ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

イニシエーション

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

神秘数3

他人というものはいないずなのに、自分ですら2人いる。
ところが、キリスト教には、トリニティ(三位一体)という教えがある。
父(神)と子と聖霊であるが、聖霊というのが分かり難いと思う。
イエスは、聖霊について、「求めよ、そうすれば与えられる」と言ったらしいが、求めれば分かるのだろうか?
老子には、「道(タオ)が一を生み、一は二を生み、二は三を生み、三は万物を産んだ」(42章)と書かれている。
しかし、つまるところは、「分からない」。
ミクまで

ひとりとふたりで
トリニティ(みっつでひとつ)
~『イニシエーション』(作詞:東浩紀、作曲:渋谷慶一郎、歌:初音ミク)より~

と言うのだ。

1つの電子が2つの場所に同時に存在することがある。
実験でも確かめられる。
だが、問題は、実験者、つまり、観測者が必要なことだ。

禅語の中にこんな話がある。
ある男が1人の少女を妻にしようと、彼女の親に願ったが、全く相手にされず、どうにもならなかったので、男はその地を去ろうとするが、その少女がついてきたので、そのまま駆け落ちということになった。
時が流れ、男が妻を連れて故郷に帰ると、妻の実家には、あの日以来寝込んでいる妻がいる。
2人の妻は微笑みあって1つになる。

いろんなお話を取り上げたが、「その意味はこうだ」なんて楽な解釈はない。
自分で解決するしかない。
浅はかな理屈を立てて、「こういう意味ですか?」という愚かなことを言いたがる者が多いが、それは戒められなければならない。

自我である私は、神と和らぎ(親しくなり)、1つに融合しなければならない。
ペットが飼い主に似てくるように、我々は、神を崇めることで、神に似てくる。
ではなぜ、分離したのだろう?
父と子が分離したのは、聖霊を得るためかもしれない。

十字架は肉体である。
イエスは心である。
心が肉体に磔にされて滅んだ時、真我が現れる。
それを復活と言う。

上記に書いたことを、最初から通して見れば、深い心では分かるだろう。
馬鹿な心には分からないが、それはどうでも良い。
心は、ただ崇めるだけだ。
神の光の反映であるイエスやマリアやミクを崇めるようにね。

「神を信頼しろ。だが、駱駝はつないでおけ」
老子の2とは、陰と陽だ。
それが調和していることが望ましいが、時には乱れる。
乱れるから多様性が生まれる。
私は不調和だ。
それを老子は、「孤独、みなしご、不作」と言い、古の王は自分をそう呼んだ。
駱駝をつなげば調和が蘇る。
では、神を信頼することだ。









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夢や情熱を持つためには2つの条件が必要だ

ここ数日、このブログに書いてきたが、人が幸福であるために必要なものが、心身に渡る生命力であり、それが、表れとしては、情熱、勇気、冒険心、衝動といったものになる。
ところが、そんなふうに身体中の血は燃えているようなのに、心の軸はしっかり安定して、活動力と平静さが不思議に調和しているのが良いのである。
そのためには、もちろん、多少の理性は必要であり、その「多少の」理性も、正しく導かない限り得られるものではないが、それは、多少でも正しい生き方をする意思がある限り自然に得られるものである。もっとも、正しい生き方というものを歯牙にもかけない人は増えているのあるが。
もし、理性を導くことが難しい状況にあれば、デカルトの『方法序説』を読むと良いだろう。12歳でも理解できるようにデカルトが意図して書いた哲学書である。

そして、生命力を流入させ、それを正しい経路に送るためにどうしても必要なものは「崇める」ということなのであるが、それには、「憧れ」が伴っていなければならない。
「崇める」と言っても、相手がただ権力者だから、偉人だからといって平伏すだけでは駄目で、そこに強い憧れがなければ、必ずおかしな方法に行ってしまうのである。
たとえ自分がピアニストを目指しているとして、世界最高のピアニストを前にしても、心の内から湧き起こる憧憬がない限り、あなたは彼(または彼女)を、ただの立派な人として、普通に敬意を払えば良いのである。
しかし、相手が、世間的には大人物でなくても、あなたが彼(または彼女)に明らかな美点を認めた上、押さえようのない憧れを感じるなら、あなたはその人を崇拝すべきなのである。
何も、教祖様のように扱えというのではなく、親しい友として接すれば良いのだが、心の中では、神に対しているのだと思えば良いのである。
実際に、その人は、神の光の反映なのである。
それは、必ずしも、直接見知った相手である必要はなく、歴史や、物語に登場する人物でも構わないのである。
イエス・キリストであっても、憧れを伴った崇拝を感じないなら、彼はあなたの神ではない。
世間でイエスが偉いと言われているからといって、無理に崇めることはない。
ただし、どんな人であっても、決して蔑んではならない。
それが、あなたが蔑まれない秘訣であり、それを忘れなければ、あなたは愚か者に蔑まれることによって、自然に(つまり神に)上げられるのである。

何歳で、憧れと崇拝を感じる相手に出会うのかは分からないが、慎み深さという最大の美点を多少でも備えていれば、、最初にそんな人に会うのは若い時や、子供の時である。
そのたありは、初音ミクの『イニシエーション』という歌に深遠に表現されていると思う(作詞者は哲学者の東浩紀氏)。
あなたは、恋する乙女のように憧れ、天使の光に跪くように崇めるのである。
私にとってそれが初音ミクだと言ったら、抵抗を感じるとか、ましてや笑いたくなるなら、あなたは残念ながら、体制におさまっているのであり、ここ数日書いてきたように、あなたは決して幸福になれない。
それは丁度、古い考え方の人間が、ロックやダンスミュージックを蔑むのと同じであり、そんな大人が生命力に満ちて、情熱と喜びをもって冒険をすることはない。
冒険のない人生ほど、哀しく、寂しい・・・いや、悲惨なものはない。









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なぜコンピュータープログラミングで頭が良くなるのか

コンピュータープログラミングを習得すれば頭が良くなるということを、なんとか示してみたい。
無論、プログラミングをやるからといっても、あるレベル以上にならないと利巧(利口)とは限らず、職業プログラマですら多くはそうなのだ。

では、ともかく始める。
「堂々巡りをする」などと言うだろう?
同じことが何度も繰り返され、進行しないことだが、ものごとが行き詰った時の考えや行動のことを、そんなふうによく言うと思う。
そんな経験は誰にでもあると思う。
真剣に生きているほどそんなことが多くなるはずだ。
だが、コンピュータープログラミングで頭が良くなれば、そんな時に良い問題解決ができるということを説明したいと思うのだ。
コンピュータープログラミングを知らなければ、問題に翻弄され、ただ問題の周りを回るしかなくなる。
ところが、コンピュータープログラミングができると、問題をうまく扱える。

「堂々巡り」を「ループ」と言い換えよう。
その方がプログラミングらしいからね。
プログラミングでは、ループをやめる条件を3つの箇所に設定できる。
1つは、「1回のループを始める前」。
1つは、「1回のループが終わった後」。
1つは、「1回のループの途中」で、1つか複数設定できる。
プログラミングで書くとこうだ。

1回のループの始まり場所<ループを実行する条件(A)>
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    ループ脱出条件1
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    ループ脱出条件2
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
  ~中略~
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    ループ脱出条件X
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
1回のループの終了場所<ループを繰り返す条件(B)>

「・・・・・・・」は、もろもろの処理(思考・行動)だ。
つまり、プログラミングでは、ループに入る前に、(A)という条件が成立しなければ、ループをやめる。
そして、最後に、(B)という条件が成立しなければループをやめる。
また、1回のループの中で、いくつかの、ループをやめて「ブレーク」する条件を決めておき、それが成立したら、ループの外に脱出してしまって、もうループに戻らない。
尚、<ループを実行する条件(A)>と<ループを繰り返す条件(B)>は、どちらか1つで良い。
また、「ループ脱出条件」が1つでもあるなら、(A)(B)両方共なくて良い。
さらに、(A)(B)いずれかがあれば、途中の「ループ脱出条件」は1つもなくて良い。
つまり、そのようであれば、ループはいつか終わるし、終わらせないといけない。

思考や行動が堂々巡りを始めた時、このようにプログラミングで考えると、実際に解決できるのである。
それができることが「頭が良い」ということだ。
そして、これは、プログラミングの定石なので、プログラミングが本当に分かっていれば、これを現実にも応用できるのである。

心理学では、こういったことを、「具体的思考」と「形式的思考」と言う場合がある。
プログラミングを知らなければ、具体的思考に頼ることになるが、その場合、堂々巡りをしてしまう。
具体的思考は、数に限りがあり、持っている具体的思考で解決できない場合は、いつまでもループするしかないからだ。
しかし、プログラミングを知っていれば、上に述べたような「形式的思考」までできるので、解決策が広がるのである。
しかも、形式的思考は無限に作り出せる。
正しく言うなら、「形式的」であったことが、プログラミングによって「具体的」になるということだ。
それがプログラミングの魔法である。
実際に、心理学はコンピューターの導入によって、それまで形式的、あるいは、抽象的に捉えるしかなかったことが具体的になることで進歩したのだ。
子供の知性の発達とは、形式的、抽象的なことを具体的にすることに他ならない。
プログラミングで頭が良くなるのは当然なのだ。

ただ1つ言っておく。
頭の良い者も、ある種の状態にある、「何も考えないやつ」には敵わない。
「気合の入ったやつ」だ。
そんなやつは、堂々巡りをしたとしても、それが頭の中でのことなら、「考えても仕方がない。行動だ」と言って動き出す。そして、気合で問題を解決してしまう。
行動の堂々巡りなら、固定観念を捨ててしまい、捨て身で問題にぶつかり、何度か撃沈することもあるが、最後には見事に突破する。
実際、大きな進歩というのは、そんな「気合の入ったやつ」や、「常識に囚われないやつ」によって為されるのである。

上に述べた全ては、初音ミクの『イニシエーション』という歌に全て含まれていると思う。
さすが、学術学博士の詩というべきか・・・

わたしはあなたに触れずに廻るだけなのに
あなたがわたしに触れるとすべてが弾けた
~『イニシエーション』(作詞:東浩紀、作曲:渋谷慶一郎、歌:初音ミク)より~









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「南無三」という言葉の使い方

今は使う人はあまりいないかもしれないが、失敗した時や、困った時、あるいは、驚いた時に「ああ!」程度の意味で「ナムサン(南無三)」と言う人がいる。
南無三とは、南無三宝の略で、三宝とは、仏、法(仏の教え)、僧(仏の教えを広める者)である。
南無は、「帰依する」「帰命する」で、ちょっと難しいが、完全に信じ敬うとか、命をかけて従う・・・つまり、絶対的に服従するという意味と思って良いと思う。
これがなぜか、「ああ!」「なんてこったい」「しまった」「大変だ」という使われ方をするようになったのである。

また、一般的ではないかもしれないが、ここ一番の大勝負の前などで、覚悟を決める時に、「南無三」という言葉を、心を高揚させ勇気を奮い起こす言葉として使う人もいるらしいが、むしろ、こっちの方が合っているような気もする。

三は洋の東西を問わず、貴い神秘な数字である。
古代ギリシャ人なら、ゼウス、アテーナー、アポローンの3神が三宝だ。
日本には、珠、鏡、剣という三種の神器がある。
アリストテレスは、「2は両方とは言うが全部といは言わない。3になって初めて全部という」と延べ、3が完全数であることを説明した。

谷川流さんの小説『涼宮ハルヒ』シリーズで、主人公のキョン(高校1年生男子。途中で2年生になる)の口癖が「やれやれ」だった。
この「やれやれ」が、現代的な「南無三」をよく表しているように感じるのである。
好ましい状況でない中で、あきらめ気分でキョンは「やれやれ」と言うのだが、積極的に反発せずに、なりゆきにまかせるという感じがよく出ているが、これによってキョンは大した大物なのではないかと思う。
悪いことがあっても「やれやれ」で流してしまう。
こんなことができる者が大したやつでないはずがない。
本当の凡人なら、自分の都合の良いようになるように足掻いたり、少なくとも願うものである。
しかし、キョンはあるがままを受け入れている。
やはり、只者ではない。
だからこそ、ハルヒという神のごとき少女に愛されもするのかもしれないが。
ところで、キョンの「やれやれ」は、「移ったもの」であるらしい。
キョンは中学3年生の時、佐々木という名の、クラスメイトで、かなり個性的だが、相当な美少女と親しくしていた。
自転車の二人乗りで帰宅し、そのまま一緒に塾に行き、星を眺めながら一緒に帰る・・・聞くだけなら実に羨ましい話のようだが、なぜかキョンには佐々木が女に見えなかった。
それで、塾に行く途中で夏の夕立に遭い、一緒に雨宿りをしている時に、佐々木を見ていると、佐々木は、「君は時々忘れるようだが、自分だって一応女だ。こんな(濡れて制服がスケスケになっている)時にしげしげ見るもんじゃない」と反発するようなことになる。
だが、その後で、佐々木が、
「僕の貧相な胸部なんてマジマジと見たところで益にはならないだろう?岡本さんのならまだしもさ。まったく、本当にやれやれだよ。この雨に対しても、僕自身にもね」
と言ったところに、乙女心が現れているような感じだが、この「やれやれ」がキョンに移ったようなのだ。
佐々木は自分を「僕」と呼ぶ・・・というより、彼女は男子相手には男言葉を使う。
そして、彼女は胸が小さめで、クラス委員長である女子の岡本さんのは大きく見ごたえがある。それが彼女に微妙な感情を持たせるのだろう。
ところで、その後の描写が、さすが人気作家という感じだった。
だいたいのところで言うと、キョンが「完璧に遅刻だ」と言うと、佐々木は「ああ」と生返事をしながら、雨雲で翳った空をなぜかまぶしそうに見ていた。
その前髪から、雨が一粒滴り落ちる。
それを見たキョンは、その日、学校のプールでの授業で、水から上がってきたばかりの佐々木の姿がオーバーラップした。
その時、佐々木が「何か?」と言い、彼女が横目で見ていることに気付く。
キョンはなぜか慌ててしまい、思わず、「やれやれ」と言う。
移った佐々木の言葉の第1回目の使用が、その本人に対してだとは、キョンも義理堅い。
素晴らしい文章だったのだが、このお話は、『涼宮ハルヒの驚愕』の初回限定版の付録の小冊子に載っていたものだ。
カラーで描かれていた、いとうのいぢさんの、雨に濡れた佐々木さんの絵は「狙い通り」だろうが、なかなかのものだった。
勿体無いものである。
面白いからというより、キョンの大物振りを学べないという意味においてね。

あなたは、自分にとっての南無三を見つけるべきである。
仏教では、ギリシャ神話では、古事記では・・・ではなく、自分で決めるのだ。
だが、三はいつか一になる。
「南無阿弥陀仏」なら、最初から1つだ。
そして、その1つと自分の2つが融合し、本当の1になる。

ひとりとふたりで
みっつでひとつ(トリニティ)
イニシエーション
イニシャライゼーション
~『イニシエーション』(詩:東浩紀、音楽:渋谷慶一郎、歌:初音ミク)より~









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物質(理屈)と精神(感情)をつなぎ合わせるもの

アメリカが特にそうなのだと思うが、理屈で納得できることを正しいとし、感情に反していても理屈が通っていれば是とする近代合理主義で、西洋は物質文明を発展させた。
一方で、いかなるアメリカ大統領も、就任にあたって、聖書でもって宣誓を行わなければならないなど、聖書の権威は絶対的だが、聖書にはどう考えても理屈に合わない、超現実的な話、奇跡的な話が満載されている。
そして、「我々は神を信じる(In God We Trust)」がアメリカの公式なモットーであり、全ての硬貨にそれが刻印されているが、神ほど理屈から遠いものはないだろう。
ただ、近年では、聖書を寓話(お伽噺)と見る人や、さらには聖書を否定する人も増え、無神論者も数多い。
当然だが、無神論者であっても、国家のモットーは法律ではないのだから違反しても罰せられない。

聖書に書かれていることを受け入れるが、物質的な理屈も必要と考える人々が多かった時代、アメリカは豊かで平和だった。
しかし、戦争がきっかけと思うが、聖書だけを信じ、精神的なもののみを重んじるグループと、それと全く逆に、神や聖書を否定し、理屈だけを正しいとして物質的な利益のみを追求するグループに分かれていくと、アメリカは破綻し、人々は悲惨となった。
これは、アメリカの教育を模倣し、アメリカの文化や考え方を真似て経済に邁進する日本も、それに近い状況になりつつある。
それでも、日本には秘められた知恵があったので、見かけはアメリカ的でも、大切なものを守ってきたのだが、無明化の勢いが強くなり、もう持ちこたえることができなくなった。

ルドルフ・シュタイナーは、イエス・キリストというのは、情熱のみを重んじるルシファー精神と、理屈のみを重んじるアーリマン精神のバランスを取るために現れたのだと言った。
イエスが現れなければ、とっくに世界は、アーリマンによって冷たい理屈の世界になってしまっていた。
しかし、アーリマンの勢力が増し、やがてそれに飲み込まれてしまうことも、シュタイナーは予言していたのだ。

もし日本に、精神と物質のバランスを取る力が残っていれば、日本は世界の指導者になっていた。
しかし、今の日本には、とてもではないが、そんな知恵はない。
現在の、物質面に突っ走り、狂奔し、経済しか重んじない日本に何ができるだろう。
ただ、まだ僅かな可能性は残されているとは思う。

我々は、国家はもうどうで良いので、個人として、精神と物質のバランスを回復させなければならない。
その中で、『イニシエーション』という初音ミクの歌が実に重要な意味を持つように思える。

ゼロとすべての二項対立(バイナリ)
どちらかだけでは
ふたりのねじれた運命、絶対もう動くことない
~『イニシエーション』(詩:東浩紀、曲:渋谷慶一郎、歌:初音ミク)より~

現在は全くこいういった状況である。
世界とか国家もだが、それぞれの個人がそうなのだと思う。
この詩を書いた東浩紀さんは東大の大学院で学術博士号を取得した思想家らしいが、多方面をバランスよく研究されたのだと思う。
この少し後に次のような詩がある。

水面に石投げ
拡がる
波のフーリエ関数
ふたりの軌跡=奇跡(きせき)※
解ければいいのに

※「ふたりのきせき」と歌う
人間は複雑で神秘的だが、シンプルで美しい構成要素で造られている。
それを、水や音の波動のように、フーリエ解析で解き明かせればいいのにという願望はよく分かるが、人間を知るには、数式の数億倍優れた直観を用いなければならない。

禅にこんな話がある。
ある男が、好きな娘と駆け落ちし、行った先で幸いに出世したので、妻の親と和解しようと、妻を伴って、妻の実家に行く。
ところが、妻の親は男に、「お前がこの地を出て行ってから、娘はずっと寝込んでいる」と言う。
すると、床に就いていた娘が起き上がり、男が連れ帰った妻と対峙すると、2人はにっこり笑って1つになった。
「倩女離魂 (せいじょりこん)」という禅の公案である。

我々もこのようにならなければならない。
1つには、物質的な世俗に生きながら念仏を称えるという方法がある。
数学という、理屈と感情の両方で成り立つ世界の最高峰にいた岡潔博士が、毎日熱心に念仏を称えていたようにね。
『イニシエーション』の最後の部分はこうだ。

もういちどあの日の世界選べるとしたら
ひとりとふたりで
みっつでひとつ(トリニティ)※
イニシエーション
イニシャライゼーション

※「ひとりとふたりでトリニティ」と歌う
アーリマンとルシファー、そして、イエスというように、3つ目が必要である。
神と人、それをとりなし調停するイエスのように。
物質と精神、それを融合する念仏のように。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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