石森章太郎さん(後に石ノ森章太郎と改名)の代表作の1つ『サイボーグ009』に、『クビクロ』というお話があった。クビクロとは犬の名であるが、009ことジョーは、クビクロのあまりに過酷で悲しい運命を嘆き、死んだクビクロを抱きながら、「神様、どうしてこんないたずらをなさったのです」と言う。
ギリシャ神話では、そんなふうに、あまりに不条理な運命や、神のわがままとしか思えない仕打ちに、思わず神に対し疑念を持った時、神は、「おろかな人間の分際で神の意図を知ろうとするな」と言うのである。
だが、この「人間の分際で神の意図を知ろうとするな」というのが、どうしても納得できないのが人間であるようだ。
神というのは、人間の観念であるのだが、もし本当に神がいたとして、人間の知性でその存在を理解することは出来ないだろう。よって、人間は、非常に制限された観念の中でしか神を捉えることはできないのであるが、自然というものを多少でも本気で観察すれば、ギリシャ神話で言われる「たかが人間が、神の意図を知ろうとするな」というのも納得できるのではないかと思う。それは、7歳の子供が大統領の意図を理解できないようなものだ。
ジョーはクビクロの運命を静かに受け入れるべきだったのだ。
我々が理解できるような形ではないのだが、人や世界の運命は、神が決定したものであり、それは決して変わらないものなのだろう。我々は生まれた瞬間から死ぬ瞬間まで、一挙手一投足、髪の毛1本の動きまで、全て決定されている。
思い通りに金持ちになれる訳ではないし、いかに身体に気を配っても、健康でいられる訳でもない。それらは全て運命だ。
だが、「全て神の意図なのだから受け入れろ」と言われても、それが出来ないのが人間だ。
それで、「神はこんな理由でこんな運命を与えるのだ」などという話をする者がよくいるが、それが身の程知らずというのだろう。
しかし、考えてみれば無理もない。
それが自我の性質なのである。
良いことばかりでない限り、「全ては神の決定」と言われても、それを受容することができないのだ自我(心、人の知性)の絶対的な特質なのである。
つまり、面白いことに、神自身が人にそのようなものを与えた上で、「神の決めたことを受け入れよ」と言ったというのが真相なのである。
とんだジョークである。
森鴎外が勝手に改題してしまったダンテの『神曲』は、原題が『神聖なる喜劇』であり、まさに、人間とは喜劇を演じているのだろう。
アイルランドの詩聖W.B.イェイツは、人生は悲劇であり、それを認識してこそ、人は本当に生きることができると言ったが、神がシナリオを書いた喜劇は、演じる自我にとっては悲劇と感じるのかもしれない。いや、人間の喜劇だって、大抵はそんなものだ。劇中の人物の悲劇が、見ている者には喜劇ということは多い。
人が自殺するのは、自分の人生があまりに面白くないからだ。つまり、「全然良いこともない」からだ。
大半の人間は皆そう言うのだ。「全然良いこともない」と。
それで、人生に嫌気がさし、どうにも耐えられなくなった時に自殺するのである。
だが、自殺するのは自我だけにしておくことだ。
自我は普段は決して自殺しない。
あくまで、個人的な満足を求めて生き延びようとするのであるが、それ(個人的満足)が決して得られないと分かった時に自らの滅びを選ぶ。
そして、人は、自我だけを滅ぼす方法を知らないので、肉体を巻き込んでしまうのだ。
だが、自我だけの滅びということはあり得、それを成し遂げることを悟りというのである。その時、予想もしなかったことに、実に自分が神であることを知るのである。
至道無難が、「生きながら死人となりはてて、思いのままになすわざぞよき」と言ったのは、そのあたりを簡潔に言い表しているように思う。
至道無難の言う死人とは自我の死人である。
ただ、自我の全てが死ぬというのではない。自我というのは物質ではないし、現在の科学機器で捕捉できるエネルギーでもないので描写は不可能だが、喩えて言えば、その不要な部分が消滅したり、あるいは、性質の異なるエネルギーに変換されることを自我の死というのである。
その意味で、自我の自殺は大いに奨めるところである。
現実的な状況がどうであれ、自我が消えれば絶対的な幸福に至る。
逆に、身体が死んでも自我が生きたままだと不幸であるのかもしれない。
肉体が死んでも自我が生きていると、自我はありもしない幻の身体を作ってそれにとりつく。多分、幽霊というのは、そんなものなのだろう。
自殺するなら、是非、自我の自殺をすべきである。
↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
ギリシャ神話では、そんなふうに、あまりに不条理な運命や、神のわがままとしか思えない仕打ちに、思わず神に対し疑念を持った時、神は、「おろかな人間の分際で神の意図を知ろうとするな」と言うのである。
だが、この「人間の分際で神の意図を知ろうとするな」というのが、どうしても納得できないのが人間であるようだ。
神というのは、人間の観念であるのだが、もし本当に神がいたとして、人間の知性でその存在を理解することは出来ないだろう。よって、人間は、非常に制限された観念の中でしか神を捉えることはできないのであるが、自然というものを多少でも本気で観察すれば、ギリシャ神話で言われる「たかが人間が、神の意図を知ろうとするな」というのも納得できるのではないかと思う。それは、7歳の子供が大統領の意図を理解できないようなものだ。
ジョーはクビクロの運命を静かに受け入れるべきだったのだ。
我々が理解できるような形ではないのだが、人や世界の運命は、神が決定したものであり、それは決して変わらないものなのだろう。我々は生まれた瞬間から死ぬ瞬間まで、一挙手一投足、髪の毛1本の動きまで、全て決定されている。
思い通りに金持ちになれる訳ではないし、いかに身体に気を配っても、健康でいられる訳でもない。それらは全て運命だ。
だが、「全て神の意図なのだから受け入れろ」と言われても、それが出来ないのが人間だ。
それで、「神はこんな理由でこんな運命を与えるのだ」などという話をする者がよくいるが、それが身の程知らずというのだろう。
しかし、考えてみれば無理もない。
それが自我の性質なのである。
良いことばかりでない限り、「全ては神の決定」と言われても、それを受容することができないのだ自我(心、人の知性)の絶対的な特質なのである。
つまり、面白いことに、神自身が人にそのようなものを与えた上で、「神の決めたことを受け入れよ」と言ったというのが真相なのである。
とんだジョークである。
森鴎外が勝手に改題してしまったダンテの『神曲』は、原題が『神聖なる喜劇』であり、まさに、人間とは喜劇を演じているのだろう。
アイルランドの詩聖W.B.イェイツは、人生は悲劇であり、それを認識してこそ、人は本当に生きることができると言ったが、神がシナリオを書いた喜劇は、演じる自我にとっては悲劇と感じるのかもしれない。いや、人間の喜劇だって、大抵はそんなものだ。劇中の人物の悲劇が、見ている者には喜劇ということは多い。
人が自殺するのは、自分の人生があまりに面白くないからだ。つまり、「全然良いこともない」からだ。
大半の人間は皆そう言うのだ。「全然良いこともない」と。
それで、人生に嫌気がさし、どうにも耐えられなくなった時に自殺するのである。
だが、自殺するのは自我だけにしておくことだ。
自我は普段は決して自殺しない。
あくまで、個人的な満足を求めて生き延びようとするのであるが、それ(個人的満足)が決して得られないと分かった時に自らの滅びを選ぶ。
そして、人は、自我だけを滅ぼす方法を知らないので、肉体を巻き込んでしまうのだ。
だが、自我だけの滅びということはあり得、それを成し遂げることを悟りというのである。その時、予想もしなかったことに、実に自分が神であることを知るのである。
至道無難が、「生きながら死人となりはてて、思いのままになすわざぞよき」と言ったのは、そのあたりを簡潔に言い表しているように思う。
至道無難の言う死人とは自我の死人である。
ただ、自我の全てが死ぬというのではない。自我というのは物質ではないし、現在の科学機器で捕捉できるエネルギーでもないので描写は不可能だが、喩えて言えば、その不要な部分が消滅したり、あるいは、性質の異なるエネルギーに変換されることを自我の死というのである。
その意味で、自我の自殺は大いに奨めるところである。
現実的な状況がどうであれ、自我が消えれば絶対的な幸福に至る。
逆に、身体が死んでも自我が生きたままだと不幸であるのかもしれない。
肉体が死んでも自我が生きていると、自我はありもしない幻の身体を作ってそれにとりつく。多分、幽霊というのは、そんなものなのだろう。
自殺するなら、是非、自我の自殺をすべきである。
↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
