聖者とか神人あるいは大賢者と呼ばれるような人は、別に特別な何かを持っている人ではない。
余計なものを持っていない人のことだ。
例えば、無知を持っていなければ賢者なのだ。
ただ、その無知の覆いを除くことが、途方もなく難しいのだ。
聖者とは、無念無想の人だ。
無念無想というのは、簡単そうだが、いかなる想いも持たないことの難しさは少し考えれば分かる。
テレビや広告やインターネットは、儲けるために人々の欲望を煽る。心が落ち着つかずにさ迷うのは欲望のためだ。
よって、一切の欲望を持たなければ、無念無想であり、即ち、聖者だ。
そんなことはとても無理と思うかもしれない。
もっともだ。
だが、私は聖者になれるのである。
ただし、1秒だけだ。
1秒だけなら、キリストでも仏陀でも、大政治家でも、大悪人にでもなってみせる。
小悪人ってのは欲望にまみれているが、大悪人というのは無欲で、巨大な悪行を行為者の自覚なく、ただ、宿命に従ってやっているのだ。
偉大な人間というのは、小市民や小善人になるくらいなら大悪人になれとよく言うのである。
ある国際的なビジネスマンは、尊敬する世界的ビジネスマンと全く同じオフィスを作り、同じ服を着ていた。
これも効果的な成功するための方法だ。
あなたにも、尊敬する、あるいは憧れている誰かがいるかもしれないが、その誰かと同じようになるのは難しい。そこで、まず形からという訳だ。そして、形から入るというのは良い方法だ。
しかし、一瞬であれば、あなたは誰にでもなれる。
それが分かれば、世俗で成功することは難しいことではない。
態度は事実より重要だというのは、世俗の覇者から、人間を媒体にして意志を表す宇宙人の誰かもよく言っていることだ。
四六時中、ピカソらしい態度はとれないだろうが、一瞬なら可能だ。
ずっと岡本太郎でいようと思ったら大変だが、一秒なら簡単だ。
その一秒を重ねていけば、やがて等価値のものになるだろう。時間というのは幻想に過ぎない。一瞬で可能なら、百年でも同じだ。
その気になれば、大事業家でも大芸術家にでもなれるだろう。
そして、本当にピカソや岡本太郎になるということは、誰になることでもないし、誰ででもあることだ。
釈迦やイエスの教えを一生守るのは難しそうでも、一瞬なら守れるだろう。
一瞬なら嫌いな隣人も愛せるし、一瞬なら女性を邪まな目で見ないことも出来るだろう。
人は、本当に価値のあるものを見つければ、一瞬が全てだと分かるのだ。
アスリートは、世界記録なんて、それほど大事だと思っていない。勝利の瞬間が永遠なのだ。ただ、怠惰な栄光がその瞬間を汚すのだ。
どんなに惨めな中でも、真理の瞬間はある。それを見つければ永遠を得るのである。
イエスや釈迦について書かれたものを読んだり、大賢者の書いたものを読むのは、無知を持たない者の様子を知るためだ。
そして、一瞬でも彼等と同じになれば、既に達成したようなものだ。だが、知らなければ、無知の覆いは取り払えない。
日本では、昔から、「祓えたまえ、清めたまえ」と言ってきたのだ。
至高の聖典『エメラルド・タブレット』でも、マスターはトートに言うのだ。「知識を得て、無知の覆いを取れ」と。
エマーソンは述べている。「英雄について書かれたものを読む時は、自分について書かれているのだと思え」と。「私は、イエスであり、プラトーンであり、シェイクスピアである」と。
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余計なものを持っていない人のことだ。
例えば、無知を持っていなければ賢者なのだ。
ただ、その無知の覆いを除くことが、途方もなく難しいのだ。
聖者とは、無念無想の人だ。
無念無想というのは、簡単そうだが、いかなる想いも持たないことの難しさは少し考えれば分かる。
テレビや広告やインターネットは、儲けるために人々の欲望を煽る。心が落ち着つかずにさ迷うのは欲望のためだ。
よって、一切の欲望を持たなければ、無念無想であり、即ち、聖者だ。
そんなことはとても無理と思うかもしれない。
もっともだ。
だが、私は聖者になれるのである。
ただし、1秒だけだ。
1秒だけなら、キリストでも仏陀でも、大政治家でも、大悪人にでもなってみせる。
小悪人ってのは欲望にまみれているが、大悪人というのは無欲で、巨大な悪行を行為者の自覚なく、ただ、宿命に従ってやっているのだ。
偉大な人間というのは、小市民や小善人になるくらいなら大悪人になれとよく言うのである。
ある国際的なビジネスマンは、尊敬する世界的ビジネスマンと全く同じオフィスを作り、同じ服を着ていた。
これも効果的な成功するための方法だ。
あなたにも、尊敬する、あるいは憧れている誰かがいるかもしれないが、その誰かと同じようになるのは難しい。そこで、まず形からという訳だ。そして、形から入るというのは良い方法だ。
しかし、一瞬であれば、あなたは誰にでもなれる。
それが分かれば、世俗で成功することは難しいことではない。
態度は事実より重要だというのは、世俗の覇者から、人間を媒体にして意志を表す宇宙人の誰かもよく言っていることだ。
四六時中、ピカソらしい態度はとれないだろうが、一瞬なら可能だ。
ずっと岡本太郎でいようと思ったら大変だが、一秒なら簡単だ。
その一秒を重ねていけば、やがて等価値のものになるだろう。時間というのは幻想に過ぎない。一瞬で可能なら、百年でも同じだ。
その気になれば、大事業家でも大芸術家にでもなれるだろう。
そして、本当にピカソや岡本太郎になるということは、誰になることでもないし、誰ででもあることだ。
釈迦やイエスの教えを一生守るのは難しそうでも、一瞬なら守れるだろう。
一瞬なら嫌いな隣人も愛せるし、一瞬なら女性を邪まな目で見ないことも出来るだろう。
人は、本当に価値のあるものを見つければ、一瞬が全てだと分かるのだ。
アスリートは、世界記録なんて、それほど大事だと思っていない。勝利の瞬間が永遠なのだ。ただ、怠惰な栄光がその瞬間を汚すのだ。
どんなに惨めな中でも、真理の瞬間はある。それを見つければ永遠を得るのである。
イエスや釈迦について書かれたものを読んだり、大賢者の書いたものを読むのは、無知を持たない者の様子を知るためだ。
そして、一瞬でも彼等と同じになれば、既に達成したようなものだ。だが、知らなければ、無知の覆いは取り払えない。
日本では、昔から、「祓えたまえ、清めたまえ」と言ってきたのだ。
至高の聖典『エメラルド・タブレット』でも、マスターはトートに言うのだ。「知識を得て、無知の覆いを取れ」と。
エマーソンは述べている。「英雄について書かれたものを読む時は、自分について書かれているのだと思え」と。「私は、イエスであり、プラトーンであり、シェイクスピアである」と。
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