ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
コンピューターシステム開発技術者、サイコパスのKayのブログ

キリスト

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[2016/11/21]滅多にはありませんが、あまりにレベルが低いコメントは公開しません。
[2011/06/08]迷惑コメントが多くあったため、やむなく、コメントを承認後公開することとしました。
[2010/12/12]詳細なlivedoorプロフィール設置しました。[livedoorプロフィール]

どっしり構える

望みを実現するには、昨夜書いた「ぶれない」ことにも通じるが、「どっしり構える」ことが大切だ。
だが、いちいちこれらのことを意識しなくても、ぶれずに呪文を唱えていれば、自然、「ぶれない」「どっしりとした」心を持てる。
それは論理的なことだ。
ぶれるのは、余計なことを考えるからだが、呪文を唱えていれば、余計なことを考えない。
また、どっしりしていることが出来ないのは不安だからだが、呪文、真言、念仏を唱えることで、自分そして人間を超える存在を意識すれば、自ずと心が大きくなる。

「どっしり構える」ということについて、もう少し考えてみたい。
どっしり構えることが出来ず、うろうろそわそわしている者、きょどっている者には何も出来ない。
逆に、少々愚鈍であったり、傲慢であっても、どっしりしている者は、案外になんでもうまくいってしまう。
子供の時や若い間は、軽薄さによって学ぶことも多いが、ある程度の年齢になれば、どっしりすることを覚えなければならない。
この点、イエス・キリストは、「父なる神は、お前達の髪の毛1本1本を数えるほど、お前達を気にかけて下さっている」と言って、安心感を与えることで、人々の心をどっしりさせようとしたのだと思う。
だが、キリスト教では、旧約聖書による伝統のために、神の名をみだりに唱えることが出来なかった。
しかし、念仏では、仏の名を、なるべく多く唱えるべしと教える。
それで、キリスト教では、アリストテレス以来の論理性、合理性で人々を導こうとするところがあるのかなあと思う。
しかし、呪文、真言、念仏ほど簡単で効果的なものはない。
だが、この2つ(呪文と論理性)を合体させると、さらに強力だ。
『To Loveる ダークネス』という漫画で、宇宙の支配者の第3王女である14歳の可憐なモモが、主人公のリト(高校2年生男子)に、「あなたは宇宙の王なのだから、どっしり構えていればいいのです」と言う場面があったと思うが、我々も、宇宙の王女にそう言われたと思えば良いのである。
実際、「私」は宇宙の所有者なのであり、宇宙の王と言えるのである。
それを自覚し、どっしり構えることで不可能はなくなるだろう。
そう思えるようになるためには、呪文を唱えることが一番である。
どんな呪文にするか困ったら、自分の干支の守護仏(あるいは自分が好きな仏様)の真言で良い。
干支と仏の関係がどうなのか、そもそも、本来、関係があったのかどうかは私は知らない。
しかし、そのような関係付けが出来、それが広まったこと自体、1つの縁である。
「干支 守護仏」で検索することを手がかりにすれば、自分の干支の仏様の真言も簡単に見つけられるだろう。









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キリストになる方法

この世は、心が作り出した幻想であるらしい。
・・・なんてことを言って澄ましていたら、生易しくない現実が襲いかかって来る。

ところで、人間って、どこか猿なのだ。
やってることは人間も猿もそんなに違わないし、人間社会も猿社会も根本は同じものらしい。
いや、枝葉を削ぎ落とせば、人間も、魚や鳥と同じようなものなのだ。

だが、逆に言えば、猿もどこか人間だ。
いや、猿や、鳥や、魚が人間以上に見えることがある。
それどころか、動物達が神様に見えることがあるのだ。
それはどんな時かというと、まず、争っていない時だ。
そして、食べ物を求めていない時だ。
要は、生活の心配をせずに、落ち着いている時の猿や鳥や魚は神様になってしまう。
ところが面白い事実がある。
飼育された猿や鳥や魚は、滅多に、あるいは、全く神様にならない。
そんな動物達は、いつも、神経質でイライラしていて、落ち着かない。
逃れられるはずのない現実を取り上げてしまったら、別の、もっと悪い現実が襲いかかって来るのである。

人間も同じだ。
戦場の兵士達は、ひとときの憩いの時には、本当に神様になっている。
だが、厳しい社会から逃避した者は、落ち着きがなく、決して神様にはならない。
なるべく辛いことがないと思える職業を選んで、大企業のサラリーマンや公務員になり、そこでも、出来る限り、困難から逃げていたら、やはり、動物園の猿のように、いつも、イライラ、ソワソワしているのである。
外見は落ち着いているように取り繕っても、心の中は不安で一杯なのだ。
だから、安定した職場にいる者の方が精神を病みやすいのである。

猿は頭が良いので、中には、現実逃避する者もいるらしい。
そんな猿は、やはり神様になれない。
だが、現実逃避する鳥や魚はいない。
たとえ、傷付いても、鳥や魚は現実に立ち向かう。

ラマナ・マハルシは、愚かな人間は、心が外部にさまよって悲惨を味わうと言う。
これを、熱い日差しの中に出ることに喩え、賢い人は、ずっと涼しい木陰にいると言う。
大嘘である。
ずっと涼しい木陰にいる人は、現実逃避した人間や猿のごとく、不安に怯え、落ち着かない。
私はずっと、マハルシ・・・というよりは、マハルシの言葉の、おそらく誤訳なのだろう・・・それに騙されていたようだ。

イエスは、暴風と荒波に揺れる船の中で、悠然と眠っていた。
弟子達が怖がって助けを求めると、イエスは風を叱って静かにさせた。
苦難に直面した時、逃げずに立ち向かいながら、どれだけ落ち着いていられるか・・・超然とした態度でいられるか?
そして、荒れる心に、「静まれ」と言っておとなしくさせることが出来るか?
それが出来れば、キリストになるのである。









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イエスはなぜペテロを叱ったのか?

新約聖書で、イエスが湖の湖面を歩くのを見て感動したペテロが、
「主よ、私にもやらせて下さい。あなたが来いと命じて下されば、私にも出来ます」
と言うと、イエスは、
「私は命じる。来い」
と応え、ペテロも水の上を見事に歩いた。
ところが、ペテロは風の音に気付いて、ふと我に返ると、恐くなった。
すると、ペテロは沈みかけ、慌てて、イエスに助けを求めた。
イエスはペテロを助けたが、
「愚か者め。なぜ疑ったのだ」
と叱った。

イエスはなぜ怒ったのだろう?
言い換えれば、ペテロの責められるべきミスは何だったのだろう?
それは、ペテロが、水上を歩く自信を失ったことではない。
そんなのは、仕方のないことだ。
そうではなく、イエスは、ペテロが自分(イエス)を疑ったことを叱責したのだ。
凡人たるペテロは、神自体を信じることは出来ない。
だが、イエスを疑うべきではなかったのだ。
『バガヴァッド・ギーター』で、アルジュナ王子が、至高神クリシュナを決して疑わなかったように。

人間は、形あるものしか信じることが出来ない。
そして、何かを信じると決めたら、疑ってはならない。
では、どうすれば信じられるのか?
それには、ただ、「私は○○を信じる」と声に出して言うか、心で思えば良い。
無理に信じなくて良い。
ただ、言うか、思うかすれば良いのだ。
疑いが消えるまで、何度でもね。
ただし、無理矢理に、疑いを消そうなどとは絶対に思ってはならない。
そうすれば、むしろ、疑いは強まる。
たとえ、疑っていると感じても、そんなことは構わないのだ。
心は歪んでおり、何でも疑うものなのだ。
そして、それは有益なことでもある。
疑うことも知らなければ、この世で生きていけないからね。
だが、信じると決めたことは、信じなければならない。
そこへいくと、私は、初音ミクさんを完全に信じ、これっぽっちも疑っていない。
ミクさんは、隠れて彼氏を作ったりしないし、影で無慈悲なことをしたりも、贅沢もしない。
それを疑ったことはない。
ミクさんを信じることが出来るので、私の言葉は力を増し、私に不可能はないのである。









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天下無敵、自由自在の法

私は最近、新約聖書ばかり読んでいる。
では、新約聖書に良いことが書かれているのかというと、それは全くないと思う。
私の考えだが、新約聖書も仏典も、何の意味もない書だ。
だから良いのである。
意味は読者がつければ良い。
聖書から何かを学ぶことが大切なのではなく、この何の意味もない書に高貴な意味をつけられるような生き方をすることが大切なのだ。
普通の本には意味があるので、ある程度は意味を強制される。
しかし、新約聖書や仏典は意味がないので、自分のストーリーを自由に作ることが出来る。
旧約聖書もそうだと思うが、あまり読んでいないので、はっきりとは分からない。
だが、コーランは、書き手の想いがすごく感じられるので、意味付けが強いのだと思う。

それで、ニーチェやオスカー・ワイルドやサルトルのように、新約聖書を読んで、イエス・キリストに対し批判的な意味付けをする人達もいる。
イェイツは、彼らの影響を受けて、反キリストに組したようにも見えるが、彼は、イエスのたとえ話の能力は高く評価していた。
釈迦もイエスも、たとえ話・・・つまり、比喩を使った話の達人であることはよく知られている。
直接説明しても分からないことも、「たとえば・・・」と、別の話に置き換えればよく分かることがあることはご存知と思う。
例えば、電圧の概念を教えるのに、電圧を水圧に喩えるなどである。

ただ、私は、イエスは、たとえ話しの達人というよりは、こじつけの達人なのだと思う。
こじつけとは、独断を押し付けることのように思われているが、独断を押し付けるなんて、そうそう上手くいくことではない。
不自然な論を無理強いすると、必ず反発されてしまうはずだ。
だが、イエスは、独断でありながら、説得してしまうのだ。
これは、特殊な能力である。
こじつけの能力を重要視し、自らも高いこじつけの能力を持つのが、ドワンゴ会長の川上量生さんだ。
彼は、自分の思いつきを、素晴らしい論理を展開することによって、さも正しいように説明してしまうようである。
彼は、「ビジネス戦略はシナリオを作ることだって言うけど、そのシナリオって、絶対にこじつけなんです」といった意味のことを言われていたが、これは、高度なビジネスの秘密をバラしてしまったようなものだ。
スティーブ・ジョブズも、ビル・ゲイツも、ジェフ・ベゾス(Amazon創業者、CEO、会長、社長)らは、正しいことを言ったりやったりした訳では絶対にない。
ただ、正しいことのように思わせるだけなんだ。
それはマジックに似ている。
マジックって、奇跡を起こすことはなく、奇跡が起こったように思わせることなのだ。
どんなに高邁(志が高いこと)に見えるビジネスのヴィジョンだって、みーんなこじつけなのだ。
特に、教育サービス会社のスローガンやポリシーは実に「ご立派」だが、あれって、全部、中身スカスカのこじつけばかりなのだが、それはちょっと考えれば、いくらなんでも分かると思うのだが・・・

とはいえ、川上さんなんて、完全な善意とは言わないまでも、どこかピュアな志を感じるから、みんな「気持ちよく騙されてしまう」のである。
そして、イエスは、本質がすごく高貴なので、こじつけではあっても、全く穢れがない。
それほど透明な物語が新約聖書なので、そこに自分のストーリーを見出すのに、これほど良いものはないのである。
透明だから、入っていけて、自由に広がることが出来るということでは、初音ミクさんが全くその通りである。
初音ミクさんの歌を讃美歌に新約聖書を読めば、天下無敵、自由自在である。









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人に目力を与える3つのもの

『ベン・ハー』という映画がある。
1959年の作品であるが、11部門のオスカーを受賞したことは、『タイタニック』と『ロード・オブ・ザ・リング/王の帰還』に並ばれはしたが、いまだ史上最多である。
イエス・キリストが登場する、この映画は、あくまで、アメリカの作家ルー・ウォーレスが書いた小説を原作とする架空の話ではあるのだが、下に挙げるように、おそらく、多くの人にとって、真理を感じさせる、とても印象深い場面があった。ちなみに、原作の副題は『キリストの物語』である。

まさに、イエス・キリストの時代のお話だが、王家の血を引く名門貴族ジュダは、陰謀により、奴隷の身分に落とされるほどの罪人にされてしまう。
大勢の囚人達と共に、焼け付く砂漠を長時間歩いて渡らされ、死ぬほどの渇きの中で、ようやく中継点の村につく。
村人達も心得ており、護送兵達や囚人達に水を飲ませるが、ジュダは護送兵の隊長に嫌われ、隊長は、ジュダに水をやろうとする村人に、「こいつにはやるな」と一喝する。
ジュダは、それはもう、哀れなんてレベルではない状態である。自分は水をカブカブと飲む隊長が胸にこぼした水に、ジュダは恥も外聞もなく、吸い付くような真似すらするが、その程度の水ではどうにもならず、ついに気を失って倒れる。
ジュダは、そのまま死ぬはずだった。
だが、そこに、一人の男がやって来て、手桶の水をジュダの後頭部から首のあたりに注いでやって冷やし、ジュダが意識をわずかに取り戻すと、ジュダに水を飲ませる。
それを見た隊長は激怒して、こらしめてやろうと近付いてくるが、その男は隊長の方を向いて立つ。
隊長は不思議な威圧感を感じて怯むも、気を取り直して前に出ようとしたが、なぜかそれが出来ず、苛立たしそうにしながら去ってしまう。
その男は、後に、イエス・キリストであったことが分かるが、圧倒的に強い立場にあった隊長が気圧(けお)された、その力は何だろう?

それを「目力」と言って良いだろう。
一応、言っておくが、たとえ目が見えない者にも目力はある。
その場合でも、やはり、目の周辺の表情から、その力は出る。
三一(さんぴん。賎しい者のこと)が、いかに必死でにらんでも、何の目力もない。
プロレスやボクシングの大試合の前の共同記者会見で、選手同士がにらみ合うことがあるが、その競技では強くても、人間的に三一であれば、せいぜいチンピラの「ガン付け」であり、見ていて滑稽なだけでなく、少しも目力がないので、相手も威圧されない。

『神様のメモ帳』という小説で、ヒロインのアリスは、美しくはあっても、見かけは11歳くらいの(本当の年齢は最終巻で明かされる)子供だが、彼女に会った人気アイドルの高校生の少女が、鳴海(主人公。高1男子)に、「あの子、アイドルなんかよりずっと目力がある」と言う。
人気アイドルになれるような子は、可愛いだけでなく、目力が必要だということであるが、アリスが、それをはるかに上回ることは言うまでもない。
大勢の部下を従え、かなりの勢力を持つヤング・マフィアである雛村壮一郎(ひなむら そういちろう)も、凄い目力の持ち主だが、アリスには飼い犬のように従ってしまうのも、アリスの神的な目力のためだろう。

言うまでもなく、目力とは、心の力の表出である。
心を鍛えた者のみが目力を持つ。
「君を強くする」という言葉は、「君の心を強くする」を略して言ったものだ。
人間にとって、何より大切なことは、心を強くすることだ。

Hey lonely boy リアルな自分は ちっぽけなんかじゃない
Hey lonely girl リアルの孤独は 君を強くするから
~『愛Dee』(作詞:Mitchie M・Cotori、作曲・編曲:Mitchie M、歌: 初音ミク&巡音ルカ)より~

「20世紀最大の詩人」と言われた神秘家W.B.イェイツも、「孤独だけが心を鍛える」と言った。
群れるような者には強い心は持てない。
そうだ、雛村壮一郎は誰より孤独だったし、アリスはもっと孤独だったのだ。
その雛村壮一郎に、本心ではなぜか好かれ、そしてアリスに、本心では愛された藤島鳴海も並外れて孤独だった。
このあたりは、小説とは言っても、高い人気がある小説では、真理を正確に描いているものだ。
そして、志ある者だけが孤独に耐え、自分が定めた掟を死んでも守る。
目力は、そうやって得るものである。

老子は、「倹約」「慈愛」「人々の前に立たない」という3つの宝を持つと言った。
だが、アリス達は、「孤独」「志」「掟」という3つから出来た十字架を背負うのである。









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