「大人とは何か?」という問いを、昔からよく聞くので、立派な大人の私(?)としては答えない訳にはいかない。

そもそも、大人ってのは、子供でないことだ。
当たり前だが。
そして、子供ってのは、無防備だってことだ。
だから、大人は無防備でないし、無防備でなければ大人なのだ。

経済的な心配をしなくていい子供は、欲しいものはストレートに無限に欲しがる。
他人の顔色を伺わない。
体裁も気にしない。
押し付けられたルールは守らない。
でもね、ラルフ・ウォルドー・エマーソンていう、人間を超えた賢い人は、そんなのが、人間の自然な姿だって言ったのだよ。

体裁、他人目(ひとめ)、世間の評判、偉い人の顔色を伺うっていうのは、防備を固めているってことで、それは、経済的な理由からだ。
食べるものや着るものが買えなかったり、住む家がなくなるのを恐がって、防備を固める。
それが大人だ。

私のように、「初音ミクさんを愛している」と平気で言って、コンサートにも行くような者のことを、「大人気ない大人」って言うのだ。
中学や高校で、夏休みの宿題はしなかったし、いまだ、しなくて良かったと思っているのだから、「大人気ない大人」と言うよりは、大人でない。
偉い人の顔色は伺わないが、近所の猫さんの顔色は結構気にする。
でもねえ、猫さんってのは、顔色伺っても、遊んでくれないのだ。
「要はフィーリングにゃん」
って言うのだよ、猫さん達は。
そのフィーリングがないのだから、大人ではなくても、子供でもない。

エマーソンは、普通の大人なら眉をひそめる子供の振る舞いを称賛していた。
子供は誰にでもズケズケものを言い、シェイクスピアを読んでいる時はシェイクスピアになるのだ。
だが、世間を離れ、森の中の家に住んでいたエマーソンですら、そんなふうにしたくても出来なかった。
エマーソンを崇拝していたオバマ大統領も、本当はそうしたいのだろうが、毎日、夕食にライスとブロッコリーとサーモンを食べるくらいで、せいぜい大人の世界を拒否しているのかもしれない。
もうすぐ任期が終わったら、好きに・・・出来ないだろうなあ、やっぱり。
私は、完全無欠に大人なヒラリーより、大人気ないトランプの方が好きだが、アメリカの人々もそうなのだ。
だけど、大統領に相応しいとなるとどうかは、ちょっと難しいのだ。
自分のものでないお金で、メシ食ったり、絵を買う舛添さんは嫌いじゃないが、政治家としては困るのだろう。まあ、困った政治家はいくらでもいるらしいが。

だが、大人気ない大人の方が運は良いものだ。
イエスも言ったじゃないか?
子供のようになれば、天の父である神様が面倒見てくれるって。
そのあたりは、我が国でも、妙好人と呼ばれた、因幡の源左(いなばのげんざ)が、それを体現していた。
彼は牛を可愛がっていて、牛に草を全部運ばせるのが可哀想で、自分も背負っていたが、しんどくなってしまい、「すまない」と言って、自分の分も牛に背負わせたら、牛は全く平気だ。
それを見て、源左は悟ったのだ。
阿弥陀如来様に全部任せれば良い、何も出来ない自分が、おかしな苦労を背負う必要はないってね。
イエスだって、神様に任せて安心しろって言ったのだ。

私が好きな、丹波哲郎さんや矢追純一さんらは、かなり、そんな生き方が出来るのだろう。
それは、怠惰になったり、ゆるむことではない。
身体を炎が駆け巡るような生命の感覚を大切にするってことだ。









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