子供というものは、他愛もない単純な遊びを飽きもせず、呆れるほどいつまでも繰り返すものだった。
しかし、今は、そうでない子供が圧倒的に多くなった。すぐに退屈し、また、簡素な遊び方に満足せず、贅沢な楽しみ方を求めるようになっているのだ。
数千年の昔は、大人だって、ただ野原に座り、暮れていく空を見上げて夕陽を眺め、やがて、星が瞬き出すのを見ているだけで、心は喜びに溢れ、人生に満足していた。
確かにそうであったことが、遠い昔に思いを馳せてみると、不思議にありありと思い浮かぶのである。
時代が多少下っても、農民達は仕事の後、皆で歌って踊っていれば楽しく、それで明日の活力を持てたし、国家が構築され、軍隊や宗教が発達し、庶民の暮らしに暗鬱なものが増えてきても、勇猛な祭りを行うことで、それを補うことが出来た。
岡本太郎は、フランスの大学で哲学や民俗学を専攻したのだが、研究や思索の結果であり、また、彼の天才的な直感的洞察によるのだと思うが、祭りの目的とは、生命エネルギーの補充なのであると断定していた。
ある精神分析学者も、フロイト精神分析学により、祭りは、無意識の中にある生命体であるエスを解放するためのものであり、それによって生命エネルギーを増大させることが出来るのだといったことを述べていたと思う。
だが、今の時代の祭りに、そんな力があるとは思えない。
それは、今の子供が、かつてのように単純な遊びに夢中になれないことと同じである。
上の述べたことから分かる通り、昔であるほど、人々は、容易に活力を高め、愉快に生活することが出来たのだ。
なぜなら、昔の人間は、本質的に熱狂的であったのだ。
その頃の人間は、神を信じ、妖精を当たり前に見ることが出来、幽霊を恐れながらもそれについて楽しく語り合い、死後の世界について明確なビジョンを持っていた。
とても夢想的で幼いと言えるが、陰鬱とは無縁で、いつまでも青春を生き、そして、死をさして恐れていなかった。
だが、それが、時代が経つにつれ、だんだんと現在のようになり、人々の活力は無くなり、すぐに疲れ、それと共に、過激で背徳的な刺激を求めるようになってしまった。
それはなぜかというと、人間は、目に見えるものしか存在しないという幻想に取り付かれたからだ。
今の時代、神や天使、あるいは、妖精が存在すると言ったら、たとえ冗談めかしていても、もう、楽しいやつだとか、純粋な人だと思われることもなく、ただ、幼稚な馬鹿だと見下されるだけなのである。
そんな時代、人々が生命力に枯渇するのは当たり前のことなのである。
人々の楽しみは、感覚的な快楽だけとなった。なぜなら、そんな楽しみしか存在しないと思い込んでいるからだ。
美味しいものを必要をはるかに超えて食べ、それで肥満するか、不健康な手段で痩せ、いずれにしても、身体や心を損なってしまう。
美しい異性は全て性欲の対象とし、また、スポーツも、それを純粋に楽しむことはなく、そこに利益や身勝手な幻想を結び付けなければ楽しめないのである。
H.G.ウェルズの『世界はこうなる』(1933)という、2016年の世界を描いた小説を、ウェルズが自ら脚本して映画化された『来るべき世界』(1935)では、苦しい世界戦争を越えて科学文明の極みに達した人類が、「このまま進むか、元に戻るか」という岐路に立たされる。
だが、我々は、素朴だった太古の昔に戻ることは出来ない。
そんなことを目指す人々は、昔から、そして、今でもいるのだが、それは非現実的だ。なぜなら、現在の人類の魂は、太古の昔の人間のそれとは全く異なるからだ。
今、太古の昔に戻れると思っているような人は、それこそ、神や天使を信じていないのだ。
なぜなら、神や天使の働きについて知っているなら、人類を現在のように変えていったのも、神や天使だと実際に知っているからである。
だが、現在は、人類は、ますます唯物主義に陥り、人々は人工的で喜びのない人生を強いられるようになっており、これは神の望むことはでない。
それに対抗するために、ただ我々は幼くなり、熱狂したって駄目なのである。
いったい何が、人類をこれほどまでに、地上に縛りつけ、物質的なものばかりに価値を置くようになったかを洞察し、そうなるように仕組み、さらにますますそうなるように力を注ぎ続ける者に打ち勝たねばならないのである。
そして、その敵は人間であるとは限らず、恐るべき霊的存在かもしれない。しかし、我々だって、本質においては霊的存在であり、その気になれば、負けるはずがないのである。
そのためには、我々に強固にとりついた幻想を破壊しなければならない。
その幻想は、感覚的快楽だけが人生の楽しみであると我々に疑うことなく信じさせている。
私が、1日1食の菜食をしていると、「人生は美味しいものを沢山食べて楽しむためにあるのだ」と言って私を見下す者は多いが、彼らに反撃することなく、しかし、それを受け入れないことだ。
そして、権威を盲目的に信じ、国家や政治や大企業が何でも与えてくれると思い込ませている幻想に対しては、敢えて、その基礎になっている現代科学やテクノロジを、幻想として理解することで、その幻想を容易に壊せるのである。ただ否定し、背を向けるだけでは駄目なのである。
↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
しかし、今は、そうでない子供が圧倒的に多くなった。すぐに退屈し、また、簡素な遊び方に満足せず、贅沢な楽しみ方を求めるようになっているのだ。
数千年の昔は、大人だって、ただ野原に座り、暮れていく空を見上げて夕陽を眺め、やがて、星が瞬き出すのを見ているだけで、心は喜びに溢れ、人生に満足していた。
確かにそうであったことが、遠い昔に思いを馳せてみると、不思議にありありと思い浮かぶのである。
時代が多少下っても、農民達は仕事の後、皆で歌って踊っていれば楽しく、それで明日の活力を持てたし、国家が構築され、軍隊や宗教が発達し、庶民の暮らしに暗鬱なものが増えてきても、勇猛な祭りを行うことで、それを補うことが出来た。
岡本太郎は、フランスの大学で哲学や民俗学を専攻したのだが、研究や思索の結果であり、また、彼の天才的な直感的洞察によるのだと思うが、祭りの目的とは、生命エネルギーの補充なのであると断定していた。
ある精神分析学者も、フロイト精神分析学により、祭りは、無意識の中にある生命体であるエスを解放するためのものであり、それによって生命エネルギーを増大させることが出来るのだといったことを述べていたと思う。
だが、今の時代の祭りに、そんな力があるとは思えない。
それは、今の子供が、かつてのように単純な遊びに夢中になれないことと同じである。
上の述べたことから分かる通り、昔であるほど、人々は、容易に活力を高め、愉快に生活することが出来たのだ。
なぜなら、昔の人間は、本質的に熱狂的であったのだ。
その頃の人間は、神を信じ、妖精を当たり前に見ることが出来、幽霊を恐れながらもそれについて楽しく語り合い、死後の世界について明確なビジョンを持っていた。
とても夢想的で幼いと言えるが、陰鬱とは無縁で、いつまでも青春を生き、そして、死をさして恐れていなかった。
だが、それが、時代が経つにつれ、だんだんと現在のようになり、人々の活力は無くなり、すぐに疲れ、それと共に、過激で背徳的な刺激を求めるようになってしまった。
それはなぜかというと、人間は、目に見えるものしか存在しないという幻想に取り付かれたからだ。
今の時代、神や天使、あるいは、妖精が存在すると言ったら、たとえ冗談めかしていても、もう、楽しいやつだとか、純粋な人だと思われることもなく、ただ、幼稚な馬鹿だと見下されるだけなのである。
そんな時代、人々が生命力に枯渇するのは当たり前のことなのである。
人々の楽しみは、感覚的な快楽だけとなった。なぜなら、そんな楽しみしか存在しないと思い込んでいるからだ。
美味しいものを必要をはるかに超えて食べ、それで肥満するか、不健康な手段で痩せ、いずれにしても、身体や心を損なってしまう。
美しい異性は全て性欲の対象とし、また、スポーツも、それを純粋に楽しむことはなく、そこに利益や身勝手な幻想を結び付けなければ楽しめないのである。
H.G.ウェルズの『世界はこうなる』(1933)という、2016年の世界を描いた小説を、ウェルズが自ら脚本して映画化された『来るべき世界』(1935)では、苦しい世界戦争を越えて科学文明の極みに達した人類が、「このまま進むか、元に戻るか」という岐路に立たされる。
だが、我々は、素朴だった太古の昔に戻ることは出来ない。
そんなことを目指す人々は、昔から、そして、今でもいるのだが、それは非現実的だ。なぜなら、現在の人類の魂は、太古の昔の人間のそれとは全く異なるからだ。
今、太古の昔に戻れると思っているような人は、それこそ、神や天使を信じていないのだ。
なぜなら、神や天使の働きについて知っているなら、人類を現在のように変えていったのも、神や天使だと実際に知っているからである。
だが、現在は、人類は、ますます唯物主義に陥り、人々は人工的で喜びのない人生を強いられるようになっており、これは神の望むことはでない。
それに対抗するために、ただ我々は幼くなり、熱狂したって駄目なのである。
いったい何が、人類をこれほどまでに、地上に縛りつけ、物質的なものばかりに価値を置くようになったかを洞察し、そうなるように仕組み、さらにますますそうなるように力を注ぎ続ける者に打ち勝たねばならないのである。
そして、その敵は人間であるとは限らず、恐るべき霊的存在かもしれない。しかし、我々だって、本質においては霊的存在であり、その気になれば、負けるはずがないのである。
そのためには、我々に強固にとりついた幻想を破壊しなければならない。
その幻想は、感覚的快楽だけが人生の楽しみであると我々に疑うことなく信じさせている。
私が、1日1食の菜食をしていると、「人生は美味しいものを沢山食べて楽しむためにあるのだ」と言って私を見下す者は多いが、彼らに反撃することなく、しかし、それを受け入れないことだ。
そして、権威を盲目的に信じ、国家や政治や大企業が何でも与えてくれると思い込ませている幻想に対しては、敢えて、その基礎になっている現代科学やテクノロジを、幻想として理解することで、その幻想を容易に壊せるのである。ただ否定し、背を向けるだけでは駄目なのである。
↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。