手本になる人間がいることは幸福なことだろう。
何だかんだ言っても、幼いうちは、父親、母親は子供にとって憧れの存在であり、目指すべき手本である。
ところが、それがいつまで続くだろうか?
映画『サウンド・オブ・ミュージック』で、ヒロインのマリアが、トラップ大佐のどの息子だったかは忘れたが、決して小さくはないその男の子が、「あなたに理想の男性像を見ている」と、トラップ大佐に言う場面がある。
しかし、そのシーンを見たほとんどの青少年はムシズが走ったりするだろう。自分の父親を思い出すからだ。
萩尾望都さんのある漫画で、中学3年生の女の子が、母親に対し、「お母さんのようなお母さんになりたい」と、真面目に言う場面があったのだが、これにも、読んでいる女の子のみならず、男の子も、自分の母親を思い出して冷笑してしまうかもしれない。
今の子供にとって、親以外で接触する数少ない大人である教師も、ほとんどの場合、ひどいものであるし、その点、会う時間の短い塾やお稽古事の先生の方が、正体がバレない分、「マシに見える」ことだろう。
早い話が、子供の手本になるような大人は滅多にいない。
インドでは、『ラーマーヤナ』に登場するラーマ王子と、その妻シータが理想の男性と女性の姿を見せてくれている。
実際、この2人は、元々が至高の神が2つに分かれたものだけあり、実に素晴らしい。
だが、インドでも、特に近年では、この2人をちゃんと手本にする人は、あまり多くないに違いない。
ギリシャ神話では、神々自体は、人間の常識からかけ離れた存在であるので、崇拝の対象ではあっても、直接の手本にはならない。
しかし、ホメーロスによって書かれたと云われる『イーリアス』、『オデュッセイア』に登場する英雄達・・・その中でも、特にオデュッセイアは手本とすべき存在と言えるかもしれないが、なかなか、そうしている者はいないだろう。
我が国の『古事記』の中にも、中々、理想の存在を見出せない。
ただ、イザナギが、黄泉の国(死者の国)から帰って来て、水で禊をすることで、数々の神を、そして、最後に貴い3柱の神を生むところに、手本とする行為がある。
身に付けているものを脱ぎ、身体を洗うことが、執着や穢れを捨てることを表しているというのである。
だが、そう教える人がどこにでもいる訳ではないので、なかなかそんなふうには理解しないと思われるかもしれない。
しかし、子供のうちであれば、古事記を読めば心の内でそんなことをちゃんと感じるものなのである。
だから、子供のうちに古事記を読んだ人は、案外に良い影響を受けているし、大人であっても、真摯に読めば、心の穢れを祓ってくれるだろう。
『古事記』は世界の神話の中でも、実に貴いものではあるまいかと思う。
ゲーテの『ファウスト』のファウストや、ダンテの『神曲』のダンテは、彼らが、これらの物語の中で見聞を深め、経験を積むことで成長する様子が、優れた手本になる。
『古事記』のイザナギは、それを、短いお話の中で、もっと端的にやっているのである。
『バガヴァッド・ギーター』のアルジュナ王子もそうだ。クリシュナ神に18章に渡る教えを受ける中で、優れた人間になるが、それが我々の手本である。
これらのような、最初から完成した手本でなく、理想の存在になるまでを動的に描いたダイナミックな手本というのは、学び易く、有り難いものである。
『ラーマーヤナ』のラーマとシータ、そして、『新約聖書』のイエスは、成長という面もないではないが、基本的に最初から完成した理想の姿である。
このように欠点のない者からは意外に学び難いかもしれない。
しかし、彼らの何が理想であるかを探求することには、深い意味がある。
『ファウスト』にあるように、人間は神に向かって努力する存在であるべきだ。
そのためには、手本がなくてはどうしようもない。
身近に手本がいない訳ではないだろうが、上に挙げた物語によって、人間の理想の姿を知ることが必要である。
そして、それが、生き甲斐のある人生や、神の恩寵に恵まれた豊かな人生を創ることだろう。
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何だかんだ言っても、幼いうちは、父親、母親は子供にとって憧れの存在であり、目指すべき手本である。
ところが、それがいつまで続くだろうか?
映画『サウンド・オブ・ミュージック』で、ヒロインのマリアが、トラップ大佐のどの息子だったかは忘れたが、決して小さくはないその男の子が、「あなたに理想の男性像を見ている」と、トラップ大佐に言う場面がある。
しかし、そのシーンを見たほとんどの青少年はムシズが走ったりするだろう。自分の父親を思い出すからだ。
萩尾望都さんのある漫画で、中学3年生の女の子が、母親に対し、「お母さんのようなお母さんになりたい」と、真面目に言う場面があったのだが、これにも、読んでいる女の子のみならず、男の子も、自分の母親を思い出して冷笑してしまうかもしれない。
今の子供にとって、親以外で接触する数少ない大人である教師も、ほとんどの場合、ひどいものであるし、その点、会う時間の短い塾やお稽古事の先生の方が、正体がバレない分、「マシに見える」ことだろう。
早い話が、子供の手本になるような大人は滅多にいない。
インドでは、『ラーマーヤナ』に登場するラーマ王子と、その妻シータが理想の男性と女性の姿を見せてくれている。
実際、この2人は、元々が至高の神が2つに分かれたものだけあり、実に素晴らしい。
だが、インドでも、特に近年では、この2人をちゃんと手本にする人は、あまり多くないに違いない。
ギリシャ神話では、神々自体は、人間の常識からかけ離れた存在であるので、崇拝の対象ではあっても、直接の手本にはならない。
しかし、ホメーロスによって書かれたと云われる『イーリアス』、『オデュッセイア』に登場する英雄達・・・その中でも、特にオデュッセイアは手本とすべき存在と言えるかもしれないが、なかなか、そうしている者はいないだろう。
我が国の『古事記』の中にも、中々、理想の存在を見出せない。
ただ、イザナギが、黄泉の国(死者の国)から帰って来て、水で禊をすることで、数々の神を、そして、最後に貴い3柱の神を生むところに、手本とする行為がある。
身に付けているものを脱ぎ、身体を洗うことが、執着や穢れを捨てることを表しているというのである。
だが、そう教える人がどこにでもいる訳ではないので、なかなかそんなふうには理解しないと思われるかもしれない。
しかし、子供のうちであれば、古事記を読めば心の内でそんなことをちゃんと感じるものなのである。
だから、子供のうちに古事記を読んだ人は、案外に良い影響を受けているし、大人であっても、真摯に読めば、心の穢れを祓ってくれるだろう。
『古事記』は世界の神話の中でも、実に貴いものではあるまいかと思う。
ゲーテの『ファウスト』のファウストや、ダンテの『神曲』のダンテは、彼らが、これらの物語の中で見聞を深め、経験を積むことで成長する様子が、優れた手本になる。
『古事記』のイザナギは、それを、短いお話の中で、もっと端的にやっているのである。
『バガヴァッド・ギーター』のアルジュナ王子もそうだ。クリシュナ神に18章に渡る教えを受ける中で、優れた人間になるが、それが我々の手本である。
これらのような、最初から完成した手本でなく、理想の存在になるまでを動的に描いたダイナミックな手本というのは、学び易く、有り難いものである。
『ラーマーヤナ』のラーマとシータ、そして、『新約聖書』のイエスは、成長という面もないではないが、基本的に最初から完成した理想の姿である。
このように欠点のない者からは意外に学び難いかもしれない。
しかし、彼らの何が理想であるかを探求することには、深い意味がある。
『ファウスト』にあるように、人間は神に向かって努力する存在であるべきだ。
そのためには、手本がなくてはどうしようもない。
身近に手本がいない訳ではないだろうが、上に挙げた物語によって、人間の理想の姿を知ることが必要である。
そして、それが、生き甲斐のある人生や、神の恩寵に恵まれた豊かな人生を創ることだろう。
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