ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

クリシュナムルティ

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

「何も信じるな」と言う人間が一番信じられない

ジッドゥ・クリシュナムルティは、「私は何も信じない」と言ったが、これはつまり、「何が正しいかなんて分からない」という意味だ。
彼は、ガンジーやマザー・テレサが立派な人間であることも信じなかった。
実際、現実的に、彼ら(ガンジーとマザー・テレサ)が本当は悪人だったと考えるこも出来るだろう。
日本でテレビを毎日見る普通の人々の大半は、アウンサンスーチー(ミャンマー人に姓はないので、これは名)は正義の味方だと思っているが、これは普通に考えても疑わしいかもしれない。まあ、実際はどうか分からないが。
まして、日本で周庭氏をヒロインとして扱わないと、ちょっと怖い・・・少なくとも、確実に嫌な目に遭うような気がする。
私は、ガンジーもマザー・テレサも、アウンサンスーチーも、周庭氏も、正義の人であることを疑ってはいないが、信じてもいない。
土台、親しくなった人間ですら、信じられるわけではない。
それなら、マスコミから善のイメ―ジを与えられた人間に関して、信じる方がおかしい。

インドの聖者ニサルガダッタ・マハラジは、「あなたが信じることが出来るのは、自分が存在することだけだ」と言ったが、それも疑わしい(笑)。
私は本当に存在しているのか?
存在しているような気はするが、本当は存在していないのではないか?
深い眠りの中では、自分が存在しているという自覚はないが、その時でも自分は存在していると言えるのか?
実は、眠った時に自分は消えているのではないかとも思える。
そんなわけで、私は、聖者ニサルガダッタ・マハラジにすら勝ってしまった(笑)。

だが、「私は何も信じない」と言っているだけでは生きていけない。
「何も信じるな」と言う人間ほど信じられない者はいない(笑)。
そんなことを言う人間ほど、あなたを騙そうとしているものなのだ。
「俺を信じろ」と言う人間はまだマシだ。
なぜなら、そんな人間、ハナから信じないから(笑)。

では、我々は何を信じるべきだろうか?
それは・・・簡単なのだ。
何も考えていない時の感情だ。
逆に、最も信じられないのが、考えている時の感情だ。

「マドラックス、なぜ泣いているのだ?」
「わからない・・・」
~『MADLAX』第9話 「残香 -scent-」より~

泣く理由が分からないのに泣いているなら、それは本当に悲しいことなのだ。
だが、理由が分かっていて泣いているなら、その涙は偽物だ。
これは、あまりに純粋で明晰なことだ。

意識がある限りは感情はある。
だが、重要なのは、思考のない感情だ。
それが人類最高の英知である。
では、失神せずに思考を失えば良い(笑)。
そのためには、信仰する神の名をひたすら唱えると良い。
え?ない?
神は存在しないって?
そんなこと、誰が言ったか知らないが、信じるな(笑)。
だが、実を言うと、そんな人ほど良いかもしれない。
なぜなら、神を信じないなら、神の名に対して想念が浮かばないだろうから。
そして、神を信じている者も良い。
なぜなら、神は理解不能で、神の名を唱えるほど想念が消えていくからだ。
よって、心地良く唱えられる神の名をひたすら唱えると良い。
アマテラスオオミカミとか、アミターバ(阿弥陀如来)とか、アストライア(正義の女神)とか、イエス・キリストとか。
真言や祝詞でも良い。
想いがない時の感情に従えば、何でもうまくいくし、想いがない時の感情が快適なら、何もしなくてもうまくいくだろう。








デクノボーになる

イタリア映画『愛のほほえみ』(1974)を、私はあまりまともに観ていないが、こんな1シーンだけを印象的に憶えている。
富裕な家庭の8歳の少年ルーカが、同い年くらいの少女オルガに出会う場面だと思う。
タバコを粋(いき)に持ったオルガが、ルーカに「火をお持ちでありませんこと?」と堂々尋ねる。
唖然とするルーカに、オルガが言う。
「あたし、やっちゃいけないって言われることは全部したいの」
私は、言葉ではなく、感覚的に、「良い心掛けだ」と思ったものだった。
これはもちろん、普通の大人や良い子が、盲目的に信じ、ひれ伏している権威や、世間の教義・信条は全部疑うという姿勢の象徴である。
インドの聖者ジッドゥ・クリシュナムルティが言った「私は何も信じない」という言葉に通じている。
ただし、クリシュナムルティのこの「私は何も信じない」は「なんでもかでも疑う」ということではない。
しかし、まずは「全て疑ってみる」という時期も必要であろう。
そうすれば、笹沢佐保の時代劇のヒーロー、木枯らし紋次郎のように、
「別に疑っちゃいませんが、信じてもいやせん」
という賢い態度になる。
木枯らし紋次郎は、明らかに1日も学校に行っていないのだが、紋次郎は自分で学んだのだ。
2014年のTEDの伊藤穣一氏の講演「ナウイストになろう」の大きなテーマは「Learning over Education」だった。
経済産業省のWebサイトでは、この言葉を「教育から学びへ」などと訳しているが、正しくは、「教育より学び」であるはずだ。
木枯らし紋次郎は、教育されなかったから、よりよく学んだのであるが、これは、現在の世界トップレベルの優秀な人材にも当てはまるのである。

もちろん、子供じゃあるまいし、やるなと言われていることを全部やる必要はない。
良いルールは守らなければならない。
しかし、「やるな」と言われていることの中に、本当にやるべきことがある。
また、「やれ」と言われないことの中にこそ、優れた行いがある。
さらには、やると笑われる、やると蔑まれることの中にこそ、真に高貴な行いがある。
まあ、それが「やるな」と言われていることなのかもしれないが、岡本太郎流に言えば、
「笑われてもいい。いや、笑われなければならない」
「認められなくていい。いや、認められてたまるか」
「嫌われてもいいじゃないか?いや、嫌われないといけない」
である。

せめて、やれとは言われるはずがないことの中から、やることを見つけてやってみるのが良い。
それで笑われたり、蔑まれたりしたら、それは、とても良いことかもしれない。
米津玄師氏が初音ミクさんの歌を作っていた時が、そんな感じだったかもしれない。
そういえば、上で取り上げた伊藤穣一氏も、自身のテレビ番組で、初音ミクさんのことが好きだと言っておられたようだし。
宮沢賢治の『雨ニモマケズ』に、こんなフレーズがある。

ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ

ただ、賢治は理想は持っていたが、徹してはいなかったかもしれない。
イエス流に言えば「金持ちが天国に入るのは難しい」のである。
賢治の家は豊かだったのだ。

とりあえず、呪文や真言を常に唱えるところから始めようと思う。
そんなこと、誰もやれとは言わないし、やっても褒められないし、おそらく、デクノボー・・・かどうかは分からないが笑われる可能性が高い。
ならば、ひょっとしたら、とても良いことかもしれない。
それは自分で確かめるしかない。
本当にデクノボーかもしれないが(笑)。
私はデクノボーを長年やっている(笑)。








人間性とは

結局のところ、人の運命は人間性で決まるのかもしれない。
こう言うと、「いや、人間性が低くても楽しい人生を送る者もいれば、素晴らしい人間性を持っているのに不幸な人生を送る者もいる」と言いたい人もいると思う。
しかし、たとえ、他人に関してはそのように見えても、「自分に関しては、運命は人間性次第」なのではないか。
外部から幸福そうに見える人間が本当に幸福か、不幸に見える人間が本当に不幸かは、決して分からないし、それを探求しても仕方がない。

では、どんな人間が人間性が高いのか、モデルを知りたいと思う。
世の中では、そんな(人間性の高い)人間の代表として、ガンジーやマザー・テレサを上げる人が多いと思う。
しかし、彼らが本当はどんな人間かは分からない。
ほとんどの人が、ただ何となく、ガンジーやマザー・テレサを素晴らしい人間だと思っているが、それを自分で確かめた訳ではないし、確かめたつもりでも、その根拠となる情報の正確さは全く不明だと言って良いだろう。
聖人とも言われるジッドゥ・クリシュナムルティ(1895~1986)は、ガンジーを非常に批判的に捉えている。
そして、クリシュナムルティは、「私は何も信じない」と言うが、それが正しい態度なのかもしれない。

聖書に登場する聖人達・・・モーセ、ヨシュア、ダビデ王、ソロモン王、洗礼のヨハネ、そして、イエス・キリストはどうか?
聖書に記述されている通りなら、非常に素晴らしい人達だと思う。
では、彼らはいったいどこが素晴らしいのだろう?
それは、自分の意思より神の意思を優先したことで、神の前では、「自分が全くない」「自分が空っぽ」であるところだ。
このことを上手く言い表した言葉がある。

人々が作家としての私をちやほやするのは、さっぱり理解できない。
私は単に、水を流して撒く庭のホースに過ぎないのに。
ーージョイス・キャロル・オーツーーー
※『とんでもなく全開になれば、すべてはうまくいく』(トーシャ・シルバー著)より引用

もし、このオーツが、人々にちやほやされて、「自分が優秀だから高く評価される作家になれたのだ」と思えば、もう水は出て来ないかもしれない。
しかし、普段はそう(自分が偉いから良い作品が書ける)思っていても、執筆中は自分が書いているという意思を失くし、己を虚しくして書いている偉大な作家もいる。
いや、ほとんどの偉大な作家がそうなのだ。
ただし、あまりにその度合いが大きく、執筆中にすら「偉い自分が書いている」という意識が出てくれば、すぐに駄目になるだろう。
そんなことを最も理解していたのはソクラテスだった。
いかなる職業でも、その職業において優れた人間というのは、仕事中は、オーツが言うところのホースになっているのである。
ソクラテスは、巫女に「あなたは人類の中で最も知恵がある」と言われた。
しかし、ソクラテスは、「そんなことがあるはずがない」と思った。
だが、やがて彼は、巫女の言う通りだと確信した。
なぜなら、自分は何も知らないことを知っているからで、そのような人間が他にいなかったからである。

自分を虚しくするため、般若心経や大祓祝詞を延々と上げた人もいる。
黒住宗忠も、一月に1万回、大祓祝詞を上げたというから、起きている時間全てでそれをやっていたとしても足りないと思うほどだ。
だが、それで宗忠は、あらゆる奇跡を起こすようになったし、伝説による限りは、彼は、自分というものが全くなかった。
宗忠は、おいはぎに「十両出せ」と言われたら、「今、五両しかない。残りは明日必ず」と言って、その必然性は全くないのに、ただ約束したという理由だけで、翌日、本当に五両を用立てて、そのおいはぎに渡した。
そのおいはぎは宗忠の門下に入った。
念仏者の因幡の源左(いなばのげんざ)は、自分の畑の芋が掘り返されて盗まれると、その後は、畑に鍬を置いておいた。
「手で掘って怪我をしてはいけないから」という理由である。

私は、大したことは出来ないが、気が付く度に、阿弥陀如来真言「オン・アミリタ・テイセイ・カラウン」を心で唱えている。
敬愛する中岡俊哉さんの『守護霊占運学』に、干支の守護仏の真言を唱えるよう書かれているからである。








洗脳から何とか逃れよ

どんな人であっても、自分は強烈に洗脳されていると思った方が良いと思う。
「少しは洗脳されている」なんてものではない。
どこぞの悪名高い専制国家の国民と同等・・・ひょっとしたら、もっとひどいかもしれない。

それならもう、インドのジッドゥ・クリシュナムルティのように、「私は何も信じない」と決心した方が良いとも思うが、そのクリシュナムルティだって、かなりの部分で洗脳を免れていないかもしれない。
クリシュナムルティは、ガンジーやマザー・テレサのように、皆が泣いて褒め称える人達だって、悪の根源と言うような人である。
まあ、本当は、善いとも悪いとも言いたくないのかもしれないが、そのくらいの言い方をしないと、普通の人には話の要点が伝わらないのだと思う。

ルネ・デカルトも、絶対に何も信じないと決めた人だった。
しかし、それでは社会で生きていけないので、法律と伝統的な道徳にだけは従うことにした。
それで、大体うまくいってたのだと思う。

洗脳されると頭が悪くなり、今や、普通の日本人で、本当の頭脳の力の3割も使えないようになっていると思う。いや、実は、数パーセントしか使えていないという話もある。
そして、頭脳そのものより、精神の力を奪われていて、不満が多く、不安に苦しみ、直観で分かって当たり前のことが分からず、精神を媒介する引き寄せも全く出来ない。
洗脳が強いほど社会の下層にいるのかというと、必ずしもそうではなく、一見、上層にいながら下層の人々より苦しい者も多いのだ。

イエス・キリストは、洗脳を免れることが出来るよう人々を導いたが、それは、神と天国という害の少ないストーリーで、悪意のない洗脳を行うことによってだった。
イエスが、「神と悪魔の両方に仕えることは出来ない」と言ったように、人間は、2つの異なる洗脳を受け入れるようには出来ていない。
それなら、害がない洗脳を先に入れておけば良く、既に、害のある洗脳を受けている者は、良い洗脳と入れ替えれば良い。
そのためには、何を信じれば良いのだろう?
それは福音書に書かれている。
誰かがイエスに「第一の掟は何か?」と尋ねると、イエスは、「神を愛せよ」と即答した。
これが、トランプ大統領やウッド弁護士の言う、「政府や大統領を崇拝する国ではなく、神を崇拝する国にする」ということだ。
だが、ある巨大な勢力である敵は、アメリカ人に別のものを崇拝させようとしている。
それが何か分かっているが、私も恐くて言えない(笑)。

我々は、経典と言うよりは、法然の『選択本願念仏集』や、親鸞の教えを書いた『歎異抄』を理解することで、阿弥陀仏を崇拝して念仏を唱えた方が良いかもしれない。
数学者の岡潔や、おそらく、物理学者の湯川秀樹もそうしたのだと思う。
もちろん、他に好ましく思うものがあり、それが害のないものなら、それを信じれば良い。
そうすれば、頭も良くなり、引き寄せもうまくなると思う。








1つに賭ける

直観が冴えている人は、超能力的な力(予知や透視等)があったり、さらに、運が良く、引き寄せが上手かったりする。
では、直観が冴えるようになるにはどうすれば良いだろう?
それは、著名な発明家で能力開発指導者だった中山正和氏が一貫して言っていたように、頭のイメージ空間を整然とさせていれば良い。
では、頭のイメージ空間を整然とさせるにはどうすれば良いかというと、中山正和氏はちゃんと教えてくれている。
それは、「真実の情報のみを頭に入れる」こと、逆に言えば、「嘘の情報を頭に入れない」ことだ。
なら、テレビは嘘だらけだから、決して見てはならない(真偽の高い識別能力を持っている場合は別だが)。
大手の新聞は、良い情報もあるが、とんでもない嘘も少なくないので、よくよく吟味しながら見ないといけないが、やはり、全く見ない方が安全かもしれない。
ネットの情報は、9割方が嘘なのであるが、権威はないので、信じる必要がないことが分かるので、自分がしっかりしていれば騙されない。
ただし、ネットでも、インフルエンサー(要は人気者)が権威化して、インフルエンサーの言うことをほいほい信じる人もいる。
そして、インフルエンサーが「これが正しい」といった感じで伝えることは、大概、嘘だと思った方が良い。

中山正和氏は、嘘の情報を頭に入れないための、最も単純なやり方を教えてくれているが、それは、大昔からあり、賢い人達が採用してきた方法だ。
それは、「自分の目で見たこと、自分の耳で聞いたことしか信じない」である。
あるいは、さらに究極的には、こんな心構えもある。
それは、インドの聖者ジッドゥ・クリシュナムルティのように「私は何も信じない」ことである。私はこれが好きなのだが。

では、聖書や仏典はどうだろうか?
答は、聖書だけ、法華経だけとかなら良いのである。
つまり、1つだけ信じるのだ。
どういう意味だろう?
長く存続する聖典というものは、その聖典の中に関しては、一貫性があり、矛盾が少ない。
なら、たとえそれが嘘でも、その1つで思考パターンを作れば、頭の中は整然としているのである。
もし、聖書を読んでいるのに、頭が混乱しているように見える人というのは、「読み方が足りない」か「他の聖典のパターンも入っている」かである。
聖書の中では矛盾がなくても、聖書と法華経では、どちらが正しいという問題ではなく、やはり矛盾があるのである。
いろんな聖典を読み込んでいる人というのは、頭が混乱していて、賢くなく、直観力はなく、運は良くなく、引き寄せが下手である。

宮沢賢治という人は、化学と法華経とエマーソンがごっちゃになり、割と運が悪く、頭も混乱していた。
実は、アインシュタインも同じなのである。
だが、彼らは、その微妙さが芸術性をもたらした。
アインシュタインは、科学者であるというより、芸術的だったのだと思う。
だが、いずれにしろ、科学が大きく入っている点が、両者に良い影響を与えた。
宮沢賢治だって、座右の書は分厚い化学書だったのだ。

だから、何か1つに絞った方が良いし、ついでに、科学に興味を持つのは良いことと思う。
コーランと法華経の両方の良さを取り入れようとは考えない方が良い。
どちらも、巨大な嘘なのかもしれないからね。








プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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