ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
コンピューターシステム開発技術者、サイコパスのKayのブログ

キリスト

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。
[2016/11/21]滅多にはありませんが、あまりにレベルが低いコメントは公開しません。
[2011/06/08]迷惑コメントが多くあったため、やむなく、コメントを承認後公開することとしました。

人間の最大の武器

他人が恐くない人間はいない。
つまり、他人が苦手なのは、ひきこもりや臆病な人間だけではないのである。
金持ちや権力者は、他人に配慮しなくて良い立場にあるだけで、意外なことに、彼等は、普通の人より他人が苦手で恐いのである。
彼等は、他人が恐いから富や権力を得たのである。
さらに、生まれた時から富や権力がある者は、なんと、心の中では他人を恐怖している。
金持ちや権力者が、家庭では普通の人よりずっと惨めな理由は、富や権力が通用しない身内に対し、彼等は何も出来ないので、間違った対処をしてしまうからだ。
ところで、家庭の中では、父親より、若い妻や子供の方が強いのである。
家庭の中で、父親がやたら権力を示したがるのは、実は自分が一番弱いことを知っているからである。
本当に強い人間が虚勢を張るはずがない。

世の中でうまくやっていくためには自信が必要だ。
ひきこもりが特に世の中でうまくやれない理由は自信がないからだ。
自信とは、所詮、他人との間のランキングで、自分が上位にあるという確信なのである。
ただし、勘違いしやすいのが、「どのランキングが自信をもたらすか?」なのである。
学校の成績というのは、偽りの自信しか与えてくれない。
だから、鼻高々の優等生は、不利な立場に置かれると、惨めなほど弱いのである。

では、何のランキングが自信をもたらしてくれるかというと、所詮、肉体の美と力である。
人間たるものが、何とも情けないことだが、それが事実である。
ただし、言うまでもないが、それらは、「あっという間」に失われてしまう。
イエス・キリストが人類の中で最も人気があるスーパースターである理由は、復活したからだ。
復活は、永遠の美と力を暗示しているのである。

当面の自信を持つには、誰にも負けない何かを持つことだ。
それがたとえ、学校の成績のような偽りの自信でも、あった方が良い。
だが、上にも述べた通り、肉体的な美や強さの方が効果的なのである。
優等生より、イケメンや可愛い子、スポーツマンが人気があるのを見れば分かると思う。
自信をもたらすものを何も持たないと、まるで駄目男君(私の職場にいる30歳過ぎの人生の落伍者。派遣の雑用係)になる。
そして、何かで自信を得たとしても、それが偽りの自信であることを自覚し、次に、本物の強さを目指すことだ。
それが、「本当に大切なものは目に見えない」ということなのだが、目に見える「ちょっと大切なもの」を先に得なければならないことを忘れてはならない。
ただそれは、1年365日、欠かさずやり続ければ得られるものである。
楽器の演奏とか、腕立て伏せとか、聖書を読むとか、どんなことでも達成出来る。ちょろい。
それでは、永遠の自信はどうやって得るのかというと、想像力を使うのである。
世間的な自信を得た人・・・金持ち、権力者、エリートが実際には驚くほど弱いのは、想像力を失ったからであると言えば分かるのではないかと思う。
失ってはならないもの、人間の最大の武器は想像力である。
詳しくは明日にでも書くが、それを得るヒントが、宇宙飛行と初音ミクさんのコンサートである。
なぜ、どれほど大金を積んでも宇宙に行きたがる人がいるのか、バーチャルなアイドルに心からの声援を送るのか?
そこに人類の究極の秘密があるのである。









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王子様・お姫様として育てられた人間は、どこでも必要とされない

犬を飼ったことがあるだろうか?
犬は、きちんとしつけたら、従順で賢い動物だ。

昔、小鳥や金魚の他に動物を飼ったことがない私の家で、突然、小型犬のマンチェスター・テリアの赤ん坊を貰って、飼うことになった。
我々家族は、徹底して甘やかした。
犬が、「くうん、くうん」と切なそうな鳴き声を出すと、それを止めるためには、何でもしてやった。
結果、とんでもない馬鹿犬になった。
自分の欲求が叶えられないと、吼えまくり、暴れまくり、平気で人間を噛んだ。

しかし、犬をそんなふうに育てる家なのだから、私もそう育てられたのだろう。
私も、とんでもない馬鹿な人間になった。
それで、当然、ニートになったが、幸いだったのは、二十歳そこそこの頃、フルコミッション(完全歩合制)のセールスマンになり、かなり世間に躾けられて、少しはマシになったことだ。
これも、19歳の時に、ジョセフ・マーフィーの本を読んだおかげかもしれない。

私の友人だった、セールス会社の社長(もう亡くなったが)のところに、一人の青年が預けられた。
その社長はクリスチャン(キリスト教徒)で、同じ教会に所属する人に頼まれて、その人の息子の面倒を見ることになったのだった。
その青年は、いい歳になっても、引きこもって、勤めようとしなかった。
社長は、自分の会社で、その青年にセールスをやらせた。
ある日の夜、会社に帰ってきた青年に、社長が、「今日はどうだった?」と、セールスの様子を尋ねた。
すると青年は、「今日は心が落ち着かなかったので、1日、教会でお祈りをしていました」と、多分、真面目に答えた。
きっと、とんでもなく、甘やかされた青年だったのだろう。
心はセールスは嫌がるが、お祈は、それよりは、はるかにマシだというだけの話である。
青年は、心が喜ぶ方を選んだだけだ。

犬も人間も、心が喜ぶことばかりをしていれば、心は暴君になって、主を滅ぼす。
心がどれだけ嫌がっても、良いこと、やらなければならないことをしなければ、私が飼っていた犬や、私や、上の愚かな青年のようになる。

犬の躾け方の基本は、お菓子を絶対に与えないことだ。
犬は、お菓子を欲しがるが、断固として与えてはならない。
人間が美味しそうに食べても、犬は駄目なのだ。
それは、可哀想でも何でもない。
そうやって、人間と犬の立場の違いを教えなければならない。
人間と犬は、平等なんかではないのだ。
同じく、心には、下僕としての立場を教えないといけない。
子供が、我が家の王子様、お姫様なんて、とんでもない話で、そんな育て方をした子供はお仕舞いだが、そうやって育てられた人間が多いのだ。
子供には、親との立場の違い、つまり、親よりはるかに下であることを教えないといけないのだ。
本当に王族に生まれても、賢い王や王妃は、子供を王子様、お姫様扱いなどしないのである。

さて、不幸にも、間違った育てられ方をして、悪魔である心が王座についてしまった人間はどうすれば良いだろう?
まあ、まずは、「これではいけない」と気付かなければならないのだが。
悪魔を王座から引きずり下ろし、自分が王座につくためには、犬からお菓子を取り上げるように、最大の欲望を犠牲に捧げるのだ。
好きで好きでたまらないもの。
それのことを思うと、狂気のようになること。
それを、切って捨てるのである。
イチローがいかに野球が好きでも、それを思って狂気になったりはしない。
そういった、信念のあるものでの、こだわりは良いのである。
逆に、貶されて、激怒するような「好きなもの」は偽物である。
イチローは、若い時でも、「野球なんて下らない球遊びだ」と言われても、悔しいかもしれないが、相手にならなかったはずだ。
私だって、初音ミクさんのことで酷いことを言われても、悔しくはあっても、やり返そうとは思わない。

さて、私は犠牲を捧げた。
それで、神の力を取り戻したのである。
多分、キリスト教の真の意味も、そういうことなのだと思う。
イエスは、肉体の生命に象徴される何かを捧げ、精霊を得たことを示したのだ。









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イエスの伝家の宝刀を使う

嫌いな人、憎い人、妬ましい人、恨みに思う人・・・そんな人がいる間は成功しないし、幸福にもなれない。

だからといって、宗教家が言うように、「神の愛があの人(嫌いな人)を満たしています」なーんてことを、棒読みに言ったところで、反吐が出ることだろう。
また、神様気取りの事業家が言うように、「あの人に良きことが雪崩のように押し寄せます」と言うのは、不遜もいいところだ。私にそんなこと決める権限なんてないって。いや、それ以前に、やっぱり、そんなこと言いたくないだろう。

だが、心の訓練のつもりでやれば、うまくいく。
嫌悪する相手を思い浮かべ、「私は○○さんが大好きだ」と言うと、当然、心は反発する。
そこで、心に言うのだ。
「心よ、引っ込んでいろ。静かにするよう命じる。私が主人である」
つまり、憎いあんちきしょうが、本当に好きかどうかはどうでも良いのだ。
ただ、心を躾けるだけである。
権威を持って命じれば、心は従う。
すぐにはうまくいかなくても、粘り強くやれば、必ず出来る。
王が民(たみ)に、あるいは、主(あるじ)が下僕に言うことを聞かせられなくてどうする?
あなたが王(主)で、心が民(下僕)なのだ。
そして、実際、それは難しいことではない。

すると、本当に、嫌な相手に対し、「お前が大好きだ」「立派な人になれよ」と思っても、ちっとも苦しくならないのだ。
そうなれば、心を躾けることが出来たことになる。
それなら、年収300万円の人が、「私は年収600万円になる」と思っても、心は反抗せず、容易く信念となる。
多少、心がざわついても、やはり、「静まれ」と命じれば良い。
信念を持てば、必ず実現する。
ただ、年収300万円の人が、「年収3000万円」などと思うと、心ではなく、直観のようなものが、「それはもっと経験を積んでからだ」と警告する。
それは、理に反した願いでも同様である。
歪んだ願望や、的外れの願望を持つ者は、それを修正しなければならない。
しかし、それは難しくない。
歪んだ、あるいは、的外れな、「私は○○が欲しい」という願望を思えば、やはり、心がちくっと痛むような警告が来る。あるいは、後ろめたい思いがする。
それはチャンスでもある。
そんな警告を無視してはならない。
思い切って、そんな馬鹿げた願望を捨てるのだ。
「私はプロサッカー選手になろうとは、もう思わない」
「○○協会の理事長になろうなんて荒唐無稽なことは考えない」
「可愛い女子中学生を彼女にしようなんて馬鹿げた願望は捨てる」
そうすると、やはり、心は文句を言う。
しかし、あなたは、イエス・キリストの伝家の宝刀、
「退け!サタン」
を使えば良いのである。









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どっしり構える

望みを実現するには、昨夜書いた「ぶれない」ことにも通じるが、「どっしり構える」ことが大切だ。
だが、いちいちこれらのことを意識しなくても、ぶれずに呪文を唱えていれば、自然、「ぶれない」「どっしりとした」心を持てる。
それは論理的なことだ。
ぶれるのは、余計なことを考えるからだが、呪文を唱えていれば、余計なことを考えない。
また、どっしりしていることが出来ないのは不安だからだが、呪文、真言、念仏を唱えることで、自分そして人間を超える存在を意識すれば、自ずと心が大きくなる。

「どっしり構える」ということについて、もう少し考えてみたい。
どっしり構えることが出来ず、うろうろそわそわしている者、きょどっている者には何も出来ない。
逆に、少々愚鈍であったり、傲慢であっても、どっしりしている者は、案外になんでもうまくいってしまう。
子供の時や若い間は、軽薄さによって学ぶことも多いが、ある程度の年齢になれば、どっしりすることを覚えなければならない。
この点、イエス・キリストは、「父なる神は、お前達の髪の毛1本1本を数えるほど、お前達を気にかけて下さっている」と言って、安心感を与えることで、人々の心をどっしりさせようとしたのだと思う。
だが、キリスト教では、旧約聖書による伝統のために、神の名をみだりに唱えることが出来なかった。
しかし、念仏では、仏の名を、なるべく多く唱えるべしと教える。
それで、キリスト教では、アリストテレス以来の論理性、合理性で人々を導こうとするところがあるのかなあと思う。
しかし、呪文、真言、念仏ほど簡単で効果的なものはない。
だが、この2つ(呪文と論理性)を合体させると、さらに強力だ。
『To Loveる ダークネス』という漫画で、宇宙の支配者の第3王女である14歳の可憐なモモが、主人公のリト(高校2年生男子)に、「あなたは宇宙の王なのだから、どっしり構えていればいいのです」と言う場面があったと思うが、我々も、宇宙の王女にそう言われたと思えば良いのである。
実際、「私」は宇宙の所有者なのであり、宇宙の王と言えるのである。
それを自覚し、どっしり構えることで不可能はなくなるだろう。
そう思えるようになるためには、呪文を唱えることが一番である。
どんな呪文にするか困ったら、自分の干支の守護仏(あるいは自分が好きな仏様)の真言で良い。
干支と仏の関係がどうなのか、そもそも、本来、関係があったのかどうかは私は知らない。
しかし、そのような関係付けが出来、それが広まったこと自体、1つの縁である。
「干支 守護仏」で検索することを手がかりにすれば、自分の干支の仏様の真言も簡単に見つけられるだろう。









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キリストになる方法

この世は、心が作り出した幻想であるらしい。
・・・なんてことを言って澄ましていたら、生易しくない現実が襲いかかって来る。

ところで、人間って、どこか猿なのだ。
やってることは人間も猿もそんなに違わないし、人間社会も猿社会も根本は同じものらしい。
いや、枝葉を削ぎ落とせば、人間も、魚や鳥と同じようなものなのだ。

だが、逆に言えば、猿もどこか人間だ。
いや、猿や、鳥や、魚が人間以上に見えることがある。
それどころか、動物達が神様に見えることがあるのだ。
それはどんな時かというと、まず、争っていない時だ。
そして、食べ物を求めていない時だ。
要は、生活の心配をせずに、落ち着いている時の猿や鳥や魚は神様になってしまう。
ところが面白い事実がある。
飼育された猿や鳥や魚は、滅多に、あるいは、全く神様にならない。
そんな動物達は、いつも、神経質でイライラしていて、落ち着かない。
逃れられるはずのない現実を取り上げてしまったら、別の、もっと悪い現実が襲いかかって来るのである。

人間も同じだ。
戦場の兵士達は、ひとときの憩いの時には、本当に神様になっている。
だが、厳しい社会から逃避した者は、落ち着きがなく、決して神様にはならない。
なるべく辛いことがないと思える職業を選んで、大企業のサラリーマンや公務員になり、そこでも、出来る限り、困難から逃げていたら、やはり、動物園の猿のように、いつも、イライラ、ソワソワしているのである。
外見は落ち着いているように取り繕っても、心の中は不安で一杯なのだ。
だから、安定した職場にいる者の方が精神を病みやすいのである。

猿は頭が良いので、中には、現実逃避する者もいるらしい。
そんな猿は、やはり神様になれない。
だが、現実逃避する鳥や魚はいない。
たとえ、傷付いても、鳥や魚は現実に立ち向かう。

ラマナ・マハルシは、愚かな人間は、心が外部にさまよって悲惨を味わうと言う。
これを、熱い日差しの中に出ることに喩え、賢い人は、ずっと涼しい木陰にいると言う。
大嘘である。
ずっと涼しい木陰にいる人は、現実逃避した人間や猿のごとく、不安に怯え、落ち着かない。
私はずっと、マハルシ・・・というよりは、マハルシの言葉の、おそらく誤訳なのだろう・・・それに騙されていたようだ。

イエスは、暴風と荒波に揺れる船の中で、悠然と眠っていた。
弟子達が怖がって助けを求めると、イエスは風を叱って静かにさせた。
苦難に直面した時、逃げずに立ち向かいながら、どれだけ落ち着いていられるか・・・超然とした態度でいられるか?
そして、荒れる心に、「静まれ」と言っておとなしくさせることが出来るか?
それが出来れば、キリストになるのである。









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