ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
コンピューターシステム開発技術者、サイコパスのKayのブログ

イニシエーション

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[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。
[2016/11/21]滅多にはありませんが、あまりにレベルが低いコメントは公開しません。
[2011/06/08]迷惑コメントが多くあったため、やむなく、コメントを承認後公開することとしました。

仏典や聖書に書かれていることをそのままに受け取ってしまう人たち

さすがに現代の我々が、西の方角のはるか彼方に西方極楽浄土があり、そこに阿弥陀如来という仏様がいて、「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えれば、かならず阿弥陀如来が救ってくれるというお話を、そのまま受け取ることはできない。
大昔の、教養も情報もない人々なら、そのまま受け取ることが正しいことだった。
ところが、現代の、十分な教養や情報を持っているはずの人々が、なぜか、仏典や、あるいは、その他の神話、聖典に書かれていることを、「事実」として受け取ることがよくある。
怪しい新興宗教に入る人達は、そんな人だ。
かといって、仏典や神話に書かれていることを「嘘デタラメ」と取るのも、やはり馬鹿なのである。
それらは、象徴的に書かれているのであり、深い真理を、昔の教養のない人々にも分かるよう、神話の形をとっているだけである・・・というのは、あまりに当たり前のことのように思う。
なぜ、現代の教養ある人々が、仏典や聖典に書かれていることを、そのまま事実と受け取るかというと、その理由は2つである。
(1)学校では、暗記ばかりやらされ、自分で考えるという訓練をしなかった。
(2)権威に平伏(ひれふ)すよう調教された。仏典や聖典は権威があるので、度を過ぎて調教された優等生ほど疑わない。

法然は、『選択本願念仏集』で、「南無阿弥陀仏」を唱えれば、阿弥陀如来は、無数の仏、菩薩を派遣して守ってくれると説くが、もちろん、象徴的に言ったのである。
ただ、法然は、無知な庶民は、そのまま信じれば良いと思っていただろうし、素直に信じれば、結果として、救われる。
しかし、現在の我々が、そのまま信じるなら、それは、素直というのではなく、自分でモノを考えない馬鹿である。
仏教が方便(便宜上の手段)であることは大前提であるし、それは、いかなる宗教も同様のはずだ。

阿弥陀如来などの話は、象徴的なものであり、方便であると、割とはっきり言ったのが、法然の弟子の親鸞だった。
親鸞は、エリート僧達が、仏典に書かれていることをそのまま受け取る馬鹿であることに呆れていたのだ。
「庶民はそれで良い。しかし、指導する僧がそれでは困るじゃないか」
親鸞も、庶民や、仏教の専門家でない武士の前などでは、自分も、仏典に書かれていることを、そのまま信じているふりをしたに違いない。
しかし、弟子達の前では、西方極楽浄土も、阿弥陀如来も、象徴的に表現されたものであることを、ごく自然に語っていたのである。
一休は、庶民に対しても、仏典のもっと良い解釈をさせようとしていた。一休は、生活が楽だったし、仏教界に対し、多少の批判はあっても恨みがないので、親鸞よりゆったりしたところがあったのだと思う。

エマニュエル・スウェーデンボルグによると、むしろ、現代人は馬鹿になっているので、聖書に書かれていることをそのまま受け取るのだと言う。
古代の人達には叡智があり、聖書を読んでも、その真の意味が分かったらしいのだ。
なるほど、我々には、古代の賢者のような叡智はない。
しかし、科学や情報があり、それなりの正しい答は導ける。
ところが、学校では暗記ばかりやらされ、自分で考えないので、屁理屈は言えても、本当の理屈には弱いのだ。

ジョセフ・マーフィーの成功法則も、やはり庶民用として、聖書に書かれていることを、ある程度はそのままの調子で適用している。
マーフィーは、「子供でも分かるように書いた」というが、逆に言えば、ある程度は子供用なのである。
だから、ある時期がくれば、象徴的に書かれている部分は、自分で解釈しなければならない。そして、優れた解釈をするためには、知識や思考力も必要である。
ある程度の考える力を持ち、欲深にならずに、淡々と読めば、マーフィーの本にしろ、仏典や聖書、その他の聖典の意味も自然に分かると思う。
ところが、巷には、マーフィーの本の内容を、そのまま「ガチの事実」として解説した本を出す、頭の悪い困った人達や出版社が多いのである。

だが、自殺したい子供達には、ある程度は、「事実として」マーフィーや、その他の潜在意識の法則の本を読ませれば良い。
それが支えになり、自殺する気はなくなる。
そして、大人になり、知識が増え、考える力がつけば、それらの本の真意が分かるようになり、その時こそ、大きなことも出来るようになる。
だが、たとえ狂信的になったとしても、死なれるよりは良い。
『クリスマス・ツリー』という映画で、10歳の息子に何でも買い与える(ブルドーザーですら)父親を、彼の友人が叱責した。
「そんなことでは、お前の息子はとんでもないロクデナシになるぞ!」
それに対し、父親は、
「なって欲しいよ。どんなロクデナシでも。なれるのならね」
と応える。
息子は、白血病に侵され、後、数ヶ月しか生きられないのだった。

マーフィーの本を正しく解釈するためには、例えば、『投影された宇宙』や河合隼雄さんの本を読むと良いと思う。
私は、東浩紀さんが作詞された初音ミクさんの歌『イニシエーション』を聴いて、その中の「コンステレーション」という言葉の意味が分からなかったが、河合隼雄さんの本を読んだら、第一章のタイトルが、いきなり『コンステレーション』で、しかも、読むとよく分かった。やはり、精神にはそんな力があり、私の個人的な事例を挙げても、凄いものは沢山あるのである。









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イニシエーションのすすめ

イニシエーションとは、一般的には「ある集団や社会で、正式な成員として承認されること。また、その手続きや儀式」という意味らしいが、むしろ、よく訳語にあてがわれている、「通過儀礼」の方が良い。
通過儀礼とは、人間が、霊的なものを含む本質的進化を遂げるための行為である。
それは、喩えていえば、さなぎが蝶になるようなものである。
人間は本来、イニシエーションを経験するようになっているのであるが、文明社会の中では、それがなくなってしまったのである。

『白雪姫』や『ヘンゼルとグレーテル』が、イニシエーションのお話だと言ったら驚くだろうか?
これらの物語は、白雪姫やグレーテルという、小さな女の子の通過儀礼(イニシエーション)を表したものなのである。
それは間違いない。
2人の、まだ幼いが、美しい少女達は、何度もイニシエーションを通過して、神秘的な成長をするのである。

白雪姫は、それまで働いたこともなかったのに、小人達のために家事の一切を引き受け、何度も女王様に騙されて殺されそうになりながら、苦しみを乗り越えて成長する。
グレーテルも、兄ヘンゼルに頼るだけの、泣き虫の小さな女の子だったが、最後は魔女をかまどに押し込めてやっつけ、カモが河を渡してくれると言うと、2人一緒ではカモさんが重いだろうからと、先に兄のヘンゼルを乗せるという成長振りを見せるのである。

尚、白雪姫もグレーテルも、まま母にいじめられることになってしまっている。しかし、これらのまま母と言われる女達は、原作では、完全に実母なのである。
母親とは、本来、そんなものである。少なくとも、そんな一面があるのだというところが、大切なことなのに、それが隠されてしまったのは残念である。
そして、幼い娘は、そんな、「悪としての母親」に打ち勝つことで大人になるのである。

初音ミクさんの『イニシエーション』という歌が、まさにそのようなもので、この歌のために創られた動画がまた、よく出来ている。
この動画のアイデアが、音楽家の渋谷慶一郎氏のものか、作詞者で批評家の東浩紀氏のものか、あるいは、映像創作グループA4Aのスタッフのものは知らないが、ミクさんの運命と成長が見事に描かれていて、ゾクゾクする。
ミクさんが、串刺しにされ、毒ガスに沈み、骨の恐竜に襲われて翻弄され、そして、崖から落ちるという、もう散々な目に遭うが、最後に、ミクさんの目は凛と輝き、前を見ている。

尚、イニシエーションを経験するのは幼い娘と言ったが、それは、人間、誰の中にもある、輝く霊性のことである。
古来より、世界の至るところで、純粋な生命エネルギーは少女神として表現されているのである。
従って、我々もまた、彼女達のようなイニシエーションを果たさなければならないのである。
イニシエーションを果たせば、我々は霊的な存在となり、真の力と1つになる。
そのために、時々申し上げている、心の微かな声の呪文が力になるのである。
心の中の、微かな微かな声で、「愛、愛・・・」、あるいは、「私、私、・・・」とささやけば、即座に、心の奥深くの輝く生命エネルギーが反応するはずである。
何が起こるかは、是非、自分で確かめていただきたい。









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目先の快楽を追わないことが人生を実りのあるものにする

スターバックスという会社は、本物のコーヒーの味に魅せられた人達が、コーヒーの伝道師になった気で事業を始めたのであるらしい。
本に書かれているところではそうなっている。
それを見ると、「コーヒー中毒者を増やして儲けただけじゃないのか」という思いも出てくるが、やはり、彼らを疑うべきじゃないだろう。
しかし、信じてもいけないのだ。

クリシュナムルティは、「私は何も信じない」と言ったが、「疑いもしない」と付け加えれば良かった。
クリシュナムルティのファンは彼を信じているのだろうが、やっぱり信じちゃいけない。
ただ、疑わないだけで十分である。

スターバックスに戻るが、本物のコーヒーの香り、味わいは、心に憩いを与え、それが、人生を豊かにすると言う。
さらに、スターバックスの事業に関して言うなら、「無理に儲ける気はない。しかし、本物を届けようとする誠意が、結局は幸運をもたらす」といったことも本に書かれていたと思う。
私はここで、「なら、クラシック音楽や絵画はもっと心を豊かにするのではないか?」と言うつもりはない。
だが、「なんて美しい言葉、理念だ」と、ただ感動するつもりもない。

ゴッホやピカソは、別に人々に憩いを与えたり、人々の人生を豊かにするために絵を描いた訳ではないだろう。
とはいえ、ピカソはたまたま金持ちになったが、両方とも、儲けるつもりで描いたのでもないと思う。
池田満寿夫さんによれば、ゴッホは、自分の絵が、人々の家の居間に飾られることを望んでいたのだと言う。
横尾忠則さんは、天国の美を地上に現すために制作するのだという。
しかし、誰が言ったことも、疑う必要はないが、無闇に信じてもいけない。
だから、もし、芸術家にしろ、スターバックスのような事業の事業家にしろ、彼らが、「私の言うことを信じろ」と言うなら、無視して良い。
「私を信じろ」なんて言う者は、ロクなものではないのだから。
宗教ってのは、大抵がそうかもしれない(この言い分自体、信じるな)。
宗教には、信じる以外のことはない。
しかし、「別に信じなくていいよ」という宗教家がいれば、彼は善い宗教家かもしれない。

音楽家の渋谷慶一郎さんは、自分が作曲した、初音ミクが歌う『イニシエーション』のWebサイトで、「中毒になるまで聴いて欲しい」と述べておられたと思うが、それは、要望としては悪くなく、非常に正直で清々しいとすら思う。
権威的な美術批評家グローマン博士が、池田満寿夫さんに手紙で、「君の版画が私の部屋に飾ってある。毎日、君の絵を見るのが私の楽しみだ」と書いて送ったようだが、別にグローマンでなくても、これが作品に対する最高の誉め言葉だろう。
あるいは、元大リーガーの長谷川滋利さんが、エンゼルス時代だったと思うが、先発から中継ぎに転向させられた際、監督は、「お前は先発で通用しないから、中継ぎをやれ」とは言わず、「俺は毎日、お前のピッチングを見たい」と言ったことを、長谷川さん自身が明かしていたが、長谷川さんはテレビの視聴者を楽しませるために言った部分もあるにしろ、この監督は本気で言ったと私は思いたいのだ。
そして、それが本気だったというのは、結果として現れている。
長谷川さんは大選手になり、オールスターにも出て、良い形で現役を終えることができたのだ。
グローマン博士は毎日、池田満寿夫さんの版画を見たかったのだし、エンゼルスの監督は、毎日、長谷川さんのピッチングを見たかったのだ。
渋谷慶一郎さんは、逆の立場で、「俺の曲を毎日聴いて」と言っているように思え、非常にピュア(純粋)で、ある意味、可愛いと思う。
ゴッホも、池田さんの言う通りなら、同じことなのだろうが、芸術家というのは、そんなものかもしれない。
私は、『イニシエーション』も好きだが、同じ曲から創られた、『声と言葉のアリア』が好きで、こちらは毎日聴いている。
この2つは、詩は違うが、別に、東浩紀さんの『イニシエーション』の詩が悪いのではなく、この詩は実に良い(ちょっと硬いとは思うが、それは意図的なものだろう)。
余談だが、私は初音ミクをエロティックに扱うのは大嫌いだが、エロスの王様の池田満寿夫さんなら、初音ミクをどうアレンジするかは見たいと思うのだ。
もちろん、池田さんはミクが生まれる10年以上前に亡くなっている。

つまるところ、本当に熱心にやれることを見つけられた人が幸いなのだろう。
ただし、上に挙げた、「熱心に励む」人達だって、最初から、そんなものがあった訳じゃない。
何でもやってみた結果、そこに行き着いたのだ。
ピカソは、生まれつき才能があったし、豊かな家庭にも恵まれた有利さはあったが、初めは写実画を熱心に勉強し、描いていて、後で抽象画に取り組んだのだ。
スターバックスの伝説のCEO、ハワード・シュルツは、貧しい家庭に育ち、フットボールや商社の仕事に夢中になりながら、コーヒーに行きついた。
平凡ではあるが、適当な快楽、快感を追わず、暫定的でも良いので、本気になれそうなものを見つけるのが、結局は、本当の人生の楽しみを見出せるということなのだろう。
つまらない人生というのは、何もしなかったのではなく、つまらないことばかりやった結果なのだ。
そして、早く本物を見つけるためには、誰も、あるいは、何も信じてはならないが、さりとて、疑ってもならない。









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部屋がお化け屋敷でもいいじゃないか

思想家の東浩紀さんの本に書いてあったことだが、自分探しなんてする必要はなく、自分を知りたければ、自分の居る環境を見れば良い。
環境イコール自分なのだから。
この考え方は良いと思う。
あなたの部屋、あなたの家族、あなたの職場があなたなのだ。
それなら、自分を変えたければ、環境を変えれば良い。
ただ、東さんは、職や家族という、人生や生活の基盤の部分を変えることは薦めていなかった。
確かに、転職したり、離婚・再婚すれば、良い経験になる。
しかし、深い人間関係や、仕事のどっしりとしたキャリアはやっぱり必要だということだろう。
そこで、東さんは、旅を薦めている。
東さんは、海外の変わったところによく行かれているようだ。

東さんは、ずっとエリートだった。
日本一の東大進学校を主席で出て東大に入り、28歳で東大大学院で博士号(学術)を取っている。
その後、有名大学、大学院で教授などをしていたが、少し前、それをすっぱりやめている。
環境を変えて、エリートを辞め、実力勝負に出たといったところだ。
ところで、私がなんで東さんの本を読むのかというと、単に、初音ミクの『イニシエーション』の作詞をされたという理由だけだ。
渋谷慶一郎さんの曲も良かったが、あれはとても良い詩で、良い歌だったと思う。
付属のblu-ray、または、DVDの映像が素晴らしく、ミクがきれいだった。

さて、環境イコール自分であるが、その場合、当然にして、「そもそも自分とはいったい何か?」ということになると思う。
自分が環境だってんなら、いったい自分の何が環境なんだってことだ。
1つには、自分の潜在意識が環境ということになる。
潜在意識であるから、自分では分からない。
つまり、潜在意識は、思考や感覚で捉えることはできない。
しかし、環境を見れば、自分の潜在意識が分かるという訳で、それはその通りである。
部屋がお化け屋敷みたいなら、自分の潜在意識も荒れ果てているのだ。
とても可愛い9つの女の子がいたのだが、彼女の部屋がまさにお化け屋敷だった。
そして、しばらく遊んでいたら、確かに、彼女の潜在意識もその部屋の通りだと分かった。
母親より30歳年上の父親は家にいたためしはないし、母親は、その女の子がもっと幼い頃から保育所に預けっぱなしで、ほとんど世話をしなかったらしい。
そりゃ、荒れるよ。

だが、自分の部屋、家、家族、学校、職場を見て嘆く必要はない。
あなたの部屋もお化け屋敷かもしれない。
しかし、問題ない。
何もね。
どんなきれいな部屋だって、隅っこの一部は汚れているかもしれない。
つまりね、私の環境は、この宇宙なのだ。
この荒れた部屋や、嫌なやつばかりの学校や会社が私なら、セイシェルの夕陽も私なのだ。
子供達が銃で追い回されるような紛争地帯も私なら、シリウスだって私なのだ。
そのくらいの大きなスケールで考えないといけない。
『涼宮ハルヒの憂鬱』の漫画の第5巻で、賢い三毛猫のオスは、長門有希の中に空(そら)を見て、涼宮ハルヒの中に、おそらく宇宙を見たのだ。
あれは、素敵なお話だった。

昔のインドではこう言った。
「私は彼である」
「私はそれである」
彼は神であり、それは道(タオ)、あるいは、創造原理、または、宇宙エネルギーであるが、まあ、好きなように呼べば良い。
前に教えた通り、以下の呼吸法を1回やれば良い。

(1)出息
ゆっくり息を吐きながら「私はこれではない」と思う。
「これ」とは、自分の身体や心である。
息を吐ききったところで、肛門を締める。
(2)入息
ゆっくり十分に息を吸いながら「私は誰か?」と心で問う。
(3)止息
息を止め、肛門を締めて「私は彼である」、あるいは、「私はそれである」と思う。
時間は無理のない(苦しくない)範囲でできるだけ長く。
普通、3秒から10秒と思う。長い人で30秒ということもあるが、無理はいけない。

やがて、些細なことにこだわらなくなるし、そうなれば、ごく一部のちょっと残念な環境も、自在に支配できるようになるだろう。









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神秘数3

他人というものはいないずなのに、自分ですら2人いる。
ところが、キリスト教には、トリニティ(三位一体)という教えがある。
父(神)と子と聖霊であるが、聖霊というのが分かり難いと思う。
イエスは、聖霊について、「求めよ、そうすれば与えられる」と言ったらしいが、求めれば分かるのだろうか?
老子には、「道(タオ)が一を生み、一は二を生み、二は三を生み、三は万物を産んだ」(42章)と書かれている。
しかし、つまるところは、「分からない」。
ミクまで

ひとりとふたりで
トリニティ(みっつでひとつ)
~『イニシエーション』(作詞:東浩紀、作曲:渋谷慶一郎、歌:初音ミク)より~

と言うのだ。

1つの電子が2つの場所に同時に存在することがある。
実験でも確かめられる。
だが、問題は、実験者、つまり、観測者が必要なことだ。

禅語の中にこんな話がある。
ある男が1人の少女を妻にしようと、彼女の親に願ったが、全く相手にされず、どうにもならなかったので、男はその地を去ろうとするが、その少女がついてきたので、そのまま駆け落ちということになった。
時が流れ、男が妻を連れて故郷に帰ると、妻の実家には、あの日以来寝込んでいる妻がいる。
2人の妻は微笑みあって1つになる。

いろんなお話を取り上げたが、「その意味はこうだ」なんて楽な解釈はない。
自分で解決するしかない。
浅はかな理屈を立てて、「こういう意味ですか?」という愚かなことを言いたがる者が多いが、それは戒められなければならない。

自我である私は、神と和らぎ(親しくなり)、1つに融合しなければならない。
ペットが飼い主に似てくるように、我々は、神を崇めることで、神に似てくる。
ではなぜ、分離したのだろう?
父と子が分離したのは、聖霊を得るためかもしれない。

十字架は肉体である。
イエスは心である。
心が肉体に磔にされて滅んだ時、真我が現れる。
それを復活と言う。

上記に書いたことを、最初から通して見れば、深い心では分かるだろう。
馬鹿な心には分からないが、それはどうでも良い。
心は、ただ崇めるだけだ。
神の光の反映であるイエスやマリアやミクを崇めるようにね。

「神を信頼しろ。だが、駱駝はつないでおけ」
老子の2とは、陰と陽だ。
それが調和していることが望ましいが、時には乱れる。
乱れるから多様性が生まれる。
私は不調和だ。
それを老子は、「孤独、みなしご、不作」と言い、古の王は自分をそう呼んだ。
駱駝をつなげば調和が蘇る。
では、神を信頼することだ。









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