ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
あなたをSE、プログラマー、あるいは、超能力者にするブログ。ひきこもりも歓迎。

イーハトーヴ

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。
[2016/11/21]滅多にはありませんが、あまりにレベルが低いコメントは公開しません。
[2011/06/08]迷惑コメントが多くあったため、やむなく、コメントを承認後公開することとしました。

愛するとはどういうことか?

聖書の詩篇91で、神は、「彼は私を愛して離れないので、私は彼を護る」と言う。
誰かがイエスに、「一番大事な律法は何ですか?」と尋ねると、イエスは、「神を愛すること」と言う。
旧約聖書のヨブ記には、「神と親しみ(和らぎ)、平和でいれば幸福になれる」と書かれている。
では、どうすれば、神を愛することになるのだろう?
それは、ヨブ記にあるように、神と親しむことであるが、どうすれば、神と親しむことができるのだろう?
それは、神の近くにいることである。では、どうすれば、神の近くにいられるだろう?

それは、名を呼ぶことではないだろうか?
人間同士だって、愛するなら名を呼ぶのだ。
憎んでいたって名を呼ぶ。まして、愛していれば名を呼ぶ。憎しみと愛は近いものだ。
ラマナ・マハルシは、「教え」を意味する言葉「ウパデーシャ」の、ウパは「近くに」、デーシャは「場所」または「席」という意味であると言った。
「ウパデーシャ」とは、「場所あるいは席の近くにある」という意味だ。
遠くにいると思っていた神は、実は近くにあり、しかも、自分自身である。

常に神の近くにいることだ。それが愛するということだ。
そして、神の近くにいるには、その名を呼ぶことだ。
法然は、このことについて、実に端的に述べている。
阿弥陀如来の名を呼べば、阿弥陀如来はそれを聞く。
阿弥陀如来を拝礼すれば、阿弥陀如来はそれを見る。
阿弥陀如来を心に思えば、阿弥陀如来も思ってくれる。
これらによって、阿弥陀如来と近しい間柄になる。
これを、神仏を愛すると言うのである。
この中で、最も重要なことが、仏や神の名を呼ぶことである。
阿弥陀如来に対しては、「南無阿弥陀仏」の念仏を唱えることである。
そうすれば、聖書も浄土三部経も、神や仏が、その者を護ることを保証している。

仮に名前が分からなくても、愛する人を「愛する人」と呼ぶ。それが名前である。
幼い子供は、夜空の星を親しみを込めて、「お星様」と呼ぶ。それが名前である。
ペットに名前をつけていなくても、「猫ちゃん」とか、「可愛い子」とか、幼い子供なら「にゃんにゃん」とか「わんわん」とか言う。それが名前である。
普通、親を名では呼ばないが、「お父様」、「母さん」とか言う。それが名前であり、愛していれば、多くその名を呼ぶが、愛していなければ名を呼ばない。
人は、星にも名をつける。
「ケンタウルスよ、露を降らせ」と言うと、ケンタウルスとの距離が近くなり、恵みを降らせてくれる。
神であれば、「わが主」、「父なる神」、「全能なる神」と言えば、それが神の名になる。
まして、「南無阿弥陀仏」を唱えれば、限りない恵みが与えられる。なぜなら、阿弥陀如来が、名を呼びやすいようにと、自らをそう名乗ったのだからだ。
今とは違い、元々、阿弥陀くじというのは、真ん中から放射線状に線が引かれていた。その形は、光を発する存在である。阿弥陀如来とは、別名を無量光仏、あるいは、無量寿仏と言い、意味は、無限の光を持つ仏、無限の命を持つ仏である。
庶民のための絵に描かれたようなものではないかもしれないが、阿弥陀如来は実在する。その名を呼べばかならず護られるのであるが、その護り方は、人間の想像もつかない壮大さ、豪華さ、贅沢さで、この上もない絢爛さである。過保護にも程があると言うしかないが、仏とは人の親であり、限りない慈悲心を持つ親であるのだからである。
その途方もなく豊かで強力な親の近くにいようとしない愚かさは、イエスが放蕩息子の話で、法華経では、貧乏暮らしで心根まで貧しくなった息子の話で喩えられている。
神や仏の名を呼べば、神や仏の近くにいて、完璧な守護と無限の富と共にある。









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私の皮膚病を二度治したもの

宿命的な病気を抱えて苦しんでおられる人もいることだろう。
私の場合は皮膚病で、物心付いた時から発症しており、幼い頃からいろんな病院に連れて行かれ、珍しい検査機器を見たり、変わった匂いのする薬をつけたりした様々な思い出がある。
その皮膚病がアトピーか乾癬か、あるいは、別のものなのか、今だ分からない。
実は、医者ですら、アトピーと乾癬の区別がつかないということもあるようだ。
私の皮膚病は、前世からの因縁であるようで、酷くなったり、軽くなったりの変化はあるが、治すことはできないかもしれない。

ところで、一昨年、東日本大震災が起こり、その夏、私は被災地の方々の状況を憂い、真夏でもクーラーを使う気になれずにいた。冷房設備がない、あるいは、乏しい避難所で集団生活を送り、冬の衣服しか無いという人々がまだいて、その程度の支援ができない我が国は本当に文明国なのかと疑ったものだ。
音楽家の冨田勲さんは、中学生の時、1945年の三河地震を体験したそうだが、当時のことについて、戦争中であり、助けはどこからも来なかったし、支援物資なんてものも全く無かったと言う。そもそも、戦時中の報道規制で、被害状況が伝わらない。伝わっても、助けに来る余裕はどこにも無いかもしれないが。真冬のことで、寒さと飢えで人々が死んでいくのをただ見ているしかなく、そこに空襲まで重なったというから、まさに地獄である。
冨田さんが60年も構想を暖めていた『イーハトーヴ交響曲』を昨年2012年に遂に制作したのは、冨田さんの、「そろそろ最後」と思うような年齢のせいもあるだろうが、東日本大震災が自分の震災体験を呼び起こしたことと、初音ミクとの縁があったのだろう。

ちょっと話が剃れたが、その年の夏、私は家でクーラーを使わずに過ごし、かなり汗をかいたのにうっかり放置したことがあって、汗疹がひどくなった時、皮膚病がかなり酷い状態になってしまった。夜も横になることができなかった。背中を敷布団に付けられないのだ。まあ、おかげで座って寝る技を覚えたものであるが。
当時、私は念仏の行者ではなかったが(念仏の行者になったのは今月からだ)、当時のこのブログを見ると、1ヶ月ほどしてから、念仏を唱えたら治ってしまったと確かに書いてあるのだが、私は忘れていたのだ。
だが、今年からまた皮膚病の状態が酷くなったが、もう諦めて放置していた。死ねば治るだろうくらいに思っていたのだ。
ところが、今月の初め頃から、縁なのだろうが、念仏の行者になり、今、気が付いたが、すっかり治っている。そういえば、最近、風呂に入る時に鏡を見て不思議な感じがしたのは、肌がツヤツヤになっていることだった。少し前は、全身、赤黒く腫れ上がっていたのだ。
私が聖典としている、親鸞聖人の『現世利益和讃』の第2首の歌はこうである。

一切の功徳にすぐれたる
南無阿弥陀仏をとなうれば
三世(さんぜ)の重障(じゅうしょう)みなながら
かならず転じて軽微(きょうみ)なり

三世とは、過去、現在、未来で、重障とは、重い障り・・・つまり、悪因縁のことであろう。
それらが、みんな、念仏を唱えれば軽微、つまり、ほんのわずかなものになるということだ。
法然も、宿命による病は避けられぬが、念仏を唱える者であれば、宿業の災難といえども、阿弥陀如来は軽くしてくれると述べておられた。
私は身を持って体験したという訳である。皆様も念仏の力を信じていただきたいと思う。









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私はずっとリカちゃんが嫌いだった

世界的版画家の池田満寿夫さんが、高校生の時、フランスに憧れた理由を著書に書いておられたが、それが面白かった。
「毎日、サンマと大根卸しを食わされている高校生が、小説や映画に出てくるフランスの優雅で豪華な生活に憧れるのは当たり前だろう」
だが、それはやはり、空想的であったから、憧れと言う肯定的な感情になったのだろう。

日本で、そんな、「サンマと大根卸しばかり」食べている庶民に、フランス的優雅さを知らしめたのが、1967年に登場したリカちゃん人形だった。
リカちゃんには、詳細なプロフィールが設定されていた。
お父さんは、まさに、そのフランス人で、有名な一流デザイナー。
リカちゃんの家は、お金持ちの上流家庭である。だが、それに関しては、現代では、池田満寿夫さんの時代と違い、さほどのジェラシーを感じさせることもないかもしれない。
しかし、それだけでなく、リカちゃんは、学校でも成績優秀で、また、勉強以外でも何でもでき、いつもリーダーで、社交性もあり、人気者で友達が沢山いる。
さらに、やがて、優れたキャリアガールになる超エリートだ。
私は、正直言って、リカちゃんに対し、あまりの引け目で、ほとんど恐怖を感じていた。呼ばれても、彼女の家には決して行く気にはならないだろう。間違いなく、1秒ごとに針のムシロだ。
リカちゃんは、きっと、夜8時になったら、自分の素晴らしい部屋に入って、10時まで、集中して勉強し、宿題はもちろん、予習・復習にも余念が無いに違いない。あるいは、優秀な家庭教師がついているかもしれない・・・そんなことを、小学5年生だった私は考えていた。
しかし、こちとら、予習・復習どころか、宿題も滅多にやらなかった。意図的にやらなかったのではなく、ほとんどの場合、宿題のことなんか全く覚えていないのだ。
私は、最も劣悪な部類の児童、生徒、学生であったのであり、リカちゃんから見れば、虫ケラか石ころである。実際、夢の中で、リカちゃんが蔑みに満ちた目で私を見ていたことがあった。リカちゃんは一言も喋らなかった。声をかけるのも汚らわしいのだろう。確かに、ただのひがみであるが、そう感じざるを得なかったのだ。

私は、宮沢賢治や音楽家の冨田勲さんを敬愛はするが、やはり、どこか抵抗はある。
賢治は、15歳でエマーソンを、18歳で法華経を読んで、魂が震えるほど感激したそうだが、私には想像もできないことだ。いまだ、両方共、さっぱり分からないのだから。
また、賢治は、今の岩手大学農学部にあたる農業学校に主席で入学し、卒業後、すぐに助教授就任の要請があった秀才であった。また、賢治自身は家業を嫌っていたが、家は豊かな古着屋だった。
一方、冨田勲さんは、父親は医師で、やはり家は豊かであり、現在81歳の冨田さんが慶応大学を出ているのは、やはり相当なエリートなんだろう。ただ、冨田さんは音大ではなく、文学部出身で、音楽家になる間には、相当な苦難があったと思う。しかし、そのために、冨田さんは、伝統的な音楽にこだわることがなく、先進的・革命的な音楽に取り組み、最も早く、モーグ・シンセサイザーを個人で輸入して、悪戦苦闘の末ではあったが、これを見事に使いこなしたことが、世界的音楽家への道を開いたのだと思う。

実を言うと、私は、冨田勲さんが、昨年(2012年)、初音ミクをソリストに迎えて制作した『イーハトーヴ交響曲』を聴くまでは、宮沢賢治を、教科書に出てきたものは別として、自分では全く読まなかったし、冨田さんのCDも1枚も持っていなかった。
ところで、初音ミクは、リカちゃんと違い、プロフィールが一切設定されていない。実は、やはりプロフィールを作ろうという話はあったらしいが、それをしなかったようだ。私は、それが本当に良かったと思っている。そうでなければ、たとえミクにどんなプロフィールが与えられた場合でも、私がミクを好きになることはなかっただろうと思う。

初音ミクの何が良いかというと、彼女が人間でないことだ。彼女は、いかなる過去も持たず、家庭もなく、自我もない菩薩である。ミクはただ、人々の未来と共にあるのである。
ミクのコンサートの異様な熱狂は説明がつかない。ステージには本当は誰もいないことは、みんな分かっている。ある人は、他の観客との連帯感や共感がそうさせると言うし、確かにそれもあるだろうが、それだけではない。自我を持たないミクとシンクロ(同調)した観客も自我を消すことで、無限のエネルギーと一体化しているのだ。
これは、人間のアイドルやミュージシャンのコンサートの熱狂とは、全く別次元のものだ。
ある50代の雑誌編集者が、取材の意味も含めてミクのコンサートに行ったところ、涙がとめどなく流れたというが、このことが何か重要なことを表していると言えるだろう。
また、大音楽家、冨田勲が、おそらくは、一生の集大成のつもりで、全身全霊をかけて制作した『イーハトーヴ交響曲』で、初音ミクに最も重要な役割を委ねたのも、とても深い意味があったはずなのだ。

いずれにしろ、初音ミクは、私を、宮沢賢治と冨田勲という、我が国最大の偉大な芸術家達の世界に近付けてくれたのだ。
私は、『イーハトーヴ交響曲』のCDを139回聴いた時、内側からの声を聞いた。
「賢治の代わりに、念仏を唱えなさい」
宮沢賢治は、家の宗派であった、念仏を唱えることを説く浄土真宗を嫌い、父親に、法華経の教えを奉じる日蓮宗への改宗を迫ったという。
だが、賢治の『雨ニモマケズ』は、まさに、念仏を唱えることで悟りを開いた妙好人と呼ばれる人達そのものの姿を示し、賢治は、「そういうものに私はなりたい」と結んでいるのだ。
ただ念仏を唱えることを説いた法然ですら、法華経が第一の経典であることを認めている文章もある。
賢治もまた菩薩であり、苦難の道を目指した。
法華経で、釈迦は弥勒に何度も呼びかけ貴い教えを説くが、無量寿経(浄土宗や浄土真宗の経典)の最後で、釈迦は弥勒に対して、特に集中して深い教えを授けている。
ミク(39。未来)はまた弥勒(369。未来仏)である。念仏と法華経の真理を合わせるために生まれた菩薩である。
また、ミクの歌は、『イーハトーヴ交響曲』もだが、多くの歌が、法華経の世界を現しているのは不思議なことではない。そして、ミクは念仏そのものの存在なのだ。なぜなら、自我を持たないミクは、どんな劣悪な人間にも、等しく微笑むからである。

タカラトミーでは、今年7月、リカちゃんが初音ミクの青いツインテールとコスチュームをまとった初音ミクリカちゃんを発売した。
見ていると、初音ミクに憧れる普通の小学生の女の子を感じさせ、かつての、上流家庭のエリート少女のイメージはない。
法華経は、どちらかというと賢いエリートのための教えであり、念仏は、底辺の人間に対する教えである。
初音ミクリカちゃんも、それが融合した1つの象徴であるように思う。
初音ミクリカちゃんの登場で、私の心の傷も癒されたように思う。









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呪文やお守りに裏切られたことはただの一度もなかった

私は、昔から、呪文やタリズマン(お守り)、アミュレット(魔除け、お守り)に興味があって、実際に使ったこともある。
そして、効果がない呪文やお守りはなかったばかりか、どれも恐るべき効果があった。
世界的版画家であった池田満寿夫さんが、ピカソの絵は魔除けだと述べておられたのを印象深く覚えている。また、岡本太郎さんも古代の人々が作ったアミュレットのようなものに関心が深く、それらを芸術作品としても高く評価していたが、太郎さんには、それらに宿る霊力のようなものも感じていたのだと思う。彼は、芸術とは呪術だと言っていたのである。
現代人は、「知的だから」呪文やタリズマンを信じないというが、その知性は無論、良い部分もあるが、ごく一面的で卑小なものであることも忘れてはならない。

「アブラカタブラ」(あるいは「アブラカダブラ」)という呪文を子供騙しのようなものに感じている人が多いと思うが、これは西洋最強の呪文の1つである。
昨年11月23日に東京のオペラシティ・コンサートホールで公演された冨田勲さん制作の『イーハトーヴ交響曲』で、初音ミクが「アブラカタブラ」の呪文を繰り返すのを聴いていると、この呪文の効果のことを、いまさらながら思い出すのである。
願いがある時に、この呪文を唱えて報われなかったこと、がっかりさせられたことはただの一度もなかった。
ただ、あるサイドビジネスを始め、その成功を祈った時は、本業である会社でトラブルに見舞われて辞めざるを得なくなったが、そのおかげでもっと良い仕事に就くという形になったのだが、その経緯がまさに、魔術的であり、奇跡的であったのだ。
ペンタグラム(五芒星)とか、ヘキサグラム(六芒星。いわゆるダビデの星)のペンダントは、ただの工業製品でもやはり効果があるし、神社の護符も、印刷されたものであっても立派に力を持っているのである。
若い社員が、出勤時間も守らず、仕事中に堂々と遊んでいたり、まして、遊びに行ってしまって無事で済むはずがないし、実際、僅かでもそんなところがある者は、かなりひどい目に遭うはずである。しかし、私は、丹波哲郎さんには負けるが、やはり全面的にそんなことをしても良いことばかりだった。私とその他の者達との違いは、私は、常にペンタグラムのネックレスを身につけていたことである。もちろん、ペンタグラムは、精神的にも導いてくれるので、いかに私でも、そんなことをしていた期間は長くはない(と言っても数年はそうやって楽しんだものだ)。

我が国でもよく聞く、「アジマリカン」とか「阿吽(あうん)」の呪文の効果も凄まじい。
誰でも、これらをただの一度でも唱えれば、たちまち効果が発揮されるのに、誰もそれに気付かないのは、あまりに自我の殻に覆われてしまっているからだ。
自我は、自分の気に入るような、つまり、自分がこうあるべきと思うものしか受け入れないので、せっかく、その百倍良いことがあっても、それが分からないのだ。人間にとって大切な性質とは、まさに受容性であり、そのためには、あらゆることに寛容でなければならない。

あらゆる神の名には神秘的な力があるが、特に信仰する神がなければ、そもそも、「神」という言葉自体に力がある。それどころか、実を言えば、「神」という言葉には最大の力が秘められている。
『ヒマラヤ聖者の生活探求』では、イエスがそう語ったことや、著者のベアード.T.スポールディングが、その効果を実験で確かめたことが書かれているが、ここでの神という言葉は、やはりGodであろう。しかし、我が国の「神」という言葉も、古来から伝わる霊妙な数霊の法で調べると、やはり大変な言葉であることが解るのである。

だが、おそらく、他を圧倒する最大の呪文とも言えるのは、やはり「南無阿弥陀仏」の念仏なのだと思う。
これについては、良ければ、親鸞聖人の『現世利益和讃』を解説したもので、昭和11年に出版され、昭和28年に改訂出版された、藤秀すい(ふじ しゅうすい)さんの著書である『現世利益和讃講和』が、実に今でも入手できるので、これを読んでいただければと思うが、その力の大きさや及ぶ範囲は、全く桁外れである。藤秀すいさんは、今ではあまり知られていないが、浄土真宗の僧侶であると共に、知る人は知る、最大の仏教研究者の1人である。
『現世利益和讃講和』の出版がずっと続けば良いと思うが、『歎異抄』や『選択本願念仏集』という、仏教の超ロングセラーが同じ内容を扱っている。

















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『イーハトーヴ交響曲』には聖なる技がいっぱい

アドルフ・ヒットラーの映像を見ると、握り締めた拳を振りかざして喚くように言葉を発している。
握った拳を掲げる政治家は信用してはならないし、そもそも、拳を握って力むような人間は信用ができないのである。
ただ、奴隷はいつも手を握っている。また、力だけで成り立つ主従関係においては、家来は握った拳を胸に当てて忠誠を示す。彼らは不幸である。手を開くことができた時に幸福が訪れる。尚、その場合も、愚かな主の場合は、握った拳を上に挙げ、いくらかましな主の場合は、開いた手をほんの少し挙げて、家来の忠誠に応える。

自然に人差し指を立てる人は高貴であり、力がある。
昨夜も書いたが、それを最も力強く、そして、美しく示したのが、京都広隆寺の弥勒菩薩半跏思惟像(みろくぼさつはんかしいぞう)である。
『古事記』において、大国主(オオクニヌシ)は、スサノオに命じられてヘビの室(むろ)で寝たり、ムカデやハチの室で寝たが、大国主は、スサノオの娘のスセリビメにもらったヒレ(女性が肩にかける布)を、スセリビメに教えられたとおり三度振ると、ヘビもムカデもハチも近寄って来なかった。
『古事記』では、スセリビメのヒレは魔法のヒレであることになっているが、実際は、スセリビメは、大国主に、薬指を中心に小指と中指を折り、人差し指を優雅に伸ばし、親指はこれとほぼ直角を描くように伸ばして指を弧を描くように左右に振るという密教の秘法を教えたのである。これは今では完全に秘されている。
だが、これと同じ秘法が、昨年(2012年)11月23日に、東京オペラシティ・コンサートホールで公演された、冨田勲さん制作の『イーハトーヴ交響曲』で、初音ミクが完全にやってみせた。この作品に神が関与している証拠である。第5楽章の『銀河鉄道の夜』の初めと終りで、ミクは2回、それをやったのである。あれを見て、人々は神の叡智を感じてくれただろうか?
そして、第7楽章『岩手山の大鷲』の終り、同時に、この交響曲の最後の最後で、ミクはうつむき、握り締めた両手をお腹の前で交差させて静止した後、いっきに身体を起こしながら、右手を肩より少し高い位置に上げたが、その時、人差し指は伸び、中指が添えられていた。これが弥勒菩薩の指である。
ミク(39)はミロク(369)の応身(応化身、法身)である。弥勒は釈迦(ゴータマ・ブッダ)とイエス・キリストの後継である未来仏であり、ミクは未来(ミク)である。
私は、今年の『イーハトーヴ交響曲』のチケットを既に入手したが、この神に祝福された作品を鑑賞し、ミクの指を見たいと思う。

人差し指を反らない程度に伸ばして天を指すと、あなたには霊的な力が注がれる。天からは精妙な光の気が降って来るからだ。
それは、ウンディーネ(水の精)とシルフ(空気の精)が自らを犠牲として捧げたものである。
緑の髪の初音ミクは、ウンディーネをモデルに描かれている。それは、ダイモーン(一種の神霊)によって、人の集合意識の中に伝えられて、この世に現れた。
『イーハトーヴ交響曲』の『銀河鉄道の夜』で、初音ミクが、何度も何度も、「ケンタウルスよ、露を降らせ」と澄み切った声で歌ったのは、このことである。
冨田勲×初音ミク 無限大の旅路 ~イーハトーヴ交響曲~









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