ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
コンピューターシステム開発技術者、サイコパスのKayのブログ

エメラルド・タブレット

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。
[2016/11/21]滅多にはありませんが、あまりにレベルが低いコメントは公開しません。
[2011/06/08]迷惑コメントが多くあったため、やむなく、コメントを承認後公開することとしました。

ぶれないことの魔力

「ぶれない」とは、態度、考え方、方針が全く変わらないことを言う。
ぶれない者が、信念のある人間だ。
「ぶれないヤツ」と、人に思われたり、自分で思うようになれば、まず誰にも負けることはない。
ぶれない人間は、決断が速く、後悔をしない。
また、ぶれない人間は、本当に重要なこと以外にはこだわらない。
そんな人間が負けるはずがない。

たとえ卑小なことでも、「ぶれたら死ぬ」くらいの思いがあれば、高度な存在が味方し、守られ、助けを受けるだろう。
それこそ、丹波哲郎さんがサラリーマン時代、「仕事はしない」方針を厳守し、出社と同時に、必ず遊びに行ったのも、彼がぶれない男だったからだ。
だが、そんな丹波さんだって、自分が社内にいないと誰かが困る時には、社内にいたと思うのだ。
実際、丹波さんは、宴会の幹事だけは、辣腕(凄腕)を振るったらしい。
ぶれないことは良いことであるが、引くべきところは引くことも大切だ。

しかし、まずは、ぶれない何かを持たねばならない。
ぶれないやつはクールだ。
男でも女でも、絶対にモテる。

キミを振り向かせる為なら どんな手でも使うわ
超絶俺様主義のキミに合うのはあたしだけ
~『Baby Maniacs』(作詞:q*Left、作曲・編曲:八王子P、歌:初音ミク)より~

この歌の、この部分の詩のことを、私はずっと考えていた。
この「超絶俺様主義」というのは、自己中心主義のことではない。
そうではなく、ぶれない男のことである。

重要なものごとの達成のためには、ものごとは全てフラクタルであることを知っておくと良い。
ヘルメースのエメラルド・タブレットに書かれてあるように、「下のものは上のもののごとく、上のものは下のもののごとし」ということだ。
つまり、小さなことの達成が、大きな達成につながる。
何か、ちょっと難しい程度のことでも、決してぶれないようになれば、もっと大きなことでもぶれないようになる。
例えば、「毎日腕振り運動を必ず千回やる」にぶれなければ・・・つまり、1年365日、決して欠かさなければ、ハートがぶれない波動になっていき、輝くぶれない男(あるいは女)になるだろう。









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神に飛び込むには勇気が必要

1970年頃のイギリスのSFテレビドラマ『謎の円盤UFO(原題:UFO)』で、神秘思想を感じる興味深いお話があった。
人形劇の『サンダーバード』、『キャプテン・スカーレット』で知られる、ジェリー・アンダーソンの制作であるが、彼は、この作品で、初めて人間の俳優を使っている。

こんなストーリーだ。
地球を侵略しにやって来る、人類をはるかに超えた科学力を持つ宇宙人との苦しい戦いを続けていた、地球防衛組織シャドーの最高司令官ストレイカーは、膨大な予算を勝ち取り、NASAのロケットに最新のカメラを積み、宇宙人が、どの惑星からやって来るのかを探る作戦を実行する。
作戦を始める前のストレイカーは、「失敗を恐れていては何も出来ない」と不敵に笑い、自信も示した。
しかし、作戦は見事に失敗し、何も分からないという結果に終わった。
自分が軽く見ていた細胞学者の指摘で、知識の欠如が作戦の失敗の原因であることを認めたストレイカーは、宿敵とも言える上司の、ヘンダーソン長官の部屋にいた。

ストレイカーは、窓枠をなぞった指についた埃を見ながら、
「この埃の中にも、宇宙が存在しているのです」
と言う。
仏教の経典である『華厳経』は、「極小のものの中に全体を含む」が根本的な教義であるのだと思う。
また、ヘルメスのエメラルド・タブレットにも、「下のものは上のもののごとく、上のものは下のもののごとし」という有名な言葉があるが、それも同じ思想であると思う。
世界各地に、このような思想があるのは、それが真理だからではないだろうか。

人間は、神という大海の一滴の水のようだとは、よく言われる。
だが、土埃にまみれた一滴の水なのだ。
そんな我々は、大海が見えないし、大海と自分が同じ成分であるとは想像もしない。
自分と大海の関係も分からない。
そして、愚かにも、自分は土埃だと思っているのだ。

やるべきことは、大海に飛び込むことだ。
今、まとっている土埃(身体や心や所有物)に執着せず、大海と一体化することだ。
そうしたら、自分が土埃でないことが分かるだろう。
大海に飛び込むとはどういうことかと言うと、神に全てまかせることだ。
では、神に全てをまかせるとはどういうことかと言うと、直観を大切にするということだ。
神とは、直観の源泉であるのだからだ。

物質や理屈が大切でないとは言わないが、直観はもっと大切だ。
物質や理屈より直観を優先させることは勇気がいる。
理屈では右が安全で左が危険なのに、直観は左に行けという。
そんな時、迷わず左を選んだのが岡本太郎だが、ほとんどの人が安全な右を選ぶのだ。
ところが、初音ミクさんの歌では、大抵が左(理屈と反対の方)に行けと言うのである。
このことからも、ミクさんの歌がいかに芸術的であるかが分かるのである。









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生きがいをどう見つけるか?

この頃、つくづく、イエスが言った、「人はパンのみで生きるのではない」ということを本当のことだと思うようになった。
イエスは、その後に続けて、「神の言葉によって生きる」と言ったらしいが、このような暗号、あるいは、隠語で言うのはやめて欲しかったと少しは思うが、悪くはないかもしれない。

一般的に言えば、やはり、人間は、生きがいのようなものが無ければ、食べ物だけで生きることはできない。
ただ、その生きがいは、食欲や名誉欲、あるいは、性欲を満たそうというようなものでは、たとえそれを得られても、決して満足するということがなく、より大きな欲望をいつまでも求め続け、待っているのは惨めな絶望である。
あなたは、いきなり悟りを求めるということはなくても、もっとマシな何かを目指した方が良い。

私は、最近、時々ご紹介している、野尻抱介さんのSF小説『南極点のピアピア動画』 を読んでいて、最初は、SFとしてはせいぜい色物(主要な位置にない、ちょっと変わった作品)と思っていた。
だが、私は電子書籍で読んだので、ページ数は分からないのだが、70%くらいのところから夢中になり、最後は全く感動してしまった。
あまり内容には触れないでおくが、この作品に登場する小隅レイと名付けられたボーカロイドは、初音ミクをモデルにしているというより、ほとんど初音ミクそのものである。
そして、この作品を読み、私は、初音ミクに実際に逢えるということを、ほとんど確信してしまった。
この希望だけで生きていけるのである。
それは、一応は、ただの思い込みだけではないと言っておく。
人類をはるかに超えるテクノロジーや、人類がまだ知らない宇宙の神秘的な力により起こり得ることであると、直感が教えるのだ。
『ヒマラヤ聖者の生活探求』や、『エメラルド・タブレット』、そして、アダムスキーによる宇宙人の文明の紹介を読んでいたことも、その確信を助けているのかもしれない。
『南極点のピアピア動画』の作者の野尻抱介さんも、ニコニコ動画を運営する株式会社ニワンゴの親会社である株式会社ドワンゴの川上量生会長による、この小説の解説を読むと、初音ミクに魂を奪われた人のようだ。

あなたも、何か、生きる希望を見つけられればと思う。
私がそうであったように、いつも念仏を唱えていれば、それは自然に得られるはずである。
これも、思い込みや、理屈ではなく、念仏を唱え続けることの中で得た直感による確信である。









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平安や財を得るには意外にも法然やドリール博士が教えた方法が最も確実である

身体的な平安や財力といったものを得る真っ当な原理は、意外に思うかもしれないが、法然上人の『選択本願念仏集』人や、ミュリエル・ドリール博士が英訳した『エメラルド・タブレット』に明確に見られる。それらは、これほどの方々がはっきり述べているのであるから、絶対に間違いのないことである。
この2人が共に語っていることは、これら世俗的な幸福や成功は、あくまで手段であるということだ。つまり、それ自体が、目的ではなく、目的にもなり得ない。

法然は、「南無阿弥陀仏」の念仏を唱える行者に対し、仏は沢山の仏をその者の元に送り、仏達は、その者を2重3重に取り囲んで護るのだと保証している。また、文殊菩薩や観音菩薩が親しい友となってくれて、いつも寄り添ってくれるのであるとも言っているのである。
これをどんな意味に捉えるかは人それぞれで良いが、このことを法然は、一般の人々ではなく、知的で熱心な探求者に述べたのである。それが『選択本願念仏集』で、法然はその書の最後に、「読んだら、必ず捨てよ」と書き、これが秘法であることを述べた。しかし、それを渡された者は、そのあまりの価値にその指示を守らなかったのである。
ドリール博士は、財力というのは、あくまで人類への奉仕の目的で持つべきものであると述べている。言い換えれば、世界平和のために使うものであるなら、富はいくらでも集まるのであり、それは確かに、あなたに潤いも与えるだろう。だが、自分の器量を顧みて、自分が平静でいられる限度以上は決して求めてはならない。いかに正しい目的で集めた富であっても、必要以上に得てしまうと、欲望のために理性を失い、心は落ち着きを失って荒れ、最も大切なものを失うのである。
そして、法然もドリール博士も、正しい方法でなら平安を得られることを、自ら実証もしたのである。

現代の人間は、法然が生きた12世紀や13世紀の人とは、知的にも霊的にも異なる。
その頃の人々は、まだ自分と他人との区別を、今の人達ほどには付けなかった。特に庶民においてはそうであった。
そんな素朴な人々は、法然の念仏の教えは受け入れ易かった。
しかし、知的には進歩したが、徳を失い、霊的に穢れた現代の人々は、必ずしも念仏が適合しないかもしれない。
だから、自分で、自分に相応しい神の名を見つける必要があるかもしれないのである。
私は、その必要があったが、無事に自分の神の名を見つけたので、全てを得たのである。
あなたの仏神は、阿弥陀かもしれないが、その名があまり相応しくないかもしれない。阿弥陀の名の価値は、昔も今も何らの違いはないが、人々の固定観念が問題なのである。
だから、アメノミナカヌシの方が向いているかもしれないし、アポローンという名が驚くほど合うかもしれない。
ただ、注意しておきたいのは、アポローンにしろ、スサノウにしろ、神話のお話を表面的に受け取ってはならないということだ。
どの神も極めて高貴であるのだが、神話のお話は何かの象徴なのである。
また、ツキヨミのように、古事記や日本書紀でほとんど活動が伝わっていない神の名にも、計り知れない価値がある。
神の名は、神そのものである。
あなたの神の名を何としても得て、それを常に唱え、神と和らぐ(親しくする)ことだ。
すると、詩篇91に書かれている通り、神は、「この者は私を愛して離れないゆえに、私はこの者を守る」と言うのである。
だから、イエスは「第一の律法は、『汝の神を愛せよ』だ」と、はっきり言ったのだ。
これをゆめゆめ忘れてはならない。









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この世は楽しみだらけにできる

朝が憂鬱だという人は、残念ながら少なくないだろう。
私もかつてそうだった。学校や会社に行くことを考えると、気分が滅入るくらいはマシで、本当に嫌になることもよくあった。
だが、今は・・・さすがに2時とか3時までに目が覚めたら、「諦めて」もう少し寝るが、それより後なら、爛々とした目になって「ぱっと」起きてしまう。嬉々としてね。
なんと言っても、1日1回の食事である朝食が食べられるのだから、起きたくないはずがない。
私が食べるのは、松の実、アーモンド、クルミ、ドライあんず、シナモン入りの紅茶、それに、ビスケットを少々だ。
これらを1日1回だけ食べる時間は、奇跡の時間であり、現実的な魔法の世界だ。
キリスト教では、神様に、今日も糧を与えてくれたことに感謝するよう教えるらしいが、私のような食事だと、誰かに教わるまでもなく、嫌でも自然に感謝の念が湧き起こるのである。
もし、1日1回の食事が夜の人は(私もかかつてはそうだった)、学校や会社から帰る時が特に楽しいのではないかと思う。
私のように、朝しか食べない人も、夜に、カップスープとか、オレンジとかを1つだけ食べることにすれば楽しいと思えるかもしれない。帰ってからスープや味噌汁、入浴後にオレンジとかなら両方でも全く構わない。

さて、では日中の楽しみは何だろう?
それが勉強やスポーツや仕事だというなら、大いに結構である。私の場合、仕事はそんなに嫌いではないが、当然、良いことばかりではない。
初音ミクと巡音ルカの『ワールズエンド・ダンスホール』という歌のように(私はこれを聴くと涙が止まらなかった)、「全然良いこともないし」「当然良いこともないし」と感じている人もいるかもしれない。まあ、できれば、悪いことばかりじゃないことに気付いてくれれば良いのだが、そう思えないものを、無理にそう思う訳にもいかないだろう。
最近の私は、術の力のおかげでそうではなくなったが、以前は、やはり、あの歌のように、「世界の隅っこでワンツー」だったのだ。

楽しみがないなんて言ってないで、聖典を読めば良い。
聖典の楽しさって何だろう?
それが本当に楽しいのかというと、楽しくないはずがないじゃないか?
『バガヴァッド・ギーター』を読むということは、あなた自身がアルジュナ王子として、至高神クリシュナから教えを受けることである。
だから、これを読めば、あなたは神に近付いていき、『ヒマラヤ聖者の生活探求』に登場する超人的な大師達のようになっていくのである。
大師達だって、自分達のようなことは、あなたにも、修行をすることもなく、ただちに出来ると言ったではないか?
ただ、我々は、人々の中で暮らし、学校に行き、テレビの情報を見聞きする中で、世間の教義や信念を押し付けられて染まってしまったので、それを壊していくことが必要なだけだ。
読めば、神のようになっていく。これが楽しくないはずがないではないか?
ただ、読む時は、焦らず、落ち着いて、ゆっくり読むことだ。ヒマラヤの大師達は、1日で1章しか進まないし、長時間をかけて数行しか進まないこともある。それくらい、貴重で深いことが書かれているのである。
新約聖書の『福音書』を読むことは、イエス・キリストの教えを直接聞くのと同じである。熱心に読んでいれば、病気を治したり、人の心を読んだり、水の上を歩いたり、食べ物を空中から出したり、死んでも生きるようになる。
現代人は、こんな素朴な読み方ができなくなってしまったので不幸なのである。

『古事記』を読むと、実に凄い。
鈴木三重吉や福永武彦の『古事記物語』を読んでいる子供は、無意識に術を使うので、この世は彼らの遊び場なのである。
それは主に、そこに書かれた「うけい」という呪術的な精神操作によるが、それだけでもない。
もちろん、あなたも淡々と読むなら、やはりそうなる。
『エメラルド・タブレット』を読めば、あなたは、小学校の教室の中で、子供の身体をまとっているようなものだ。周りの子供達と、知恵や知識や経験がまるで違うので、あなたには全てがあまりにも簡単になる。あなたは、特に何かをしようという気はなくなり、ものごとが自動的に進むのを感じるが、その時にあなたは、老子や荘子の「無為」が分かるようになるのである。
特別な呪文・・・たとえば、般若心経の呪文を唱えていれば、あなたに不可能はないだろう。
もしそうでないと言うなら、数が足りないのだし、それは熱心さが足りないだけなのだ。
仙人に逢うと分かるが、彼らに近付くことができると、彼らはいつも口の中で呪文を唱えている。
昔の人は、今の人より、仙人を見る機会もあったのだが、仙人のそんな様子はあまりにさり気なく自然なので、見逃してしまうことが多かったのだ。
法然は、1日6万回、「南無阿弥陀仏」の念仏を唱えていたが、これは、1日中、口の中で念仏を唱えていたということなのであるし、実際、人と会話をしている時すら、口の中で小さく念仏を唱えていたという。法然は苦難の人生を送ったように言われるし、それは確かにそうなのであるが、実際は、恵まれていたのである。だから彼は、「いつも念仏をしていれば、大勢の仏があなたを二重三重に囲んで守る」と保証しているのである。それは、決して、誤魔化すことのできない相手に対して書いた文章の中に、はっきりそう書いており、法然は自信たっぷりにそう述べているのである。
私は、『老子講義』を読んで、五井昌久さんという人は本当に聖人であると確信した。あの人は本当に老子であった。その五井さんが教えた「世界平和の祈り」も凄いものである。あれを、1日中唱えれば、修行を積んだ仙人を超えた光をまとうようになると思う。
つまり、この世は楽しみだらけであるのに、今の人類は、それを知ることが少ないという、なんとも愚かなことになってしまっているのは、後の世の不思議とされるに違いない。
あなたは、その楽しみを自由に得て良いのである。









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