我々が幸福になれるかどうかは、呪文を称えるかどうかで決まると言ったら、おかなしな話と思うかもしれないが、どうもこの宇宙にはそんなルールがあるようで、以前も述べたが、まるで、呪文でゲームのHP(ヒットポイント=生命力)を上げるようなものだ。

だが、インドの聖者ラマナ・マハルシは、マントラ(呪文と同じと思って良いと思う)は師から伝授されるものと、一貫して主張していた。
これは、彼の心の師ナーマ・デーヴの教えでもある。
だが、崇敬の念をもって神の名を称えることは良いとした。
また、マハルシは、「私」という言葉が至高のマントラであるとも述べ、いつも称えることを薦めていたようでもある。
ここらは、日本語の本になるまでに、マハルシの言ったことがかなり歪んでしまった可能性もある。
そもそも、マハルシから直接聞いた人すら、全てを正しく理解した訳ではないのだがから、それを別の誰かが聞き、またそれを、本にするために通訳を介して聞き、そして出来た本をまた別の人が翻訳し・・・とする間に、伝言ゲームのことを考えれば、オリジナルとは全く違うものになっているとしても不思議はない。
つまりこうだ。
自分のための最高の呪文は自分で探さなければならない。

一般に知られる呪文は、乱暴な言い方をすれば、光線銃のようなものだ。
それを持っていれば確かに無敵だが、それだけで人生を豊かにし、幸福になることはできない。
アーサー王子だって、神剣エクスカリバーを手に入れた意義は大きいにしろ、それだけでは、ただの力自慢に過ぎず、やがてエクスカリバーにも見放されたことだろう。
アーサーは個人的ではない信念に一致する「何か」を見つける必要があった。
それを一般的に言えば、崇高な理念とか人生の目標とかになるのかもしれないが、それらもまた借り物なのだ。
なぜなら、形ある理念は、いかに崇高に感じようが、いつかは廃れる。
その理念に執着すれば悲惨な滅びを迎える。
大企業はもちろん、国ですらそうである。

真の呪文は神そのものだ。
だから、それは神や仏の名である可能性が高い。
だが、「南無阿弥陀仏」という念仏は、無論、悪いものではないが、長い間に世間の手垢がつき過ぎてしまった。
我々の潜在意識の中で、南無阿弥陀仏という言葉に、悪いものがまとわりついてでもいるようだ。
もちろん、仏の名は、空が、鳥や雲の影響を受けないように、人間が何をしても穢れることはないのだが、「南無阿弥陀仏」というのは宗教の言葉であり、いわば、真の空を描いた絵のようなものであるから、汚れることもある。
だが、阿弥陀仏の本当の名であるアミターバは穢れない。
私の考えでは、「南無阿弥陀仏」の「南無」は敬う心であり、へりくだった心で称えることが大切で、言葉としては付けなくて良い。
つまり、「阿弥陀仏」と言う方が良い。

一方、観自在菩薩という名は、玄奘三蔵が、この菩薩の元の名であるアヴァローキテーシュヴァラをあえて音写せず、その働き「遍く見る自在者」という働きを名にしたもので、良い言葉になっている。
尚、玄奘は、観世音菩薩という言い方は間違いだと述べたらしいが、別の学者の研究では、間違いとも言えないという。
ならば、本当の名を称えても良いが、私は、観自在菩薩で間違いないと思う。
また、弥勒菩薩の本当の名であるマイトレーヤは美しい名だと思う。
この言葉の響きが好きなら、迷わず称えれば良い。

「アジマリカン」という呪文は、アーサー王の神剣エクスカリバーのようなものと思う。
エクスカリバーは選ばれた者しか手にできないが、アジマリカンは誰でも使うことができる。
だが、本質は同じだ。
邪まなことに使えば、結局、身を滅ぼす。
だが、弱い人間が保護を求めることに使いながら、へりくだった心を持てば、内なる師によって究極のものに導かれる。
ラマナ・マハルシも、その意味で「私」という呪文を授けたのかもしれない。
彼は、「師は外側にあるものではなく、真の自己が師である。ただ、師は慈悲深くも、外に姿をまとって現れることもある」と述べている。
求めよ、そうすれば与えられる・・・である。
ある神仏の名を美しいと思って称えていると、最も正しいものに導かれることであろう。









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