ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

キース・ジャレット

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

ただやることで奇跡が起こった

私が小学4年生の時の超常現象の話をしようと思う。
私は学校で忘れ物が非常に多く、そのために教師や親によく怒られていたが、自分ではどうしようもなかった。
学校に興味がないとはいえ、散々教師や親にひどい目に遭わされても憶えないのは、少し前に書いたが、私は脳の欠陥で短期記憶の能力がなく、忘れると言うよりは、最初から憶えていないのだろう。
大人になってからはメモを取るようになったが、後でメモを読み返すと、書いたことを憶えていないメモが大半で、やはり私には短期記憶の能力がないのだと思う。

ところが、その小学4年生のある日、忘れたでは済まされない忘れ物をしてしまい、この時ばかりは絶望的な気分になった。
それで、休み時間になった時、家に取りに帰ろうと決心した。
しかし、私の家と小学校はかなり遠く、通学は片道30分はかかっていた。
距離は少なくとも1km・・・多分、1.5kmはあった。
それを、休み時間の10分で往復するのは不可能である。
(普通の高校生男子で1.5kmは5分強)
私は、授業時間の開始時に教室にいなかったことはなかったが、この時は、遅れてしまっても、その忘れ物がないよりマシと思ったのかもしれない。
ただ、実際は、もう何も考えていなかったと思う。
そして、家に帰って忘れ物を取り、学校に戻ってくると、生徒達が校庭で遊んでいるのを見て、不思議な感じがした。
間に合ってしまったのだ。
しかも、ほとんど疲れていなかった。
江戸末期の神道家、黒住宗忠が、あり得ない距離と時間で移動した話が有名だが、彼はイエス・キリスト並の奇跡の力を持っていたと伝えられている。
だが、イエスも言ったように、こういうことは、やろうと思えば誰でも出来るのである。
そして、私に出来た理由は、「遅れまい」とか「遅れたらどうしよう」という想いがなかったことはもちろん、一切の思考が消えていたからだろう。
いつも言う通り、人間は思考を消せば全知全能なのである。

パパの書斎
AIアート202
「パパの書斎」
Kay


『灼眼のシャナ』の漫画で、死にゆく坂井悠二が(まあ、生き返るのだが)、シャナに、
「大事なことは、ただやるってことなんだ」
と言うのを印象深く憶えている(原作小説も読んだはずだが、ちょっと憶えていない)。
私の小学4年生の時の奇跡も、何も考えず、ただやった(走った)から起こったのである。

ジャズ・ピアニストのキース・ジャレットが、1975年の「ザ・ケルン・コンサート」で奇跡の演奏が出来たのも、夜の11時半で、しかも疲れ切っていて、その上、ピアノは会場の大きさからいって小さ過ぎる上に壊れている・・・そんなどうしようもない状況で演奏を決心したジャレットは、もう何も考えずにやるしかなかったからである。
それで、地球の歴史に残るほどの、とんでもない奇跡の演奏になったのだ。








奇跡は「起こる」のか「起きる」のか

何度かご紹介した、教育学者の七田眞さんの著書に書かれていた奇跡の口癖(これをずっと唱えていたホームレスが宝くじで1憶円を2回当てた)「神様の奇跡が起こる」は、人によっては馬鹿げていると思うかもしれないが、私は理に適っていると思う。
エミール・クーエの有名な自己暗示「毎日、あらゆる面で私はますます向上していく」と似た面もあるが、むしろ、「神様の奇跡」の方が少なくとも日本人には合っていると思う。

ところで、この「神様の奇跡が起こる」で、ちょっと気になることを思い出す。
Mitchie Mさんによる初音ミクさんの歌『FREELY TOMORROW』の中で、「奇跡は起きる」と歌われていることである。
これは、考えてみると、意外と面白いし重要だ。

1億円の口癖「神様の奇跡が起こる」
 FREELY TOMORROW「奇跡は起きる」

まず、最初に言っておくと、日本語的にはどちらも正しい。
NHK放送文化研究所の「最近気になる放送用語」の「起きる?起こる?」によれば、元々は、

人・動物が主語の場合「起きる」(例:早く起きる子供)
出来事が主語の場合「起こる」(例:偏食が原因で起こる病気)

であったようだ。
ただ、「早く起こる子供」は駄目だが、「偏食が原因で起きる病気」は問題ない。
「早く起きる子供」で、どうしても「起こる」を使いたければ、「子供の早起き」を主語にし、「子供の早起きが起こった」とでも言うしかない。

そもそも、「起きる」とは、横になった状態から縦になる(上半身を起こしたり、立ち上がったりする)ことで、病気、地震、台風の「起きる」は「発生する」という意味である。
「起きる」は、本来は、「起き上がる」専用。
「起こる」は、「発生する」「生じる」「芽生える」「産まれ出でる」等の言葉を代用する。

「奇跡が起きる」には、少し、人為的な雰囲気があると思う。
一方、「奇跡が起こる」には、非常に珍しいことが偶然起こった、あるいは、神様が起こしたという印象があるのではないかと思う。
例えば、正義のヒーローが、絶対勝てないと思える強い悪に立ち向かい、奇跡の勝利を得た場合、「奇跡が起こった」では、全くの偶然の勝利のように感じ、頑張った正義のヒーローに対し、失礼かもしれない。
だが、「奇跡が起きた」なら、正義のヒーローの頑張りがあってこそという意味合いが感じられるような気がする。
まあ、これも微妙なのだが。

まとめると、私見かもしれないが、
「奇跡が起きる」=「人と神の共同作業」
「奇跡が起こる」=「神の業」
と思えるのである。

1億円を当てたホームレスは、自分は何もせず、ただ「神様の奇跡が起こる」と唱えていたので、仏教でいう「絶対他力」であり、まさに、「神様の奇跡が起こる」が合う。
一方、『FREELY TOMORROW』の「奇跡は起きる」は、特にミクさんのような溌溂とした少女が歌っていると、人間も頑張っているのだと感じるし、歌全体を聴いてもそう感じるように思う。
口癖にする場合、完全に神にまかせるなら「神様の奇跡が起こる」「神様の奇跡」、神と自分とのパートナーシップを想う場合は「神様の奇跡が起きる」「奇跡は起きる」で良いかもしれない。

そういったこと(自分と神の協力関係)を感じる話がある。
ザ・ケルン・コンサートだ。
1975年にドイツのケルンで行われた、ジャズピアニスト、キース・ジャレットのピアノソロ演奏会である。
この時、ジャレットはスイスのチューリッヒから563キロを5時間かけて運転してきたばかりで、しかも、数日間の不眠もあって、体調は最悪だった。
さらに、演奏用に用意されていた、会場の広いオペラハウスに合わない小さなピアノは壊れていて、高音部と黒盤とペダルは使えなかった(手違いで正式のピアノが届かず、そこにあったこのピアノしかなかった)。
ジャレットはそのピアノを見て、いったんは演奏を断ったが、主催した少女の立場を思いやって気力を奮い起こした。
ジャレットは、この小さなピアノで大きな音を出すために、中腰で力強く鍵盤を叩かなければならなかった。
だが、演奏が始まると、すぐに、奇跡が起きていることが分かった。
この演奏の録音こそが、400万枚を売り上げた、最も成功したジャズのソロアルバムである。
偶然に奇跡が起こったのではないし、ジャレットが奇跡を起こした訳でもない。
ジャレットに神が味方して起こった奇跡・・・奇跡が起きたのである。
初音ミクさんが歌う『FREELY TOMORROW』にも、私はそんなことを感じる。
2011年8月20日、『FREELY TOMORROW』は、初音ミクさんのよく知られた静止画1枚だけの動画としてニコニコ動画に登場し、わずか20日と6時間ほどで100万回再生したのは、2017年7月にハチさん(米津玄師さん)の、「マジカルミライ2017」のテーマ曲として大いに宣伝されたアニメーション付の『砂の惑星』が記録更新するまでの約6年の間、最速記録だった。

『FREELY TOMORROW』はクリエイティブ・コモンズ・ライセンスにより、著作権者により利用を許可されている。
FREELY TOMORROW (楽曲ファイルの無料入手もこちらから)

以下に、 Mitchie Mさんの最新アルバム『バーチャル・ポップスター』と、初音ミクさんがライブで『FREELY TOMORROW』を歌う『マジカルミライ2014』をご紹介しておく。








悲壮感のある人が呪文で輝く

呪文を唱えずとも、うまくいく人がいる。
それは、生まれつき恵まれている人だ。
両親はお金持ちの教養人。
自身も美男美女で、頭が良かったり、運動神経が良い、あるいは、特別な才能があり、早くからそんな天分を生かして称賛され、自信を持ち、さらに飛躍する。
人間は、意識してはいなくても、頭の中で沢山の言葉をつぶやいているのだが、そんな人間は、「私は特別」「誰にも負けない」「偉大なり、私」「私が一番」という言葉が頭の中に定着し、自動的にうまくいく。

そんな人間には、呪文は不要だ。
呪文を必要とするのは、「持たざる者」だ。
放っておいたら、頭の中はマイナスの言葉だらけになって自滅するような者だ。
呪文以外に頼るものがない場合も多い。
しかし、それで良い。
呪文しかなくても、呪文を唱え続けると、「持っている者」をはるかに超える。
「持っている者」というのは、初めから高いところにいて崇められるが、どこか「いけすかない」もので、若い間は良いが、やがて色褪せていく。

人間は、悲壮感があった方が輝く。
ジャズ音楽で最高の売上を上げているライブ演奏『ザ・ケルン・コンサート』は、キース・ジャレットの即興演奏のピアノ・ソロコンサートだ。
ところが、この時、ジャレットは24時間眠っておらず、車を長時間運転して疲れていて、時間は夜の11時半。
用意されたピアノは小さ過ぎる上に壊れていて、ペダルも黒盤も高音域も使い物にならない。
ジャレットは悲壮感を持って挑んだはずだ。
しかし、演奏が開始されると同時に奇跡が起こっていることは誰にも分かった。
まさに、神の演奏だった。
1974年のこの演奏のレコード、CDは今も売れ続けている。

ジャレットは何か言葉をつぶやき続けていたはずだ。
それも、アメリカ人だから、「オールライト(大丈夫)」という単純な言葉だったに違いない。
恵まれた条件なら、そんなことはせず、上手い演奏にはなっても、魂に届くものにはならない。
ウィーンフィルやベルリンフィルも、エリート集団になってからは、恐ろしく上手くても全然良くなくなってしまった。

念仏も、呪文と同じ原理であるが、法然はまさに、何も持たない悲壮な人々を見て、僧としての自分の悲壮を感じた。
その時、まさに仏が入り、「念仏さえあれば良い」「念仏以外にない」と確信したのだろう。

プロレスの話だが、日本のプロレス史には、ジャンボ鶴田という、とんでもない天才レスラーがいた。
素材は、プロレス史上最強のルー・テーズ以上だった。
大学からレスリングを始めてもオリンピックに出てしまう。
2メートル近い長身で、体力、運動神経は生まれつき超人的という、あらゆるものを持った天才だった。
ジャイアント馬場の全日本プロレスでは、若い時から、馬場に次ぐナンバー2が確約され、馬場は超一流の外人レスラーをいくらでも呼べるので、鶴田はそれらの選手と伸び伸び戦っていれば良かった。
だが、その凄まじい才能の半分も生かせなかったと思う。
名著『1964年のジャイアント馬場』に、こんな非常に印象に残ることが書かれていた。
ある、実に鋭い洞察をする人が鶴田に言う。
「アントニオ猪木にあって、お前にないのは悲壮感だ。お前はいくらでも一流の外人レスラーと戦えるが、猪木のところにはタイガー・ジェット・シンしか来ない。しかし、猪木はシンと一生懸命戦っている。そこに悲壮感があるが、お前にはそれがなく、一生懸命戦えない」
猪木さんは、まさに悲壮を絵に描いたような人だが、あの存在感は凄い。
猪木さんも、絶対に何かの言葉を持っているのだと思う。

「持たざる者」である我々は、呪文を唱えなければならない。
努力をしても悪い方にしかいかない。
頭の中で悪いヘビがささやき続けているのだから、努力すればするほど悪くなる。
いわゆる、「がんばったのが裏目に出る」のだ。
ある程度、歳を取っている人なら実感していることだろう。
恵まれた人に言うことはない。
だが、そんな人も、すぐに落ちぶれるので、呪文を必要とする。
万能呪文、
「絶対、大丈夫だ」
「全て順調だ」
「世界は意のままだ」
の中から1つを選び(あるいは、同意の他の言葉でも良い)、常に心の中で、感情を込めずに淡々と唱える必要がある。
それで確実にうまくいくが、ほとんどの人が続かない。
頭の中のヘビに負けてしまうのだ。
だから、思い出す度に呪文を唱えていただきたいものである。









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超能力のDNAは音で覚醒する

超能力、霊能力について批判的に述べている書籍で、私が興味深く思ったのは、テレンス・ハインズの『ハインズ博士の「超科学」をきる』の中で、「超能力の存在が証明されたことは、ただの一度もない」と書かれていたことだ。
超能力批判で有名な大槻義彦さんは、早稲田大学教授であった時、「俺の目の前で超能力を見せてくれたら大学に辞表を出す」と言い続け、早稲田を定年前に早期退職したとはいえ、それは別に超能力を見せられたからではないだろう。

一方、超能力を肯定する者は、超能力を見せようと必死になったり、あるいは、既に超能力の存在証拠は示されていると主張する。
まあ、どんな超能力の提示も、それが本当に超能力なのか、トリックなのかの判定は非常に難しく、現実的には不可能だろう。
ある著名な音楽家は、超能力の強硬な否定論者であるに関わらず、特定の超能力者(自分の知り合い)に関しては、これもまた強硬に「本物」と主張し、それを批判されたら、音楽の世界では「先生」と呼ばれる立場にある者らしく、自分が一喝すれば批判は成立しないという態度に終始する。
つまり、「俺が良いと言うものは良く、俺が悪いと言うものは悪い」というスタンスなのだがら、対話が成り立つはずがないし、対話することに意味がないのだから、相手にするだけ時間の無駄である。

しかし、超能力がもし本当にあるとしても、そんなもの証明する必要はないし、また、証明出来ない。
仮に、超能力が本当に提示されたところで、信じない人は信じない。
超能力を信じるかどうかは、脳内のプログラムとか、DNAで最初から決まっていることであり、それを変えることは出来ない。
だから、信じる人は信じれば良いし、信じない人は、どうしたって信じない。
もし、超能力を信じない人の目の前で、疑い様のない超能力を見せても、その人の目には何も見えなかったり、脳が、視覚から入ってきたものに改ざんを加えて超能力が発揮されていない映像に変えるのである。
ところが一方では、超能力を全く信じておらず、「超能力?そんなのイカサマだよ。馬鹿げている」と言いながら、自分が頻繁に超能力を使っている人がいるのである。
ラマナ・マハルシは、イエス・キリストは自分の超能力に気付いていなかったと言ったらしいが、それもあり得ると思う。
私も、超能力を発揮している時には全く気付かないが、後で考えると、それが超能力だと分かるのである。
超能力というものは、自我、表面の心、自意識が関与すると発揮できないもののようだ。

初音ミクさんのコンサートで熱狂している観客の多くが超能力を発揮しているが、本人は全く気付いていない。
キース・ジャレットの『ザ・ケルン・コンサート』は、演奏開始直後からジャレットは超能力を発揮し、観客の多くも同じなのだが、そんなことには誰も気付かず、ただ、奇跡が起こっていることを感じたのである。
コンサートの音の中に、超能力の振動が含まれているので、繰り返し聴くと、超能力のDNAが刺激され、覚醒する。
おそらくだが、アナログレコードの方が、超能力が多く含まれていると思う。
『ザ・ケルン・コンサート』は、今でもアナログレコードも販売され続けているが、耳に聴こえなくても、影響のある音があるのである。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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