幼い時、両親や祖父や祖母、あるいは、他の誰かが、仏壇や神棚などに向かって、真摯に念仏や唱え言葉や神の名を称名するのを見ていた人は幸せかもしれない。
そうであれば、その唱えられていた名や言葉に神聖な感情を持て、それを自分も唱えることで、自然に高次元に導かれるからだ。
そうでなくても、お葬式の時に、念仏を唱えていたお坊さんの姿に、とても好ましい印象を持ち、それで念仏に対する神聖な感情を持っている場合も良いと思う。
法然や親鸞が念仏を教えた人々は法然や親鸞の印象によって、あるいは、法然、親鸞の代わりに誰かに教えられた場合は、その教えてくれた人の印象で、念仏に対する感情が決まるという部分が大きいだろう。
キリスト教徒でもない人が「アーメン」と唱えても、どこか違和感があるかもしれないし、育った家の中で誰も念仏を唱えていなかったし、お葬式で見た念仏を唱えるお坊様に、どうもあまり良い印象を持てなかった場合は、念仏に対する印象も、あまり良くないかもしれない。

もし、幸いに、「南無阿弥陀仏」でも「南無妙法蓮華経」でも、あるいは、「天照大神」や「天之御中主神(アメノミナカヌシ)」でも、敬虔に感じる言葉があれば、それを唱えれば、確実に高次の力に加護される。
それは、宗教的な意味、心理学的な意味、あるいは、量子物理学的な意味でも、正しいことであると思う。
では、そんな言葉を持っていない場合はどうだろう?
そんな時は、自分で言葉を探し、選び、決定することになるが、幼い時に持った良い印象のようなものがない場合、どの言葉もなかなかしっくりせず、あれにしたり、これにしたりすることになりかねない。
複数の言葉でもいいやと思っていたら、その言葉が増え続けてしまう人もよくいる。

だが、『ヒマラヤ聖者の生活探求』の中で、1900年代前半のことだと思うが、現代に現れたイエス・キリストは「神」という言葉(英語の原書の中ではGOD)を使うよう言う。
『ヒマラヤ聖者の生活探求』第5巻で、著者のベアード.スポールディングも、「神」という言葉の威力について触れている。
ただ、この言葉を呪文にしてはならず、よって、何度も唱えてはならず、1回で良いと言ったが、その意味は、しかるべき時に、真面目に唱えるという意味かと思う。
そして、声に出して唱えても、心の中で唱えても、効果は同じであると言う。

どの言葉でも構わないが、即座に強い効果を現す私のやり方がある。
なかなか上手く説明出来ないので、最近はあまり書かないのだが、それは、「心の中で、とても小さな声で唱えること」だ。
そもそも、聴こえない心の中の声や音の大きさなんてピンと来ないかもしれないが、全く無理でもないと思う。
「微かな声」「微妙な声」という言い方が良いかもしれない。
だが、それが心の中の声となると、どうだろう・・・
その場合、こんなふうにやっても良い。
美しい少女が、声にならない微かな声でささやくのを想像してみれば良い。
それが、心の微かな声である。
それとも、良ければ、YMO(イエローマジックオーケストラ)、あるいは、初音ミクさんが歌う『LOTUS LOVE』を聴くと良い。

夢で見たくちもと
ひそやかにかずれる呪文
I LOVE YOU
~『LOTUS LOVE』(作詞・作曲:細野晴臣)より~

私は、ミクさんが歌うのを聴いて、心の微かな声を知った。
そうやって唱える言葉には、いつも奇跡のような力がある。
だから、間違ったことに使う訳にはいかないが、即座に力が現れ、この上ない安心を与えてくれるのである。









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