アメリカやイギリスでは、医療、教育、政治は、エビデンス(証拠)に基いて行わないといけないようになっているらしい。
どういうことかというと、

◆医療
医者が、経験や勘を頼りに勝手な治療をしてはならない。つまり、医者の独断は許されず、他の医者から見て正しくない治療をすれば罰せられる。
◆教育
日本では、どんな馬鹿な授業をする教師がいても、それに意見を言ったり、そのやり方を止めさせることは難しい。学校や教師の裁量が認められているからである。
しかし、アメリカでは、学校や教師が勝手なやり方で勉強を教えることは、子供の権利の侵害であり、許されない。
アメリカには落ちこぼれを出してはならないという法律もあり、子供が落ちこぼれると罪に問われる。
一方、極端に言えばだが、日本の学校は成果が求められないので、学校や教師の勝手が出来る部分が大きく、子供達に権利はない。
◆政治
税金を投入する政策を行うには、費用対効果を納税者にきちんと説明出来なくてはならない。
このあたり、国民は政治家がなぜそんな政策を行うのかは分からないのが当たり前みたいな日本とは全然違う。

といったものである。
どう言っても、医療、教育、政治は、アメリカやイギリスは日本の大先輩であり、進んでるが、日本は、昔の欧米の弊害を全部残しているのだろう。
ひょっとしたら、欧米では、日本の医療、教育、政治を反面教師にしたのではないかと思えるほどだ。

ただ、そんなアメリカでも、さずがに、「エビデンスに基いた宗教」はないだろう。
イエス・キリストが起こした奇跡には、いかなる証拠も必要としない。

そこで、私は、念仏について考えた。
法然や親鸞が言う念仏の効果は、簡単に言えば次の3つと言えると思う。
(1)死んだら極楽浄土に行ける。
(2)仏、菩薩、その他の高次の存在に守られる。
(3)罪が許される。よって、罪の報い、即ち、罰もなくなる。

では、これらにエビデンス(証拠)はあるのかというと、ある。法然、親鸞らは、決して「ただ信じろ」とは言わなかった。
ただ、彼らが言うエビデンスとは、仏典(その中の浄土三部経)であり、さらに、高僧による仏典の解釈である。
つまり、仏典に書いてあることは絶対に正しく、それを正しく解釈したはずの過去の高僧達の言うことは確実である・・・ということである。
これだけ言われたら、現代人には納得が出来ないだろう。
ただし、仏典は比喩で書かれた部分が多いのだが、あらゆる仏典に精通し、その解釈も深く研究した法然には解っていたことがあり、法然に学んだ親鸞は、学問では法然ほどでないにしても、彼の優れた感覚で掴み得たことがあることは、彼らの著作などから、その一端を垣間見ることも出来るだろう。
現代的な意味でのエビデンス(証拠)はないが、彼らの生き方や存在、そして、影響自体がエビデンスである。
そして、一休が、「仏は我々の内にあり、極楽浄土は今ここにある」と言うことで、エビデンスに近付いたと言えるのだと思う。

かつて、愛や友情や心といったものに科学的エビデンスはないと言われたが、現代科学は、それらに完全にエビデンスを与え、それは決して、悪いものでも、虚しいものでもない。
むしろ、昔の自分勝手な解釈の愛や友情より、ずっと良いところも多い。
とはいえ、まだまだ、科学で解き明かせないものも沢山あるはずである。
高次の感覚である直観は科学を超えるが、そのためには無我でなくてはならない。
無我の直感的な知恵が科学を超えることも科学は解明しつつあるのだと思う。

私は、念仏を疑って信じなくなったことで、念仏の効果を得られるようになった。
ここらは宗教では説かなかったことであるが、研究すればエビデンスを得られるかもしれない。
「念仏なんか全然信じていないよ」と言いつつ念仏を称える。
ここに念仏の秘密の鍵があるのだと思う。
かつて、ある妙好人(学問によらない念仏の行者)が、「念仏はお金と同じで、信じてなくてもちゃんと効果がある」と言ったが、その通りであると思う。









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