることを認識するのである。それはある意味、真理であるので、人間に対する理解も深まるだろう。













当ブログオーナー、KayのAI書。
Kindle版発売中。紙の本は5月30日発売。
TensorFlow、Jupyter Notebook 、Pythonで機械学習に挫折した人も、この本で、ソニーNNCを使って、再チャレンジして下さい。
この本は、数学やプログラミングが駄目でも、Excelなら一応出来る(あるいは出来るようになる)という人が、自分でAIを作れるようになることを目指しました。
(初等数学やVBAプログラミングが出来ればさらに良いのですが、出来なくても構いません)
AIを使える面白いテーマを考えてあり、また、それらをAIで解く実習をするためのデータを作れるExcelマクロが、出版社サイトから無償ダウンロード出来ます。

この世界はやはりコンピューターゲームか

「全ての病気は心因性と決め付けている」と、同じことを言った2人がいて、一人は、ドイツ人医師ゲオルク・グロデック(1866-1934)で、もう一人はNLP(神経言語プログラミング)の共同開発者であるリチャード・バンドラー(1950-)だ。
「魔法を使って治している」とまで言われた偉大な精神科医ミルトン・エリクソン(1901-1980)も、そうだったのではないかと思う(私が思うだけかもしれない)。
グロデックなどは、転んで怪我をすることも心因性なのだと言う。
彼らは、もちろん、それなりの根拠は持っているのだろうが、完全に証明することは出来ないはずだ。
それは、「確証はないが確信はある」といったものと思う。

この私となると、確信とまではいかないが、妄信よりはマシなレヴェルで、やはりそう思う。
全ての病気、怪我、さらには、貧困やトラブルなども全て心因性である。

話がガラっと変わってしまうようだが、この世界が、SFの『ソードアート・オンライン』のような、コンピューターで作られた仮想世界である、つまり、「シミュレーション仮説」という考え方があるが、イギリスの哲学者ニック・ボストロムは、「そうである可能性の方が高い」と言っているらしいが、アメリカの事業家イーロン・マスクは、「そうである」と決め付けているようだ。
イーロン・マスクは、電気自動車(最近はAI運転自動車で注目されている)のテスラ社や、民間宇宙船開発会社スペースXで知られているが、2017年に、脳に埋め込む通信インターフェースの開発を行うニューラリンク社も設立している。
(ついさっき、イーロン・マスクは、脳内インターフェースの臨床開始は来年の2020年と発表したようだ)
後、10年か20年のうちには、世界をまるごとデジタルコピーしたミラーワールドが出来、我々はそこに精神をアップロードするようになるらしいが、そこでの体験はリアルで、もう全く、シミュレーテッド・リアリティである。
実は、それが既に実現していて、我々はまさにその中にいるとするのが、シミュレーション仮説であるが、そうであるなら、最初に述べた、「全ての病気は心因性である」の信憑性も高まるように思う。
病気はシステムが作り出すもので、それは、我々個人の精神の影響を受けて起こるのであるから、当然のことである。

それなり・・・とまではいかないが、ある程度の理論的根拠を持って、この世界がコンピューターシミュレーションであると決め付ける・・・つまり、確証はないが確信を持つことも良いのではないかと思う。
高度なVR(仮想現実)やAR(拡張現実)、それに、今は少々お高くつくがMR(複合現実)を体験すれば、確信も高まるかもしれない。
そして、そうであれば、世界の動かし方も早くマスター出来るだろう。
『ソードアート・オンライン』のように、空中に出した操作パネルを指で操作するのも、本人の好みや視聴者への共感のためには良いだろうし、『デスマーチからはじまる異世界狂想曲』のように、思っただけで。自分だけに見える情報パネルが現れるのでも良いが、それを心の目で見、心の手で操作しても良い。
そして、全てはゲームと同じで、今後の展開はあなたの選択次第なのである。
いや、この仮想世界の選択は、むしろ、振る舞いである。
英語のpretend(ふりをする)が流れを作り出す。
インドの聖者ニサルガダッタ・マハラジなどは「時を超えているふり、空間を超えているふりをしろ」言い、それは体験であると言った(結果、神になる)。
この仮想世界での役割は、そうやって(ふりをして)決めるのである。
ある西洋人男性が言っていた。
「俺は禿げていることを神様に感謝している。禿げを全く気にしないことで男らしさを見せることが出来るんだ。おかげで俺はモテモテだ」
良いやり方である。何かにこじつけて、モテモテであるように振舞えば、そうなるのだ。それはそれで面倒なことになる面もあるのだが(笑)。









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腕振り運動の奥義の探求

今日は休みだったので、一日中、腕振り運動をするか、福音書を読んでいた。
改めて言うと、腕振り運動は、中国でスワイソウ(せい手)と言われ、気功によく取り入れられているものだが、関英男博士によると、これは中国の易筋経という、壮健法の中の秘法で、ルーツは禅の開祖である達磨であるという。その優れた効果から、武道に取り入れられていることも多いようだ。
やり方は、実は数多くあるのだが、私は、関英男博士の専門科学書『宇宙学序章グラビトニックス』に従った。
腕振り運動は、基本的には、自然に立って、まっすぐに伸ばした腕を、そろえて、前後に振るだけの簡単な運動である。
正しいやり方を『宇宙学序章グラビトニックス』から引用する。

手を振るときは、身体を直立させ、足はしっかりと大地をつかまえていなければならない。足と足の間隔は肩の幅とし、両臂(りょうひじ)は一緒に前または後に振り、後に振るときは少し力を入れ、前に振るときは力を入れず、反動で戻ってくるようにし、両臂(りょうひじ)は真直ぐに伸ばし、曲げるのはよくない。目は真直ぐ前方を見、心に邪念を懐(いだ)かず、黙って数を数え、はじめは、2,300(200~300)回振り、徐々に増やしてゆく。
~『宇宙学序章グラビトニックス』33ページ~
※臂、懐のフリガナは、読めない人がいると思い、私が付加した。臂は私も全く読めなかった。

尚、両掌(りょうてのひら)は内側に向ける。それにより、そこに、GTP(複数の重力子を含む粒子に仮につけた名称)が発生し、血液に蓄積して有効な作用を起こすと推定されている。
血液中のGTPの量は生まれた時が最大で、以降、減るだけで増えることは決してないが、腕振り運動でだけは増やすことが出来るとされる。

さて、私は、長く腕振り運動をやっていて、これを、自我を神の中に融解させる技術として確立した。
自我で(意識で)腕を振っていると、力が入り、無理矢理振っている感じがあって、振る速さが一定せず、多くは、速過ぎる振り方になる。
そこで、肩の力を抜き、ゆっくりと、一定の速さで振るように心がける。
やがて、自分が振っているという気持ちが消え、宇宙のリズムに乗り、振っているのではなく、振らされているという感覚になる。
すると、自我は薄れ、宇宙と調和してくる。
それは、自我という一滴の水が海に溶け込むように、自我は宇宙に広がっていくのである。
宇宙は、厳格に規則正しく運行している。出来る限り、正確なリズムで振るよう(ただし力まず)にしていると、宇宙に調和するのは自然なことであると思う。
座禅や岡田式静坐法も、大自然と調和する方法だと思うが、ただ座るだけでそれをするのは難しい。
だが、腕振り運動は、身体の動きとリズムを使って、それを簡単に達成できる。
TM(超越瞑想)も、目的は同じと思うが、私は2年やってうまくいかなかった。個人的適性の問題かもしれない。尚、関博士もTMをやり、効果を認めているが、腕振り運動の方を高く評価していると思う。ただし、別にTMを否定はしていない。

自分勝手に、乱暴に、速く振ろうとする自我を抑え、規則正しく、静かに、正確に振れば良いのである。
よって、うんうん唸ったり、息をはあはあ言わせながらやってはいけない。
テレビを見ながらとか、音楽を聴きながらも、避けた方が良いと思う。

自我が宇宙に溶け込むと、それは神との一体化に近付いたことである。
GTPを多量に保持した赤ん坊が神に最も近いように、身体の点でも、神に近付くのである。
無論、自我や身体は神ではなく、我々は身の程をわきまえなければならないが、広がって弱まった自我は自然にそうなる(謙虚になる)。

『宇宙学序章グラビトニックス』の中で、関博士は多くの難病の治癒事例を示しているが、自我が消えれば、自我が歪めていた身体機能が正常化し、病気が治るのも自然なことと思う。
「心身医学の父」ゲオルク・グロデックや、NLP(神経言語プログラミング)の開発者リチャード・バンドラーは、いかなる病気も(器質性のものすら)、間違いなく心因性(心が原因で起こる)と断定し、自己暗示で驚くべき治癒を起こしたフランスの心理学者エミール・クーエもそうであったと思う。
そして、私は、いかなる病気の原因も、度を越して歪み、不純化した自我の異常な働きであると思っている。
身体の病気ばかりでなく、経済的困窮や学業の愚鈍さ、人間関係の不都合もやはりそうなのだろうと思う。
もっとも、過ぎた経済力や、ちやほやされるほどの人気や名誉まで求め出すと、自我は凝り固まり、不純化して、腕振り運動も出来なくなるかもしれない。
また、腕振り運動の効果を高めるのは、早起きと少食である。
腕振り運動で効果が出難い人は、朝が遅く、美食・飽食であると思う。
関博士は、早起きして、腕振り運動を2000回必ずやっていたそうで、90歳を過ぎても元気に世界中を飛び回り、熱心に研究をしておられた。
我々も、それに倣わない手はないと思う。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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