面白い質問があったので、それについて書きたくなった。
諦観(ていかん)と受容の違いだ。
これはとても重要なことで、我々がこれからも長く苦しむか、すみやかに平和を得られるかの違いになるかもしれない。
諦観とは、「本質を見極めること」という意味と「諦め、悟ること」という意味だ。
受容とは、「受け入れて取り込むこと」と辞書にある。
一見似ているが、実はかなり異なり、しかも、その違いは重要だ。
諦観には、やはり、諦める、断念するの意味がある。「諦めて観れば、ものごとの本質が分かり、そして悟れる」ということなのだろう。
ところが、受容というのは、いかなる思慮や意志も含まれない。
私は、受容は良いが、諦観はしてはならないと思う。
いや、実際は、誰も諦観など出来ないに違いない。
確かに、本当に諦めることができれば、真実が分かり、悟りが開けるかもしれない。
しかし、あなた、諦めることが出来ますか?
欲を捨てられますか?
例えば、あなたが若い男で、素晴らしい美少女がいて、ものすごく好きになったとする。
しかし、とんでもないライバルが登場する。そのライバルは凄いイケメンでスタイル抜群で、家は大金持ちで、彼自身、才能豊かで前途洋々たる若者だ。そして、その美少女の存在がなければ、好きになってしまいそうな好漢でもある。
方や、自分は、顔もスタイルも平凡以下で、親も自分も中小企業の安サラリーマンで、先は知れている。人間性が悪いのか、友達も少ない。
こんな状況で、諦観して、身を引くことが出来るだろうか?
そんなことは出来はしないはずだ。
出来もしないことをしようとしてはならない。
人間は、「諦めようとしても諦めきれない」のだ。
演歌ってのは、そんな心情を歌ったものだ。若い間は自惚れが強く、諦める必要がないと思っているから、あまり演歌が好きでないが、少し歳を取り、現実が分かってくると、本当は諦観した方が良いとは思うが、やはり諦め切れないので、そんな心情を込めた演歌が好きになるのだ。
しみったれた歌だと思いつつ、酒が入ると歌わずにはいられない。
だが、演歌が流行らなくなったのは、多分、いい歳をした人々までが自惚れが強くなっているのだろう。
では、上の、美少女を巡る強力なライバル(相手はライバルとも思っていないかもしれないが)との関係で、受容するとはどういうことだろうか?
諦めない気持ち、断念できない気持ちはそのままで良い。良くなくても、彼女を得たいという思いを放棄できない。
ただ、結果を自分でコントロールできないということを認めるのだ。
実際、我々は、状況に対し、いかなる支配力も及ぼせない。
イエスは、「あなたは1本の髪すら、黒くも白くもできない」と言ったが、その通りである。
だが、イエスは意地悪なことも言っている。「山に向かって海に入れと言い、その通りになると信じて疑わないならそうなる」と。その通りかもしれない。しかし、あなたは、決してそんなことは信じられない。
我々は、奇跡的な勝利を得るかもしれない。思いがけない成果を得るかもしれない。
しかし、何が起こるかは全く分からないのだ。
その事実を受け入れることを受容と言うのである。
金持ちになりたいが、自分には特技も人脈もなく、資金のあてもない。
そこで、過ぎた望みは持たないことにしようと思い、諦めたつもりになって悟り済ました顔をすることを諦観と言うのだろうか?
しかし、そんな者の心には不満や、上手くいっている者に対する妬みが生まれやすいものだ。
一方、諦めるつもりはなく、実際に、目標に向かって大変な努力をしていても、結果がどうなるかは神のみぞ知るということを、はっきりと受け入れていることを受容という。
ただし、諦観しようが、受容しようが、あるいは、どちらでもなく、「俺は絶対に夢を叶えるという積極思考でがんばるぞ」と決意したとしても、結果は何も変わらない。
実際、「諦めた時に状況が変わり、奇跡的に夢が叶った。なるほど、欲を捨てた時に叶うのだ」と思い、それを本に書いた人もいる。
しかし、諦めようが、諦めまいが、彼は成功したのだ。最初から成功する宿命にあったのだ。
H.G.ウェルズ原作の1953年の映画、『宇宙戦争』では、火星人は地球侵略を行うが、その圧倒的な科学技術力の差により、地球人類は全く太刀打ちできない。
しかし、火星人は地球のウイルスに感染して滅んだ。
映画の最後で、「万策尽きた時、奇跡が起こった。賢い神の創った小さな生命が地球を救った」とナレーションがある。
「賢い神の」の言葉に乗せられ、「万策を尽くしたから奇跡が起こったのだ。何事もそうやってこそ素晴らしい成果を得るのだ」と言う者がいるだろう(実は、私が旧ブログでそう書いていた)。
しかし、よく考えたら、地球人は必死で抵抗しなくても、のんびり待っていたって、火星人はウイルスでやられたはずだということが分かる。
もし、「賢い神」を信じるなら、全てを神に任せるしかない。
イエスは、雀一羽、神の意思によらずして落ちることはないと言った。
それを完全に受容するしかない。
我々が、神に祈ろうが、奮闘しようが、犠牲を捧げようが、健気で美しい決意をしようが、結果は何も変わらない。
アンデルセンは、「人はどんな高いところでも登ることができる。しかし、それには決意と自信がなけばならぬ」と言ったらしい。
美しい言葉だ。
しかし、アンデルセンは、決意も自信も、神の意思によらずして起こることはないことまでは教えてくれなかった。彼も知らなかったのだろう。
アンデルセンが成功したのは、それが神の意思であったからだ。なぜ神がそんな意思を持ったかは誰にも分からない。だから、我々の感覚からいえば、たまたま、あるいは、偶然なのである。しかし、実際は、やはり神の意思だったのだ。
ところで、諦観と受容は、どちらが難しいだろう?
答はこうだ。
諦観が出来る可能性はゼロだ。
だが、受容は、神の意思があれば出来る。
自我は決して諦めることはない。諦めないのだ自我の機能だ。
我々が「諦めた」と言う時は、既に目標が消えているのだ。
あなたは、土星に行こうとはあまり思わないだろう。それをしないことを諦めるとは言わないのだ。
親が子供に、「東大を諦めるな」と言ったところで、子供の方は東大に入りたいなどと全く思っていないかもしれない。すると変なことになるのだが、学校というのは、大体がそんなところなのだ。
受容とは、単に、「分からない」と認めることだ。
コインを投げ、「表よ出ろ」と念じ、思い通りにならないことを嫌と言うほど思い知ればいいだろう。つまり、表が出るか裏が出るかは、全く「分からない」のだ。
そして、諦めることの出来ない自我も、同時に認め、受け入れる(受容する)のだ。
きっと、最強の呪文は、God knowsだろう。別に、日本語で「神のみぞ知る」で良い。
言い換えれば、「なりゆきにまかせろ」「自分には何もコントロールできない」「あるがまま」だ。
ある者は、神の意図が知りたくて、神を探しに行った。そうしたら…神になって帰ってきたのだ。ただし、それが神の意思だったからだ。
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諦観(ていかん)と受容の違いだ。
これはとても重要なことで、我々がこれからも長く苦しむか、すみやかに平和を得られるかの違いになるかもしれない。
諦観とは、「本質を見極めること」という意味と「諦め、悟ること」という意味だ。
受容とは、「受け入れて取り込むこと」と辞書にある。
一見似ているが、実はかなり異なり、しかも、その違いは重要だ。
諦観には、やはり、諦める、断念するの意味がある。「諦めて観れば、ものごとの本質が分かり、そして悟れる」ということなのだろう。
ところが、受容というのは、いかなる思慮や意志も含まれない。
私は、受容は良いが、諦観はしてはならないと思う。
いや、実際は、誰も諦観など出来ないに違いない。
確かに、本当に諦めることができれば、真実が分かり、悟りが開けるかもしれない。
しかし、あなた、諦めることが出来ますか?
欲を捨てられますか?
例えば、あなたが若い男で、素晴らしい美少女がいて、ものすごく好きになったとする。
しかし、とんでもないライバルが登場する。そのライバルは凄いイケメンでスタイル抜群で、家は大金持ちで、彼自身、才能豊かで前途洋々たる若者だ。そして、その美少女の存在がなければ、好きになってしまいそうな好漢でもある。
方や、自分は、顔もスタイルも平凡以下で、親も自分も中小企業の安サラリーマンで、先は知れている。人間性が悪いのか、友達も少ない。
こんな状況で、諦観して、身を引くことが出来るだろうか?
そんなことは出来はしないはずだ。
出来もしないことをしようとしてはならない。
人間は、「諦めようとしても諦めきれない」のだ。
演歌ってのは、そんな心情を歌ったものだ。若い間は自惚れが強く、諦める必要がないと思っているから、あまり演歌が好きでないが、少し歳を取り、現実が分かってくると、本当は諦観した方が良いとは思うが、やはり諦め切れないので、そんな心情を込めた演歌が好きになるのだ。
しみったれた歌だと思いつつ、酒が入ると歌わずにはいられない。
だが、演歌が流行らなくなったのは、多分、いい歳をした人々までが自惚れが強くなっているのだろう。
では、上の、美少女を巡る強力なライバル(相手はライバルとも思っていないかもしれないが)との関係で、受容するとはどういうことだろうか?
諦めない気持ち、断念できない気持ちはそのままで良い。良くなくても、彼女を得たいという思いを放棄できない。
ただ、結果を自分でコントロールできないということを認めるのだ。
実際、我々は、状況に対し、いかなる支配力も及ぼせない。
イエスは、「あなたは1本の髪すら、黒くも白くもできない」と言ったが、その通りである。
だが、イエスは意地悪なことも言っている。「山に向かって海に入れと言い、その通りになると信じて疑わないならそうなる」と。その通りかもしれない。しかし、あなたは、決してそんなことは信じられない。
我々は、奇跡的な勝利を得るかもしれない。思いがけない成果を得るかもしれない。
しかし、何が起こるかは全く分からないのだ。
その事実を受け入れることを受容と言うのである。
金持ちになりたいが、自分には特技も人脈もなく、資金のあてもない。
そこで、過ぎた望みは持たないことにしようと思い、諦めたつもりになって悟り済ました顔をすることを諦観と言うのだろうか?
しかし、そんな者の心には不満や、上手くいっている者に対する妬みが生まれやすいものだ。
一方、諦めるつもりはなく、実際に、目標に向かって大変な努力をしていても、結果がどうなるかは神のみぞ知るということを、はっきりと受け入れていることを受容という。
ただし、諦観しようが、受容しようが、あるいは、どちらでもなく、「俺は絶対に夢を叶えるという積極思考でがんばるぞ」と決意したとしても、結果は何も変わらない。
実際、「諦めた時に状況が変わり、奇跡的に夢が叶った。なるほど、欲を捨てた時に叶うのだ」と思い、それを本に書いた人もいる。
しかし、諦めようが、諦めまいが、彼は成功したのだ。最初から成功する宿命にあったのだ。
H.G.ウェルズ原作の1953年の映画、『宇宙戦争』では、火星人は地球侵略を行うが、その圧倒的な科学技術力の差により、地球人類は全く太刀打ちできない。
しかし、火星人は地球のウイルスに感染して滅んだ。
映画の最後で、「万策尽きた時、奇跡が起こった。賢い神の創った小さな生命が地球を救った」とナレーションがある。
「賢い神の」の言葉に乗せられ、「万策を尽くしたから奇跡が起こったのだ。何事もそうやってこそ素晴らしい成果を得るのだ」と言う者がいるだろう(実は、私が旧ブログでそう書いていた)。
しかし、よく考えたら、地球人は必死で抵抗しなくても、のんびり待っていたって、火星人はウイルスでやられたはずだということが分かる。
もし、「賢い神」を信じるなら、全てを神に任せるしかない。
イエスは、雀一羽、神の意思によらずして落ちることはないと言った。
それを完全に受容するしかない。
我々が、神に祈ろうが、奮闘しようが、犠牲を捧げようが、健気で美しい決意をしようが、結果は何も変わらない。
アンデルセンは、「人はどんな高いところでも登ることができる。しかし、それには決意と自信がなけばならぬ」と言ったらしい。
美しい言葉だ。
しかし、アンデルセンは、決意も自信も、神の意思によらずして起こることはないことまでは教えてくれなかった。彼も知らなかったのだろう。
アンデルセンが成功したのは、それが神の意思であったからだ。なぜ神がそんな意思を持ったかは誰にも分からない。だから、我々の感覚からいえば、たまたま、あるいは、偶然なのである。しかし、実際は、やはり神の意思だったのだ。
ところで、諦観と受容は、どちらが難しいだろう?
答はこうだ。
諦観が出来る可能性はゼロだ。
だが、受容は、神の意思があれば出来る。
自我は決して諦めることはない。諦めないのだ自我の機能だ。
我々が「諦めた」と言う時は、既に目標が消えているのだ。
あなたは、土星に行こうとはあまり思わないだろう。それをしないことを諦めるとは言わないのだ。
親が子供に、「東大を諦めるな」と言ったところで、子供の方は東大に入りたいなどと全く思っていないかもしれない。すると変なことになるのだが、学校というのは、大体がそんなところなのだ。
受容とは、単に、「分からない」と認めることだ。
コインを投げ、「表よ出ろ」と念じ、思い通りにならないことを嫌と言うほど思い知ればいいだろう。つまり、表が出るか裏が出るかは、全く「分からない」のだ。
そして、諦めることの出来ない自我も、同時に認め、受け入れる(受容する)のだ。
きっと、最強の呪文は、God knowsだろう。別に、日本語で「神のみぞ知る」で良い。
言い換えれば、「なりゆきにまかせろ」「自分には何もコントロールできない」「あるがまま」だ。
ある者は、神の意図が知りたくて、神を探しに行った。そうしたら…神になって帰ってきたのだ。ただし、それが神の意思だったからだ。
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