ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

クリシュナムルティ

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
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固定観念を壊し超人になる方法

超能力や引き寄せを含む潜在能力の発揮を妨げているものは、固定観念だ。
その理由はこうだ。
固定観念が人々に、
「自分よりはるかに力がある存在がいて、その存在に対し、自分は龍に対するカマキリのごとく弱い」
と信じ込ませているが、人間に関するたった1つの真理とは、
「人は自分が信じている通りの人間」
なのだからだ。
だから、我々は権威に対し、悲しいまでに弱い。

固定観念を捨てていけば、優秀に、そして、超優秀に、さらに、超能力や引き寄せが自由自在になり、神のごとき存在になる。
だが、まずは、ほんの少しの固定観念を捨てることだ。それだけで、大きな力を得る。

猫が可愛いというのも固定観念だ。
別に、猫を好ましいと思うのは構わない。
しかし、人々を見ていると、猫に対し、「わー!可愛い!可愛い!」と言って、その固定観念を強化している。そんなことをしていると、確実に能力は落ちる。
さらに、猫派だと言って、猫は大絶賛するのに、犬は嫌ったり、嫌わないまでも、抵抗があったり、猫には劣ると思うのも、深刻な固定観念で、やはり、それで力を大きく失っている。
猫も犬も、ただ、好ましいだけで、必要があれば大切にするだろうが、執着したら、それに余計な価値観を与えて、それが固定観念になる。

固定観念を捨てるには、全てを疑えば良いと言う人がいる。
洗脳とは、固定観念を植え付けることであるが、洗脳を解くには、自分を洗脳しているはずの権威者や、自分の感情も疑わねばならないというのは、一見正しそうに見えるが、実は、それは、余計に固定観念を強くするだけだ。
疑えば、疑ったものと逆の固定観念が生まれるだけなのだ。
例えば、「花が美しい」という一般論を疑うとする。
すると、「花は美しくない」とか「花は美しいとは限らない」といった、およそ意味のない、あるいは、複雑な固定観念を持ち、頭が悪くなる。
花が美しいと人が言うなら、別に疑う必要はない。
花は美しくないと言う人がいても、別に疑う必要はない。
そして、自分は美しいと思うなら、その感覚を疑う必要はないし、美しいと思わないなら、やはり、その感覚を疑う必要はない。
だが、人が、花は美しいと言っても、逆に、美しくないと言っても、それを信じてはならない。
同様に、自分が、花が美しいと思っても、逆に、美しいと思わなくても、自分の感覚を信じてはならない。
それにはどうすれば良いか。

カミュの短編小説『異邦人』で、主人公の青年ムルソーと、若い女性マリーがこんな会話をする。

マリー 「私と結婚してくれる?」
ムルソー「いいよ」
マリー 「私を愛してる?」
ムルソー「分からないけど、多分、愛してない」

ムルソーはとても正しい。
だが、残念なことに、彼は世間に振り回されているのだ。
ムルソーは、自分がマリーを愛していることを疑ってはいないが、信じてもいない。
そして、愛していると言ってもらえなかったが、マリーは、最後までムルソーに尽くしたのだ。
また、ムルソーは、死んだ母親のことをこう言う。
「ママのことは、多分、好きだった」
やはり、母親のことが好きなことを疑ってはいないが、信じてもいないのだ。
だが、ムルソーは、世間が、彼の感覚を認めないことも知っていた。
それで、世間と迎合しようとし、その分、弱かった。
母の葬式のため、休暇を上司に願い出た時、上司が不満気な顔をすると、ムルソーはこう言ったのだ。
「僕のせいじゃないんです」

ムルソーの超人化は、あと一歩だったのだ。
「私を信じろ」と言う傲慢な人間には、状況にもよるが、こう言ってやると良いだろう。
「疑ってはいませんが、信じてもいません」
それで離れていく相手なら、放っておけば良い。
部下が自分を信じていないことを知った、本当に優秀な経営者が、こう言うのを聞いたことがある。
「そう、俺って信用がないんだ」
そんなもの、誰にもない。
疑わないが、信じもしない・・・これが最も正しい態度である。

クリシュナムルティ―の『私は何も信じない』を読むことをお勧めする。




腕振り運動で超能力が高まったと言う理由

私は、毎日、数千回(直近の5日では平均9860回)の腕振り運動をやって、驚愕というのではないが、意外で興味深く思ったのが、自分が本当は、全くの無信仰・・・つまり、いかなる宗教も少しも信じていないことだった。
それが、純粋にして明晰・・・この上なく、はっきりしたのだが、これは、本当に面白いことだ。
仏教も、キリスト教も、神道も、私は信じていない。
かと言って、別に宗教が嫌いなわけでもなく、また、法然や親鸞や黒住宗忠らは、非常に優れた、しかも、善意の人であったとは思っているのだ。

さて、信仰がないとなると、新渡戸稲造がキリスト教徒の婦人に言われたように、「宗教なしで道徳を持てない」というのが、少しは気になるところである。
新渡戸は、「それなら(日本に宗教がないなら)、日本には武士道あり」として、英語で『武士道』を書いたが、私は日本人とはいえ、明らかに武士道も持っていない。
新渡戸の言う武士道は、私は、映画(原作は小説)の『鉄道屋(ぽっぽや)』(1999)みたいなものと思う。
とはいえ、私は、『鉄道員(ぽっぽや)』の映画を観てないし、小説も読んでいない。
だが、次の話だけで十分だ。
幌舞(ほろまい。北海道内)駅の駅長であった佐藤乙松(映画では高倉健が演じた)は、鉄道員一筋で、愚直に業務を行った。
乙松は、結婚後17年を経てようやく授かった生後2カ月の娘が死んだ日も、その直後に妻が死んだ日も、仕事から抜けられず、業務を全うし「異常なし」と言う。
なるほど、壮絶な話ではあるが、日本では、それほど特殊とは思えない(実際は世界でも)。
いかなる状況でも、冷静に責任を果たす・・・これが、新渡戸の言う武士道で、新渡戸は、『ぽっぽや』より、さらに数段、壮絶な話を事例にしている。だから、読むと疲れる(笑)。あんなもの、日本人の精神だと思われたら迷惑である(笑)。
ただ、新渡戸は、武士道は『葉隠』あたりから学んだと思うが、私は、『葉隠』は、もっと中庸な精神が描かれているのだと思う(私はあまり真面目に読んでいないが)。
しかし、三島由紀夫のような変人(笑)が『葉隠』の大ファンだったのだから、どこか変わったところがあるのかもしれない。

いずれにせよ、宗教も武士道も、良い面はあるが、悪い面もある。
アインシュタインは、自分が信仰する宗教(ユダヤ教)のために、量子力学が正しいことは分かっていながら、これを認めるわけにはいかなかったようなことを言っていたらしい。
それなら、彼は、極めて冷静で、宗教が自分に偏見を持たせたと理解しているところは凄い。しかし、それでも、その偏見を脱することは出来なかったのだ。
ところが、私は、日本人らしく、表向きは仏教(浄土真宗)、内的には神道を、少しは信仰していたはずだが、それがきれいさっぱり消えた。
アインシュタインも腕振り運動をすべきであった(笑)と、半分冗談だが、半分真面目にそう思う。
(いつも言うが、別に腕振り運動でなくても、延々反復するものなら何でも良い)

クリシュナムルティが「私は何も信じない」と言ったらしいが、彼は相当な宗教教育をされ、教団の教祖だったこともあったと思う。
では、彼も、宗教を信じなくなった出来事があったのだろうか?
少し興味はあるが、結果的にめでたく宗教から解放されたのなら、とりあえずそれで良いだろう(笑)。

とはいえ、私は、神は信じているが、もちろん、私が言う神は、いかなる宗教が言う神とも違う。
なぜ神を信じるのかというと、この世界が偶然で出来たと考えることには無理があり、何らかの強い意思の働きがあったことは確実だからだ。
スティーブン・ホーキングやレイ・カーツワイルらは、神は存在しないと言ったが、彼らが間違っているとは思っておらず、むしろ、私は、考え方としては、少なくとも、宗教よりは彼らに近い。

私が昔から、『荘子』を「超能力養成書」だと言ってきたのは、『荘子』は何か信仰や信念のようなものを得るための書ではなく、信仰や信念という名の偏見を壊すための書であるからで、人間は偏見・・・つまり、固定観念をなくすほど、ある意味、超能力者になる。もちろん、この「超能力」は、世間的な偏見に満ちた「超能力」とは異なる。
私は何も信じないと言っても、物理法則がほぼ正確に事象の経過を推測出来ることは知っているし、科学的には不明でも、ミルトン・エリクソンが知っていた精神の法則のようなものがあることも確かと思う。
ただ、ガモフが言うように、我々が知る物理法則が成り立たない世界も存在するのかもしれない。

つまり、腕振り運動のおかげで超能力が高まってきたかもしれない(笑)。
昨日の私の腕振り運動の回数は1万回だった。








「何も信じるな」と言う人間が一番信じられない

ジッドゥ・クリシュナムルティは、「私は何も信じない」と言ったが、これはつまり、「何が正しいかなんて分からない」という意味だ。
彼は、ガンジーやマザー・テレサが立派な人間であることも信じなかった。
実際、現実的に、彼ら(ガンジーとマザー・テレサ)が本当は悪人だったと考えるこも出来るだろう。
日本でテレビを毎日見る普通の人々の大半は、アウンサンスーチー(ミャンマー人に姓はないので、これは名)は正義の味方だと思っているが、これは普通に考えても疑わしいかもしれない。まあ、実際はどうか分からないが。
まして、日本で周庭氏をヒロインとして扱わないと、ちょっと怖い・・・少なくとも、確実に嫌な目に遭うような気がする。
私は、ガンジーもマザー・テレサも、アウンサンスーチーも、周庭氏も、正義の人であることを疑ってはいないが、信じてもいない。
土台、親しくなった人間ですら、信じられるわけではない。
それなら、マスコミから善のイメ―ジを与えられた人間に関して、信じる方がおかしい。

インドの聖者ニサルガダッタ・マハラジは、「あなたが信じることが出来るのは、自分が存在することだけだ」と言ったが、それも疑わしい(笑)。
私は本当に存在しているのか?
存在しているような気はするが、本当は存在していないのではないか?
深い眠りの中では、自分が存在しているという自覚はないが、その時でも自分は存在していると言えるのか?
実は、眠った時に自分は消えているのではないかとも思える。
そんなわけで、私は、聖者ニサルガダッタ・マハラジにすら勝ってしまった(笑)。

だが、「私は何も信じない」と言っているだけでは生きていけない。
「何も信じるな」と言う人間ほど信じられない者はいない(笑)。
そんなことを言う人間ほど、あなたを騙そうとしているものなのだ。
「俺を信じろ」と言う人間はまだマシだ。
なぜなら、そんな人間、ハナから信じないから(笑)。

では、我々は何を信じるべきだろうか?
それは・・・簡単なのだ。
何も考えていない時の感情だ。
逆に、最も信じられないのが、考えている時の感情だ。

「マドラックス、なぜ泣いているのだ?」
「わからない・・・」
~『MADLAX』第9話 「残香 -scent-」より~

泣く理由が分からないのに泣いているなら、それは本当に悲しいことなのだ。
だが、理由が分かっていて泣いているなら、その涙は偽物だ。
これは、あまりに純粋で明晰なことだ。

意識がある限りは感情はある。
だが、重要なのは、思考のない感情だ。
それが人類最高の英知である。
では、失神せずに思考を失えば良い(笑)。
そのためには、信仰する神の名をひたすら唱えると良い。
え?ない?
神は存在しないって?
そんなこと、誰が言ったか知らないが、信じるな(笑)。
だが、実を言うと、そんな人ほど良いかもしれない。
なぜなら、神を信じないなら、神の名に対して想念が浮かばないだろうから。
そして、神を信じている者も良い。
なぜなら、神は理解不能で、神の名を唱えるほど想念が消えていくからだ。
よって、心地良く唱えられる神の名をひたすら唱えると良い。
アマテラスオオミカミとか、アミターバ(阿弥陀如来)とか、アストライア(正義の女神)とか、イエス・キリストとか。
真言や祝詞でも良い。
想いがない時の感情に従えば、何でもうまくいくし、想いがない時の感情が快適なら、何もしなくてもうまくいくだろう。








デクノボーになる

イタリア映画『愛のほほえみ』(1974)を、私はあまりまともに観ていないが、こんな1シーンだけを印象的に憶えている。
富裕な家庭の8歳の少年ルーカが、同い年くらいの少女オルガに出会う場面だと思う。
タバコを粋(いき)に持ったオルガが、ルーカに「火をお持ちでありませんこと?」と堂々尋ねる。
唖然とするルーカに、オルガが言う。
「あたし、やっちゃいけないって言われることは全部したいの」
私は、言葉ではなく、感覚的に、「良い心掛けだ」と思ったものだった。
これはもちろん、普通の大人や良い子が、盲目的に信じ、ひれ伏している権威や、世間の教義・信条は全部疑うという姿勢の象徴である。
インドの聖者ジッドゥ・クリシュナムルティが言った「私は何も信じない」という言葉に通じている。
ただし、クリシュナムルティのこの「私は何も信じない」は「なんでもかでも疑う」ということではない。
しかし、まずは「全て疑ってみる」という時期も必要であろう。
そうすれば、笹沢佐保の時代劇のヒーロー、木枯らし紋次郎のように、
「別に疑っちゃいませんが、信じてもいやせん」
という賢い態度になる。
木枯らし紋次郎は、明らかに1日も学校に行っていないのだが、紋次郎は自分で学んだのだ。
2014年のTEDの伊藤穣一氏の講演「ナウイストになろう」の大きなテーマは「Learning over Education」だった。
経済産業省のWebサイトでは、この言葉を「教育から学びへ」などと訳しているが、正しくは、「教育より学び」であるはずだ。
木枯らし紋次郎は、教育されなかったから、よりよく学んだのであるが、これは、現在の世界トップレベルの優秀な人材にも当てはまるのである。

もちろん、子供じゃあるまいし、やるなと言われていることを全部やる必要はない。
良いルールは守らなければならない。
しかし、「やるな」と言われていることの中に、本当にやるべきことがある。
また、「やれ」と言われないことの中にこそ、優れた行いがある。
さらには、やると笑われる、やると蔑まれることの中にこそ、真に高貴な行いがある。
まあ、それが「やるな」と言われていることなのかもしれないが、岡本太郎流に言えば、
「笑われてもいい。いや、笑われなければならない」
「認められなくていい。いや、認められてたまるか」
「嫌われてもいいじゃないか?いや、嫌われないといけない」
である。

せめて、やれとは言われるはずがないことの中から、やることを見つけてやってみるのが良い。
それで笑われたり、蔑まれたりしたら、それは、とても良いことかもしれない。
米津玄師氏が初音ミクさんの歌を作っていた時が、そんな感じだったかもしれない。
そういえば、上で取り上げた伊藤穣一氏も、自身のテレビ番組で、初音ミクさんのことが好きだと言っておられたようだし。
宮沢賢治の『雨ニモマケズ』に、こんなフレーズがある。

ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ

ただ、賢治は理想は持っていたが、徹してはいなかったかもしれない。
イエス流に言えば「金持ちが天国に入るのは難しい」のである。
賢治の家は豊かだったのだ。

とりあえず、呪文や真言を常に唱えるところから始めようと思う。
そんなこと、誰もやれとは言わないし、やっても褒められないし、おそらく、デクノボー・・・かどうかは分からないが笑われる可能性が高い。
ならば、ひょっとしたら、とても良いことかもしれない。
それは自分で確かめるしかない。
本当にデクノボーかもしれないが(笑)。
私はデクノボーを長年やっている(笑)。








人間性とは

結局のところ、人の運命は人間性で決まるのかもしれない。
こう言うと、「いや、人間性が低くても楽しい人生を送る者もいれば、素晴らしい人間性を持っているのに不幸な人生を送る者もいる」と言いたい人もいると思う。
しかし、たとえ、他人に関してはそのように見えても、「自分に関しては、運命は人間性次第」なのではないか。
外部から幸福そうに見える人間が本当に幸福か、不幸に見える人間が本当に不幸かは、決して分からないし、それを探求しても仕方がない。

では、どんな人間が人間性が高いのか、モデルを知りたいと思う。
世の中では、そんな(人間性の高い)人間の代表として、ガンジーやマザー・テレサを上げる人が多いと思う。
しかし、彼らが本当はどんな人間かは分からない。
ほとんどの人が、ただ何となく、ガンジーやマザー・テレサを素晴らしい人間だと思っているが、それを自分で確かめた訳ではないし、確かめたつもりでも、その根拠となる情報の正確さは全く不明だと言って良いだろう。
聖人とも言われるジッドゥ・クリシュナムルティ(1895~1986)は、ガンジーを非常に批判的に捉えている。
そして、クリシュナムルティは、「私は何も信じない」と言うが、それが正しい態度なのかもしれない。

聖書に登場する聖人達・・・モーセ、ヨシュア、ダビデ王、ソロモン王、洗礼のヨハネ、そして、イエス・キリストはどうか?
聖書に記述されている通りなら、非常に素晴らしい人達だと思う。
では、彼らはいったいどこが素晴らしいのだろう?
それは、自分の意思より神の意思を優先したことで、神の前では、「自分が全くない」「自分が空っぽ」であるところだ。
このことを上手く言い表した言葉がある。

人々が作家としての私をちやほやするのは、さっぱり理解できない。
私は単に、水を流して撒く庭のホースに過ぎないのに。
ーージョイス・キャロル・オーツーーー
※『とんでもなく全開になれば、すべてはうまくいく』(トーシャ・シルバー著)より引用

もし、このオーツが、人々にちやほやされて、「自分が優秀だから高く評価される作家になれたのだ」と思えば、もう水は出て来ないかもしれない。
しかし、普段はそう(自分が偉いから良い作品が書ける)思っていても、執筆中は自分が書いているという意思を失くし、己を虚しくして書いている偉大な作家もいる。
いや、ほとんどの偉大な作家がそうなのだ。
ただし、あまりにその度合いが大きく、執筆中にすら「偉い自分が書いている」という意識が出てくれば、すぐに駄目になるだろう。
そんなことを最も理解していたのはソクラテスだった。
いかなる職業でも、その職業において優れた人間というのは、仕事中は、オーツが言うところのホースになっているのである。
ソクラテスは、巫女に「あなたは人類の中で最も知恵がある」と言われた。
しかし、ソクラテスは、「そんなことがあるはずがない」と思った。
だが、やがて彼は、巫女の言う通りだと確信した。
なぜなら、自分は何も知らないことを知っているからで、そのような人間が他にいなかったからである。

自分を虚しくするため、般若心経や大祓祝詞を延々と上げた人もいる。
黒住宗忠も、一月に1万回、大祓祝詞を上げたというから、起きている時間全てでそれをやっていたとしても足りないと思うほどだ。
だが、それで宗忠は、あらゆる奇跡を起こすようになったし、伝説による限りは、彼は、自分というものが全くなかった。
宗忠は、おいはぎに「十両出せ」と言われたら、「今、五両しかない。残りは明日必ず」と言って、その必然性は全くないのに、ただ約束したという理由だけで、翌日、本当に五両を用立てて、そのおいはぎに渡した。
そのおいはぎは宗忠の門下に入った。
念仏者の因幡の源左(いなばのげんざ)は、自分の畑の芋が掘り返されて盗まれると、その後は、畑に鍬を置いておいた。
「手で掘って怪我をしてはいけないから」という理由である。

私は、大したことは出来ないが、気が付く度に、阿弥陀如来真言「オン・アミリタ・テイセイ・カラウン」を心で唱えている。
敬愛する中岡俊哉さんの『守護霊占運学』に、干支の守護仏の真言を唱えるよう書かれているからである。








プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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