ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

ウェルズ

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
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人類の文明-このまま進むべきか、元に戻るべきか

子供というものは、他愛もない単純な遊びを飽きもせず、呆れるほどいつまでも繰り返すものだった。
しかし、今は、そうでない子供が圧倒的に多くなった。すぐに退屈し、また、簡素な遊び方に満足せず、贅沢な楽しみ方を求めるようになっているのだ。

数千年の昔は、大人だって、ただ野原に座り、暮れていく空を見上げて夕陽を眺め、やがて、星が瞬き出すのを見ているだけで、心は喜びに溢れ、人生に満足していた。
確かにそうであったことが、遠い昔に思いを馳せてみると、不思議にありありと思い浮かぶのである。
時代が多少下っても、農民達は仕事の後、皆で歌って踊っていれば楽しく、それで明日の活力を持てたし、国家が構築され、軍隊や宗教が発達し、庶民の暮らしに暗鬱なものが増えてきても、勇猛な祭りを行うことで、それを補うことが出来た。
岡本太郎は、フランスの大学で哲学や民俗学を専攻したのだが、研究や思索の結果であり、また、彼の天才的な直感的洞察によるのだと思うが、祭りの目的とは、生命エネルギーの補充なのであると断定していた。
ある精神分析学者も、フロイト精神分析学により、祭りは、無意識の中にある生命体であるエスを解放するためのものであり、それによって生命エネルギーを増大させることが出来るのだといったことを述べていたと思う。
だが、今の時代の祭りに、そんな力があるとは思えない。
それは、今の子供が、かつてのように単純な遊びに夢中になれないことと同じである。

上の述べたことから分かる通り、昔であるほど、人々は、容易に活力を高め、愉快に生活することが出来たのだ。
なぜなら、昔の人間は、本質的に熱狂的であったのだ。
その頃の人間は、神を信じ、妖精を当たり前に見ることが出来、幽霊を恐れながらもそれについて楽しく語り合い、死後の世界について明確なビジョンを持っていた。
とても夢想的で幼いと言えるが、陰鬱とは無縁で、いつまでも青春を生き、そして、死をさして恐れていなかった。
だが、それが、時代が経つにつれ、だんだんと現在のようになり、人々の活力は無くなり、すぐに疲れ、それと共に、過激で背徳的な刺激を求めるようになってしまった。
それはなぜかというと、人間は、目に見えるものしか存在しないという幻想に取り付かれたからだ。
今の時代、神や天使、あるいは、妖精が存在すると言ったら、たとえ冗談めかしていても、もう、楽しいやつだとか、純粋な人だと思われることもなく、ただ、幼稚な馬鹿だと見下されるだけなのである。
そんな時代、人々が生命力に枯渇するのは当たり前のことなのである。
人々の楽しみは、感覚的な快楽だけとなった。なぜなら、そんな楽しみしか存在しないと思い込んでいるからだ。
美味しいものを必要をはるかに超えて食べ、それで肥満するか、不健康な手段で痩せ、いずれにしても、身体や心を損なってしまう。
美しい異性は全て性欲の対象とし、また、スポーツも、それを純粋に楽しむことはなく、そこに利益や身勝手な幻想を結び付けなければ楽しめないのである。

H.G.ウェルズの『世界はこうなる』(1933)という、2016年の世界を描いた小説を、ウェルズが自ら脚本して映画化された『来るべき世界』(1935)では、苦しい世界戦争を越えて科学文明の極みに達した人類が、「このまま進むか、元に戻るか」という岐路に立たされる。
だが、我々は、素朴だった太古の昔に戻ることは出来ない。
そんなことを目指す人々は、昔から、そして、今でもいるのだが、それは非現実的だ。なぜなら、現在の人類の魂は、太古の昔の人間のそれとは全く異なるからだ。
今、太古の昔に戻れると思っているような人は、それこそ、神や天使を信じていないのだ。
なぜなら、神や天使の働きについて知っているなら、人類を現在のように変えていったのも、神や天使だと実際に知っているからである。

だが、現在は、人類は、ますます唯物主義に陥り、人々は人工的で喜びのない人生を強いられるようになっており、これは神の望むことはでない。
それに対抗するために、ただ我々は幼くなり、熱狂したって駄目なのである。
いったい何が、人類をこれほどまでに、地上に縛りつけ、物質的なものばかりに価値を置くようになったかを洞察し、そうなるように仕組み、さらにますますそうなるように力を注ぎ続ける者に打ち勝たねばならないのである。
そして、その敵は人間であるとは限らず、恐るべき霊的存在かもしれない。しかし、我々だって、本質においては霊的存在であり、その気になれば、負けるはずがないのである。
そのためには、我々に強固にとりついた幻想を破壊しなければならない。
その幻想は、感覚的快楽だけが人生の楽しみであると我々に疑うことなく信じさせている。
私が、1日1食の菜食をしていると、「人生は美味しいものを沢山食べて楽しむためにあるのだ」と言って私を見下す者は多いが、彼らに反撃することなく、しかし、それを受け入れないことだ。
そして、権威を盲目的に信じ、国家や政治や大企業が何でも与えてくれると思い込ませている幻想に対しては、敢えて、その基礎になっている現代科学やテクノロジを、幻想として理解することで、その幻想を容易に壊せるのである。ただ否定し、背を向けるだけでは駄目なのである。









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叶うはずのない敵にどう対するか

イギリスの作家H.G.ウェルズの『宇宙戦争』は、1953年に映画化されているが、2005年には、これを原作とする3つの映画作品が公開された。非常に珍しいことである。
私は、2005年のものは、スピルバーグ作品だけ一度観たが、1953年の作品は何度も観た。
1953年の作品は、特撮の方も、スピルバーグ作品には劣るかもしれないが、素晴らしいものだ。
原作は1898年に発表されたものだから、百年以上前のものである。
火星人の侵略を受け、地球人類は必死の反撃を試みるが、戦車に立ち向かうカマリキのごとしで、かすり傷一つ与えることも出来なかった。
しかし、火星人は、地球のウイルスに倒されるのである。

地球人になす術もなく、火星の宇宙船が地球の都市を壊滅させていく中、人々は教会に集まって祈っていた。
祈っていたと言っても、神に救いを求めたのではなく、諦めていたのだろう。
その時、偶然に、地球のウイルスが火星人に感染し、免疫のない火星人はあっという間に死亡する。
あらゆる小説、映画、アニメ、あるいは、詩や俳句や音楽でも、全ての作品は、人の心の中から始まるが、それは個人的な想像ではなく、深いところにある英知から来るものを、何らかの形で表現したものだ。表現する段階で、作者の特性が混じり、場合によっては、元の姿とは全く異なるものに変質することが多い。
フランス国歌『ラ・マルセイエーズ』を作詞・作曲したのは、プロの音楽家ではなく、音楽が趣味の職業軍人だったが、深いところからものを、自我のフィルターをかけずに表現したので、一夜で、この世界的名曲を生み出したのだ。これを、天啓とか言うのだろう。
『宇宙戦争』の小説や、それをかなり忠実に描いた1953年の映画も、そんな天啓のようなもので創られたに違いない。

火星人がウイルスで滅ぶことが分かっていれば、無駄な抵抗をせずに待っていれば良かったと思うこともあるだろう。
だが、人によっては、「いや、最善を尽くしたからこそ、万策が尽きた時に初めて神が助けたのだ」と言うかもしれない。
実際、この映画の最後のナレーションも、「万策尽きた時に、奇跡が起こった」であった。しかし、別に、「万策を尽くしたから」とは言っていない。
昔、『虐殺の橋』という映画があった。ある村を占領した敵国の軍隊が、村人に、村からの逃亡を禁じた。村から出るには、ある橋を渡るしかなかったが、村人は、一定時間ごとに、誰かが橋を渡って行き、その都度、射殺され、橋の上には死体が増えていく。最後に、兵隊達に集団レイプされた少女と、その恋人の男が橋を渡った時、遂に、占領軍は屈服する。
『宇宙戦争』だって、地球人が、運命を受け入れて沈黙していれば、火星人は何も出来なかったかもしれない。
まあ、このあたりは意見が分かれるだろうが。
ただ、いずれにしても、人類、特に、アメリカは、最初から諦めるという選択は決してしなかっただろう。
そして、人間個々についても、打ちのめされるまでは諦めないものなのだ。
人間は、経験を積むにつれて、結局のところ、自分には何の力もなく、どんな状況も自分がコントロールすることは、実際は全く無いということを認識するかもしれない。それが悟りなのであるが、死ぬまでにそこに到達する者は少ない。
イエスは、それを早めてあげようと、「身体を殺せるものを恐れるな。魂を殺せるものを恐れよ」と教えたのだ。
アセンション(次元上昇)後の世界では、自我が残っていれば、速やかに完膚なきまでに打ちのめされるだろう。それは、形の上では、強大な敵が襲い来て滅ぼされることだ。
だが、沈黙し、静寂の中に居る術を身に付けた人間が傷付くことは全くない。それは、老子にも書かれている通りである。









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気晴らしは必要か

人間に気晴らしが必要かというと、私は必要ないと思っている。
H.G.ウェルズの『堀についたドア』というお話は、あるエリート政治家が、幼い頃に偶然に迷い込んだ不思議な異世界に一生憧れ続けるが、再び訪れることが叶わないまま死んでしまうというお話だ。彼は、世間的には羨望される身分でありながら、いつも惨めで、日に日に活力を失い、安らぎを求めていたのだろう。
『堀についたドア』の向こうにある世界は、全てが調和した美と静寂の理想世界だ。
一度、そこに入れば、世間の気晴らしなど、何の意味もないことが分かるだろう。
そして、人間は、そんな世界に入ることが出来る。
そして、どうすればそこに入れるかではなく、どうして入れないのかと考えた方が良いのだ。
『堀についたドア』の、その、子供の頃からずっと優秀だった男は、なぜ、幼い頃に入れたその世界に、二度と入れなかったのだろう?
実は、彼にはチャンスが何度もあったのに、自ら、それを潰してしまったのだ。
我々も同様である。
だが、その入り口を自分で逃した後で、それを忘れてしまうのだ。自分には、そんなチャンスはなかったと思いたがるのだ。
それよりも、もっと大事なものがあると思い込んでいるからだ。
その世界に出入りする者は、本を読んでも、音楽を聴いても、身体を鍛えても、修行をしても、無目的だ。
それが、その世界に近付く者が持つべき性質なのである。









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運命すら跪かせるものとは

H.G.ウェルズの『宇宙戦争』は、1898年の小説だが、1953年と2005年に、いずれも大作の映画が制作され、1953年のものすら、いまだ名作で通用する。いや、私は、2005年のスピルバーグ版より1953年のジョージ・バル制作作品の方が良いと思っている。
信じられないような話だが、2005年には、実に『宇宙戦争』の映画が他に2本制作されている。
原作では、火星人が地球を侵略に来るのだが、火星人の科学技術力は地球人のものと比較にならない高度なもので、地球人は何も出来ないまま滅ぼされようとしていた。
しかし、火星人は、地球の目に見えないウイルスによって倒される。
一見、単純なストーリーであるが、人類史に残るほどの作品になるのには意味がある。
1953年の映画作品はそうだが、2005年のスピルバーグの作品も、ウェルズの原作の意を表していた。
やはりウェルズのこの小説を元にしていると思われる、1996年の映画『インデペンデンスデイ』も、多少はそんなところを見せていたと思う。

力の差の有り過ぎる戦いというのは、意味深いものを感じさせることが多い。
平井和正の原作で、石森章太郎(後に石ノ森章太郎と改名)が漫画を描いた『幻魔大戦』に、それを実に良く表現したところがあった。
東丈(あずま じょう)という名の高校3年生は、地球では屈指の強力なエスパー(超能力者)だった。しかし、敵の幻魔の指揮官ジグともなると、あまりに力の差があり、1対1の戦いを挑んだ丈は、まるで相手にされないまま敗れる。ところが、全く歯ごたえのなかった戦いに不満をこぼしながら引き上げようとするジグを驚愕させることが起こり、ジグは滅ぼされる。ジグを倒したのは、丈の死んだ姉の残留思念だった。丈を深く愛していた姉の精神は、死んだ後も丈を守っていたのだった。
すぐに復活したジグであるが、「地球の超能力者ごときは物の数ではないが、我々幻魔にとっても、ああいうのは強敵なのだ」と言う。

おかしな感じがするかもしれないが、『宇宙戦争』で火星人を倒したウイルスと、『幻魔大戦』で、幻魔を倒した丈の姉の残留思念には、重要な共通点がある。
それが分かれば、いかなる敵にも勝てる。
我々にとって、それを敵というなら、絶対に勝てない相手は運命である。
我々の運命は、生まれる前から、人生のあらゆる瞬間において絶対的に確定されており、決して変えることは出来ない。
我々と運命との力の差は、『宇宙戦争』の地球人と火星人どころではない。
だが、それすら、恐るべきものではなくなる。
運命は言うだろう。
「人間の力など無だ。しかし、人間がそれを知れば、我々はひれ伏すことになる」
それは何だろう?
こういうことだ。
丈の姉は、丈を守ろうとは思ったが、幻魔を敵とは思っていなかったのだ。
地球のウイルスもまた、火星人を敵と思っていた訳ではない。
もしあなたが、豪邸に住む願いを持ったとする。
しかし、運命はそうはなっておらず、あなたはボロ家に住み続ける。
ところが、あなたがそんな状況を、あるいは、一生そのままかもしれない運命を全く意に介さず、死ぬまででも平然とするならどうなるだろう?
もし、運命が敵であるなら、さぞや震え上がることだろう。









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竹島問題と、『マグマ大使』のアースとゴアの地球の所有権争い

日本と韓国が竹島を、日本と中国が尖閣諸島の領有権を主張し合っている。
ところで、手塚治虫さんの『マグマ大使』という、1965年に連載開始された作品の中に、これらの問題と似た印象深いお話がある。

『マグマ大使』というのは、簡単に説明すると、次のようなお話だ。
太古の昔、アースという名の神のような存在が地球を造った。そして、アースは地球の守護者として、2人のロケット人間の夫婦を創った。夫のマグマと妻のモルである。ロケット人間とは、ロケットと人間の両方の機能を持つ者で、普通は人間の姿をしているが、ロケットに変身して宇宙空間も飛べる。特にマグマは多くの戦闘能力を持っている。
ところが、マグマとモルは、マモルという名の人間の少年を見て非常に好きになり、自分達も子供が欲しいとアースにねだる。そこで、アースはマモルによく似た、ガムという名の子供のロケット人間を創り、マモルとガムは親しくなる。
だが、アースと同等の存在であるゴアという名の、やはり神のような者が、美しい地球を見て、どうしても欲しくなり、力ずくで奪おうとして策略を巡らし、マグマはゴアの配下の宇宙怪獣と戦う等、果てしない争いが繰り広げられる。
その中で、ついに、アースはゴアにこんな申し出をする。
「地球が誰のものか、カオス様に決めてもらおうじゃないか」
ゴアはぎくりとする。カオスとは、宇宙創造神であり、アースやゴアとも比較にならない存在である絶対神であったからだ。
しかし、ゴアはアースの申し出を受けた。
そして、いよいよ、カオスの前にアースとゴアが並ぶ。
アースは、自分が地球を造り、大切に育んだこと。それをゴアが謀略によって強奪しようとしていることをカオスに訴えた。
「ゴアよ、お前に言い分はあるか?」
とカオスに尋ねられたゴアは、
「大ありです。私とて、アースが地球を造ったことくらい知っています。しかし、だからといって、地球はアースのものでしょうか?」
と疑問を提示し、アースを慌てさせる。
そして、ゴアはたとえ話をする。
「二人の子供が砂場で遊んでいて、一人の子供が砂の城を作ったとします。作った子供は、『この城は僕のものだ』と主張します。しかし砂はみんなのものではないのですか?地球だってアース一人のものじゃありません」

カオスが出した結論は面白いものだった。
「ゴアが正しい。地球はアースのものではない」
文句を言うアースに対し、カオスは、「宇宙にある原子は全て私のものではないのか?」と言い、アースは黙るしかない。
喜ぶゴアにも、カオスは、「だが、地球はお前のものでもないぞ」と戒める。
なおも争うアースとゴアに、カオスは、「こんなちっぽけな星のことでいつまでも争うなら、地球を無に帰してやる」と言うと、二人は慌て、「それだけはご勘弁を」とカオスに乞うた。二人とも地球を愛することでは同じだった。
そこでカオスは、「では、力で決めよ。アースの配下のマグマと、ゴアの配下のガロンが戦って、勝った方が地球を治めよ」と言い渡した。

日本と韓国の竹島問題のようではないかと思う。
日本政府は、「竹島は日本固有の領土であり、それを主張していく」と言うが、竹島が日本の領土であるという根拠を示すことはない。それは韓国政府も同じだ。
私も少し調べたが、竹島が日本の領土であると断言する理由は、おそらく無い。だからといって、韓国の領土であるというのはかなり無理がある。
カオスは、アースとゴアに「力で決めよ」と言ったが、二人が直接戦えとは言わなかった。
では、日本と韓国も、お互い得意なサッカーの試合ででも決めたらどうだろう?正しい方に、神が味方してくれるさ。(無論、冗談であるが)
H.G.ウェルズが述べたように、世界政府というものでも出来ない限り、こんな問題は解決がとても難しい。いや、世界政府が出来たところで難しいほどだ。
そもそも、地球のいかなる場所も、誰のものでもない。
だから、その地の人間や生物、自然、環境などに対し、より多くの貢献をした者を一応の統治者とするしかない。
例えば、日本が、アメリカのフロリダ州を日本の領土だと主張するのも勝手ではあると思うが、フロリダ州に対しては、日本政府よりアメリカ政府の方がはるかに多くの良いことをしているのだから、この場合の日本の主張は退けられるだろう。
では、福島に対してはどうだろう?もし、他の国が、日本政府以上に、福島の人々や動植物を健やかに、幸福にし、その地の自然を浄化し豊かにするなら、それをした国が統治をすれば良い。無論、日本政府は、これまで、福島に対し、良いこともしただろうが、原発事故や、その原因となった大震災の対応で、必ずしも統治者としての責任を果たしているとは言えないことから、他国がやれるなら、日本国に所有を主張する権利はないだろう。
これらも1つの考え方でしかないが、現在の、日本、韓国、中国の主張では、問題はいつまでたっても解決しないであろう。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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