ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

エイトマン

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。
[2011/06/08]迷惑コメントが多くあったため、やむなく、コメントを承認後公開することとしました。

ディストピア(暗黒郷)は近付いているか

1927年に公開された映画『メトロポリス』は、西暦2026年のディストピア(暗黒社会)を描いた世界初のSF映画だ。
人間と区別がつかないロボットが開発されるという、当時としては斬新な発想が取り込まれてる。
そして、原作も存在するこの映画では、人類の未来は明るいものではなく、科学技術は発達しても、世界は、そのような暗い悲惨なものになると予想したのである。

ただ、この映画では、何が悪いのかというと、今日考えられているような、人類の知性を超えたAI(人工知能)が世界を支配し、人間の自由を制限したり、最悪、人類を滅ぼすというのではなく、「格差社会」の行きついた先であるという、考えてみれば、何とも現実的なお話だ。
つまり、現在、既にそうであるように、富める者と貧しい者の2極化がどんどん進み、中間層が存在しなくなる。
それは、科学技術が発達するほどさらに進んでいく。
そして、『メトロポリス』では、富裕層は、贅沢に楽しく生きる一方、大多数の貧困層は、工場で1日中働かされるのである。
ただ、この映画では、アンドロイドは登場しながら、産業用ロボットが存在せず、働くのはもっぱら人間の労働者であるが、当時はもちろん、ファクトリーオートメーション(工場の自動生産設備)は存在せず、ロボットが働くという発想をしなかったのかもしれないが、そのあたりはよく分からない。
ところで、1993年の4話完結のタツノコプロのアニメ『キャシャーン』では、未来社会において、ロボットが世界を支配し、やはり人間を工場労働者として使役してはいるが、それは、ロボットのAIの中に「人類を滅ぼしてはならない」という指令が組み込まれているからで、ロボットが「人間とは、あまり効率の良くないパーツだ(働かせ過ぎると死ぬし、餌も必要)」と嘆く場面がある。

今後のAI社会の到来を危惧する人々もいるが、そんなことを心配するのは、意外にも知識層である。
イギリスの天才哲学者ニック・ボストロム(コンピューターや数学・物理学等、あらゆる学問に通じている)は、AIはすぐに人間をはるかに超えた知性を持つようになり、AIにとって人間はアリのような存在になるので、滅ぼされないよう全力で備えなければならないと力説する。
同様な心配をする人達の中には、イーロン・マスクやビル・ゲイツ、それに、あのスティーブン・ホーキング博士(故人)もいる。
一方、「そんなことはあり得ない」と言うのが、マーク・ザッカーバーグや伊藤穣一氏らだ。
どっちが正しいなんて、私が言うのはおこがましいが、AIが自主的に人類を支配することは有り得ないが、一部の者達がAIを使って世界を征服することは十分にあり得るし、それが未来の脅威であることは間違いないと思う。
あるいは、AIの誤用で人類壊滅規模の被害が起こりかねないということも考えなければならないだろう。
しかし、AIが「俺様は人間より優秀だから、人間は俺様に従わなければならない」なんてことを考えるのは、ちょっと・・・いや、かなりおかしい。

昨日、面白いものを見た。
1964年のアニメ『エイトマン』の『20話 スパイ指令100号』という回で、ある科学文明が高度に発達した国では、ロボットが国を支配し、人間は地下工場で強制的に働かされていた。
ところが、そのロボットの監視振りを見ていると、言っては悪いが、AI脅威論をTEDで熱く語るニック・ボストロムを思い出してしまう。
だが、なぜこんな事態になったのかというと、この国の大統領が、国民の幸福のために、全てを機械化した快適な生活環境を実現するために、科学技術の発達を推進させたが、その中で生み出されたAI(当時はAIという言葉が一般的ではなかったので、この作品中も「電子頭脳」と言われていた)が、「自分は人間よりはるかに優秀なので、人間は自分に従うべき」と考えるようになってしまったからだった。
しかし、考えればお解かりのように、自他を優劣で区別するのは、人間の自我的発想で、作ろうと思えば作れるかもしれないが、敢えてそんなものを作る理由もない。
可愛い女の子のロボットに、そんな自我機能を組み込み、「あなたは私のマスターかもしれないけど、好みじゃないから言うこと聞かない」と言われるのを喜ぶ人がいないとは限らないが、普通、ロボットには命令服従を求め、そのように作ることだろう。
まあ、このあたり、考えるとキリがないが、最後にエイトマンはこう言うのである。
「人間にあって機械にないのは、夢と愛だ」
ところで、そのお話の最後に、なんと、ジェームズ・ボンドが登場する。55年前のお話だから、当時、ボンドが35歳とすれば、現在「まだ」90歳。
「シンギュラリティ」の概念を提唱したレイ・カーツワイルによると、21世紀には、身体の機械化はどんどん進み、人間は不死に近付くので、90歳は老人にならない。
・・・と、そういったことから、何か歪みが生まれ、それがディストピアを作るのかもしれないが・・・

ただ、スマートフォンやスマートスピーカー、あるいは、多くのIoT機器は、常時、我々の声を聞き、姿を見、行動を追跡していることは確かで、我々は「シャンと」しなければ、知らないうちに自由を奪われている状況になりかねない。
だが、その原因を作るのはAIではなく、支配層である。
4月に出版される私とMr.φさんの共著の『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)を読み、楽しみながら実践的にAIを理解していただければと思う。
・・・と言っておいて何だが、諸事情で、出版が5月にずれ込む公算が高くなってきた。より良い本にするために、まだ手を加えている。また追ってご報告しようと思う。








超人類(新しい人類)の能力を使う

1963年のアニメ『エイトマン』は、第二次世界大戦直後、アメリカの軍事研究所で、谷博士という日本人科学者が開発したスーパーロボットであるエイトマンが活躍するお話である。
「シンギュラリティ(技術的特異点)」という言葉を世界に広めた、天才発明家でAI研究家のレイ・カーツワイルは、歴史的著書『シンギュラリティは近い』で、脳をコンピューターにアップロードすることに触れ、その可能性を示唆したが、エイトマンはまさに、人間の脳が電子頭脳にアップロードされていた・・・つまり、死んだ東八郎という人間の脳の記憶の一切を電気信号に変えて、エイトマンの電子頭脳に写してあったのだった。
そんなことを、1960年代前半に考えた『エイトマン』の原作者、平井和正氏は大したもので、いまだ、平井氏の熱狂的ファンも多い。

ところで、その『エイトマン』は、今でもDVDやAmazonプライムビデオで見ることが出来るが、エイトマンの最後の戦いは、超人類との戦いだった。
現在の人類は旧人類として終り、新しい人類の時代が来るが、この世に初めて登場した新人類・・・これを超人類と呼んでいるのだが、まだ子供ながら、これまでの人類とは比較にならない優れた人類である3人の超人類を相手に、エイトマンと、彼を作った谷博士、そして、エイトマン達の宿敵であるが天才であるデーモン博士もエイトマンや谷博士と連合して立ち向かうが、超人類達の、あまりの能力の高さに苦戦を強いられる。
超人類から見れば、大天才の谷博士やデーモン博士も「利口なサル」に過ぎない。
ところで、超人類達の優れた武器の1つにバリアーがあった。このエネルギーの防御幕の前には、いかなる攻撃も跳ね返された。
これに対し、エイトマンは光線銃レーザーを装備する。
そこで谷博士が言った言葉が印象的だった。
「バリアーがあらゆる攻撃を跳ね返す盾なら、レーザーはどんな盾をも貫く槍だ」
超人類達も、自分達のバリアーがレーザーを防げないことを知っていた。
だが、それ以前に、エイトマンがレーザーを使うことも予測していた。

2105年に、ようやくエイトマン並の能力を備えたアンドロイドが登場することになる『BEATLESS』というSF、およびそのアニメ作品で、戦闘能力は高くないながら、レイシアが恐ろしく強いのは、予測能力のためなのだと思う。
『エイトマン』の超人類達が、私に最大の強さを感じさせたのも、その予測力である。
そして、現代のAIについて、今はまだ虚実入り混じったことが言われるのだが、AIの本質的な能力は予測なのである。推測と言っても良い。
つまり、AIは高度な推測マシンなのである。
私も、実際にAIを使う中で、それは強く実感するのである。
現代の、ニューラルネットワークの機械学習で作るAIは、「恐ろしい推測能力を持つ凄いやつ」である。
だが、まだ、ほとんどの人が、それを知らない。

いまや、AIを使うのに、線形代数がどうの、活性化関数や損失関数とはなんぞやとか、AIにはPythonが良いなどと言っていたら間に合わない。
筒井康隆さんの『幻想の未来』(エイトマン並に古い)で、「1日中テレビを見ているのにテレビの構造を知らない」者を揶揄する部分があったと思うが、そんなの知る必要はない。
自動車を走らせるのに、自動車の構造を知る必要はないし、ガソリン車と電気自動車の技術的な違いを知らなければ電気自動車に乗れない訳ではない。
同じく、AIを使うのに、数学もプログラミングも不要だ。
当たり前じゃないか?
そして、やがてそれが、誰にとっても当たり前になるだろう。
今のところ、数学もプログラミングもなしに、まともにAIを使えるのは、ソニーのNNC(Neural Network Console)だけと思う。
Neural Network Console
Web版は遅くて使えない(と私は思う)ので、私はWindowsアプリ版を使っている(両方使ったが、Web版はしばしば通信が切れる)。
早くこれを使った者の勝ちである。









↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ

終わりと始まり

「自信と勇気はどちらが大切か?」と聞かれて、「勇気に決まっています」と答えた冒険家の話を、私は覚えている。
勇気が原因であり、自信は結果だからだろう。
そして、自信がないことに挑戦する勇気が必要ということもあるのだろう。

それなら、「おはよう」と「おやすみ」では、どちらが好きだろうか?
学校や会社では、「おはよう」と「さよなら」ということになるかもしれない。
世の中には、「おやすみ」と「さよなら」の方が圧倒的に好きだという人がいると思う。
「さよなら、また明日」は嫌いだが、「さよなら、お元気で」は好きだという人もいる。
「さよなら、また明日」では、明日また会わなければならないが、「さよなら、お元気で」なら、当分、場合によっては一生会わなくて済む。
「おやすみ」は、一生の最後という意味もある。
「おやすみ」だけでも美しい言葉だが、死を意味する「おやすみ」ほど美しい言葉はない。
初音ミクさんの『Last Night, Good Night』は、ぞっとするほど美しい。

Last night,Good night
Last night,Good night
いつかは むかえる
最後を 想うよ
夜空に 願うの
ときわの 笑顔を

おやすみ
~『Last Night, Good Night』(作詞、作曲、編曲:kz、歌:初音ミク)より~

今年1月に亡くなられたSF作家の平井和正さんが、ご自分が原作をされた漫画・アニメの『エイトマン』のヒーローである、スーパーロボットのエイトマンについて、こう書かれている。

ただ一方的に痛めつけられ、くりかえしぶちこわされる。そしてその都度、ご都合主義の作者によってあっさり修理されてしまう。眠ることはもちろん、唯一の平穏――死すらも彼には与えられない。
~『サイボーグ・ブルース(平井和正著。早川書房)』あとがき(1971年12月)より抜粋~

人間にとって、一日の目標も一生の目標も、「さよなら」、「おやすみ」なのかもしれない。
それで、努力などをして、「良いさよなら」、「良いおやすみ」を迎えようとするのかもしれない。
だが、惨めな一日、惨めな一生を送った後の「さよなら」「おやすみ」ほど美しいものはない。

だが、この世にも、人間の魂にも終わりはない。
「さよなら」は「初めまして」の予言であり、「おやすみ」は始まりの序曲である。
何のことはない。
我々自身が、エイトマンであり、サイボーグなのだ。

私は・・・私達は、始まってもいない。
新しい自分を始めるために、今までの自分を終らせる。
~『魔法少女リリカルなのは』より。フェイト・テスタロッサの言葉~

この時、フェイトは、新たな苦しみを受け入れる覚悟をしたのだろう。

仏教の目標は、生まれ変わり、死に変わりの六道輪廻からの脱出である。
ラットレースからの離脱を叶えるのが悟りである。
永遠の涅槃への誘いが仏教である。
ただし、本当かどうかは分からない。
経験者の証言も聞けない。

「お前もいつかは醜く老いて死ぬ。私がお前に、永遠の若さを与えよう」
『悪魔の花嫁』で、デイモスという悪魔に、そう言われた絶世の美少女、美奈子は、一瞬迷ったが、
「生まれ出る命は美しい。何にもまして美しい」
と想い、デイモスを振り払う。
死も誕生も一瞬だ。
その刹那(時間の最小単位)に永遠を見るために我々は生きている。
そして、我々は、瞬間瞬間に死に、瞬間瞬間に誕生するのである。
つまり、生命も宇宙もバブル(泡)だ。
『マジカルミライ2013』の、『Last Night, Good Night』で、歌うミクさんの背景にも、沢山の泡のCGが描かれていたが、あれほど似合う演出もない。見事なものだった。
宇宙は瞬間に生まれ、瞬間に滅びる。
それはとても「ありがたい」ことである。
それを知ることが悟りなのである。









↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ

ゴッホや宮沢賢治のような心の闇を背負わないために

「芸術家は生きているうちは評価されない」と言われることもあるが、別にそんなことはない。ただ、そんな者もいるということである。
ゴッホのように、現代ではその作品の価値は天井なしと言われながら、生前は1枚も売れなかった(予約は1枚あったようだ)という特異な例があるので、それがまるで一般論となるほどインパクトがあるのだろう。
しかし、ピカソやウォーホールやダリは富豪だった。
ゴッホと同じ37歳で死んだ宮沢賢治も、生前は作品が知られることはほとんどなかった。受け取った唯一の原稿料は、『雪渡り』という短い童話による5円だけで、それは、せいぜいが今日の5万円位であったと思われる(小学校教師の初任給が15円位の時代であった)。
ところで、私は、ゴッホも宮沢賢治も、円満な人格者であったとは思っていない。
ひょっとしたら、身近にいる人にとっては、扱い難い嫌な人間であった可能性もあると思う。
その驚くべき才能とは関係なく、あまり幸福でなかった生涯というのは、彼等自身が創ったのかもしれない。
豊かで平安な人生が送れるかどうかというのは、才能や能力や努力や働いた量とはあまり関係がない。
アンデルセンは、いかに著作権収入がなかった時代とはいえ、あれほどの有名人で、死んだら国葬にされるほど尊敬されていながら、豊かではなかった。
宮沢賢治もアンデルセンもゴッホも、あるいは、ニュートンやルイス・キャロルも、生涯、結婚することはなく、純粋な人間としての友人も恋人もいなかった。それは、彼らの人間的な欠点と言っても良いのだろうが、彼らは心に深い影を持っていたのだ。
しかし、本当は彼らだって、幸福になれたと思うのだ。
ゴッホはピストル自殺をして、息を引き取る直前に真理に目覚めて満足して死んだと思われることもあるが、もっと早く気付いて、気楽で楽しい生涯を送っても良かった。それで画家としての才能が発揮されない訳ではなかったと思う。
宮沢賢治は、実家が豊かな古着屋だったので、物質的に何不自由のない生活を送れたが、その家業をどうしようもなく嫌っていた。また、法華経を読んで深く感激したのは良いが、父親にまで浄土系宗派から日蓮宗への改宗を迫ったのは、やり過ぎというか、心の狭さや歪みと言うしかないかもしれない。
上に名を挙げた、アンデルセンやニュートンらも、やはり、人間的な問題はあったのだが、彼らは、幼い頃や若い時の経験により、人を深く憎んでいた部分は確かにあったのだろうと思う。
つまり、そこに人生の幸不幸の原因がある。
そうは言っても、憎い人を許せとか、まして、愛せよなどと言う気はない。
イエスはそんなことを一応言ったが、それは、当時の人々の慣習や宗教を考えれば、そう言うしかなかったのではないかと思う。
ただ、こう考えれば良いのである。
アンデルセンは、子供の頃、他の子供達に酷い目に遭わされたし、ニュートンも同じだったと思う。
宮沢賢治は、家業が嫌いと言うよりは、父親を嫌っていたのかもしれない。ゴッホも社会をすねていたし、同じ売れない画家であった、セザンヌやモネ達に無視されて辛い目に遭ったこともある。
だからと言って、恨んではいけないのだ。なぜなら、自分を嫌な目に遭わせた連中というのは、そうするより他になかったからだ。

私は、1964年6月25日に放送されたという、アニメ『エイトマン』の第34話『決闘』は、実に素晴らしい名作で、全国民が見ておくべきと思うほどなのである。
私はこれのDVDを保有し、定期的に見ているのである。この第34話は原作にはないお話だが、原作者の素晴らしいSF作家である平井和正さん自身が脚本を書いている。
エイトマンというスーパーロボットは、谷という天才的な日本人(あるいは日系)科学者がアメリカ(アニメではアマルコという架空の国にしているが、明らかにアメリカのこと)の軍事研究所で造ったが、彼は、エイトマンを軍事兵器にしたくなかったので、エイトマンを持ち出し日本に亡命する。アメリカに残された谷博士の妻子はそのために辛い目に遭い、息子ケンは父親に復讐することを誓う。そしてケンは、生体実験に志願してスーパーロボットに生まれ変わり、日本にやってきて、エイトマンと決闘する。
対決が避けられないと悟ったエイトマンは自分が滅びてケンを救おうとするが、谷は迷った末に、エイトマンに戦うことを命じ、ケンは倒れる。
死に行く息子ケンに、谷博士が言う。
「許してくれ息子よ。こうするしかなかったのだ」
すると、虫の息のケンも言う。
「僕もだよ、パパ。こうするしかなかった。苦しかったよ」
平井和正さんは、人間や人生をよく知る作家だ(75歳の現役作家である)。
戦争中に青春時代を過ごし、世界の悲惨や不条理を嫌と言うほど見たようだ。ほんの1つの小さな例でしかないが、彼が中学生の時、クラスメイトの1人の女子が学校に来なくなったと思ったら、ある日、毒々しい化粧をして米兵の腕にぶら下がっているのを見る。もし、彼が、その女子生徒に好意でも持っていたのだとしたら、多感な年頃のことであり、悲劇的と言えることかもしれない。
だが、平井和正さんは、心に影を背負いながらも、愛を出すことができたのだと思う。
彼は、作家として、宮沢賢治や太宰治や、あるいは、三島由紀夫のように、何か、あるいは、誰かを恨み続け、押し潰されることはなかったのだと思う。

我々も、人や出来事を恨んではならないのだ。
あなたを酷い目に遭わせた人は必ずいるはずだ。彼を赦せとか、愛せというつもりは毛頭ない。そんなことは不可能だ。
しかし、彼(あるいは彼女)は、そうするより他になかったのだ。
谷博士とケンの最後の会話をよく味わうべきである。
人は自分の意志で自由に何かをできる訳ではない。ただ神が決めた通りに考え、行為するのである。
すると決まってしまっていることはすることを避けられない。釈迦は言ったのだ。「行為はあっても、行為者はいない」と。

しかし我々の本質は、天(アマ)である吾(ア)なのである。
自分を吾(ア)と呼び、少なくとも、まずは吾(われ)と呼び、「吾は誰か?」と問い続けなければならない。
常に、自分に「吾」と言い続け、自分に帰り続けなければならない。
そうすれば、心は純粋になり、憎むことも恨むことも妬むこともなくなる。後悔も自己嫌悪も無用である。
それができない人を憐れみ、五井昌久という本当に聖者であった宗教家は、「世界平和の祈り」というものを創ったので、それに頼っても良いと思う。
あなたは才能のあるなしに関わらず、悲惨であってはならず、平和でなければならないのだ。









↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ

宿命

こんなお話があった。
祖国を裏切り、自分と母親を捨てた父親に復讐するために、息子は日本にやって来た。
父親は、妻と息子を深く愛していたが、良心に従って戦い、息子を倒した。
父親は、死んでゆく息子に言う。
「赦してくれ、息子よ。だが、こうするしかなかったのだ」
すると、虫の息の息子も言う。
「僕もだよ、父さん。こうするしかなかったんだ」
そして、息子は、母親は彼を赦していたこと。自分も母も、彼を愛していたことを告げた。
だが、それでも、戦いは避けられなかったのだ。

愛し合いながら戦うしかなかった。
それは、息子の憎しみと、父の良心によるのだが、父親の良心とは、国家のエゴイズムに加担しないことだった。
これは、1964年のテレビアニメ『エイトマン』の第34話『決闘』で、原作の漫画にはないお話だが、原作者の平井和正さん自身が脚本を書いた名作だ。
エイトマンは、この戦いについて、「宿命」という言葉を使った。
そうだ。
愛し合っていても、宿命であれば、戦いは避けられない。

「愛し合っているなら、戦いをやめればいい」などと思うかもしれないが、人間は宿命には勝てない。
インドの至高の聖典『バガヴァッド・ギーター』で、アルジュナ王子は戦いを前に悩み苦しんでいた。
敵勢の中には、慕っている叔父、仲の良い従兄弟、尊敬する師、信頼する友などがいて、アルジュナは彼らを本当に愛していたからだ。
アルジュナは戦いを放棄しようとするが、神クリシュナはアルジュナに、お前に戦いを避ける術はない。武士の名に相応しく戦えと言う。
我々同様、アルジュナはそれをどうしても理解できない。
だが、クリシュナはアルジュナに、繰り返し、運命について説く。
「敵はすでに神によって殺されている」
剣を振るい、弓を引いても、アルジュナは何もしていない。全てを為すのは神である。

イエスはよく、「預言は実現されなければならない」と言い、旧約聖書に書かれた通りに、世界が進行することを示した。自分の災難についてすらそうだった。
旧約聖書は、神が予言者達に語った、この世のストーリーである。それは実現されなければならないし、必ず実現する。
脚本が書かれ、制作が決定した劇は、その脚本の通りになるようなものだ。
仏陀も言ったのだ。
「行為はあっても、行為者は存在しない」
全ては、神や仏の為すことなのである。

だから、我々は、何が起ころうとも、そして、自分が何をしようとも、決して、恨むべきでないし、後悔すべきでもない。
全ては神が決めたことであり、いかなることも、起こるべくして起こるのだ。
我々には、それをどうすることもできない。我々には、世界や運命をコントロールする力なんてこれっぽっちもないのだ。
だから荘子は、全てを無心に受け入れよと言ったのだ。

インドの聖者ラマナ・マハルシに、ある男が言う。
「私は妻子があるが、隣の家の娘があまりに魅力的で忘れることができない。間違いを犯しそうで恐ろしい。私はどうすれば良いのですか?」
マハルシは男に、心を静かにする最上の方法である、「自分とは本当は何か?」を問うことを教えたが、こうも言ったのだ。
「間違いが起こっても、後悔してはならない」
だが、それなら、こう言いたい者がいるに違いない。
「では、俺はどんな悪いことをしても良いのか?なら、これからは勝手気ままにしてやる」
これに対しては、親鸞聖人が答えている。
「人は自分の思うように、善いことも悪いこともできない」
それが運命というものなのだ。
そして、いかなる悪いことをしても、ただ、「南無阿弥陀仏」の念仏を一度唱えれば赦される。
しかし、こうも言ったのだ。
「薬があるからとて、毒を好む必要はない」

あなたも、決して、後悔してはならない。自己嫌悪を感じてもならない。
また、恨んではならない。憎んではならない。
あなたに危害を加えた者も、神の操り人形に過ぎない。
では、荘子の言う通り、全てを無心に受け入れればどうなるだろう?
スーフィー(イスラム神秘主義)にこんな言葉がある。
「彼は、神を探しに行って、神になって帰ってきた」
全てを無心に受け入れることが、神を探すことである。
ならば、結論は、その通りである。
釈迦も、アメリカ最大の賢者エマーソンも、全く同じことを保証しており、安心して良い。
尚、多少は頭で理解したいなら、そして、受け入れることの糸口を掴みたいなら、何度も奨めたが、五井昌久さんの『老子講義』をここでもお奨めする。









↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ
プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんを愛す
[AI&教育blog] メディアの風


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
最新コメント
月別アーカイブ
記事検索
ブログバナー&Mail


メールはこちらへ
PV since 2010/09/08
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

人気ランキング参加中
人気ブログランキングへ
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ
にほんブログ村 メンタルヘルスブログ ひきこもりへ
タグクラウド
QRコード
QRコード