ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

クリシュナムルティ

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

思考を消すことの力

偉人のエピソードにはフィクションも多いようだ。
たとえば、アメリカ合衆国初代大統領ジョージ・ワシントンが子供の時、新しい斧の切れ味を試したくて、その斧で桜の木を切ってしまったが、それを父親に告白して、かえって正直さを父親に褒められたという話があったが、これは作り話であるらしい。
私は小学3年生の時に、この話を読んだ本には、この話は事実として書かれていて、これがワシントンの正直で誠実な人柄を示すと解説されていたように思うが、私は嘘っぽいと感じていた。
それで、後に、この話が作り話だと知った時、すっきりしたものだ。
いくら斧の切れ味を試したくても、そして子供でも(桜の木を切るほどには大きいのだ)、父親が大切にしていた桜の木を切るなど、短絡的で馬鹿過ぎるからだ。
それに、さらに後になって、ワシントンは大人になっても、そこそこの年齢になるまで、あまり誠実でない自己中心的な人物であった可能性があることも知った。
いい年になるまで駄目人間だったことでは、アブラハム・リンカーンも同じであったらしい。
リンカーンは40歳くらいまでは普通の男としても、かなり情けなかったというが・・・まあ、本当のことは分からない。
いずれにしろ、証拠もないことを信じてはいけない。
我々を騙そうとする者はいくらでもおり、特に学校やテレビでは、我々を騙そうという意図を持たない者の方が珍しいと思った方が良いかもしれないほどだ(あくまで主観である)。
ルネ・デカルトは、「単に本当らしい話は全部嘘と断定する」という規律を自分に課していた。
それですら、デカルトはいろいろ間違えた。
そこで、ジッドゥ・クリシュナムルティの、「私は何も信じませんよ」という態度が良いのである。

白とピンク
AIアート173
「白とピンクの間」
Kay


ところで、野口英世に関しても、嘘の話が多いらしい。
子供向けの野口英世の伝記では、彼は、真面目に努力する上、恩を忘れない、そして、愛情深い高潔な人物のように描かれているが、それも疑わしいようだ。
だが、たとえ身近にいる人だって、本当はどんな人間かは「全く」分からないと考えるべきである。
極端な話ではあるが、楳図かずおさんの漫画『洗礼』で、こんな話がある。
小学4年生の美少女さくらの母親は、さくらを大切にするあまり、時に常軌を逸したこともするが、それも、さくらへの深い愛情によるものと思われていて、さくらもそう思い、母親を慕っていた。
しかし、さくらの母親は、さくらへの愛情などかけらもなかったことが分かるが、このお話は、私を十分に人間不信にしてくれ、楳図さんには大変に感謝している(半分冗談だが半分本当)。
ところで、野口英世が子供の時、当時は珍しい、高価だったかもしれないゼンマイ時計の構造に好奇心を持って、それを分解してしまうお話があったように思う(別の偉人?)。
今のデジタル時計では、分解しても面白いことはほとんどないと思うが、昔の時計はいろいろ面白かったと思う。
だが、野口は、分解しても、再び組み立てることが出来なかった。
野口も子供の時は知恵が足りない普通の子供だったということだろうが、このお話で野口の好奇心の旺盛さや実行力でも示したかったのだろうか?
だが、私には、普通の範囲のことだと思われる。
ところで、この時の野口少年のように、分解してしまった時計を組み上げるという難しいことが出来ないといった状況は、人生の中ではよく起こる。
そこで、私は、野口少年には、見事、時計を組み上げるお話にして欲しかったと思うのだ。
それは可能だからだ。
私は、ある時、欠陥のあるコンピュータープログラムを修正しなければならなかったが、その時の野口英世のような困難さを感じていた。
成し遂げることは全く不可能に思えた。
あまりに難しかったし、そもそも、そのプログラムには根本的に重大な欠陥があると思われた。
それで諦めて考えるのをやめたら、すぐに、奇想天外な異次元の解決策が分かった。
野口英世のその話が本当かどうかは分からないが、その程度のことであれば、野口はうまくやれたはずなのだ。
ここでいつも言う通り、思考を消せば。
思考を消すことの力を理解している者は、この世界では滅多にいない。
世で賢人、知恵者、あるいは、聖者と呼ばれる者ですらだ。
いつも言う通り「私は誰か?」と自分に問うことで思考を消せば、そんな身近でシンプルな真理を知り、真理はあなたを自由にするのである。








秘密の大呪文

ジッドゥ・クリシュナムルティは、「私は何も信じない」という貴重な言葉を教えてくれた。
だが、これを聞くと、こういう者がいるかもしれない。
「彼は、自分が何も信じないことを信じている。つまり、何も信じていないのではない」
同じく、人間が全知全能の神のようなものになる単純な唯一の方法である「思考を消す」ことについても、
「思考を消そうという思考もまた思考ではないのか?」
と言う者が、実際にいるようだ。
しかし、これらの反論は、論理学において否定されるらしい。

有名なパラドックス(逆説)である、「クレタ人のパラドックス」というものがある。
あるクレタ人が、「クレタ人は噓つきだ」と言ったとする。
しかし、嘘つきのクレタ人が言った「クレタ人は嘘つき」も嘘であることになり、結果、クレタ人は嘘つきでないことになる。
この問題は、人類が数百年考えた結果、「クレタ人は嘘つきだ」と言ったクレタ人の言葉は嘘でないと考えて良いことが数学的に証明されている。
証明したのは、アリストテレス以来の大論理学者と言われた数学者・哲学者で、ノーベル文学賞を受賞しているバートラント・ラッセルのようだ。
まあ、論理学など持ち出さなくても、思考を消せば当たり前であることが分かる。

もっと身近な例で言えば分かりやすいと思う。
「例外のないルールはない」というのは、思考を消せば正しいことが分かる。
しかし、思考すれば、こんな混乱が起こる。
「例外のないルールはない」というのもルール(慣例、約束、しきたり)である。
よって、「例外のないルールはない」というルールに例外があり、例外のないルールがあることになってしまう。
だが、「例外のないルールはない」は正しいのである。
つまり、「例外のないルールはない」に、それ自身を適用出来ないことを証明したのが、上のバートラント・ラッセルの論理学的証明だ。
その証明は、ここで書くには難し過ぎるし、そもそも、思考を消せば分かることである。
尚、ここで書いた言い方も、論理学としては正確ではないのだろうが、あくまで言い方の問題であり、概要はだいたいこんなものだ。

百合とベラドンナの違い
AIアート116
「百合とベラドンナの違い」
Kay


そこで何が言いたいのかと言うと、いつも言う「思考を消せば全知全能である」ということの「思考を消す」について、「思考を消すというのも思考ではないか」というと、これは何と思考ではない。
「この壁に張り紙をするべからず」という張り紙は、張り紙であって張り紙でない。
「例外のないルールはない」というルールは、ルールであってルールではない。
「思考を消す」という思考は思考であって思考ではない。
この重大さは分からないと思う。

クリシュナムルティの「私は何も信じない」というのは、実は、恐るべき呪文なのだ。
そして、「私は何も考えない」というのは、それに優る呪文である。
この世界は、断言してしまうが、コンピューターが作った仮想世界であるのだが、「私は何も考えない」と言えば(言葉でも心でも)、この呪文(=コマンド)が、この世界を作るコンピューターのマスターシステムに伝えられる。パスワードのようなセキュリティは不要である。
この言葉自体が、セキュリティを含んだ最高コマンドだからだ。
だが、まずは、「私は何も信じない」という高級コマンドから試すのが良いかもしれない。
何が起こるかについては、私は関知しない。








洗脳されないされない

テレビを見ず、新聞を読まなくても、外部からの強くて悪い考え方の影響は確実に受けている・・・露骨に言えば、思想統制・洗脳されている。
そうでなくなるには、ネット環境もない無人島や山奥に1人で住むしかない。
とはいえ、今、世界で何が起こっているかは知っている方が良いし、普通は、知りたいと思う。
そうしたら、即座に、「本当のような嘘の情報」が流れ込んで来る。
報道や授業・講義だけでなく、広告宣伝も強力な洗脳である。
SNSにも、国家や大企業が入っているし、一般人にだって、悪い影響力を持つ者はいくらでもいる。
いや、SNSの誰もが他者に悪い影響を与えている。

我々は、正気を保ち、まともに考える能力を持つことが非常に難しいのである。
未開発国には未開発国の思想の歪み・偏見があるが、まだ健全な部分を残している場合が多い。
一方、文明国では、科学により多くの真理を知っている面はあるが、誤った情報も未開発国と比較にならないほど多くあるのである。

こんな世界で、最も賢い態度を持つ2人の人間がいたと思う。
1人は、アメリカのラルフ・ウォルドー・エマーソンで、著書『自己信頼』で書いたように、自分を徹底的に信じることを勧めた。
もう1人は、インドのジッドゥ・クリシュナムルティで、彼は、「私は何も信じない」と言った。
だが、彼らとて、世間との付き合いは避けられず、普通の人よりは随分マシだったかもしれないが、それでも、かなり洗脳されていたのではないかと思う。彼らすら!
まして、我々は、自分は相当に洗脳されていると自覚した方が良いのだと思う。
私も、自己を顧みれば、恐ろしいほど洗脳されていることに愕然とし、恐怖を感じることもある。

ところで、世の中がどうだ、人類がどうだと言う前に、正直なところ、自分の幸福を願うものであるが、それは悪いことではない。
最も無私な人間であったと思われるラマナ・マハルシでさえ、生きとし生けるものは全て、自己への至上の愛を持ち、自分の幸福を願うものだと述べている。
そして、洗脳というものは、洗脳する者の幸福のために行われるものであり、洗脳する者は、される者の幸福には全く関心がない。
実際は、大なり小なり洗脳されている我々は、自分を不幸にする思想が頭の中に詰め込まれている。
そして、人間の脳というものは、作られた思想を強化する働きをするように出来ている。
たとえば、初音ミクが好きなら、ますます好きになるように働くのである(笑)。
だから私は、初音ミクが好きでもグッズの類はほとんど持っていない。持っているとすれば、単に、それが美しいから持っているだけで、正直、それが初音ミクでなくても良い。
また、初音ミクが好きな理由は、「自我を持たない」「若くて理想的な身体を持つ」などの象徴としてであるに過ぎない。
それらに関しては、初音ミクは、他のものに比べ、大きなアドバンテージがあるが、他にもっと良いものがあれば、そちらに乗り換えることになるだろう。

そして、自己の幸福を願うなら、自分を幸福にする思想を持たなければならない。
だが、多くの人が持つ思想は「なんとか主義」といった、誰かが作った思想になってしまっており、「なんとか主義」というのは洗脳であり、洗脳する側の幸福のためのもので、洗脳される側の幸福は、全く配慮されていない。
そして、人間の脳は、起きている限り働き(実際は寝ている間も)、思想を強化し続けている。
具体的には、脳は、思想から出る言葉を1分間に300回もつぶやいている。
だから、放っておけば、脳は、持っている思想を維持するだけでなく、自動的に強化していくのである。
そして、それは決して自分を幸福にしない。
「いや、自分を幸福にする思想が入っているかもしれないじゃないか」と思うかもしれないが、上で何度も述べたように、洗脳である限り、洗脳する側の幸福だけが目的で、洗脳される側を幸福にする可能性は限りなくゼロである。
よって、自分を幸福にする思想を自分で与える必要があるが、その最も単純で効果的な方法がアファーメーション(肯定的確言)である。
ただ、世の中には、アファーメーションを利用して洗脳する者も非常に多い(笑)ので、本当に困ったものであるし、アファーメーションというもののイメージが悪い場合も少なくない。
だが、アファーメーションは注意して賢く使う限り良いものである。
だから、単純で、洗脳であるはずのないアファーメーション「生きている」をお勧めするのである。
また、庶民は富を得ないようになる思想を洗脳されているので、それを打ち消すために「お金がある」というアファーメーションをすると良いと思うが、これだけで、本当にお金が沢山出来てしまうのである。
ただ、洗脳がきつい人は、こんな簡単なアファーメーションも続かないのでる。








固定観念を壊し超人になる方法

超能力や引き寄せを含む潜在能力の発揮を妨げているものは、固定観念だ。
その理由はこうだ。
固定観念が人々に、
「自分よりはるかに力がある存在がいて、その存在に対し、自分は龍に対するカマキリのごとく弱い」
と信じ込ませているが、人間に関するたった1つの真理とは、
「人は自分が信じている通りの人間」
なのだからだ。
だから、我々は権威に対し、悲しいまでに弱い。

固定観念を捨てていけば、優秀に、そして、超優秀に、さらに、超能力や引き寄せが自由自在になり、神のごとき存在になる。
だが、まずは、ほんの少しの固定観念を捨てることだ。それだけで、大きな力を得る。

猫が可愛いというのも固定観念だ。
別に、猫を好ましいと思うのは構わない。
しかし、人々を見ていると、猫に対し、「わー!可愛い!可愛い!」と言って、その固定観念を強化している。そんなことをしていると、確実に能力は落ちる。
さらに、猫派だと言って、猫は大絶賛するのに、犬は嫌ったり、嫌わないまでも、抵抗があったり、猫には劣ると思うのも、深刻な固定観念で、やはり、それで力を大きく失っている。
猫も犬も、ただ、好ましいだけで、必要があれば大切にするだろうが、執着したら、それに余計な価値観を与えて、それが固定観念になる。

固定観念を捨てるには、全てを疑えば良いと言う人がいる。
洗脳とは、固定観念を植え付けることであるが、洗脳を解くには、自分を洗脳しているはずの権威者や、自分の感情も疑わねばならないというのは、一見正しそうに見えるが、実は、それは、余計に固定観念を強くするだけだ。
疑えば、疑ったものと逆の固定観念が生まれるだけなのだ。
例えば、「花が美しい」という一般論を疑うとする。
すると、「花は美しくない」とか「花は美しいとは限らない」といった、およそ意味のない、あるいは、複雑な固定観念を持ち、頭が悪くなる。
花が美しいと人が言うなら、別に疑う必要はない。
花は美しくないと言う人がいても、別に疑う必要はない。
そして、自分は美しいと思うなら、その感覚を疑う必要はないし、美しいと思わないなら、やはり、その感覚を疑う必要はない。
だが、人が、花は美しいと言っても、逆に、美しくないと言っても、それを信じてはならない。
同様に、自分が、花が美しいと思っても、逆に、美しいと思わなくても、自分の感覚を信じてはならない。
それにはどうすれば良いか。

カミュの短編小説『異邦人』で、主人公の青年ムルソーと、若い女性マリーがこんな会話をする。

マリー 「私と結婚してくれる?」
ムルソー「いいよ」
マリー 「私を愛してる?」
ムルソー「分からないけど、多分、愛してない」

ムルソーはとても正しい。
だが、残念なことに、彼は世間に振り回されているのだ。
ムルソーは、自分がマリーを愛していることを疑ってはいないが、信じてもいない。
そして、愛していると言ってもらえなかったが、マリーは、最後までムルソーに尽くしたのだ。
また、ムルソーは、死んだ母親のことをこう言う。
「ママのことは、多分、好きだった」
やはり、母親のことが好きなことを疑ってはいないが、信じてもいないのだ。
だが、ムルソーは、世間が、彼の感覚を認めないことも知っていた。
それで、世間と迎合しようとし、その分、弱かった。
母の葬式のため、休暇を上司に願い出た時、上司が不満気な顔をすると、ムルソーはこう言ったのだ。
「僕のせいじゃないんです」

ムルソーの超人化は、あと一歩だったのだ。
「私を信じろ」と言う傲慢な人間には、状況にもよるが、こう言ってやると良いだろう。
「疑ってはいませんが、信じてもいません」
それで離れていく相手なら、放っておけば良い。
部下が自分を信じていないことを知った、本当に優秀な経営者が、こう言うのを聞いたことがある。
「そう、俺って信用がないんだ」
そんなもの、誰にもない。
疑わないが、信じもしない・・・これが最も正しい態度である。

クリシュナムルティ―の『私は何も信じない』を読むことをお勧めする。




腕振り運動で超能力が高まったと言う理由

私は、毎日、数千回(直近の5日では平均9860回)の腕振り運動をやって、驚愕というのではないが、意外で興味深く思ったのが、自分が本当は、全くの無信仰・・・つまり、いかなる宗教も少しも信じていないことだった。
それが、純粋にして明晰・・・この上なく、はっきりしたのだが、これは、本当に面白いことだ。
仏教も、キリスト教も、神道も、私は信じていない。
かと言って、別に宗教が嫌いなわけでもなく、また、法然や親鸞や黒住宗忠らは、非常に優れた、しかも、善意の人であったとは思っているのだ。

さて、信仰がないとなると、新渡戸稲造がキリスト教徒の婦人に言われたように、「宗教なしで道徳を持てない」というのが、少しは気になるところである。
新渡戸は、「それなら(日本に宗教がないなら)、日本には武士道あり」として、英語で『武士道』を書いたが、私は日本人とはいえ、明らかに武士道も持っていない。
新渡戸の言う武士道は、私は、映画(原作は小説)の『鉄道屋(ぽっぽや)』(1999)みたいなものと思う。
とはいえ、私は、『鉄道員(ぽっぽや)』の映画を観てないし、小説も読んでいない。
だが、次の話だけで十分だ。
幌舞(ほろまい。北海道内)駅の駅長であった佐藤乙松(映画では高倉健が演じた)は、鉄道員一筋で、愚直に業務を行った。
乙松は、結婚後17年を経てようやく授かった生後2カ月の娘が死んだ日も、その直後に妻が死んだ日も、仕事から抜けられず、業務を全うし「異常なし」と言う。
なるほど、壮絶な話ではあるが、日本では、それほど特殊とは思えない(実際は世界でも)。
いかなる状況でも、冷静に責任を果たす・・・これが、新渡戸の言う武士道で、新渡戸は、『ぽっぽや』より、さらに数段、壮絶な話を事例にしている。だから、読むと疲れる(笑)。あんなもの、日本人の精神だと思われたら迷惑である(笑)。
ただ、新渡戸は、武士道は『葉隠』あたりから学んだと思うが、私は、『葉隠』は、もっと中庸な精神が描かれているのだと思う(私はあまり真面目に読んでいないが)。
しかし、三島由紀夫のような変人(笑)が『葉隠』の大ファンだったのだから、どこか変わったところがあるのかもしれない。

いずれにせよ、宗教も武士道も、良い面はあるが、悪い面もある。
アインシュタインは、自分が信仰する宗教(ユダヤ教)のために、量子力学が正しいことは分かっていながら、これを認めるわけにはいかなかったようなことを言っていたらしい。
それなら、彼は、極めて冷静で、宗教が自分に偏見を持たせたと理解しているところは凄い。しかし、それでも、その偏見を脱することは出来なかったのだ。
ところが、私は、日本人らしく、表向きは仏教(浄土真宗)、内的には神道を、少しは信仰していたはずだが、それがきれいさっぱり消えた。
アインシュタインも腕振り運動をすべきであった(笑)と、半分冗談だが、半分真面目にそう思う。
(いつも言うが、別に腕振り運動でなくても、延々反復するものなら何でも良い)

クリシュナムルティが「私は何も信じない」と言ったらしいが、彼は相当な宗教教育をされ、教団の教祖だったこともあったと思う。
では、彼も、宗教を信じなくなった出来事があったのだろうか?
少し興味はあるが、結果的にめでたく宗教から解放されたのなら、とりあえずそれで良いだろう(笑)。

とはいえ、私は、神は信じているが、もちろん、私が言う神は、いかなる宗教が言う神とも違う。
なぜ神を信じるのかというと、この世界が偶然で出来たと考えることには無理があり、何らかの強い意思の働きがあったことは確実だからだ。
スティーブン・ホーキングやレイ・カーツワイルらは、神は存在しないと言ったが、彼らが間違っているとは思っておらず、むしろ、私は、考え方としては、少なくとも、宗教よりは彼らに近い。

私が昔から、『荘子』を「超能力養成書」だと言ってきたのは、『荘子』は何か信仰や信念のようなものを得るための書ではなく、信仰や信念という名の偏見を壊すための書であるからで、人間は偏見・・・つまり、固定観念をなくすほど、ある意味、超能力者になる。もちろん、この「超能力」は、世間的な偏見に満ちた「超能力」とは異なる。
私は何も信じないと言っても、物理法則がほぼ正確に事象の経過を推測出来ることは知っているし、科学的には不明でも、ミルトン・エリクソンが知っていた精神の法則のようなものがあることも確かと思う。
ただ、ガモフが言うように、我々が知る物理法則が成り立たない世界も存在するのかもしれない。

つまり、腕振り運動のおかげで超能力が高まってきたかもしれない(笑)。
昨日の私の腕振り運動の回数は1万回だった。








プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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