ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

エマニュエル・スウェーデンボルグ

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

挫折から立ち直る力

人間、挫折を味あわなければ、成功者どころか、まともな人間にもなれない。
受験競争というのは、挫折といいう苦しみを免れる道なのであるから、うまくいってしまうと、困った人間になってしまう可能性が大きい。
また、ひきこもっていては挫折出来ない。
挫折してひきこもった人もいるかもしれないが、小さな挫折に負けて、人生に勝利出来るはずがない。
実に、ヘレン・ケラーが言った通り、人生とは無謀な冒険なのである。

冒険し、当然遭ってしまう挫折という嵐に耐えるために、どうやって力を得れば良いだろう?
その一番簡単な方法が、断ち物であり、断ち物を掟とすることである。
上杉謙信が、女を断ったように、木枯し紋次郎が、女子供、老人にいかなる場合でも危害を与えないことを誓ったように。
水野南北が、美食、大食を決してせず、大好きな酒も一日一合と制限したように。
エマニュエル・スウェーデンボルグが、満腹するまで食べて自分を甘やかすなという天使の警告を守ったようにである。

断ち物とは、美食など、それを断ったからとて、他人にも自分にも何の害もないが、自分にとって出来るだけ辛いことを、自主的に、決してしないと誓うのである。
少し辛い断ち物であれば少しの報いが、どうしようもなく辛い断ち物であれば、大きな報いが得られる。
のんびり過ごしたい時間を犠牲にして、勉強やスポーツに励むことも断ち物になると思う。
ただし、1年365日、例外なくやらなければならない。
断ち物とは、そんなものであり、「今日は休み」などという、ゆるい部分は全くないのである。

私は、美食・大食を断ち、毎日トレーニングもしており、おかげで、健康で少し豊かであるが、言い換えれば、その程度である。
大きな断ち物を、怠ってしまっていた。
おかげで辛い挫折を味わっている。
では、本日から心新たに開始である。
9月の初音ミクさんのコンサートに備えるのに丁度良い。
つまり、ミクさんのお導きである。ミクさんへの感謝は決して忘れまい。









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最も重要な食の掟

久し振りに、食事のことを書こう。
私の食の掟はただ1つだ。
それは、
「満腹するまで食べて自分を甘やかさない」
である。
他には、一切、何もない。
私は一頃(数年に及ぶが)、極端な少食をしていた。
朝、昼は食べず、夜も、ご飯半分に豆腐と漬物だけ。その豆腐も、「一丁は多いから半丁で」とか、なんともみみっちいものだった。
だが、一度、美食、大食の習慣がついてしまった者が、それを打ち壊すには、そういったことも必要なのかもしれない。
おぞましきは、現代の美食、飽食である。

ラマナ・マハルシだって、ヒマラヤの大師達だって、ちゃんと十分な食事をしていたし、「運命は食の多少のみで決まる」と言い、「食少なければ幸運、多ければ不運」と説いた水野南北だって、1日3食きちんと食べ、酒も一日一合(180ml)に限定していたとはいえ、「十分に楽しんでいる」と述べているのである。

極端な少食というのは、それほど難しいことではない。
適切に食べる方が、よほど難しい。
また、「コンビニの食品は身体に悪いから食べてはいけない」とか言う者もいるが、私はコンビニでしか食べ物を買わないが、完全に健康である。
人間の身体ってのは、毒でも食べない限り、いや、少しなら毒でも、食事の量が適切であるなら、うまく処理できるのである。
炭水化物(糖質)を一切食べてはならぬと言う高名な医学者がやたら多いが、これも単に量の問題である。そんなことを訴える医者達は、皆、お金持ちの美食家で、確かに、彼らには炭水化物の制限は必要かもしれず、別に嘘を言っている訳ではないだろうが、私には関係ないことが分かった。

食においても、重要なのは、こだわりがないことである。
私の唯一の食の掟は「満腹するまで食べて自分を甘やかさない」ことであると述べたが、楽しい会食の時は別で、大いに食べる。
だが、自ずから限度もあり、吐くまで食べるなら愚かであるし、酒も、ビールやチューハイ一杯、せいぜい二杯なら良いが、「もう一杯、もう一杯」といつまでも薦め、自分も飲む者も、後で述べるが問題がある。

食にこだわりがある者は気の毒である。
そんな者は不運につきまとわれるからだ。
「この店が美味しい」というこだわりを持っていたり、やたら美味しいものに詳しい人は、食への執着が強く、そんな者達は、おしなべて不運体質だ。
私なら、コンビニのおにぎりだって、美味し過ぎるほど美味しいのである。
ある人が会社の近くのラーメン店について、その不味いことをドヤ顔(得意顔)で貶していたが、私には、その店のラーメンは非常に美味しいとしか思えないのである。
その人もまた、食へのこだわり、執着が強く、優れたところもある人だったが、ひどく不運だった。

酒を飲み過ぎる者も駄目である。
そんな人を豪傑のように言う風潮もあるかもしれないが、そんな者は本当はとても弱い人である。
酒が過ぎるというのもまた、酒へのこだわり、執着が強いのである。
この世のあらゆることで、運と不運を分けるのは執着、こだわりだ。
酒が過ぎる者も、なんとも可哀想なのだ。
しかし、いったんついたその習慣からは、なかなか抜け出せないであろう。
どこかの芸能人のように、酒で問題を起こして断酒するというのは(ややこれ見よがしであったが)、良い方法でない。
彼はその後、また大酒飲みに復帰し、今は幸いばれないだけで、やっぱり問題を起こしているのである。
大切なことは、適切に飲むことだけであり、酒が好きな人が断酒か大酒かに偏るのは間違いである。

アメリカ最大の賢者エマーソンが「人類の偉大な5人」の一人に選び、ゲーテ、カント、ヘレン・ケラーをも敬服させていたエマニュエル・スウェーデンボルグは、天使に教えられたことを明かしているが、「満腹するまで食べて自分を甘やかさない」ことを常に忘れないようにしていた。
「食が少なければ幸福。これ以外に何もない。万に1つの外れもない」
と断言した水野南北も、つまるとこと、苦行僧のような食の仕方をしろと言ったのではなく(苦行僧はみんなツイてない)、食を慎め・・・即ち、満腹するまで食べるなと言ったに過ぎないと思う。
しかし、腹八分目か腹六分目かは言葉のあや(微妙なニュアンス)に過ぎず、どちらでも良いが、そのように、食欲が残る程度に食べることは、いったん、飽食に慣れてしまうと難しいことだと思う。
病気をきっかけに、飽食、美食の食習慣を改めることができたなら、むしろ幸運だと思う。

インドの聖者ラマナ・マハルシに、人間にとって大切なことはと尋ねると、
「適度な食事、適度な睡眠、適度な会話。その中でも、適切なものを適切な量食べるのが最上である」
と言ったようである。
ヒマラヤの偉大なマスター(大師)達も、美味しい食事を楽しんでいるらしいし、中には、肉食をする聖者もいる(肉しか入手できない場所だってある)。
イエスも、「何を食べ、何を着るかに悩むべきでない」と言い、どんな食べ物も良いのだと教えた。

食への執着を脱すると、他のことでも執着を逃れることは易しい。
そうなれば、人生、勝ったも同じである。
まさに、水野南北が絶対的自信を持って言ったように、「人の運命は、ただ食の多少で決まる。万に一つの外れもなし」である。
この「食の多少」の「少」は、極端なものではなく、適切な量という意味で、「過ぎない」ということである。
これこそが、人間の持てる最大の能力、そして、徳である。
調和、バランスとも言う。
これほど美しいものはない。

以上、参考になればと思う。









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人間としての弱味を無くすには

我が国に密教的に伝わる、神通力(超能力)を身に付ける修行では、必ず山籠りというものがある。
普段、「私は一人でいるのが好きだ」などと言っている者であっても、本当に一人になると、これが厳しいもので、まず、耐えられる人はいない。
それでも耐えていると、次は必ず幻覚に襲われる。心を向ける相手がいないと、心の奥に隠れたものが表に浮かび上がってくるのである。
このような状況で生きていくためには、想念を消し、心を無にするしかない。
よって、山籠りを長期間やれれば、ある程度の力は付いているのである。
だが、古神道の修験者になるには、ある程度では駄目なのである。
修行者の心は澄み渡り、身体も少年時代の生命力を取り戻し、何もかも最上の状態だ。
そして、世界各地のあらゆる密教修行で、最後の試練があるところは共通している。釈迦もイエスも悪魔に誘惑されている。
悪魔と言っても良いのだが、実際は、心が再度、その者を支配しようとして、最後の勝負に出るのである。
我が国に伝わるものでは、ここで、理想とするタイプの女・・・これは性的な理想ということになるのだが、それが誘惑してくるのである。性的に理想的な姿とはいえ、必ずしも色っぽい女ではなく、むしろ、ここでは清純な雰囲気の可憐な乙女の場合が多いのである。
そして、この最後の試練で99パーセントは失格となるものらしい。ただし、あくまで、普通の生活と状況がまるで違うからである。普通の生活の中でであれば、私でも、そのようなものは楽々パスできるのである。
最後の試練の勝敗には食べ物も関係する。我が国の修行者の場合は、そば粉のみ持参する場合が多いし、中国からオオムギの粉が伝わってからは、そういったものも利用されたが、そういった、水で溶くだけで食べられるものが効率的で、日持ちもするので都合が良い。そして、その1つのものだけを食べていれば、うまくいく可能性が高い。
だが、他に楽しみが無いからと、自然にある山菜やキノコ、あるいは、川魚などを食べていると、食欲という欲望を満たそうとする際に、性欲という欲望も刺激されるのである。
尚、世界の密教教団の中には、性的なエネルギーを利用して強大な力を得る秘法を説くものも少なからずあるが、一時的には素晴らしく思えても、その者はほどなく破滅するのであることを特に申し添えておく。

我々は別に神通力までは必要ないが、力を得るには、食欲と性欲を克服しなければならず、性欲の方は、食欲を克服すれば容易く支配することができる。
ラマナ・マハルシは、修行することもなく16歳で悟りに達してしまったのだが、すると、やはり食に対するこだわりが全くなくなり、美味しい不味いなど気にせず、何でも食べるようになったのである。おそらく、性欲も容易く制御できたはずだ。
水野南北は17歳くらいの時と思うが、1年間、麦と大豆のみを食べ、それで、本人に自覚はなくても、心をほとんど殺してしまい、後の人生を素晴らしいものにしたのである。だが、彼が、食の慎みを本格的に教えるようになったのは、ずっと後のことであった。
水野南北によれば、食の慎みに関し、法華経に核心が書かれていると言うが、『エメラルド・タブレット』にもはっきり書かれており、『バガヴァッド・ギーター』でも、クリシュナ神は、少食過ぎてもいけないが食べ過ぎてはならないと教えている。エマニュエル・スウェーデンボルグは、英国に亡命した中年以降の時にも、食べ過ぎたことがあったらしいが、霊的な存在に、「満腹するまで食べて自分を甘やかすな」と警告され、それから、彼の真の使命といえる仕事が始まっており、あのエマーソンをして、人類史上最大の5人の1人と言わせているのである。
『バガヴァッド・ギーター』にしろ『エメラルド・タブレット』にしろ、別に極端な苦行を強要はしない。だが、食の慎みは非常に重要である。
水野南北にいたっては、食が全てと強調する。
我々も、食の慎みの実践には、何の障害もない。言い訳さえしなければね。
そうだ。我々は何をしても構わない。ただ、言い訳だけが許されないのだ。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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